<考察>「かがみの孤城」 全ての学校に行けない子に差し伸べられる物語という手

考察

「かがみの孤城」は、日本の作家・辻村深月さんの長編小説です。

2018年には本屋大賞を受賞し、2022年には劇場アニメが公開されました。

同級生から受けた仕打ちにより、不登校が続いている主人公のこころが、ある日、自宅の光っている鏡を通ると、そこには城があり、さらに、そこにはそれぞれ心の傷を抱えた中学生の子たちがいて、その子たちと一緒に過ごしながら、何でも願いが一つだけ叶うという部屋に入るための「願いの鍵」を探していく・・・というあらすじの本作。

私は辻村深月さんという作家がとても好きで、ほとんどの作品を読破しているのですが、本作は、そんななかでも、「学校」や「学校に行けない子」という問題を正面から取り上げ、そして深いレベルの救いまで達している集大成のような作品だと思います。

私は恥ずかしながら読み終わった時にカフェで号泣していました。

そんな本作を自分なりに考察していこうと思います。

以下、物語のネタバレを含むので、それが嫌な人はここでストップしてください。

各々が抱える問題

本作の主人公であるこころ、そして共に孤城で過ごすリオン、フウカ、スバル、マサムネ、ウレシノ、アキの7人には、各々が抱えている問題があります。

こころは同級生の真田グループからの仕打ちにより学校に行けなくなり、リオンは学校には行けているものの、姉の死によるショックから母との仲が上手くいかなくなっており、ハワイの学校に通っています。

フウカは、シングルマザーの母の期待と重圧から、ピアノ一辺倒の生活になり、学校生活や普通の生活に憧れながらも、それが出来なくなっています。

スバルは、祖母や祖父に兄と共に育てられながらも、家族のぬくもりというものが無いような環境で、無関心で冷めた日常を過ごしており、マサムネは父親の価値観もあり、自分を大きく見せようという虚言癖のせいで同級生からの信用を失い、学校に行けなくなっています。

ウレシノは、両親に愛されて育ちつつも、少し度の過ぎたピュアさとプライドから、学校へ行けなくなっています。

アキについては、本作の核心部に絡んでくるので、後述しますが、とにもかくにも、本作には十人十色の事情を抱えた中学生たちの心の問題についてを取り上げた作品です。

どの子にもそれぞれの悩みや、問題があり、どれ一つとして同じものはありません。

このあらゆる事情を抱えた子を沢山描くところに、作家のなるべく多くの子に届くような作品にしたいという気持ちがあるように感じ、それがこの物語を貫く優しさに還元されているような気がします。

場としての「孤城」

わけもわからず孤城に集められた7人ですから、最初はギクシャクすることも多いです。

好きなゲームジャンルへの無理解ゆえのすれ違いや、言葉の言い方による傷つけあい、ウレシノが全ての女の子を好きになっていく過程と、そのイザコザなど、人間関係の摩擦が孤城にも起きます。

しかし、ここに集められた子たちは、社会や他人に傷つけられたという共通点があり、そして傷ついた経験がある人は、人に対し優しくなれるものです。

だからこそ、包帯を巻いて落ち込んでいるウレシノに事情を聞かず受け入れる、というような包容力の連帯みたいなものがあります。

そんなメンバーが集まる、孤城で過ごすことにより、7人はそれぞれが問題に向き合い成長していくわけで、孤城は学校に行けなくなった7人のリビングのような場でもあったとも言えます。

また「かがみの孤城」の鏡について考えると、鏡には当たり前ですが自分の姿が映ります。

そしてその鏡の中には、自分と似た環境を持つ子たちがいる。言うなれば自分を映したような存在がいるわけです。

そしてその鏡の中に入るということは、自分自身を含めた7人の子たちの心の中や裏側に入っていくこと、想像して寄り添うことを象徴しているのかもしれません。

主人公の名前が、心=こころであることから考えても「かがみの孤城」という作品は、苦しんでいる子たちに寄り添いたいという、優しさという想像力について描くことを主とした作品だと思うのです。

成長していく母

本作の主人公であるこころの母親は、良いお母さんですが、それでも完璧ではありません。

フリースクールや学校に行けないことを理解しようとしつつも、イライラしてしまうこともあるし、その態度や表情が、繊細になっているこころの気持ちを傷つけたこともありました。

