「モモ」はドイツの作家ミヒャエル・エンデさんが1973年に刊行した児童文学作品です。
各国に翻訳され世界的にファンが多く、特に日本では根強い人気がある児童文学の大傑作!
その寓意的かつ現代文明の病理を的確に突いた物語は、大人が読んでも面白く・・いや大人こそ読むべき物語と言っても差し支えありません。
本作は、端的に言えば、円形劇場の浮浪児・モモが、時間どろぼうに盗まれた時間を取り戻す物語。
果たして時間とは何なのか? どのような性質を持っているのか? 時間を慈しむ生き方とは何なのか? などなど、本作が浮かび上がらせる深部や本質を、以下、考察していきます。
物語のネタバレを含むので、それが嫌な人はここでストップしてね♪
モモ、ジジ、ベッポの属性
本作の主人公であるモモは、廃墟に住み着いた都市の浮浪児です。そしてそんなモモと日常で行動を共にするジジとベッポは、ほら吹き観光ガイドと道路掃除夫。
RPGのパーティー、特に主人公は、基本的に貴種流離譚的な、「実は選ばれし人間だった・・・」みたいなパターンがほとんどですが、本作はホームレスと嘘つきとプロレタリアート。
既にこの時点で本作が、現代社会の体制に対し、何かしらのアンチテーゼを提示しようとしている事が見て取れます。
特に主役のモモに関しては、働いておらず、基本的に遊んだり、人の話を聞いているだけ、その意味で、見える意味での社会の生産性に全く寄与していません。
彼女がしているのは、話を聞く事により、人々に満足感を与える事、及び仲違いしている人間の仲裁などで、それは想いの昇華や交流の潤滑。遊ぶ事もまたそれらの範疇に含まれます。そしてそれは見える生産では無いかもしれませんが、コミュニティーの安定性を担保しています。
ではなぜ彼女がその役割をこなせるかというと、それは彼女が浮浪児であり、社会体系の外部にいるからです。
何事にも囚われていない真に自由な存在、それゆえに心が豊かで人の話を聞ける、だからこそ人々は彼女に自分の思いを預けられるわけです。
つまりモモの存在は、地域社会におけるイコンやシャーマンの役割を果たしているとも言えます。中世ヨーロッパは共同体の精神の中心にキリスト教がありましたが、この地域ではモモの「純粋性」や「遊び」が人々の精神の中心を担い、それでうまくいっている。私はその様に感じました。
しかしその役割は、牧歌的な田園都市や商人同士の社会では通用しても、効率化された時間を運用する大量消費社会では通用しなくなる。これが灰色の男たち登場以降の物語中盤の内容に該当します。
本作の後半は、その灰色の男たちの価値観に対する、モモ的な価値観との戦いなわけですが、仲間であるはずのジジとベッポは、二人とも労働者であるゆえに、すぐに大量消費社会に回収されてしまうのが面白い所です。社会の歯車としての労働者は否応なしに、社会体制の変化に影響を受け、それの部品にされてしまうのです。
モモのみが灰色の男たちに立ち向かえる事は、社会の内部に組み込まれず、外部の視座を失わない事の重要さを表しているのではないか、私はそう考えます。
円形劇場の廃墟
モモが住んでいて、子供たちと遊んでいる、既に廃墟と化した円形劇場
この舞台は、果たして何を象徴しているのでしょうか。
