「スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園」は、スパイク・チュンソフトから2012年に発売されたアドベンチャーゲームで、一世を風靡し、現在も世界で売れ続けているダンガンロンパシリーズの2作目です。
前作のダンガンロンパは、メッセージ性・快楽原則・エンタメ性。それらを三位一体でゲーム体感に華麗に閉じ込めた傑作でした。
私は既に発売から10年以上経ちプレイしていますが、発売当時の人は、きっと「あのダンロンの新作はいかほどなんだい? どうなんだい?」と構えて見ていたのではと思います。しかし最初に言いますが本作は傑作です。
前作のキャラクターの魅力やシステム性はそのままに、メッセージ性やドラマ性を大幅強化した、言うなれば、ザ・劇場版的作品。本作が多くの少年少女の心を打ち、大事な作品になったのも、頷けます。
その意味で、普遍的なエンタメとしての魅力がある事は前提として、私は作者の年代や劇中の描写から、本作の奥には「就職氷河期世代の持つ悲哀と絶望への処方箋」というテーマ性が潜んでいるのでは、と考えました。以下の考察本編は主にこの観点からゲーム内容を掘り下げていきます。
そんなわけで、普遍的なドラマと、社会的なメッセージ性により、構造的な深度は前作から大幅にパワーアップした本作。
とはいえ、1から世界観を引き継いだ続編という事もあり、犠牲にしたものもあります。言うなればそれは「純度」でしょうか。
本作は、その構造上、1で抽象的だったたものを具体性を持って掘り下げているわけで、仕方がない部分はあり、それと反比例して、エンタメ性やドラマ性は上がっているので、作品に対して総合的にマイナスには作用していません。思うに作者の小高さんは純度のパワーダウンに自覚的及び、あえて意図的に行っている面もあると思うので、この点も考察本編で詳しく掘り下げます。
本作は、ダンガンロンパというシリーズにおいて、集大成的な作品であり、とにかくエモく、メッセージ的にも、シリーズとしての哲学の極点を内包しています。それでは以下から、その内容について掘り下げていきます。ネタバレが嫌な人はここでストップして下さい。
修学旅行の精神性

前作が、校舎内に閉じ込められるクローズドサークル的な作品だったのに対し、本作は修学旅行がテーマで舞台は南国です。
事実としてこれは、精神に干渉し展開するプログラム世界なわけですが、果たしてここにはどのような意味付けがなされているのでしょう。
そもそも修学旅行に関して言うなら、私自身は嫌いでした笑
あまり友達が多い方ではなく、ずっと他人と一緒にいる事が苦手な人間からしてみれば、それはある種の牢獄。旅行と言いながら、結局は教師の管理下にあり、本当に自分の行きたい所には行けて数か所。
実の所、修学旅行というのは、教室内と大して変わらない管理教育の一環なのではと思うのです。その意味で「旅行」という自由な魅力のパワーが修学旅行からは欠落しています←陰キャが爆発しておる
その修学旅行という管理教育の延長性を、本作は無意識的にか的確に表現しています。
島からは出れないし、許可が無いと新しい島に行けない。
まあ、そもそも島自体がバーチャルなので出れるはずもないのですが笑 本作は舞台が広くなっただけで、実の所、校舎内でのクローズドサークルと大して変わりません。
その意味でも本作は1作目の正当続編であり、修学旅行という管理教室の豪華版というものをモチーフに持ってきたのは、正しい選択だった、そう思います。
またクローズドサークルというのは、前提として、事件にプラスし、そこに閉じ込められた人間の精神の問題がより密接に絡んできます。
本作はここにさらにプラスして、精神世界及び人間の無意識という要素が加わる事により、更に心理主義的な作品へ一歩を踏み出した。私はそう考えます。
本作の舞台は、超高校級の絶望に洗脳された77期生の精神を浄化する治療プログラムです。それは絶望に意識を支配された生徒たちの中に眠る、無意識に働きかけ治療するというものに他ならないのではないでしょうか。
