<書評>「夜の果てへの旅」 厭世的で絶望的、されど旅ではある

書評

「夜の果てへの旅」は、フランスの作家セリーヌさんが書いた最初の長編小説です。

そのあまりに厭世的な内容から東京大学出版会から出ている「教養のためのブックガイド」では、若い人に読んではいけない書として紹介されている本作。また彼の反ユダヤ的な主張や攻撃性から、著作の一部が長い間、発禁になっていたという様な、ある種のタブーの作家とも言われるセリーヌ。

さて、そんな本作を読了した感想ですが「なるほど」というもの。

確かに内容は厭世的で、次から次へと人間の嫌な面を露悪的に洪水のように見せてはきます。しかし私自身が本小説を楽しめなかったかというと全然そんなことはありません。

確かにうんざりさせられはするけど、しっかり面白い小説。というよりしっかりと「旅」であり、ある種の「紀行文」であった。そんな感じです。

本作はセリーヌさんの実人生を下敷きにしているにせよ、とにかく物語が動くし、展開が読めません。これはリアルな紀行文ではありえない、創作物という凝固とした中心点を持つ形式だから成しえた物です。

ゆえに本作は、うんざりしつつも楽しいというアンビバレンツな感覚を私に想起させました。

以下の書評部から、本作の内容、いわゆる厭世的かつペシミズムに満ちた本質部とその対処に分け入っていこうと思います。ネタバレが嫌な人はあらすじまででストップしてください。

▼あらすじ

フランスの医学生・バルダミュは、軍のパレードについていった事から、あれよという間に志願兵になり第一次大戦に従軍してしまう。

実際の戦争を体験し、その残酷さ、無意味さを突き付けられ絶望した彼は、戦争を抜け出した後も、アフリカの植民地に行ったり、アメリカに渡ったりと放浪の旅を続ける。

その後、フランスに戻った彼はそこの貧民街で医者として生計を立てて暮らすのだが、民衆の無知、醜さ、反射的な怒り、更に様々な人間の財産や愛を巡る争いに巻き込まれ、人生という虚無の中に沈殿していく。

私はかなり旅が好きです。

少し予定が空けば、どこか遠くに行く計画を立て、ぱっと夜行バスで出かける。ところがこの旅が自分でも奇妙で、別に観光地や、景勝地を見にいきたいという欲求に根差していません。

むしろ私は現地の都市部にいながら、そこで本を数冊買い、ひたすら読みふけるという自分でも、「それ別に旅先じゃなくて出来るがな!」というツッコミ満載な旅をしているのです。

さて、ではなんでこんな旅になるのかというと、私の旅というのは、ただ単に遠くに行きたい。つまるところ、自分の社会の狭さから、時間から逃れたい(肉体からもかも)というものに終始しているからなのだと思うのです。

私はかなり大阪が好きで、結構な頻度で通っているのですが、その理由は関東人である私を誰も知らない大都会で、ある種優雅な逃避の孤独を味わえるから、それが大きな理由です。

「いやいや、孤独なら観光地の山奥の旅館でこそより味わえるだろう」

そんな指摘はもっともですが、ここが矛盾した所で、完全に寂し過ぎるのは怖いし嫌なのです。笑

なんていうか、極限までいくと、元々抱えている虚無感がどんどん拡大して「もうこのまま消えてしまっていいかな」という、肉体的かつ精神的な知覚が襲ってくる気がして、それが根源的にとても怖い。

ゆえに喧噪が多い大都会という、どちらも取れる安全圏が確保された中で孤独を味わうという解が出てくる。

つまり時間から人から逃れたいのに、孤独からも逃れたいという二律背反。これが私の旅の性質なのだと思います。

さて、ようやくここから本作の内容に移りますが、作者の生きた時代と平和な私の時代では全然状況が違うとはいえ、この逃れたいという「旅」の希求感覚は、通底しているものだと思うのです。

私自身、恐怖心も強いけど、好奇心も強い人間です。ゆえに逃れたいという無意識の上には、好奇心というコーティングもあり、それは誤魔化しと本音が入り混じり、一つの形式をなしています。