本作の基底にあるのは、大量生産が加速させた資本主義的な生活様式やエンタメ様式の脅威です。そこから考えると、この死んでいる劇場は、その前世紀である17ー19世紀的な、人間性を中心とするエンタメの死を表しているように思います。
まず考えたいのは、劇場からいなくなった人々はどこに行ったか? という事です。
作者が本書を書いたのは1970年代であり、それはテレビの勃興期です。そう劇場に居た人々はテレビの前へ移動したのです。
そもそもとして、17-19世紀のシェイクスピアの劇やディケンズの小説などは、ロマン主義にせよ自然主義にせよ、物語的であり、その基底には人間と人間の交流がありました。
それが大量生産・消費社会に移行するにあたり、欲望は飽和し分裂、文学の主流もポストモダン的な、独我的、分裂的、破裂的、神経的、病理的なものに移行していきます。
それでも文学はまだ、それを描く事により何かを抉り出そうという気概がありましたし、ピンチョンや、ソローキン等の現代文学は、人類の思考を一つ先に進めている感じもあり、素晴らしいと個人的には感じています。
しかしテレビはどうでしょうか。
基本的にテレビは点ければ流れ、そしてそれは人との直接のコミュニケーションを阻害する媒体です。
「お茶の間にテレビ」というのは、牧歌的な家庭のイメージでしょうが、そこで全員がぼんやりテレビという媒介物を眺める行為は、集中力を一つの箱へ誘導する行為に他ならず、隣の、横の交流は断ち切れています。
もちろんテレビが全て悪いわけではなく、志の高いテレビドラマもあるでしょうし、独創的な企画や価値観を提示する「作品」はあるでしょう。
しかしその媒体の性質上、多くの番組がただコマーシャルを垂れ流す、いわゆるファミレスの商品ランキング的なものに堕している現実は否定のしようがありません。
それもそのはずで、テレビとは、大量生産という方法が招聘した、資本主義社会が生んだメディア形態であり、広告で物を売る事を前提にしている存在だからです。
それは欲望を加速させはしますが、人間同士の直接的な交流をどんどん希薄にします。
本作の作品の前半部で、モモが色んな人の話を聞いたり、住人の喧嘩の仲裁をしたりしますが、それらはもはや19世紀までの価値観であり、20世紀以降ではそのような交流はメインストリームではないのです。全員がテレビの前に移動し、ぼんやりと商品を眺めているのが20世紀社会です。
更に言えば現在は、蒸気機関的化石燃料的な大量生産文化のテレビから、グローバルな情報、量子的な文化の産物であるスマホにメインストリームは移動していますが、こちらは一つの箱という共有物すらないわけで、人間はより孤立化し、直接の交流という要素はほとんど皆無です(アプリやSNSを通しての交流は、情報・文字の交換に過ぎず、肉体的な霊感は薄いのでは、私はそう感じます)。
上記の事から考えるに、既に20世紀にはメインストリームの文化から、劇場は脱落しています。
そもそも劇場に行くには、そこに足を運ばなくてはいけませんし、同じ場所に多くの人間が押し掛ける為、面倒な「密度的交流」が発生します。
現在、劇場だけでなく映画も急速に力を失っているように感じるのは、スマホの方が無「交流」であり圧倒的に楽だからです。
しかし果たして、「交流」を遠ざける文化に未来はあるのでしょうか?