次項において詳しく述べますが、私は77期生は氷河期世代のメンタリティーを表していると考えているので、本作の構図は、氷河期世代の傷付いた無意識を治療するプログラムが絶望にハックされたというものと捉えることも出来ます。
江ノ島AIにより、絶望を浄化し希望へと転化させるプラグラムが、絶望再生プログラムになったことは、当初想定されていなかったでしょうが、全てが精神内世界で起こる以上、本作はそんなエラーも含めて非常に臨床心理的作品なのです。
1は戦場むくろの殺害方法や、行われているのが実際の処刑という事もあり、非常に身体性が伴う作品でしたが、2は精神世界の話なので厳密には誰も死んでいません。
デカルト的に言うなら身体性・精神性のうち、後者に重きを置いている作品、そう捉える事も可能かもしれません。
絶望世代の更生=氷河期世代への処方箋

本作の本質は、一度罪を犯した人間の精神の更生です。そして作品の構造としては、絶望の更生を邪魔するプログラムの改竄者との戦い、という事になります。
本作の主人公である日向たちの世代、希望ヶ峰学園の77期生は、1の主役である苗木たち78期生の先輩です。
その77期生が、江ノ島に洗脳され超高校級の絶望の手先と化し、世界を絶望に叩き落としました。
その意味で、江ノ島の洗脳の是非はともかくとしても、彼らは明確に加害者としての顔を持っており、本作を普遍的に捉えるなら、上記の罪を犯した加害者の更生の物語という性質が見えてきます。
さてここで、この要素を現実社会へと変換してみたいと思います。
私は、劇中の要素や作者の年代から推定するに、苗木たち78期生は、いわゆるZ世代・新世代の象徴であり、その一つ上の世代である日向たちの77期生は、氷河期世代を象徴しているのではないかと考えました。
その文脈で考えるなら、本作は、氷河期世代の絶望やニヒリズムからの脱却の物語として見る事が可能です。
その上で重要なのが、そもそも何で彼らが絶望に転んでしまったのかという点です。
劇中で、江ノ島AIが「希望や才能を持ち、上を目指している人間を突き落とすのは簡単だった」と述懐していますが、氷河期代における青春時代の作品や言説は、戦わなくては生き残れない、という様な殺伐としたものや、負けた人間はその人間の責任だ、という様な自己責任論が跋扈していた時代でした。
そもそもとして、本シリーズの中に要素として確実に組み込まれているであろう、デスゲームの先行作品、バトル・ロワイアル自体が、00年代的メンタルを表象する作品であり、デスゲーム自体に、自己責任論や競争主義の価値観が内包されています。
そう考えると江ノ島AIがどうこうする以前に、彼らの無意識にはコロシアイ修学旅行的な、競争の原理が植え付けられていたと類推する事も可能です。
しかし氷河期世代の悲劇は、戦いを煽られる割に、社会は成長しておらず、勝者のパイすら圧倒的に少なかった事です。
ゆえに氷河期世代はそこで心が折られ、負け組としての意識と、どうせ何をやっても無駄だという冷笑的態度を抱えるようになった。これが私の分析及び認識です。
劇中内においても、日向たちが入学した時期の希望ヶ峰学園は、江ノ島がどうこう言うより、既に斜陽期だったのが見え隠れしています。でなければ予備学科というような露骨な資金調達のシステムや、カムクライズルプロジェクトなんていう、リスクしかない計画を実際に実行に移さないでしょう。
才能偏重教育の歪みと、その限界の時期に現れた日向たちと、資本主義的成長の歪歪みと、その限界により社会に裏切られた氷河期世代。この二つは重なっており、本作はそれらが象徴するメンタリティを救う作品でもあります。
教育の失敗
本作の舞台が、精神世界と接続した治療プログラムである事は、前項で既に述べましたが、ここでは江ノ島AIにより加えられた、その変更につていて着目します。
希望更生プログラムだったものが、絶望再生プログラムになった事。これは何を象徴するのでしょうか。
端的に言うなら、私はここに、日本教育の失敗と頓挫を見ました。
実の所、現在の日本教育は明治維新に導入したものをそのまま受け継いでいます。
その当時、軍政と教育が最優先だとされ、その二つが最も初期に導入された経緯から見ても、学校の当初の目的は、優秀な軍人や官僚という、国に必要で従順な駒を作成する事でした。