しかし、当り前ですが母親だって完璧な人間ではありません。

そもそも完璧な人間なんてどこにもいないし、特に日本では「母親」に対する期待や理想が高すぎて、それ自体が女性のプレッシャーになっているとも思います。

本作におけるこころの母は、色んな事を自分で考えながら、こころに寄り添っていく意志と力がありました。

そして自分の娘に対し、自分の気持ちや思い、ダメな部分をしっかり言葉で伝えることが出来る。

それだけでも、母親として充分素晴らしいと思うのです。

だからこそ、母もまたこころと共に悩み成長していきます。

そしてその資質は、しっかりこころにも受け継がれており、だからこそアキに手を差し伸べることが出来たのだと思うのです。

無神経という悪

本作は、真田美織以外には、エピソードを持つ分かりやすい目立った悪役というのがあまり出てきません。

もちろん真田さんに腹が立つ読者も多いと思いますが、彼女もまた何かを抱えている一人でもあるわけです。(詳しくは後述)

その意味で個人的にもっとも性質が悪いと感じたのが、こころの担任の伊田先生です。

伊田先生は、社会の常識に照らせば悪い先生ではありません。

しかし、この人は今の日本に溢れている何も考えていない見せかけだけの善良さの表れだと思うのです。

確かに伊田の言う「真田にも真田の」(おそらくその後<事情がある>と言ったものと思われる)というセリフは偶然にも一面の真理を突いています。

しかし、今、真田のことで苦しんでいるこころや、こころの母に言う言葉ではありません。

しかも「明るくて、責任感の強い子」だとも、母親の前でのたまっています。

人間には、そのタイミングや時により、絶対に言ってはいけない言葉があるのです。

なぜ伊田からこういう言葉が出てくるかというと、伊田自体が誰かから与えられた「社会通念上の良い教師をやること」しか考えておらず、生徒自信と向き合うという気持ちが、根本のところで真剣ではないからです。

そして本人自身はもしかしたら自分は一生懸命やっていると思っているかもしれません。

つまり伊田の問題とは、想像力の欠如による無神経だと思います。

そしてこういう人は、現代日本において官僚組織や民間など、色んな所に沢山いるのだと思うのです。

日本人の見せかけだけの形式主義的な精神が、今もどこかで繊細な子供たちを傷つけているかもしれません。

萌という新しい価値観

物語後半で、真田達に対し自分なりの戦い方をしていたのだということが分かる、東条萌。

彼女は、孤城以外の場、つまり現実におけるこころの友達として重要な役割を果たします。

「七ひきの子やぎ」についてのヒントをくれることももちろんですが、こころに現実に対処するための新しい価値観や考え方を教えてくれるのが萌です。

くだらないことで仲間外れにしたり、嫌がらせをする真田たちのことを、ロクな人生を歩まないと言い捨てたり、バカにしてたのは本当だと言ったり、スマートで良い子なこころに、気持ちの抜き方や発散方法を教えてくれます。

その萌の言葉で重要なのが「たかが学校」というワードです。

萌は、人生において重きを置いているのは別の物や精神にあり、学校というものに重きを置いていないのです。

あの年齢における学校というものは、これから続いていく社会の全ての象徴のように思いがちですが全然そんなことはありません。

言うなれば萌は学校に行っているというより、学校を適当にこなしているという感じが強いです。

この価値観が、こころの精神に新しい刺激をもたらし、裾野を広げてくれたのは確実だと思います。

本小説は、孤城内の人間関係だけではなく、外にも想像力があり、魅力的な価値観を持っている人もいるというところまで読者に示してくれているのです。

真田というもう一つの問題

本作の主人公であるこころが、学校に行けなくなる原因が真田美織です。

その意味で読んでいるうちは、非常に彼女に対する苛立ちみたいなものがありましたが、読了後に考えてみるに、真田は本作において非常に重要な人物なのではと思い直しました。

まず真田さんのパーソナリティーに注目したときに、彼女がバレー部であることが象徴的です。

なぜなら本作のもう一人の主人公ともいえるアキもバレー部だからです。

そしてアキもまた、自身が限界に近い境遇で苦しんでいたとはいえ、バレー部の動けない後輩たちに辛く当たっていた経験がありました。

真田に関していえば、こころとのシーン以外、ほとんどどういう人間かは描かれないわけで、背後の事情は分からないわけですが、もしかしたらアキと同じような家庭の事情を抱えている可能性もあるわけです。