面倒な交流をスキップし、全員に同質な欲望を喚起、提供し、同じようなものを買わせる。そして人々は交流という喜びではなく、「量の欲望」に自然と思考が汚染されていく。
結果としてプライベートな時間ですら、利益や損得勘定に規定され、コスパ・タイパ的な思考が跋扈し始める。
今や動画サイトの10分の動画すら主流派から脱落し、ショート動画が情報のメインストリームを席巻しています。
しかし実はそのコスパ的・タイパ的行動こそが、人間から「時間」を奪うものであり、無駄だと思える「交流」こそが、「時間」を生み出すものだ、それこそが本作のメッセージ性だと私は思います。
時間どろぼうとは何か、化石燃料・ケムリ文化
モモたちに、人間社会に立ちふさがる灰色の男たち、またの名を時間どろぼう。彼らは一体何者なのでしょうか。
灰色の葉巻を吸い、しきりに人々に時間の重要性を説き、それをタイパ的に貯蓄するよう訴え、強制させる存在。彼らの背後に形而上学的な何かが存在している事は、物語の描写から明らかです。
とりあえず彼らが吸い、出すケムリについて着目してみましょう。
前項で本作は、大量生産が裏打ちする資本主義社会批判を前提にしていると述べましたが、その大量生産を可能にしたものが蒸気機関でした。いわゆる産業革命です。
それまでは商人同士やギルド的な連帯だったものが、エネルギーの変換とその利用により、莫大な量の商品を作成出来るようになり、それを加速させる銀行が跋扈し、資本家が育っていく。
これらの現代資本主義を支えるのは、蒸気機関とそれの燃料である化石燃料である石炭です。そして石炭を燃やすと煤煙というケムリが出て、それは人体を害し、環境も害する。
言い換えると現代資本主義社会は、それらを中心にした、化石燃料・ケムリ文化を前提にしている、その様に言えるのだと考えます。その主役が石油に変わったとて、本質は何も変わっていません。大量生産社会は、ケムリという存在と密接に結びついています。
嗜好品としての煙草も、大量生産の部品である、労働者のストレス解放を目的したエネルギー変換装置としてみると、これもまた産業革命的な、化石燃料・ケムリ文化の派生物として捉える事が可能です。人体にとって有害なのも、環境を害するのも全く同じ。
さて、私は最近、その時代を基底するシステムは、その時代の、人間全体の思考や思想・無意識にも影響を与えると考えています。
前項で取り上げたテレビは、化石燃料・ケムリ文化の産物であり、その奥には大量生産の工場が控えています。それ以外のあらゆる領野でも、資本家や銀行が実在の社会を、大量生産の影響力で覆っています。
つまるところ、人間全体の思想や意識、無意識もまた、化石燃料・ケムリ文化に支配されてしまっているのではないか。それが私の20世紀分析です。
灰色の男たちは、「時間を貯めさせ、その時間をこっちの為に使う」とモモに本音を語ります。これは労働者の時間を大量生産に使う資本家の論理そのものです。そう、合理化・効率化で貯めた時間は、実の所、個人の幸せには寄与していないのです。
しかし化石燃料・ケムリ文化は、タイパ・コスパを人々に植え付け、生産性が高くないと意味の無い存在という価値観を植え付けます。しかしそれは実の所、大量生産がしたい資本家たちの都合でしかありません。
上気を踏まえた上で、灰色の男たちが何者かという私の考えを提示しようと思います。
彼らは、化石燃料・ケムリ文化に規定されてしまった人間全体の、無意識のプールから湧き上がってきた形而上的存在・力なのでは、それが私の考えです。
それらの力が、欲望を抱えた人々に流れ込み資本家を生み、銀行を生み、大量の商品を生み、人々が消費する。それの繰り返しの中、化石燃料・ケムリ文化の無意識が強化されていく。だからこそ、灰色の男たちは強い。
言うなれば、人間全体の無意識や思想が、化石燃料・ケムリ文化の化身である灰色の男たちにより、一つの工場化させられているのが本作の後半の世界であり、それは現代社会を象徴している、そう言ってもいいかもしれません。
国家の部品化としての悪しき物語
物語の中盤から、灰色の男たちが登場し、人々は大量生産的な、化石燃料・ケムリ文化の論理に呑み込まれていきます。