19世紀後半における国の近代化は、喫緊の課題でしたから、ある種、人材を部品のように捉える事を糾弾するのはフェアじゃないかもしれませんが、困るのはその制度を何の疑いもしないまま、現在も使用し続けていることです。
官僚と軍人を作るシステム自体、かつては希望だったでしょう。しかし今の時代は、個人のアイデアにより慣習を打破し、人間社会全体を自由へと止揚する発想が大事なはず。
その意味で日本教育は、優秀な駒の作成と同調圧力により、現在進行形で子供たちの絶望を大量生産しています。
クラスに同世代の人間を30人詰め込み、競わせ、秩序でがんじがらめにする。実の所、ダンガンロンパ1のコロシアイ学園生活や2のコロシアイ修学旅行は、現実の学校と本質的に何も変わらないのです。
その意味でモノミと七海による希望更生プログラムは、現実における、学業からの一時離脱や、自宅授業、フリースクール的な人間性重視のものへの移し替えで(少しゆとり教育とも重なります)、それが江ノ島AIにより、強制的に今まで通りの学校教育に引き戻された、それが2の舞台設定の本質のように思います。
次の項目では、その教育行政の負の部分を凝縮した存在。希望ヶ峰学園について書いていきます。
希望ヶ峰学園の罪
続編において、実はその立ち位置を大きく変えたのが、希望ヶ峰学園だったりします。
1の段階でも、才能がある人間だけを集めて、果たして真の希望を見出せるのか? という作者の疑義は多少見え隠れしていましたが、2になると、これは完全な悪の組織へと解釈の変更が加えられています。
2における希望ヶ峰学園は二重構造です。
まず下部には、予備学科という、才能もない人間だけを集めた、大して期待もせず、恐らく力を入れた授業もない、サラリーマン養成機能の通常の学校があり、ここの生徒のお高い学費が希望ヶ峰学園の経済的基盤を支えています。
そしてその上部に、超高校級の才能を集めた本科がある。
さてこの構造はとてもよく出来ていて、日本の教育行政どころか、巨大資本の運動それ自体を内包しています。
商品を作る部品としての労働力と、それを力として利用し蓄積する資本。これはマルクスの資本と労働の関係そのままです。
さらに悪いのは、上記の資本システムでは、一応、労働者には賃金がありますが、希望ヶ峰学園においての生徒は、一流の才能という餌と夢を与えられ、学園側にお金を垂れ流すだけの存在という事。
つまり希望ヶ峰学年とは、資本と労働の搾取関係にプラスし、夢を餌にする専門学校ビジネスも加えた、かなり性質の悪い教育機関なわけです。
ところがどっこい、2の希望ヶ峰学園の罪はまだあります。そうカムクライズルプロジェクトです。
これはデータとして蓄積した超高校級の才能を元に、予備学科の生徒を人体実験で直接、脳をいじくり、人工的に超高校級の希望を作りだそうというもの。
もはやどこから突っ込んでいいのか分からない醜悪な計画ですが、ここには西洋社会が持つ設計主義、そして日本社会が陥っているマーケティング最重視の凡庸さが存分に現れています。(マーケティングから出てくるのは消費傾向だけで、新しい発見や発想は出てこない。つまり既存の才能から分かるのは、既存の才能の枠にとどまったものだけ)
本作はラスボスがAIなわけですが、希望ヶ峰学園も充分にAI的な思考回路です。既存のものを収集すれば、すごいものが出来上がる。それはどう考えても幻想で、AIに0→1の発想は不可能だと、私は常々思っています。
カムクラプロジェクトについては次項で更に詳しく書きますが、希望ヶ峰学園が目指した本質は、結局のところ、画一的な才能を持つ人間の大量養成であり、よくできたサラリーマン・官僚・軍人の育成という、希望どころか、醜悪で、絶望的に退屈な集団なのです。
カムクライズルという、日本に毀された仮面ライダー

さてそんな希望ヶ峰学園が生んだ、改造人間、悲しき仮面ライダーであるカムクライズル。
本家仮面ライダーは自分の意志ではなく、強引に改造されたわけですが、日向は自分の意志で改造人間になる事を受け入れます。これは前項の才能ビジネスと社会の洗脳の賜物です。