その意味で本作におけるアキと真田は、似たような問題を抱えるコインの裏表のような関係なのだと思うのです。

アキの未来である喜多嶋先生がこころに

「真田さんは真田さんで、思いも、苦しさもあるんだと思うが、それは真田さんと周りが解決するべきで、こころが何かをしなくてはいけないことは絶対ない」(自分なりに要約しました)

というセリフがありますが、これはこころの気持ちに寄り添い、軽くしてくれるというメインの意味以外に、自分と似た境遇の真田への視点という意味もあるのだと思います。

その意味でいえば、ルールを破ったアキに対してこころが手を差し伸べたシーンは、加害者側にいた人と被害者側にいた人も、出会うタイミングや場所が違ったりすれば、寄り添える可能性もあるという意味も込められているのかなとも思うのです。

本作は、学校に行けない子だけでなく、行けていても心に何かを抱えている人の視点も作品に取り入れていて、そこもまた本作の懐の深さだと思います。

オオカミさまのルールと精神

本作の舞台である「孤城」におけるゲームの場を用意したオオカミさま。

その正体は病気により学校に行くことが叶わなかったリオンの姉、ミオでした。

そしてリオンが姉と一緒に学校に行きたかった・遊びたかったという思いと、姉であるミオの思いに「何者か」が呼応して、鏡の中の孤城と、その中でのゲームを用意したわけです。

「7ひきの子やぎ」という童話になぞらえて「願いの鍵」を探させるという遊びを取り入れたゲーム。そして夕方5時を超えて城にいるとその子はオオカミさまに食べられてしまうというペナルティがある。

そして実際に物語の終盤では、こころ以外のほとんどが食べられる経験をしており、その経験が恐ろしかったことが描かれます。

なぜミオは、自らをオオカミにし、ルール違反をした人を食べる設定にしたのか。

思うにミオは、幼稚園の時に出来なかった「7ひきの子やぎ」の劇から当てはめ、スリルを含んだ遊びの場を設定したかったのだと思いますが、それと同時に、自分が抱える死の恐怖を共有したかったというのがあるように思います。

ミオがなぜ姿を弟に見せなかったかは、何か出来ない理由があるのあかもしれないし、そこのところは分かりません(そして物語の本質において重要ではない)

ただオオカミを選び、食べるという行為もゲームに入れた。

ここには漠然とした死の恐怖が現れているように思います。

そして食べるという行為には、普通に生きている子の命に対する欲、羨ましい願望というのも含まれているのかもしれません。

普通に生きている子と一緒に遊びつつも、自分が持つ死の恐怖も共有してもらいたい。

そんな気持ちもまた、弟と遊びたい、自分と同じ悩みがある子たちを救いたいという思いと同時にあったのではとも思います。

とはいえミオのキャラクターからいって、オオカミさまが皆を食べたシーンにおいて、こころが何とかしなくても、ミオ自身が願いの力を使い、最終的にはアキを含めたみんなを助けていたとは思います。

しかし、こればかりはこの物語を用意した、本当の物語の神である辻村深月さんにしか分からないところでしょう。

支え合い・救い合う

本作でアキを助けた後に、各々が語るシーンもまた胸が熱くなります。

なぜなら孤城のメンバーが、それぞれの欠けた心の部分を、お互いが支え合い・救い合う様子が丁寧に描かれるからです。

やりたいことも熱もなかったスバルは、友人のマサムネに救われ、そのマサムネの為に「ゲームを作る人になる」という目標を持ちます。

そしてそのゲームこそが、今までのマサムネとこれからのマサムネを救うことになります。

普通の生活から遠いとこにいるという空虚さを抱えていたフウカは、好意を全力でピュアに伝えるウレシノに救われ、ウレシノは自分を受け入れてくれたメンバーに救われています。

本作における物語の比重を、こころとアキが一番占めているのは事実ですが、本作は7人のメンバー全員を丁寧に描写して、その救いも書いており、十人十色救いの可能性を示しているわけで、実に視点の裾野が広い優しい作品なのです。