その中で、注目すべきは観光ガイドのジジです。モモと仲が良く、彼女の事を大事に思っており、かつ様々な知識やその場の物事から、インスピレーションでお話を組み上げる事が出来る、天然のストーリーテラー。
その意味で、灰色の男たちの文化に染まる前の彼は、次項で詳しく書く、マイスター・ホラ的な、遊びの、良き嘘の性質を持つ有為なキャラクターでした。
しかし灰色の男たちの力により、出世した彼は変わってしまいます。彼の物語は大量生産の流れに乗り、多くの人間に届くようになりました。しかしそれは彼の物語が一つの商品になってしまったことを意味します。
それに伴い生活は向上し、彼は巨大なお屋敷と優雅な暮らしを手に入れます。
しかしその代償として、巨大な欲望に根差した生活を維持する為、物語を考えるようになってしまいます。ここに物語こそを始原とする彼の性質は、正反対に転倒・逆転。結果、霊感を失ってしまい、物語がまるで浮かばなくなります。
それでも、もう惨めな生活に戻りたくない・・・
ゆえに彼は今までの物語を、手を変え品を変えアレンジして提供する。
そう、ここに描かれているのは、現代の商業作家の病理そのものなのです。
最初は、自身が得た霊感を元に純粋な物語を生み出して来た作家が、いつの間にか、仕事としてお金の為に商品を生み出すようになってしまう。
大量生産社会の快楽原則や競争原理の磁場は強く、意識していないと簡単に自分の理想を失い、マーケティングに乗っ取った、つまらない作品ばかりを量産させられる機械に堕されてしまいます。
例えば霊感が無くなり断筆する、というのはまだ良いのです。しかし問題なのは、その気もないのにだらだらと書き続ける事。
これはまさに黙示録で言う、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるい状態。そして大量生産社会は、人を部品と見なす事を前提にしている為、生ぬるい、前例踏襲の部品を作るのが上手く、むしろそれを要請しています。むしろ過度に情熱がある人間の方が困るのが現代社会の本音。
そしてこのなまぬるさは、本作の集会の失敗、現代に言い換えると、失敗するデモ問題にも現れています。
劇中で、ジジが呼びかけた集会は失敗に終わります。しかしジジはその行為それ自体に楽しみや物語を見出しており、あまり落ち込みません。この姿勢は一つの趣味・遊びとしては素晴らしい姿勢です。
しかし社会運動としてで言うなら、機能していません。
もし本気で社会を変えたいなら、自前の政治勢力を本気で結集するか、もしくはその社会を本気で揺さぶるだけの覚悟と力が求められます。
ゆえに自己実現の延長線上で行動を起こしても、国家は当初それを黙認し、後に柔軟にそれを吸収し、歴史、物語にし、時にはある種の美談にさえして回収してしまうのです。
そうして人々はぼんやりした満足感を持ち帰り、再びなまぬるい部品として生活を続けていく。
その意味で大量生産社会下の国家は、ある程度の快楽原則を満足させてくれる様々な方法や、人々が忘却するという性質を上手く利用し、人々を容易に部品に戻させる、非常に手強い存在なのです。
内部告発が難しいのは、長い目で見た時に、多くの時間や継続性を、組織や国家の方が得ており、勢力的にも、まとまり的にも個人より強いからです。世間は事件を忘却し、日常の快楽活動に復帰する運動を常に志しており、国家や組織はその性質を熟知しています。
それゆえに告発者は、人々が忘れた頃にそっと組織から粛清されて終わり。
その意味で言うと、全てではないにせよ、自己啓発本もまた、なまぬるい部品化への国家の手段の一つかもしれません。
ある種の自己啓発本や一部の新書は、生産性を上げ、いかに能率よく、かつ幸せに生きるかを目指す主旨で書かれています。それは実の所、個人ではなく国家にとって都合の良い、有為の部品を作る幇助・ガス抜きに他なりません。言うなれば行儀の良い部品を作る為の御用言論とでも言いましょうか。
また本作の中で、モモの劇場を去った子供たちが、保護施設でさせられているゲームの内容も非常に象徴的です。
質問をしていって、当てはまらないカードを弾いていき、一つのカードを残すゲーム。
ここには様々な象徴が折り重なっています。