才能があって、人類に有意義でなくては生きている意味はない、もしくは人が認めてくれない。
その思いが、一予備学科の生徒を、意志のない改造人間に成り下がる事に駆り立ててしまう。
77期生を氷河期世代と重ね合わせている事を、本考察で述べてきましたが、上記の出来事を、教育や社会を信じていた氷河期世代への裏切りの仕打ちと読み替えると、何とも言えない悲哀が押し寄せてきます。
さてこのプロジェクトの意味と、その象徴をもう少し、詳しく見ていきましょう。
カムクラへの改造。これは現代の親や教師、社会が、子供を塾や習い事でがんじがらめにし、人格から余剰や遊びを壊滅させ、記号を読み解く受験クイズモンスターにしてしまう事に類似しています。
カムクライズルが劇中で狛枝に、「あなたは全てがツマラナイ」と言いますが、それは言い換えると、あらゆる事から楽しみが見いだせない、自分自身の感性がツマラナイのです。カムクラは余剰という豊かなものを剥ぎ取られた合理主義の退屈な怪物です。
その意味で、超高校級の才能のデータを駆使し、完成した人間が、一番つまらなかったというのは皮肉だし、エスプリが利いています。
そもそもとして1の段階から、絶望とは退屈な事であるという哲学が示されています。
退屈というのは、つまり心が動かない事。
つまり、どんな事にも心が動かない状態こそが絶望なわけで、資本の運動に忠実なシステムを擁する希望ヶ峰学園が、その教育により、無意識にも、江ノ島より絶望を量産していた、もしくはその働きを助けていた可能性すらあります。
そこから考えると、予備学科の集団自殺も、その遡及的原因は、希望ヶ峰学園の教育や社会である、という事も充分考えられそうです。
結局の所、特に何の哲学も思索もなく、データや形式だけで希望を作ろうとした事が希望ヶ峰学園の失敗の本質です。
そもそも希望とは状態や意志に宿るもの。
つまりは才能の有無ではなく、人間の興味や好奇心、心が動くものの有無が、希望の発生には不可分のはず。つまるところ希望ヶ峰学園は、希望の性質も内容自体も全く捉えられていないのです。
詰め込み教育によりオールラウンダーを生み出した結果、それはただの器用貧乏で、彼自身がその教育により心が壊れてしまう。
カムクラを上記の様に現代風に読み変えるなら、犠牲者としてのカムクラは、日本のどこの自治体にもかなりの数いるのかもしれません。
さてここからはカムクライズルの神学的な要素について考えていきます。
神の座から流れ出るもの。
この名称からも、彼が何かしら日本の神的精神を象徴しているのは間違いありません。とはいえ彼が象徴するのは、現代により堕落させられた神、もしくは偽の神です。
13という数字は、西洋では時計の12の秩序から逸脱する数字として忌避される傾向にあり、また最後の晩餐における、イエスと12人の弟子プラス裏切り者のユダ、というような背信者という意味を内包しています。
アニメのダンガンロンパ3において、カムクライズルが起こした「希望ヶ峰学園史上最大最悪の事件」は、具体化され2で言われていた様なカムクラが13人を殺したという事件ではなくなりました。とはいえこの13という数字はカムクラの背信者、偽の神の性質を象徴しています。
偽神による偽の神殿に奉仕する13人の神官の殺害。カムクライズルは希望ヶ峰学園の罪が、自身を焼き尽くす因果を象徴する、原罪の怪物なのです。
予備学科とは
予備学科については上記の項目で、資本の労働者階級という下部構造。そして夢や才能による専門学校的搾取の対象者であると述べてきました。
その象徴性をもう少し普遍サイドに戻し、一般化するなら、予備学科とは、特に才能を持たない一般大衆の事です。
さて、それらを踏まえた上で、劇中の予備学科の集団自殺について見ていきます。
これは江ノ島により引き起こされた、予備学科の生徒2000人以上が集団で自殺した事件で、「人類史上最大最悪の絶望的事件」の一幕として語られるものです。
これを現代の日本に変換して見てみます。
現代日本において、自殺率は減少しつつあります。しかしその内実を見ると、30代までの若者の自殺率は3000人台と高止まりしており、悲惨な現状が続いています。
