私は常に出かける時に、文庫本を3冊くらいバックに入れてないと落ち着きません。
それは常に「読む物が無くなる恐怖」というものに追われているからです。
本が無いならスマホを触ればいいじゃない!
と私の頭の中のマリー・アントワネットが囃し立てますが、私はスマホ脳になる恐怖というのにも同時に戦いを仕掛けられており、スマホを見る時間を管理・制限しているのでマリーの戯言に従うわけにはいきません。
とはいうものの私が住んでいるのは関東の都市圏なわけで、少なくなってきたとはいえ書店に行けば本は簡単に手に入ります。
なのでそこまで怯える必要はないのではと思いきや、私は最近はもっぱら古典文学や近代文学を読んでいます。(いきなり自分の趣向の話題へのアクロバティック的転回)
私が古典文学を読み始めたのは大体5年前くらいのことなのですが、そのころ書店に行ったならば
やれ「カラマーゾフの兄弟」や「魔の山」、「赤と黒」など読んだことない名作たちが溢れ天国のように見えたものでした。
しかし、さすがに5年も経つと、いかに根性が無く飽き性な私でも、大体の名作は読破することになります。
ここで古典作品の特徴に触れておくと、古典作品の多くは巻末にその作家の人生や他作品の紹介文を訳者が書いてることが多いのです。
そして何を隠そう私はそれを読むのがめちゃくちゃ大好き。
特にそれが良い作品であった場合、人生に触れることによりその作家が一気に好きになり、その作家の他作品を全て読みたい!という願望が湧いてきます。
さてここで壁にぶつかるわけです。
そう世界レベルの文豪でも「魔の山」「ゴリオ爺さん」などの有名作以外は、書店に並んでいることはほとんどない、ということです。
つまり私は今、書店にふらっと行っても本当に欲しい物は手に入らないジレンマを抱えている状態なのです。
その意味で言えば大きい図書館は魔法のような空間で大抵の古典はあるのですが、私は考察をアップする可能性もあるため、出来れば自分の元に置いておきたいのです。
私は読書にはレベルがあり、読めば読むほどレベルが上がり読める本の選択肢が広がっていくと思っていますが(レベルが高いから幸せとか偉いとかはなく、本を読んで自分が幸せを感じていればそれが一番)
私ごときのレベルでもはや本屋でお目当ての物が無くなってたことに衝撃を受けているのです。
もちろんまだ読んだことない有名作家さんや、新しい日本の作家さんの本を探すのであれば書店は完璧に仕事をこなしてくれますが、自分が本当に読みたいトーマス・マンやジッドの作品は、超有名作以外書店にはほとんどありません。
だから最近では本当に魅力的な古典を新訳でお届けしてくれる光文社古典新訳文庫に助けられています。
古典文学で知らない作家や作品がどんどん刊行されるので、自分の中の世界がどんどん広がっていく気がするのです。
なので新しい世界を広げる意味では全く問題ないのですが、好きな作家を深堀することが今書店では非常に困難になっているのが私の現状です。
そもそも当たり前の話として、全ての本が簡単に手に入る場所というものは無いわけで、いかに自分がお花畑的楽園の価値観に染まっているのかを改めて気づかされました。
そんなわけで私はいよいよ愛する書店を利用しつつも、ネットでのショッピングの世界へ羽ばたいていくことになりそうです。
出来ることならドストエフスキーみたいに他の文豪の作品も続々と新訳で文庫本が出ることを願って本記事を終えます。