<歴史>鎌倉殿の13人 44話「審判の日」雑感

鎌倉殿の13人

先週の唐突の名古屋旅行の余波によりアップ出来なかった鎌倉殿の44話の雑感です。

いよいよ物語は鶴岡八幡宮の悲劇へと走り出します。

それではくわしく見ていきましょう。

44話のあらすじ

公暁は三浦義村に実朝を八幡宮で討つ旨を打ち明けます。

そして御家人の心を離れないようにしろとアドバイスをする三浦も、これを機に打倒北条に乗り気です。

そんな時、泰時が三浦の兵が多いこと、公暁のそばに三浦義村の息子がいることなどの不信な点を義時に報告。

半信半疑の義時は、泰時と一緒に三浦義村に直接問いただしにいきます。

否定する義村ですが、義村が本音を偽っているのを仕草で見抜いた義時は、ここで陰謀に気付きます。

義時は御所で実朝に、右大臣の拝賀式を取りやめるように要請しますが、実朝や実朝の横に控えている仲章は取り合いません。

それどころか実朝は義時に内密の話として、いずれ鎌倉を離れ京都に移るという計画を明かします。

武家の都としての鎌倉を捨てるという実朝の計画に衝撃を受ける義時。

義時は頼朝の死で、自分が目指していた鎌倉は終わっていたと肩を落とします。

しかし大江広元がそんな義時を励まし、仲章に死んでもらうことを提案。

義時はトウを仲章暗殺の為に差し向けます。

一方、泰時の強引とも言える「三浦勢に儀式の参加を控えて欲しい」という要請に、義村は陰謀が勘付かれたことを悟り、公暁に中止を伝えます。

そんな公暁の元には、不穏な空気に気付いた母のつつじが陰謀の中止を説きますが、恨みと悲しみに取りつかれた公暁の考えを覆すまでには至りません。

義時は、時房を呼び、武家の都を捨てるといった実朝を見捨てる旨を伝え、「これからは修羅の道だ」との覚悟を語ります。

一方で、義時や実朝から、公暁の陰謀の可能性を示唆された実朝は、ここにきて「何で公暁が自分をそこまで恨むのか」に疑問を持ち、三善康信から、先代頼家の暗殺の真実を知ります。

傷心の実朝は、政子を呼び、「なぜ公暁をないがしろに出来るのか」「恨んで当たり前だ」と思いのたけをぶつけ、そして「私は母の気持ちが分からない」といいその場を去ってしまいます。