予備学科の生徒を、今までの考察を総合し、氷河期世代における一般大衆の若者と捉えた場合、この集団自殺は、自己実現とその達成不可能の苦悩の中で、社会にも裏切られた若者の、絶望の果てです。
そして社会の機能不全は、氷河期だけでなく、それより下の若者の精神も損ない、現在、若い世代に巣食う希死念慮にも深い関係が見受けられる、そんな事を思うのです。
未来機関と新世代
本作では一応は、正義側に身を置く存在として描かれる未来機関。
しかし、ゲーム内におけるわずかな印象からでさえ、苗木たち78期生の生き残りとは違い、清濁を併せ持つ、旧態依然とした価値観を引きずった存在として描かれます(アニメ版の未来編における未来機関についてではなく、本作品内の情報から推定される未来機関について書きます。アニメ版について本サイトでは今の所、特段言及するつもりはありません)。
既に前項で、希望ヶ峰学園の罪について語りましたが、新しい時代の組織である未来機関も、既にこの段階で、既成勢力と同じ様な構造の病を持っています。
希望ヶ峰学園というのは、哲学的洞察の無い、ただの有用な人間を作るという方針の元、マーケティングと下部構造を、「教育」という、意味をどうとでも変容できる概念でコーティングした醜悪な組織でした。
そして未来機関もまた、その描写はわずかながら、頑固で融通の利かない感じをひしひしと体感させます。
私は、2をプレイしている時、未来機関という組織のイメージを、未来の可能性や価値の本質的内容突き詰めずに、生煮えの理念のまま、寡頭政で突き進む組織、そのように捉えていました。
言うなれば希望ヶ峰学園が資本主義社会の闇を象徴しているなら、未来機関は一度、世界が壊滅した為、組織構造も後退した中世の政治組織のようなイメージ。
それが端的に現れているのが、日向たち絶望の残党の対処方法で、苗木たちが江ノ島に洗脳された経緯を鑑み、更生を目指すのに対し、未来機関は即時処分。一瞬、どこの鎌倉幕府なのかと思いました笑
確かに絶望の残党が行った罪は重いですし、人類社会への恐怖と影響を考慮するのは分かるのですが、今回の事件は希望ヶ峰学園が、更に言えば、社会全体の思考が消化不良を起こして発生した、概念的で、ある種、人類存在の根本に挑戦するテロリズムなはず。
であるなら、新しい組織はそれに対抗する理念や概念をしっかり立てなければならず、今までの行政のような杓子定規的な対応では、絶望の病理を根治出来るはずもありません。
この要求は確かに高いし、現実社会でそんな事を実現出来る政治勢力は皆無でしょうが、それでも一度世界が滅びているのだから、全く違うアプローチをここでこそ試さなくてはならないはずです。それが未来機関には理解出来ず、前時代的な刑罰的思考で組織を営んでいます。
また日向たち絶望の残党が、氷河期世代の憎しみが象徴されている文脈で言うなら、未来機関がやることは、彼らを断罪するのかという事でなく、不寛容だった社会の罪を認めて、いかに彼らと共に、自分たちも含めて更生していくのかであるはずです。
また作中の世界には、生き残った一般大衆の中にも、絶望に侵されていて、ようやく正気に戻った人もいるでしょう。
であるなら未来機関が世界に示すべきなのは、断罪と処刑でなく、許しと共生的更生なのでは、そんな事を思います。
それに比べると、前作の主人公たち78期生の3人は、1で江ノ島と対峙しただけあり、一番大事なのが価値観であり、憎しみを捨て、許す事であるのを深い部分で理解しています。
特筆すべきは苗木の希望更生プロジェクトにおける洞察です。
彼は、江ノ島に侵されていない正しいプロジェクトの時でさえも、「ウサミによる希望が絶望の残党たちを追い詰めてしまう可能性がある」という危惧を持っていました。これは卓見です。
世の中は何事も想像力とバランスです。
既に見てきたように、予備学科の「人間性」を全く鑑みれない、希望ヶ峰学園の一方的な希望追求がカムクライズルというモンスターを生み出しましたし、本作のジョーカー枠である狛枝は、狂気的な希望啓蒙主義者でしたが、その極端さゆえに簡単にS極とN極が反転し、絶望に転んで、プログラム世界の改竄に手を貸すことになってしまいました。