最低限の手順で工程をこなす生産性のアップ、様々な欲望を包括する商品開発。まさに部品工場の労働者としてのエリート教育です。ここには残る一つにならなくてはいけない、という競争原理も巧妙に含まれています。
このゲームは現実社会で言う、受験、そしてクイズに似ています。
クイズという文化の背景には、確実に大量生産社会と、その最良部品を作る受験制度が内包されています。
多くの知識を博覧的に得たいという好奇心の側面はもちろんありつつも、それを繋げて何かを作り出すというのでなく、クイズは多く正解を得る事が目的です。これは多くの生産と消費に裏打ちされる精神性です。
またクイズを沢山正解した人間が褒賞を得られるという構造自体が、受験勉強で多くの問題に正解した人間が、官僚になり良い企業に入り、名誉を得るという構造とリンクしています。
難しいのは、クイズにしても、自己啓発本にしても、そこにある種の快楽はあり、それを国家が無意識に利用している所です。
我々は、既に化石燃料・ケムリ文化から生まれた大量生産社会に生きており、快楽もまたそこに規定されてすらいる。
それを認識した上で、生産性から脱却し、遊びと愛を見出す事が出来ない限り、上記のなまぬるい悪しき物語に簡単に回収されてしまうのではないでしょうか。
マイスター・ホラとカシオペイア
本作におけるある種の神。時間を生み出す存在として描かれるマイスター・ゼクンドゥス・ミヌティウス・ホラ。
彼が時間の花から、人々に時間を送り込み、人間は時間という恩恵に預かっています。
彼の名前の由来は時間(ホラ)、分(ミヌティウス)、秒(ゼクンドゥス)という時間用語が由来との事ですが、ここでは彼の通称であるマイスター・ホラの「ホラ」に着目します。
あとがきからも、作者のエンデさんが日本や東洋にかなりの関心があったことが伺えます。であるならホラという文字の日本での意味について思いを馳せ、そこに重複的な意味を見出していたとしても不思議はないですし、そうでないにせよ、優れた作品には奇跡のような重層的な象徴が立ち現れるものです。
ホラは、法螺、ホラ話、嘘やいい加減を混ぜた愉快な物語。そのような意味や象徴が彼の名には含まれているのでは、私はそのように考えます。
最終項目で詳しく触れますが、ホラのいる<どこにもない家>に続く、真っ白な区画は、早く進むほど遅くなり、ゆっくり進むと早く辿り着ける空間です。
これは効率ではなく、ゆとり・不合理なものこそが時間を生むという、ある種の思想の具現化でしょう。そしてホラ話や冗談というのも不合理で、その裏にゆとりが潜んでいます。これらはいわゆる「遊び」に連なる性質です。
つまりマイスター・ホラとは、「遊び」こそが時間を司る本質であるという事を表した名称なのだと、私は思います。
さて次に、ホラの居る場所への導き手である、カメのカシオペイアについて考えていきます。
カシオペイアは、モモをホラのいる<どこにもない家>に導いてくれたり、ある時は唐突に消えたり、それでいてここぞという重要な時に現れたりと、劇中で縦横無尽な働きをします。
太古から亀はその幾何学的な甲羅の模様から、そこに宇宙の形状を見出し(個人的にプラトン的宇宙のイメージ)、その象徴として考えられてきました。また亀は万年生きるという様な、長い時間という象徴もそこに重なります。
その意味でカシオペイアは、時間すら内在する宇宙を体現した、ある種の宇宙律のような存在の象徴なのではないか、そんな事を思うのです。
二つの超越論の戦い
さてここまでの考察を踏まえて、本作の構図のもう少し深部を探っていきます。
灰色の男たちの背後にある、化石燃料の大量生産に裏打ちされ、その多額の利益を見越し、お金を運用、生み出していく銀行。
そのシステムは、未来という、ある種、概念的なものの先取りであって、形而上学的ですらあります。
そしてこれは、企業が人間が、計画通りに商品や利益を生み出す事を要請し、それは人間を機械の部品と見なす事と親和性が高い。
これらを併せて、合理的未来的機械の超越性と呼んでみたいと思います。
一方で、それに反する、モモやマイスター・ホラが属する陣営。
こちらは、好奇心や偶然性を重視する、いわゆる遊びの領野に属するものです。
