<姉>
化学室の独特の匂いは夜も健在だ。
薬品と潔癖さとが良い塩梅で混ざったような匂いは、私の気持ちを落ち着かせてくれる。
さて、室内を見渡す。深緑の長方形のテーブルが左右に、縦に3つずつ並んでいる。
一番右の奥の方に教師用のテーブルとホワイトボード、そしてそれとは反対側の、教室の一番左端に実験用具を入れている棚があった。
映画とかであれば人体模型が動いたりする場面だけど、そんなことになったら興ざめだ。
そもそもこの学校で人体模型なんて見たことはないが、あっても控室の中で静かにじっとしておいて欲しい、私の行動はB級ホラーに属するものでは無いのだから。
深緑のテーブルが縦に並ぶ中央を颯爽と抜けて、実験用具の棚へと向かう。この棚に鍵がかかっていないのは授業の時に確認済みだ。
扉の中から、フラスコとビーカーを取り出し、一番近くのテーブルに置く。
そのテーブルにリュックを下ろし、私はその中からお目当てのものを取り出す。
「えびスティック」と「ポールポテト」
言わずと知れた有名なお菓子メーカーのスナック菓子である。
ふんっと力を入れる。袋の口がひし形に開く。二匹のまぬけな魚がビーカーの横に並ぶ。
そのぱっくり開いた口に手を入れて、お菓子を取り出し手で粉々に潰す。
そしてそれを丁寧にビーカーとフラスコに詰めていく。
これを同じリズムでテンポよく餅つきみたいに繰り返す。
しばらくしてビーカーとフラスコは、透明なところが全くなくなった。全ての容量を、肌色の粉に支配されたのである。まるで人間を作る材料が入ってるみたいで可愛い。
想像してみるにポテチやスティック達はおそらく、袋に入り出荷された時点で、自分は完成形だと思っていたに違いない。
しかし、完成など人生にはなく、常にその先があるのである。それを身をもって私が思い知らせてあげているわけだ。
しかし宴はまだまだ序の口である。というより君たちはその宴を構成する一部にしか過ぎない。
再びリュックを背負い、肌色のフラスコとビーカーをもって次の目的地へ向かう。
廊下から階段に戻り、2階へ。目指すのは私の教室だ。
階段から左へと向かい、しばらくすると見慣れた教室が見えてくる。
まずは教室の外に並ぶ個人用ロッカーへと向かう、左の端の一番上が私のロッカーだ。
その中に手を入れる、暗くてよく見えないが手触りで、お目当てのものを探す。
ごわごわする欠片が4つ指にあたったので、それをロッカーから掴みだす。
これは私が、プールサイドの脇に放置され、崩れかかっていたビート版を拝借し、さらにそれを4つに切り分けた物で、いつか使う日に備えて取っておいた品だ。
その4つの運命の欠片をリュックにしまう。
もうここには用はないので、立ち去ろうと背を向けるが、なぜだか自然と足が止まる。
体が命じるがまま、さっと方向転換をし、教室の中に入る。
取っ手に手をかけ、ゆっくり扉をずらす。
中に入ると教室のカーテンは閉まっておらず、窓から月が見える。
しかし、教室にはその光の恩恵はなく、しっとりとした闇に包まれていた。
闇と静寂の中で、それとは無関心に存在する椅子と机。こうやってみると不思議な空間だ。
さて、どうせ入ったのなら、それなりの証を残そう。
机と椅子たちの、澄ました横顔を泳ぐようにホワイトボードまで進む。
うやうやしく腕組みをし、白い板をあますことなく全て眺めた後、下の部分に付いた出っぱりに置いてあるペンを取る。
感覚的に言葉を思い浮かべ、そこから直観でチョイスした言葉を、逡巡せずに一気に書く。
文字が滑るように時空に現れる快感が、指先を支配する。
書き終えてすぐにペンにキャップをはめ、教室の中央に移動。ここからだと文字を含めてホワイトボードの全景が見える。
あと少しだ
待っていろ
うん、非常にいい。簡潔でかつ、非常に啓示的だ。
メッセージを残すことは、敵に塩を送り自分の首を絞めることになる気がしないでもない。
しかしメッセージを理解し、こちらを掣肘しようとしたところでもう手遅れだ。私は真理のしっぽをつかみかけている。