希望を持つことは大事だけど、それは人それぞれが思考し、変化するもので押し付けられるものではない。現に民主主義と投票箱をただ押し付けただけのアラブの春も、無残な失敗に終わっています。
上記の「押し付けてはいけない感覚」を肌で分かっているのが、苗木たち新世代の特徴であり、逆に現実世界でも年長者の人たちが分からないのが、それらの感覚なのだと思います(もちろん上の世代全員がそういう人である訳ではありません。あくまで傾向の話です)。
ただし新世代が全て素晴らしいわけではなく、78期生の3人の中でも十神は「洗脳されたお前たちにも責任はないとはいえない」と自己責任論的な事も言っていますし、それもまあ、分からないではありません。
そしてそういう、ある種、新自由主義的な異なる意見も必要で、悪い部分だけではないですし、色々な人間が様々な意見を交わしながら、まだら模様を形成して生きていく、それが現実社会です。
希望とは、実の所、泥臭く、それでいて非効率的なものの中からしか、掴み取る事が出来ないのかもしれません。
江ノ島AIは退屈である

私は冒頭で、本作は1作目に比べて、物語の構造は積み上げられ、メッセージ性の深度は増したものの、純度は下がったと書きました。
その大きな理由が本作のラスボスである江ノ島AIです。
本シリーズの作者である小高さんは、かなり考えてシナリオを練るタイプの人であり、実の所、江ノ島AIという存在の純度の低下に関しては、演出上あえて行っている部分が意識的にしろ、無意識的にしろ、あると私は感じています(既にこの時点からV3への布石はある)。
さて、私は1作目の考察において、江ノ島盾子に心酔している江ノ島信者であると語りましたが、今回の彼女は所詮はAI。本家の足元にも及びません。
その理由に関してまずは根本部から説明します。
1作目の江ノ島は、全ての黒幕でありつつ、非常に抽象性の高い人物でした。1作目の中で彼女自身が、絶望を「概念的なもの」と語っているように、その手口・手法が具体的に示されていないからこその魅力・力があり、それは唯一無二の輝きでした。
しかし本作のAIに関しては、まず具体的に、自分が生身で復活するという明確な目的があります。その為に日向たちに対し諦観や絶望に誘う言葉を浴びせ続けるわけです。そしてその言葉自体も「ずっと南国にいよう」「未来が苦しめる」「諦めて休もう」といった非常にありきたりで陳腐なもの。
それもそのはずで、江ノ島AIは、日向たちが象徴する氷河期マインドの言葉をそのまま流用し強化しているだけなので、物語の構造上では、彼女は実に正しいワードを選択している事になります。
これらの物語の要請と具体化という、構造それ自体が、江ノ島AIが1よりもかなり退屈な存在に堕してしまっている理由の一つです。
恐らく多くの方は、抽象的なものより具体的なものの方が価値が高いのでは? と考えていると思いますが、私は現在、抽象的なものの力という価値を再認識しています。
哲学や心理学、言語学においては、意識や認識という「形式」に至る前の、未知の整理できてない根源的エネルギーの事を、力や超越性、恣意性と表現します。
その意味で1作目の江ノ島盾子は、力や超越性を秘めた抽象的な存在でした。
しかし2の江ノ島AIは、本作が1の過去の話を掘り下げる性質であり、かつ元の江ノ島のデータを元にしたAIである以上、仕方がないのですが、具体性を帯びた事により、そのスケールがダウンしている事は否めません。
とはいえその純度の下がりと反比例するように、本作は物語の構造を積み上げ、メッセージ性も増しているわけで、その要素の中に江ノ島AIのスケールダウン演出自体も必然的に含まれています。
何かを得る為には何かを捨てなければならず、その捨てた事が得る事に繋がる、そんなわけです。
エンディングで日向が言うように、本作は1のような人類社会に対する劇的な事件ではなく、絶望に堕ちた人間が、自分の意志でプログラムから出て希望へと踏み出す小さな物語です。
物語の演出や出来事が派手なので勘違いしがちですが、本作はあくまで精神世界・プログラム世界での出来事。