その言葉に傷つく政子。

さらにそのまま実朝は公暁に直接会いに行き、許しを請うかのごとくの謝罪をします。

しかし、公暁の気持ちは痛いほど分かるが、血を流すのはよくないから正当な裁きに任せ、共に源氏の鎌倉を取り戻そうという実朝を公暁は信じませんでした。

一方で傷心の政子と、修羅の道を行くことを決めた義時が向かい合っています。

放心状態の政子に「私たちはいつだって正しかった」と語る義時。

そして儀式の日、義時の前に現れる仲章。

トウは暗殺に失敗してしまったのでした。

にやにやしながら太刀持ちを変わるように態度で示す仲章。

一方、泰時は公暁がいない別当に残されていたという書類を見ます。

するとそこには義時の位置に暗殺目標の印が付けられていました。

そう、公暁の狙いは実朝と義時だったのです・・・

ここまでが本話のあらすじです。

それでは以下から、本話の雑感を書いていきます。

嚙み合わない夫婦の会話

のえと仲章が一緒に出てきたことを問いただす義時ですが、このシーンはなかなかすごいものがあります。

「仲章は私を追い落とそうとしている。何か魂胆があって近付いたのが分からないのか」

「手も握っていません」

義時は、政治家として情報の流出を気にしているだけでそこに男女の何かを完全に排除しています。

そしてのえは、そのことがイマイチ分かっていない。

のえとの出会いのシーンでは、悪女に騙される馬鹿な男だった義時は、もうここにはいません。

ここには骨の髄まで政治家になった冷徹な男が立っています。

この冷徹さにはゾクゾクするような何かしらの魅力があります。

現在の義時は、もはや色恋沙汰に左右されるようなレベルにはいません。

そこには先週宣言した通りの政治の修羅がいます。

こういう人間の冷徹な側面をしっかり描くことが、本作の面白さを支えていると思います。

実朝さん、さすがにそれはあんまりです

私が本話において圧倒的にド肝を抜かれたセリフ及びシーンがあります。

それは実朝が、いずれ都を京都に移し、鎌倉を捨てると言ったシーンです。

ええっ、いくら何でもそれはないでしょう!!←私の心の声

これは義時の衝撃も頷けます。

しかも六波羅が良いと思うとか言ってる。

ええっ、それって平家じゃん・・・・・・

この時点で、本ドラマ内の鎌倉殿として、実朝は頼家を下回る最悪な鎌倉殿になってしまいました。

そもそもとして頼朝が作った鎌倉幕府というものを考えてみます。

京都の朝廷が各国の治安維持の軍隊を、平安初期には無くし、各国は自力救済の天下一武道会になりました。

そして藤原や院などは政治家でありながら、私有地の荘園で私腹を肥やし、何か困ったことがあったら具体的な行動を起こさず儀式をしたり祈るのみ、そして貴族は朝廷での権力闘争に明け暮れ、人々の生活など省みません。

そんななかで武装した農民たちが在地の領主として力を付けたり、貴族をボスとして迎え入れたりして四苦八苦して這い上がってきたのが武士であり、関東の武士の多くが土の匂いがするたたき上げでした。

そして京都の貴族ではなく、武士や農民層をまとめあげて関東に作ったのが鎌倉幕府で、関東の武士たちは頼朝という公平な裁判の調停者の元、先祖代々や手に入れた土地を秩序とルールの元に運用出来るようになったわけです。

また各国に守護という治安維持機能も鎌倉幕府は設定しました。←土地利権の獲得という側面ももちろんあります

上記の説明は大まかに述べたもので、もちろんこれ以外にも事情や様々な実態があります。

しかし大枠的には鎌倉幕府というのは、貴族ではない新興の武士勢力による軍事司法政権です。

他国の歴史を見ても、武士や騎士などの次世代の勢力が現れず、ひたすら宮廷で権力闘争をやっている国は、非常に厳しい歴史を辿っていますから、その意味でも頼朝は偉大なのです。

しかし、実朝はそれが分からずに京都に移ると言い出す。

そう思うとまだ頼家は、土地の配分センスはめちゃくちゃでしたが、理想の関東政権を目指していました。

ここにおいて実朝は頼家よりも悪い最悪な鎌倉殿になってしまいました。

さてもう少し詳しく見ていきます。

このシーンを本ドラマにおける心理の整合性として見る場合、そこはバランスが取れています。

実朝がこんなことになったのは、やはり和田合戦のトラウマが原因です。

和田合戦で、義時は侍所と政所の両方のトップに立ち、北条の権力は鎌倉で名実共に随一となりました。

しかし、一番絶好調な時こそ、そこに滅びの種も入っています。

今回の場合は、それは実朝の感情でした。

義時は、ここにきて鎌倉政権を京都や仲章のいいようにやられてしまっています。

京都に移るという実朝を見限った義時の行動はうなずけますが、それは自分が実朝の心を傷つけたことが原因でもあるのです。

その意味で、ドラマにおける心理の点では整合性が取れています。

しかしこと歴史ドラマのリアリティにおいては、首を傾げてしまいます。

そもそも実朝は、最近では政治をしっかり、というかかなり積極的に行っていた名将軍だったという評価の方が主流です。

北条に配慮するところはしつつ、譲れないところや政治の道理は守る。

そういうバランス感ある将軍だったのだと思います。

そんな実朝が、関東の御家人をコケにするようなプランを描くとはとうてい思えないし、ていうか実朝以外の無能な将軍でも、そんなことそもそも考えないのではと思います。

史実の実朝が朝廷から急激に官位を上昇させてもらうことにすら、当時の鎌倉では批判があったわけで、そんな鎌倉において京都へ移るというプランは、そもそも無理があるように思います。

いくら本ドラマの実朝が内密にとか先の事とか言ったって、関東の御家人が主体の政権において、そんな構想自体が無茶だなあとも思います。

その意味で、本作の登場人物の心情の整合性は取れていても、鎌倉時代としての整合性は取れていないなあというのが個人的な思いです。

そして本作の実朝が、もし鎌倉自体を巻き込んだ自殺を志しているとするなら似ているなあと思ったのが、機動戦士ガンダムのアムロ・レイです。

ホワイトベースの要であるガンダムに乗って勝手に家出してしまうアムロ、これはホワイトベースにしたら大ピンチで死活問題ですが、これももとはブライトさんがアムロの気持ちを考えずにした発言が原因でした。