差し伸べられる手とぬくもり

こころの話を聞き、ずっと助けてくれていた喜多嶋先生は、未来のアキの姿でした。

その意味でこころはアキに助けられていたわけですが、そのアキに最初に手を差し伸べたのはこころでした。

そもそも孤城メンバーの中でもアキが抱えている問題は相当に深刻でした。

義理の父の性的虐待で家に居場所がなく、学校にも居場所はない。

そんな中でアキは限界に近付いており、そしてとうとうそれが臨界点に達し、孤城のルールを破り、オオカミさまに呑み込まれてしまいます。

そしてそれを助けるのが、こころを中心とする仲間たちでした。

本作の主人公のこころは、色んな物事を色んな視点から考えることが出来る優しい子です。

孤城メンバーに自分が抱えている問題を、信頼して最初に話したのもこころでした。

そしてそんなこころが、孤城において色んな背景を持つ仲間と話し、また現実において萌や喜多嶋先生の力を借りることにより、自分の頭で考え、孤城の真実に辿り着き、皆が助け合えるという結論の元、アキを助けるのが本作のメインストーリーの軸なわけです。

そしてその助けられたアキが、今度は苦しんでいる仲間たちを「今度は私の番だ」と喜多嶋晶子として助けていく・・・

つまり本作は、手を差し伸べた人は、手を差し出し返されるという、優しい救いの輪廻の物語なのです。

こころが皆と別れる前に、「届け、届け」と願い、アキの手を握りしめたこと。

そのぬくもりの魂の部分での慈しみや優しさは、確実にアキに伝わりました。

このような誰かのぬくもりを感じられる経験があるだけで、人は生きる意味や意志を見出せるのだと思いますが、それをこうも胸を打つように描く本作は、本当にすごいとしかいいようがありません(このシーンは何度読んでも泣いてしまいます)

また本作の孤城メンバーは七年ごとにずらした時代から選ばれているわけで、そこには作者の、未来に素敵な友人がいるという希望、また生きていれば新しい友人が生まれてくるという様な、未来への希望が込められているようにも思うのです。

あまりの辛さから命を絶ってしまう若い人が多い現代において、本作の優しい未来への希望を示して、生きる光を照らしてくれているような描写は、本当に心を打ちますし、実際に色んな人を救っていると思うのです。

最後に

そんなわけで本作の考察を書いてきましたが、私が今まで読んで来た、いわゆる学校や不登校の問題を扱った本の中で本作は、間違いなくナンバーワンな作品だと思います。

十人居れば、十人各々が抱える様々な悩みや問題に、出来うる限りスポットを当てている本作。

そしてさらにすごいのが、子供たちと向き合う仕事を始めた喜多嶋晶子がミオと出会った時に感じた思いです。

以下、自分なりに省略しつつその部分を書きます。

「学校に通えない、溶け込めない、うまくやれない、はみ出してしまう子の気持ちがわかる、と晶子はこれまで思ってきた。(前の部分省略)どこかでそう思ってきたけど、それは違うのだ。晶子が中学時代に抱えていた事情と、今日の前にいる子たちの抱える事情はそれぞれ違う。一人として同じことはない」

私はこの部分は晶子の思いであると同時に、作者の思いでもあると思います。

本作は色んな子に届くように作ってはいても、それが全て届くとは限らないし、気持ちが分かった気になるのは違う。常に分からないという思いを抱えているからこそ、人は人の事を考え理解しようと思い、それこそが大切である・・・

そのような戒めみたいな思いが作者の辻村さんの胸の内にはあるのだと思うのです。

しかし各々が事情が違い、その各々の人に寄り添うことが大事という哲学が貫かれている本作だからこそ、多少事情は違くても、どこかしら自分の心を救ってくれるように思える部分が沢山あり、結果的に読み終わった後に多くの人に希望をくれるのが本作だと思うのです。

そしてそんな物語こそが、押しつけではない、本当の希望の手だと思います。

つまり本作「かがみの孤城」とは作者の辻村深月さんが、学校に行けない子供たちに差し伸べた物語という手なのだと思うのです。

その意味でミオに孤城を用意した「何者か」は、物語の神としての辻村さんがリンクしている存在かもしれません。

人生に優しい希望の光を灯してくれる本作に感謝をして、本考察を終えます。

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