しかしその小ささにおける一歩の踏み出しこそ、どんな英雄の成功譚よりも価値があり、私たちに響きます。
その意味で江ノ島AIのスケールダウンもまた、本作における小さな一歩を演出する一要素なのかもしれません。
七海千秋とは

本作における、というよりか本シリーズの不朽のヒロインとして君臨するのが七海千秋です。
バーチャルで実在しないという儚さと健気さ、また本シリーズを貫くメッセージの光の部分を一身に背負っている存在である為、その輝きはすさまじく、最近のアニメや漫画において、ここまでフィーチャーされているメインヒロインは稀でしょう。
それゆえに思春期に彼女を食らった人は、きっと今でも大事なキャラクターとして心に残っているのではないかと思います。
私はここまでの考察で、絶望世代を氷河期世代と捉え、本作はその世代の再起の話として話を進めてきました。
そう考えた時、彼女が超高校級のゲーマーである事にも一つの意味が見えてきます。
まず前提として彼女の存在が象徴しているのは、ゲームプレイヤーである私たち自身。もっと言うなれば私たちが持っている純粋性です。
そしてそれを象徴する彼女が、ここまで光を放つ存在として描かれるという事が意味するのは、作者がゲームプレイヤーの純粋性と良心を信じているという事でしょう。
実は1から2において、劇的に変化している重要な要素があります。それはキャラの生死です。
2はバーチャル世界での話なので、実際に死んでいるのは七海だけで、他のメンバーは死んではいないのです。
作者の小高さんはインタビュー等で、登場キャラ全てに愛着を持つタイプである事をたびたび語っています。
それゆえに、この変化は納得出来るのと同時に、既にこの段階からデスゲームという存在についての懐疑が見え隠れしている事の証左でもあります。(これについてはV3の考察で本格的に掘り下げます)
2で事実上キャラの死が無くなり、その中で唯一死んでいる「七海」という、私たちのメタ的属性を持つ人間が象徴するのは、デスゲームの快楽への若干の懐疑と死というものの重さ、そして人の生き死にの快楽以外の何かを、光を受け取って欲しいという作者の意志なのではないでしょうか。
さて、そんな彼女が終始言っている事は「才能を持つ事が大事なのではなく、自分を信じる事が大事」というメッセージに集約されます。
これは実はダンガンロンパの1作目から通ずる本作の根本哲学で、彼女はダンロンの光の哲学が具現化した存在でもあるのです。
さてこのメッセージを氷河期世代へと転化した場合、競争に疲れ、社会に裏切られ絶望に落ちてしまった彼らに対し、才能という他者や社会からの評価でなく、自分自身がどうしたいか、という自我の意志を問う、他者評価から自己評価への転換に他なりません。
そもそもとして才能なんて曖昧なもので、それの形を保証するのは成功しているか、してないかのみです。もし自分が天才だと信じているなら、それを誰にも否定出来ないのです。
ここで「ゲーム」という存在について注目します。
ゲームは事実上、氷河期の青春時代とともにグラフィックやシステム共に進化してきた存在で、確実に彼らの思い出の中にゲームの存在があります。
そのゲームをしていた時の楽しい思い出、純粋な思い出を肯定する事。七海の存在はこのような意味も背負っています。
また、七海は劇中でカムクラになる前の日向を肯定します。
これは「過去のダメだった自分でも肯定してくれる存在がいる事」を象徴し、これはある種、原初的な母に連なる肯定です。これが日向を氷河期マインドから立ち直させる契機になりました。七海は象徴的に、母なる概念さえ背負ってるのです。
七海千秋という存在は、ダンロンシリーズの光の哲学の集大成であり、本作を愛するプレイヤーの中でこれからも輝いていくのだろう、そんなことを思います。
日向と未来への意志

本作のラスト。日向は自身が「カムクライズル」という存在に身を堕とした事を思い出し、他のメンバーも、自身が絶望の残党であったことを思い出します。
その衝撃と混乱の中で、自分たちの為にこのままここに留まるか、もしくは卒業を選択し、江ノ島AIの復活に手を貸すか、もしくは強制シャットダウンし、現在の記憶を失い、絶望の残党に戻るけども江ノ島を撃退するか、という究極の選択を迫られる事になります。