ブライトさんが義時だと考えると構図としては似てるんじゃないかしら、そんなことを思いました。(書いていて蛇足だなあと思います笑)

ここにきて響いてきた頼朝問題

今にして思えば頼朝様が死んだ時に、私の望んだ鎌倉は終わったのだ・・・・・

そう肩を落とす義時の気持ちも分かるし、共感出来るセリフです。

しかしいよいよ終盤になって、本作における頼朝問題が響いてきた印象があります。

というのも本作の頼朝は、あまりに威厳が無かった。

前半を軽妙なノリで引っ張る目的ならそれはそれでいいんです。

それよりも問題なのが、頼朝自体の鎌倉への政治信念や思いが本作ではほとんど現わされてないことです。

「麒麟がくる」の明智光秀は、まだ見ぬ太平の世を考え求め続けていましたし、「葵 徳川三代」の家康は、国家の仕組みや理想についてなどを秀忠や正信に語っていました。

しかし思い返してみて、本作の頼朝が印象に残っているのは、暗殺と粛清とコント位です。

前半は鎌倉幕府が形作られるまでの様々な事件があったわけですが、思い返してみても本作の頼朝が語る、もしくは行動で、理想の鎌倉政治を表現した印象はありません。

だからこそ、ここで義時が頼朝を振り返ったとて、あまりピンとこない感じがしてしまうのです。

さて鎌倉時代の精神を泰時が完成させるのか、それとも鎌倉時代の陰謀と粛清の混乱を描き、そもそも大それた精神を語らないのか、色んなパターンがありますが、これに関しては最終話が終わるまで分かりません。

とにかく楽しみに待ちたいと思います。

広元の黒衣の宰相感が良いのと、切ない母の愛

あなたの前に立つ者は、必ず居なくなる・・・

そういって義時に仲章を暗殺するように提案する広元。

この黒衣の宰相感がたまりません。

こちらもまた老成されて、得体の知れない政治的老魁になってきました。

こういうワクワクする人物の描き方が本作はとても良いです。

そしてつつじと、公暁の会話では、我が子のことを理解し思いやる母の愛がこれでもかというほどに出ていました。

母の愛は尊いなあ。

しかし、それでも止まれない公暁。男子とは難儀な生き物です。

自分だったら母親にここまで言われたら、やめちゃうけど←誰も聞いてない笑

でも公暁は、そんな母の無念に対しての深い悲しみも抱えているわけですから、そう単純なものではありません、憎しみと悲しみとプライドの糸が深いところで絡まっている公暁の姿は、本作の暗殺前の頼家を思い起こさせます。

政子と実朝の会話

頼家暗殺の真実を知った実朝が政子に問いただすわけですが、そもそもやはり実朝がここまで知らなかったことは無理があるように思います。

史実の実朝はバランス感溢れる将軍に見えますし、鎌倉政治において自分が北条の玉であることや、その背景を知らないで政治をやることにリアリティがあるとは思えませんし、噂でも耳に入ってくるでしょう。

それも鶴岡八幡宮で暗殺される前に分かるという、なんだか暗殺されることを前提で組まれているスケジュールのような感じ。

もちろんドラマを劇的にし、面白くするためというのは分かりますが、やはりここの出来レース感は引っかかります。

実朝の感情の吐露は素晴らしいし気持ちはのっかりますが、政子を攻める論理も将軍としては幼稚にも見える。

というのも私が、頼家の息子の公暁が何とか生き残ることが出来たのは、政子の計らいがあったからという鎌倉時代の認識があるからです。

頼朝は敵対した者の男子は必ず殺していました。自分がまさに生き残った復讐者だったからこそ、男という生き物の業が分かっていたのでしょう。

しかし政子の計らいで公暁は生き残った、これが私の理解です。

ただ本作は義時ですら公暁が後継の資格があるように話しており、そういう感じには描かれていないので、実朝のセリフに整合性はあるんですが個人的な違和感が先立ち実朝の論理には乗れませんでした。

