<弟>
姉が化学室に入り、しばらく経つ。もう大丈夫だろうか?
僕はおそるおそる、後ろのドアに回り込み、その窓から中をのぞく。
うおう、近い!
姉はそのドアから真っ直ぐ視界に入る、奥の方のテーブルにいた。深緑のテーブルの上には、フラスコやビーカーが並べられている。
姉がリュックから何かを取り出す。
袋みたいだ。目を細めると、ちらりとパッケージが見える。
あの野郎!
思わず憤慨の感情が声になって出そうになるのを、必死で抑える。
なぜならそれは僕が自分用に買っておいた、「えびスティック」と「ポールポテト」だったからだ。
あの哀れなおやつ達が、どう考えても人間のお腹へ旅することが出来ないのは目に見えている。
そもそも普通に姉が食べるのも許せないが、これから彼らは普通でないことを、その肉体にされるわけだ。彼らの気持ちを思うと慙愧に耐えない。
姉は、そんな僕の感傷をお構いなしに、ふんっと雑に袋を開け、そしてばさっと手づかみし、ぐしゃぐしゃにお菓子を砕いた。
この光景は僕の精神に改めて疑問を提示した。
僕はここまで一応姉を心配して付いてきたわけだが、果たしてあの人に僕が心配する価値があるのだろうか?
どっちかというと心配なのは、あの人が手を加えようとしている物質、もとい世の中の方なのでは?
姉はその間にも淡々とお菓子たちをビーカーに詰める。
フラスコもビーカーも透明な部分は無くなり、逆説的にビーカーのくっきりした輪郭が世の中にあぶりだされている。
姉は視線を少し落として、その哀れな遺灰を眺めたあと、それらを回収し化学室を後にした。
しばらくしてから姉が消えた化学室に入る僕。
悲しいのは深緑のテーブルの上の惨状である。
無造作に口をねじ開けられ、中身をえぐり取られた残骸たちが、それぞれ違う方向を眺めたまま放置され、残虐な儀式の余韻を残していた。
思い返してみると、確かに姉が家でお菓子を食べた後、片付けをした記憶などまるでない。しかしここは家ではない、れっきとした、純然たる化学室なのだ、後片付けをしなさい愚か者!
そんなことを呟きながら、僕はその哀れな遺体たちを四つ折りにして回収する。
彼らはようやく元の持ち主の元に戻ってきたのだ。既に息絶えてはいたけども。
さておそらく次こそ、姉は教室に向かったのではなかろうか。
すぐに追わないと、事態はさらに哀れな惨状へ向かうことは確実だ。
僕はだんだん疲労の蓄積で重くなってきた体を引きずり、化学室を出て階段の方へ向かう。
そして再び直観を研ぎ澄まし、その内なる感覚の道しるべを頼りに、目標を2階に定め階段を下りる。
すると、ががっと何かを引くような音を、耳がキャッチする。その音を頼りに、大急ぎでそちらへ向かう。
遠目で教室に入っていく姉を発見し、足音を立てないように教室前の廊下に辿り着く。
前方に視線を這わせると、教室の外壁に設置されているロッカーの一つが開けたままになっていた。間違いなく姉のロッカーであろう。
一瞬迷うものの、僕は中を覗くことにする。
ここで心ある人は、姉弟とはいえ、プライベートな空間を覗くことに抵抗感を示すかもしれないが、僕の行動は、道理から見れば問題なく肯定される。
なぜなら僕の使命の第一は、姉の犯行を未然に予防することにあるからだ。
そしてそれをするには、容疑者の普段の行動や思考原理を知る必要がある。
そして、この長方形の四角い箱は、姉のミニ生態系と言えるのは疑いようもない。
つまり、ここにおいて、僕はロッカーをチェックする義務があるのだ。
ゆっくりと、開いているロッカーの前まで歩みを進める。少し背伸びして中をのぞいてみる。
うーん、遠目から見た感じ、あまり何も入ってないのかしら。
もう少し近づくと、くっきりと中身が見えてきた。
まずロッカーの下の部分には、分度器があった。
しかしそれが圧巻だったのは、何十器が様々な方向を向けて、重なって立っていたからである。形だけで言うならそれは筒状のバウムクーヘンのようであった。
果たして姉は一体、何を測ろうとしているのか。
しかしこうしてみるとこのバウムクーヘンは、かなりのボリューム感だ。測られる方も恐れをなし、自ら測量のため肉体を差し出すのではないかとすら思う。
ロッカーは鉄網により面積の少ない下段と、広めの上段に分かれている。
下段と違い上段は良く見えないので、手を入れて触れた物を出してみることにした。
まず僕が取り出したのは、姉が集めていた様々なジャンルの漫画の表紙達だった。
ただしそれは単独では存在しておらず、海苔巻きのように幾重にも重なり丸められ、輪ゴムで止められている。
その巻物を開くと、中には眉毛が垂れ下がり、細目をした黒髪の男の、プラスチック製全裸人形が入っていた。
おそらくどんな博識な人でも、これがどういう類のものかを説明できる人はいないだろう。
これ以上ロッカーを見ることによる精神への影響を考慮し、全裸の彼を再び紙の布団に包んで戻したのちに、そっとロッカーの扉を閉める。
前言撤回。僕は深淵を覗くには、覚悟も力も足りないようだ。
ロッカーを閉めてしばらくすると、中の教室から音がする。どうやら姉が教室から出てくるようだ。
急いで後ろのドアに隠れる僕。姉はしっかりした足取りで、教室を出て階段の方へ向かっていった。
体を起こし姉をそのまま後を追おうとするが、自然と立ち止まる。
教室も一応見た方がいいかしら?
ロッカーの後遺症がまだ癒えてない状態で、無理を重ねるのは憚られるが、化学室での蛮行を思うに、見て見ぬフリをするわけにもいかない。
おそるおそるドアを引き、教室に入る。
漆黒の闇の中でカーテンが優雅になびいている。
うん見渡した限り、特に異常はなさそうだ。
そう思ったとき、巨大な文字がすっと視界に入る。
あと少しだ
待っていろ
・・・・・・
なるほど、今までの姉の奇行を眺め経験してきた僕でも、戦慄させられるメッセージだ。ということは何も知らず朝学校に来た生徒がこれを見た衝撃は、僕の非ではあるまい。
世の中には伝えなくていいメッセージもあるのだ。
僕はホワイトボード消しを手に持ち、文字の上をこする。
ん?
消えない・・・
いくらこすっても消えない。
あのやろう! 油性で書きやがった!
これは困ったことになった。このままだと明日のホームルームは、生徒たちの阿鼻叫喚が教室を支配してしまう。
どうしようかしら。
力を入れて何度こすっても文字は全くにじみもしない。
とすると残された道はただ一つしかない。
メッセージの改変だ。
しばらく腕を組み、付け足す文章を直観的にまとめる。そして逡巡せずに一気に書く。
夢まであと少しだ
アメリカよ待っていろ
うん、これならいい。
すがすがしい青年が、空港でスーツケースを持っている絵が浮かぶ、このメッセージなら将来の目標の話題から、進路調査へとホームルームの方向性を誘導できる可能性すらある。
ホワイトボードが正面に見える位置に移動し、字を見据える。
改めて見ても文字を書いた人が二人いるとは思えない。
非常に力強く、統一が取れている筆筋だ。若者のエネルギーを感じさせる。
さて、引き続き僕は、災厄の本体が撒き散らす混沌から学校を守るため、姉を追わねばならない。
僕は教室から出て、急ぎ足で足音がした方へ向かった。