ある時の友人との会話。
友「お前、俺の事好き嫌いが多いってバカにしてるよな」
私「魚介類とか納豆食べれない時点で人生の5割は損してると思う」
友「お前みたいに何でも食べれるやつの方が、食べ物を冒涜してるんだよ!」
さて、この時は、あくまで負け犬の遠吠えのごとし、余裕の笑みで友人をあしらったわけですが、先日急に友人のセリフの最後の部分がリフレインしてきました。
「何でも食べれるやつの方が食べ物を冒涜してる」「冒涜してる」「冒涜してる」「冒涜してる」・・・
うーん・・・
もしかたらそうなのでは
そもそも、世の中には食べ物以外にも色んな物があり、その関係性は多種多様・複雑怪奇。
その中で、何かを選び、切り捨て、人々は生きているわけです。
なのに、全ての食べ物をうわばみのように食べるということは、冒涜なのではないか。
そんなことを思ったわけです。
一般的に言えば、好き嫌いが無い方が栄養バランス的にもいいですし、その理屈は分かります。
しかし今、人間社会は助け合いのムーブに来ています。
お金の計算が得意な人は銀行マンになればいいし、野菜や土の特性をつかめる人は農家をやればいい、ゲームが好きな人はゲームデザイナーになればいい。
それぞれが得意なこと・苦手なことがあり、足りない部分を助けあってるわけです。
そんな時に
「僕は、お金の運用をパソコンでしながら、片手で畑を耕し、脳内ではゲームをデザインし、その脳波は自然にパソコンに繋がっており、さらには僕自身が量子的にあらゆるところに存在しているので全ての仕事は僕が関与しており、我こそアルファにしてオメガである」
みたいなヤツがいたら、友達になんてなりたくないし、存在自体が冒涜な気がします。
そう考えると、好き嫌いなく何でも食べる存在である私は、もしかしたら冒涜的存在なのかもしれません。
冒頭の魚介類が食べれない友人にしても
A「僕は魚介類は食べてないけど、お肉は食べれる」
B「僕は肉は食べれないけど、きのことかは食べれる」
C「私は野菜とお菓子しか食べない」
の様な感じで棲み分けが出来るなら、Aは牧畜を行い、Bは山に入り芝刈りとキノコ狩り、Cは家で家庭菜園しながらかぼちゃクッキーを作るわけで、良い感じで資源のバランスが取れる気がします。
この話とあまり関係ないですが、私は最近、もしかして「おかゆ」って最強なのではという考えに憑りつかれています。
勘違いしないで欲しいのは、私は別に「おかゆ」の事が好きではありません。
むしろ味が付いてない白米を、おかずがないと食べれない体質の私としては、どろどろとした無味に近いアイツに対しては、憎しみに近い感情を抱え生きていきました。
しかしです。この前ドロドロで真っ黒なにぼしラーメンのスープを飲んでいる時に思ったのです。
「あっ、このままずっとこれ飲み続けたら死ぬな」
人間というのは頭で分かったつもりでいても、実は本質的なことは理解していないものです。
しかしこういうフィジカルで経験的な気付きに直面すると、一気に理解の解像度が深まります。
私は帰り道、「毎日飲み続けたら死ぬだろうモノ」を色々、考えてみることにしました。
そしたら何と言う事でしょう。
もうほとんどのものが毎日食べたら死ぬに違いないのです。
カレーなんて毎日食べてたら、まちがいなく黄ばんでくるし、死ぬでしょうし。
生姜焼き定食なんてのも、血がジンガージンガーし、死にます。
コーンポタージュなんて、すぐに臓器がポタージュされ死ぬでしょうし。
お寿司ですら、魚の脂が脳内のシナプスに絡みつき、そこを醤油でシナプスごと破壊し、死ぬ気がします。(上記全て科学的知見は皆無です)
そうなのです。
どう考えても味がついた美味しいモノは、毎日食べ続けたら死んでしまうのです。
これは味の濃い美味しいモノが好きな私には由々しき事態です。
そしていくら考えても、この考えを覆す妙案は出てこず結果。
「お湯のような味もしない、流れるようなおかゆこそ最強」
という味気ない悲しい真理に到達してしまったのです。
さて、それを踏まえて前半の話題とミックスし結論をすると。
「食べ物の好き嫌いが激しく、むしろおかゆしか食べないやつ」
が最強という結論が出てしまいます。
しかしそう簡単にいかないのが人生です。
おかゆしか食べない場合、明らかに栄養素が足りなくなってしまいます。
そうなると「好き嫌いがなく何でも食べれるやつ」に光が当たってきそうですが、重要なのはコイツは冒涜的存在だということです。
つまり我々には栄養失調か、冒涜しか道はないということなのでしょうか。
おお、神よ哀れな我らを救いタマエ。
追記:疲れた脳で思いついたまま書いたらこんなことになっちゃったんだねえ