私は笑いというのは、遊びが招聘する力だと思っているのですが、不条理で不合理な事をしているのに、なぜか笑ってしまうのは、実はとても不思議な現象であり、ある種、未知の力です。
その上、笑いは何だか人の気持ちを幸せにする。こちらが遊び・笑いの超越性です。
本作の、内部構造としては、この合理的未来的機械VS遊び・笑いの超越性対決を童話・物語形式で閉じ込めている、その様な構図となるわけです。
ただしこの二つの力が複雑なのは、どちらも我々から湧き出る無意識であり、正反対でありつつも、巧妙に絡み合い結びついている事です。
好奇心は遊びや笑いを生む一方で、性欲や食欲も生みます。もちろん欲動は大事ですが、それらは制御が難しく、簡単に過剰になり、異性を数や物として捉える快感へと導く可能性も大いにあります。
大量に食べたい、大量の異性を抱きたい、この欲動は裏に、合理機械的、大量生産的な価値観が明らかに入り込んでいます。
私たちの思考や意識、そして欲望は複雑で、社会システムや本能は絡み合う。ゆえに、二つの力の戦いは、押しては引く波のように続いていく・・・
この戦いは難儀であり、容易に決着がつくものではないのかもしれません。
時間を生むのは「遊び」だ
本作が灰色の男たちを通し、警鐘を鳴らしている事。
それは効率的に生産的にだけ生きる事は、心の死を意味し、しいては生物としての死を意味する、その様な事だと私は考えました。
そもそもとして、生物とは非効率なものです。なぜなら一番効率が良いのは無であり、そもそも生まれないことだからです。
これを、極限まで突き詰めた機械化の工程から辿ってみます。
効率と生産性だけを目指し邁進する→余計なものを削ぎ落す→まずは部品としての人間の人格が削がれる→永遠に動き続ける事が出来ない人体が削ぎ落される→全てが機械になる→いらない工程が省かれる→最低限の部品だけで商品を組むようになる→それからもどんどん部品が省かれていく→虚無
上記は極端かもしれませんが、過度な生産性と効率の追求は、機械化と死への道なのだと思うのです。
そもそもとして、地球に生物が生まれたのは、多様性の確保と顕現です。とはいえある観点から見れば、クラゲもいて猿もいて、恐竜もいる。これは無駄そのもの。
また人類・生命の体の器官の進化も、個体の中で起きた突然変異がきっかけとされており、それなど効率性を通り越し、ただの異分子です。
さらに言えば、我々を生み出す恋愛感情というもの自体が、不合理で無駄な感情そのものと言えるでしょう。
しかし私たちはそれでも人間を愛し、犬やクラゲとの共生・触れ合いを慈しみます。その時にふと時間を忘れ、歓びを得る感覚。それこそが時間を生む感覚なのでは、私はそう思うのです。
生物の多様性とは増えて便利になるという観点でなく、色々な物事と触れ合う喜びにこそあるはずです。なぜなら利便性が最上の要求であるなら、そもそも何も無い方がよいのだから。
さて、ここまでの考察を踏まえ、私が考える本作の核心を書きます。それは時間を真に生み出すのは、効率でなく遊びである、という事。
劇中でホラのいる<どこにもない家>に行く為に通る、真っ白な区画。ここは早く移動するとゆっくりになり、ゆっくり動くと早く着くという不思議な通りです。
これを現代人の生活様式に還元してみます。
いくら効率的に動いても、それだけが目的と化している場合、心は機械化して死んでおり、その時間も死んでいる。しかしのんびりと花をめでたり、ゆっくり散歩する時間はその全ての時間を堪能する事が出来る
真っ白な区画の性質は、上気の様な時間の〈利用法〉の象徴的描写だと思いますが、その内実をもう少し詳しく見ていきます。
そもそも時間というのは曖昧で、1時間や30分というのはあくまで単位に過ぎません。人々によって実の所、その30分や1時間が同じ長さなのかは体感論的にも生体認識的にも厳密には分からないわけです。
更にここで二つの相反する性質の時間について考えて見ます。
第一に楽しくてあっという間に過ぎる1時間。第二につまらなくてやたら長く感じる1時間。
さてこの二つを比較した場合、感情はどうであれ、イメージ的に後者の方が時間を沢山使えている気がしないでしょうか?