そして政子が言った。

「北条が生き残るには仕方がなかった」

このセリフもまた個人的衝撃を受けました。

というのも本作の政子は、母の愛やチャーミングな部分が全面に描かれていて、そして彼女の行動基準は常に自分の家や利益の為ではなく、公平や理想を基にしているように描かれていたからです。

その点、「草燃える」の岩下志麻さんの政子は、母の愛もありながら、北条という家についても思いを馳せており、正邪入り組んだ政子になっていました。

だから上記のセリフは「草燃える」や他作品の政子が言うのであれば特に違和感はないのですが、本作品の政子は絶対に言わないだろうなあと思うのです。

本作の政子なら言うとしても「鎌倉を守るためには仕方なかった」と言うのではないかと思います。

とっさの失言という意図でもって書いたセリフなのかもしれませんが、個人的にはこのセリフは本作の政子と乖離しているなあと思います。

公暁との会話から見える、全部言っちゃう問題

本作においていてもたっても居られなくなった実朝は直接、公暁に会いに行きます。

正直、ここでもけっこう衝撃を受けました。

ええっ、直接会いにいくの!!

そして実朝は、許しを請うように謝り、公暁は「あなたに私の気持ちが分かるはずがない」と返すわけです。

そしてここで政子と公暁の対話シーンが続いたことにより、気付いてしまいました。

本作は思ってること全部言っちゃうなあ・・・

個人的に雪の鶴岡八幡宮の悲劇は、公暁が個人で抱え続けた怨念・悲しみ・孤独、そして実朝が抱えた悲しみや孤独が交差して静かな美しさと悲しみの昇華の場として、非常に文学的にとらえていたので、ここで思いのたけをぶちまけてしまうのはその深さや厳かさを失うなあと非常に残念に思ってしまいました。

そして義時や広元などは別としても、本作では大事な場面で思ったことを全て言ってしまう傾向にあるなあとも思います。

もちろん表情や仕草や絵で表してる部分も沢山あるので、世間で溢れてる「本当に全てをただ喋るだけ」という残念な作品たちとは一線は画しています。

とはいえ本作は描き方が非常に演劇的でもあるので、セリフが語り過ぎる傾向があるよなあとも思います。

義時が断定した

政子と向き合う義時が言った「私たちはいつだって正しかった」という言葉。

個人的に「正しくあろうとしてきた」ではなく断定だったところがポイントでした。

迷う政子や、修羅への覚悟を決めた自分を鼓舞するためとも思えますが、この断定こそがダークヒーローからヒーローという文字が取れる契機かも知れません。

理想の為に、手を汚してでも迷いながら邁進する。

これが私のダークヒーロー像です。

しかし自分のしたこと、やることは常に正しいと断定して行動する場合、そこには反省や思考が抜け落ちます。

そうするとどこかで必ず間違えることが出てきて、誰かの不幸や、己や組織の破綻や破滅へと向かいます。

本作の義時は現時点では、最良の選択肢として神から選ばれているかもしれませんが、いよいよ暗黒の世界に入っていってしまったかもしれません。

自分の義時像とはかなり離れてきましたが、とにかく面白いから良いですし、すごいです。

とはいえ大河で主役をここまで劇的に描くことに賛意を送りつつ、最終的に本作の義時を好きでいられるか、そして本作がどういう作品になるかは、本当に最終話が終わるまでは分からないと感じました。

最後に

本作の体感時間は本当に短く、駆け抜ける様な面白さがあります。

しかし、一方で見ていて何かもやもやするところもかなりある。

本作はいよいよ、語るのが難しいドラマになってきました。

私は本や映画を見る時に、極端な話ずっと退屈でも、最後の1シーンがそれを覆すような出来だった場合、評価が一気に引っ繰り返るということもあるタイプです。

またその逆もあります。

一つの言葉が作品を輝かせたり、劇的なことが起こらなくてもその雰囲気全体が魅力だったり、と作品には色んなパターンがあり、だからこそ最高でもあります。

なので本作品についても最終話が終わるまで、どうなるかはまだ分からないということです。

とはいえ一つ言えるのは、本作品によって世間が鎌倉時代に興味を持ってくれたことです。

それも本作品が皆の話題になるような力があるからです。

そんなこんなで制作者の方々に感謝をしつつも、これからも自分が感じたことを書いていきたいと思います。

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