今まで本考察において、日向達は氷河期のメンタリティを象徴した存在だと書いてきました。
その文脈で捉えると、突き付けられているのは、①現状維持か、②ニヒリズムに陥るか、③社会の為の自己犠牲を受け入れるか、というもので、これは社会に痛めつけられてきた世代にとっては、かなりきつい選択で、正解と分かっていても容易に③を選ぶのは難しい。
本作の場合、十神が言うように、彼らには、洗脳されたとはいえ明確に加害者という顔がある為、さっさと強制シャットダウンしろよという気持ちも分かりますが、彼らの心も傷ついていており、人類社会凋落の原因は社会自体の機能不全にもあるわけで、そんなに簡単ではありません。
最終的には、前項の七海の存在と価値観が日向を動かし覚醒させ、彼らは強制シャットダウンを選ぶわけですが、これは苗木たちの想定している「強制シャットダウン」の意義づけとはワードは同じでも、その意味作用において全く違うものです。
大きく見れば、苗木たちの強制シャットダウンの定義は、江ノ島AIを倒し、社会を救うもの。
しかし日向たちが最終的に選ぶ強制シャットダウンは、自分たちが絶望に退化しない事を信じて、自分たちが選んだ希望の選択、つまり「もう一度自分の可能性を信じる」、そういう選択です。
言うなればそれは、未来機関にも日本社会にも苗木たちにも選ばされたのではない、自分の意志による選択なのです。同じ選択でもそこに宿る精神が全然違います。
それを現実世界の氷河期の文脈に変換するなら、クソな社会は置いといて、それを恨む事にエネルギーも向けず、自身の欲望を最大化する人生を選択する、という事です。余計なお世話かもしれませんが、私はこの精神こそ氷河期世代が現実を最適化する解の一つのように思います。
社会は関係なく、未来を自分で創る。
それは日本社会の同調圧力が流れ、漏れ出ている、なんとなくの神という概念ではなく、社会に毒されない、自分たちの日が当たる場所を創る事です。
それの根底部にあるのは、七海が言った「才能ではなく、自分を信じるという事」であり、日向が言う、どんな厳しい境遇にあっても「それでも俺は・・」と新しい希望へ視点を向ける事です。ここにはニーチェの超人の思想の、新しいものに飛び移るポジティブな価値が見受けられます。
やればなんとかなる。
彼らは最後、この当たり前でなんの目新しさも無い言葉を元に強制シャットダウンを選択します。しかしそれは何も考えず、教師がぼんやり言う「やればなんとかなる」と同義ではなく、その中に宿るのはもっと豊かなエネルギーが満ちた言葉であり、確かな最初の第一歩です。
酷暑の夏、修学旅行という学校の枠組みを抜け、七つの海が広がる外の世界に飛び出した時には、過ごしやすい千の秋が彼らを迎える。
そんなわけで本作のラストは、しっかりと罪の更生を、そして氷河期世代の一歩先の歩みを提示する素晴らしいものだと感じました。
1のエンディングは2という未来がある事より、遡行され美化され、英雄化されますが、本作の事件はあくまでプログラム世界から出る事を選択した、ボタンを押しただけの小さなものです。
思い出すのは、宇佐見りんさんの「推し、燃ゆ」という作品の終盤。主人公のある感情の発露による行動。それもまた、とても小さなしょぼいものです。
しかしスケールの大きさが価値ではなく、日常性に根差した小さなものにこそ、世間の価値では測れない無限の価値があるし、どんなにしょぼくても、その第一歩から始まる、私はそう思います。
本作は、超高校級の才能を描くダンガンロンパという作品の集大成であり、そのメッセージは、逆説的で、才能や社会の目・評価ではなく、大事なのは意志であるというものです。本作においてこの価値観は作品と完全に調和し、輝かしく屹立しています。
さて、次に考察予定なのが次作であるV3ですが、ここまでメッセージがあり希望に満ちたテキストを描いた作者である小高さんが、なぜあんなことをしなくてはならなかったのか。そこがV3考察の根本になると思います。
一応、そう遠くないうちに書き上げる予定ですので、期待せずお待ちください。