しかしこれを寿命的生命エネルギー的観点。つまりはそれぞれが持っている「全時間」を元に、1時間に減っていく内在量の擦り減り具合として捉えてみましょう。
まず、あっという間に過ぎる1時間の方は、心が動いておりエネルギーを生み出しているので、全く寿命時間をすり減らしません。寿命時間を100とするなら、100ー0=100です。むしろエネルギーを生み出しているなら100+5=105くらいあるかもしれません。
一方で退屈な1時間は、心を無に、機械にする事によるエネルギーが摩耗、単純な引き算になるどころか、寿命時間を大幅にすり減らします。100-5=95。
上記の様な思考法で考えるなら、退屈な1時間を過ごす人間の方が、早く寿命を使い果たし、心が動いている人の方は、むしろ寿命が延びているとすら言える。
もちろん上記の思考や計算には、科学的エビデンスがあるわけではありません。しかし現代科学そのものが時間がなんたるかを厳密に説明出来ていないのであり、エビデンスなど知ったこっちゃありません←わーい開き直り
しかし心や体の擦り減り具合的な、内的感覚から考えるに、時間の全てを愛でるような過ごし方こそ、時間を生む行為だという考えは、個人的にとても腑に落ちるのです。
その過ごし方を構成するものこそ、心が動き、時間が躍動している感覚を想起させるもの。つまりは遊びであり、冗談や不合理、笑いです。
何の意味も無い嘘、意味の無い回り道、一見無駄だと思える時間の中に素晴らしい発見や喜びが眠っていて、好奇心は進化し時間が生み出されていく。
私は生命の誕生や進化もこの価値観に内在されていると思うのです。
本作でホラが、灰色の男たちのケムリに毒されると、最後は全てが無気力に陥り、灰色の男たちと同じ様な存在になってしまうと言い、その病気を致死的退屈症と述べています。
効率と生産性は退屈であり、時間を、自分という存在を損なってしまう。
そう考えると、AIの影響力が拡大している現代は、本作が警鐘を鳴らしている社会へ確実に近づいている気がします。
AIの全てが悪いというわけではなく、例えばある種のパートナーや遊び相手として捉える様な付き合い方などは、一つの新しい可能性だと思いますし、私はAIが個別的性格と人体的な有機的ボディを獲得した時に、一つの人種、AI人種が現れるのかもと最近は考えています←本作の考察と何も関係ない話題で草
ただし、全ての調べものをAIで済ませる、絵や文章を書くのを全てAIに任せるという使用の仕方は、自身の遊びをすり減らす虚無への道だと思います。
もしそれらの傾向が延長され、映画や本の内容をAIがショート動画にまとめたものばかりが見られるような社会が現れた場合。それはAIに思考そのものを委ねている機械化に他なりません。
個人的に自身もせっかちな人間なのでタイパ的思考は分かるのですが、単純に履修作品の知識を増やしたい、というだけの欲望は、人間の百科事典化・機械化に根差すもので、網羅的知識でAIにかなうはずもなく、人間でなくAIでいい、という事になるのです。
現代の、過度な効率と生産性を尊ぶ社会方式を疑ってかかり、そこから心的な距離を置く事。
その上で遊びや笑い、不合理に価値を見出すことこそが、時間を生み出す手法なのだ。という事が、本作を読み、私が得た思想と力です。
灰色の男たちに、ケムリに呑み込まれないように、これからも遊んで、笑って生きていきましょうぜ♪