本作は大きく区分けすると

①戦争→②病院でのローラとの関係→③植民地に行くまでのブランドン提督丸での四面楚歌からの脱出→④アフリカでの出来事→⑤アメリカでのフォード社や娼婦モリーとの交流→⑥フランスでの医者としての生活

のように分けられます。

さて上記のように本作は、かなり物語的にも物理的にも移動距離が多い小説です。そして重要なのは、全てがそうじゃないにせよ、主人公のフェルディナンは小康状態の安定を手にしていながら、それに満たされない物を感じ、楽観的な好奇心から違う場所への移動を決意することです。

つまるところ、本作の旅というのは、運命に従わされたものでなく、あくまで自分自身が選んだもの、そのように徹底的に描かれています。(最初の従軍も自身の性向がベースにある)

もう少し掘り下げて言うなら、旅というものをある種の生理現象や本能として描いていると言っていいかもしれません。

人間の行動は、快と不快の揺り子の中にいます。最初温泉に入って気持ちいいと思っていても、ずっと入っていれば嫌になる。ゆえに外に出てリラックスチェアで涼むと天国だと感じ、もうずっとここにいようと思う、しかし1時間もすると飽きてまた温泉に入りたくなる・・

これが人間の本能の性質で、上記の例は食欲と性欲にもそのまま当てはまります。

つまり人間というのは、常に欲望の飢餓感を抱え、それを梃子にした旅を強制されている生き物ともいえるわけです。

そんな本能を意志とバランスで制御出来る人が、上手く社会生活を営んでいくわけですが、欲望を制御出来ず、過剰な自由を夢見て、本能のまま流されていくと、移動する場所は目的地を失い、自分が本当は何を望んでいるか分からなくなり、ただただ自堕落に落ちていきます。そして何を隠そう、私自身がそんな人間の代表です。笑

ゆえにですが、本作の主人公のバルダミュ君の事を私は他人事とは思えませんでした。

私はたまたま平和な日本に生まれ、恵まれた状況にいるから、幾重もの歯止めがありますが、もし第一次大戦前のヨーロッパにいたら、好奇心のまま動き社会に嬲られ、全てに絶望していたことを容易に想像出来てしまいます。

さて、この自由や快楽を求め、ここではないどこかを求め逃避するという傾向は、実の所、私やフェルディナン君だけでなく、多くの人が持っているものだと思います。

その意味で、非常に厭世的だとはいえ、本作は普遍的な旅の性質を描ききっている作品だとも言えます。

なぜなら確かに本作は厭世的ではあるけども、決して内部に引きこもっている作品ではなく、他者との交流が多く、刺激が多いという性質を持っているからで、それはどういう交流かは脇に置いておけば、一般的には旅における良い、いわゆる薬としての効能です。

実の所、私は本作を読んでいて、あんまり厭世的な気持ちにはなりませんでした。それは旅で起こる事件や景色の動きが、ある意味でとても豊かに思えたからという事があります。

本作では本当にこちらが想像出来ない事が色々と起こります。アフリカに行く船に乗ったら、そこのほぼ全員からスケープゴートにされ、上手く演技をすることでその中心に取り入りその場を乗り切ったり、なぜかフォード社で働いてみて案の上くじけたり、老婆の爆殺の陰謀を聞いたり、それに友人が加担したりなどなど。

これらは当時の社会ではリアリティーがあったのかもしれませんが、現在の視点からすれば、かなり誇張された、ある意味でファンタジーの様な、波乱万丈の冒険物語そのもののように思えます。

ゆえにか、私は読んでいて、不謹慎かもしれませんが、ある種、異世界への探検ものとして楽しくよめてしまったのです。

これは本作が、メッセージ性以前に旅というものの本質的で普遍的な構造を取り出せているから起こったものなのかなとも思うのです。

とはいえその内容は確かに厭世的で絶望的に彩られているのも事実。

戦争の時に友情を育んだはずのロバンソンとの関係も裏切りと自己都合のなれ合いに満ちたものですし、病院で愛を育んだローラは愛国という、戦争帰りのフェルディナンが一番忌避したい概念を軸に自分を見ている、船ではその場の空気と状況という狭義の政治により危うく叩きのめされそうにされる。

