私は映画が苦手である。
誤解してほしくないのは、あくまで「苦手」なのであって「嫌い」なのではない、という事だ。
例えば本サイトで取り上げた「エブエブ」の、ポリフォニー的なラストは最高だし、「2001年宇宙の旅」の映像体験は至高そのものだ。つまり「内容」「作品」が好きな映画は沢山ある。
ではどういう事なのかというと、映画の内容云々ではなく、1時間半の映像を一気に集中して見なくてはいけない、というその「スタイル」が私と合わないのだ。
その理由は簡単な話だ。
つまり私という人間が、圧倒的に集中力を欠いてる、分裂的な愚人間な点に問題がある。
大体私は映画館で上映が始まってから30分位で、椅子の体とのマッチング感が気になり始め集中力が霧散する、以降は、何かが欠けた精神で、映画を眺め、そのシーンから想起される自己の劇場へと飛び、全く関係ない映像を脳内に展開したりしている。
これではいかんと思い、慌てて映画の世界に戻るが、既にシーンが進み、重要な要素を取り逃がし、いつの間にか映画の上映は終わりを告げる。
そう、これは映画が悪いのでなく、完全に私という人間の性質の問題なのだ。
さてそれなら、本サイトが取り上げるコンテンツの中で、圧倒的な量を誇る、本や読書はどうなのかと言われると、実の所、分からない。
まず断言出来るのは、圧倒的に「好き」ではある事だ。
ただしそれが「得意」なのかどうかは、他者の感覚を追体験出来るはずもなく、ゆえに比較対象が無いので、正直な所、分からない。ついでに言うと、私は本を読む速度は全然速くない。
とはいえ本は確実に私の性質にマッチしている、それだけは間違いない気がする。
その理由の第一として、本というのは、こちらが好きな時にページをめくることが出来、そして勝手に閉じれるという、「自由性」がある事だ。
最近は、難解な哲学や思想系の本を読んでいるから特になのだが、私はかなりの頻度でページを閉じ、ぼんやりしながらその内容を吟味したりしなかったりする←しないんかい
すると不思議なもので、自分でも分からない間に思考が整理され、難解な箇所が理解出来るようになっていたり、連想から大事な気付きを得たりする。そしてまたなんとなくページを開く。
これは実の所、集中力とは相反する読み方なのだけど、この読書法は楽しい。
結局のところ、楽しいは最大の正義で、事ここに至ると、今度は逆説的に二時間ぶっ通しで、その本を読んでいたりする。自由なアクセスが私の集中力の羽を伸ばさせてくれているのだ。
さらに私が本を好きな理由は、文章からその光景を生成するのは、自分の脳でしなくてはならない、という自主性だ。
集中力が続かない私にとって、自分の脳を使う共同作業性・能動性は相性が良く、自分だけの映像が持ち上がってくる感覚も楽しい。
その点で言うと、映画は、制作者が作った映像をひたすら眺めるのであり、非常に受動的だ。
さてこの映像性の能動性と受動性を、生成AIで例えてみようと思う。
本は、自身の脳が常に、文字からその景色・画像、登場人物の造形の生成を行う、この生成には脳のエネルギーを使う。
一方で映画は、生成後の画像を繋げたもので、脳はその出来上がった物語を解釈し喜びを得る。
このどちらが好きなのかは好みによると思うが、私は本を読んで、文字から景色を生成する事、つまりそのエネルギー自体が好きだったりする。その意味でやはり私が一番向いている娯楽は本であり読書なのだ。
ここで、この文字から映像や景色を生成する力をカメラになぞらえて「現像力」と名付けるとする。
その意味で言うと、本や読書は、個人の「現像力」により成り立っている自己生成的なコンテンツなのであり、だからこそ読了した時の達成感も多く、記憶にも残りやすい。自分で生成に寄与しているから、脳内に残像が残りやすいのだ。これを「残像感」と呼んでみる。
そして景色や人物も生成するという事は、人物の声や自然の音も自分自身で生成する必要がある、この音はページをめくり文字を追うのと同時並行で行い、頭の中で常に響いていく事になる、ゆえにこれを「残響性」と呼んでみる事にする。
つまり本というのは「現像力」を使う事により「残像感」と「残響性」を精神に刻み込む、保存能力の高いコンテンツなのだ。
そしてそこにページをめくる、閉じるという「自由性」が加わる事により、思考する隙間も生まれ「残像感」と「残響性」が更に強化されることになる。
ここで、ここまで触れてこなかった、漫画というコンテンツについても見ていこう。
まず「現像力」については映画と同じで全てが与えられているので必要はない。それゆえに「残像感」「残響性」もまた低めに思える。
しかし漫画もまたページをめくるのは自分であり、好きに閉じる事が出来る。この自由性の思考の隙間が「残像感」「残響性」の強化に関与する事は充分にあり得る。(面白かったら一気に読んじゃうけど)
さて、こうやって書くと、コンテンツの価値において、本が一番上で、漫画が中間、映画が一番下であるように思われるかもだが、決してそう言う事ではない。
ここで言っているのはあくまでコンテンツの性質であり、映画には実在映像のパワー、実際の音というリアル的パワーがある。その観点で言うなら本には精神的パワーはあってもリアル的パワーは皆無だ。
つまり本記事で言いたいのは、それぞれコンテンツには性質があり、その中でも私自身の性質に合致するのが本という事に過ぎず、その観点から簡単な分析をしてみたに過ぎない。
さてここまで大げさに、読書の諸要素を「現像力」を通じて論じてきたわけだが、これはそんなに大層なものではない。
それどころか現像力の内実を見ると、本を読む自由さを再確認し、かつ本を読む事に対する心理的ハードルをかなり下げてくれるはずだ。
現像力について誤解してはいけないのが、作者が提示する正しい像を作らなくてはいけない、などと言うことはまるで無いという事だ。
例えば、「黒髪の女生徒」というテキストから、実際の自分の好きな女優さんを投影してもいいし、アニメ調の萌えキャラをイメージしたっていい、それは読む人間の自由で何ら妨げられることはない。
「絶海の孤島」というテキストから、南国を想起してもいいし、日本列島の隅に浮かぶ小島を連想してもいい、解釈・現像は自由であり、そして正解・不正解はない。文字として送り出した段階で、作者自身が想定した像はただのワンオブゼムに過ぎなくなる。
また現像力はどんなに適当に本を読んでも、強制的に無意識に働く。
例えば、あなたが思っていたのと違うなあと思い、買った本を適当に読み流したとしても、絵は現像される。極論、5秒間くらい、ぱらぱらページをめくるだけでも、わずかな文字がなんとなくのイメージを現像する。
となると本を読んだというのは、その現像された像の解像度の差でしかないので、読み流しも、ページパラパラもどちらも本を読んだ事になるのだ。
そう、つまり本を読むのは、かなり自由で、それでいてテキトーで良かったりするのだ。大事なのは像の生成により、自身の内部を豊かにする事で、その豊かさに正解は無い。テキトーであっても豊かであれば、それはある種の至高である。
本を読むのは自由で適当で楽しい。それこそが現像力が私に語りかけてくる事であり、そこに生きていく上での、ある種の恩寵があるように思う。