しかしなんていうか、ここまで書かれると逆に笑えてくるというか、「絶望だ絶望だ絶望だ」と言われると、あまのじゃく的に、「そんなことだけでもないんじゃない?」と言う感覚が途中から浮かんでくる。人間は不思議です。

そもそも作者のセリーヌさんは素直なので、実の所、自分の感じた希望も作品にはしっかり入り込んでいます。娼婦のモリ―はしっかりバルダミュ君を愛していますし、ベベールという少年も悪性チフスで死んでいくとはいえ、純粋さの象徴だとも言えます。

本作の本質は確かに、人間性なるものの醜さ、無関心さ、冷酷さ、無思考さを暴き出す事にあるとは思います。

その絶望のアウトラインの大枠として、本作は、戦争に始まり、縁日の日に終わる。

それは人間の持つ、祭り化する快楽の放縦性、集団の激情化、そしてそれをエンタメにしてしまう力こそが、国家という幻想に過ぎない集団に利用され、密接に戦争に繋がっていくという示唆で、人間の精神の構造を浮き彫りにします。

またロバンソンが戦争から逃げて生き延びて、最後は愛する者、かつて愛した者の手によって殺されるという結末も示唆的で、男女間に横たわる欲望の差異、お互いの幻想こそ。つまり信じる幻想の差異による殲滅戦が戦争を生むという事を端的に現しています。

タクシーの中でのロバンソンとマドロンの会話は驚くほどに、同じ話題を共有しているはずなのに、全くかみ合っていません。ロバンソンが普遍的な話をしている中、マドロンはあくまで個人的、即物的な解釈に終始している。

そしてそのお互いの幻想、他者性は克服出来ずに、最後は銃弾として終焉を迎える。

この終わり方は、まさに夜の果ての「旅」の終焉として、ふさわしい絶望的な幕引きです。

ロバンソンを主人公のバルダミュのもう一つの精神的可能性として読み解くとしたなら、その片割れがある種、全てに嫌気がさすという哲学を貫徹し退場した後、フェルディナンはもう何も語ることはないと言いながら、だらだらと失われた余生を生きる事を示唆したまま物語に幕を閉じる。

彼は体系的な思考という半身、かろうじてあった人生の意味や思考を完全に失ってしまったわけです。

しかし重要なのは、フェルディナンは「それでも」今後も生きていくだろうし、その中で美味しい物を食べることもあるだろうし、女の子とセックスすることもあるだろうという事です。

つまりいくら絶望してもなお、快と不快、絶望と希望の旅は続いていく。本作の物語の本質とは別に、私たちはここから人生の対策を導くべきだと思います(なんか、街とその不確かな壁みたいな話になってきましたね)。

確かにここに書いてある事は、人間の一側面です。しかしここには書かれていない朗らかで暖かい一側面が絶対的に確実にある。

私のこの意見は、本当の戦争を知らない戦後民主主義に飼いならされた戯言に聞こえるかもしれません。しかしそれは戦後の世界がある種の一定の人道主義を達成したとも言え、それを今こそ、つまりここに書かれていない温かい人間性を信じるべきだと、私は本作を読んで逆説的に感じたのです。

もし本作に書かれた絶望が普遍的なら、本作に書かれた、また書かれていない希望もまた普遍的なのではないか、そんなことを思います。

本作はその破壊が徹底的だからこそ、希望を浮き上がらせてくれる、私たちの意識に自省と思考、その反転を促してくれる貴重な作品なのだ、そんなことを私は思います。

また本作(中公文庫版)には、上巻に作家の中上健次さん、文学者の永川玲二さん、渡辺一民の対談が収められています。

これがかなり面白く、セリーヌが徹底的に知識階級でなく庶民意識に立ち、ゆえにポピュリズムとしての反ユダヤ主義まで下りていったというのは、現代の参政党現象とも通ずるような構造を感じざるを得ません。

本作は読んでいて、うんざりしつつも、わくわくし、絶望的な感情を想起させられながらも、その反発心が湧いてくるという、一筋縄ではいかない本です。

しかしこの旅から、得るものは確実にあり、かつ多い。私はそう断言出来ます。

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