例えば、あなたが寿司屋に行ったとする。
今日は何を握ってもらおうか? 最初は淡白なヒラメとかから攻めて、徐々に脂が乗っているもので行こう。
そんなことを思い、出された湯飲みでお茶をすすり、おしぼりを開いた時、そこにぷりっぷりのエビが巻かれていたらあなたはどう思うだろうか。
まず前提として、ネタが新鮮であることは良いことであろう。
昨今やる気の無い寿司屋では、カピカピのマグロが、ザラザラのシャリに乗った、サハラ・ゴビ握りの被害が急増している。そんな中、瑞々しいことは、それだけで非常に評価は高い。
しかしスピードやタイミングで言うなら、物事には早すぎると摩擦を生むという事例もある。
大将に、握りのオーダーをする前に、ほかほかのおしぼりの中で、つぶらな瞳をつやつやさせているエビが、いかに風呂上りの様に赤みをさし、不思議な色気を放っていたとて、我々が感じるのは混乱と混沌が奏でるハーモニーでしかない。
まずあなたは「ははん。これは寿司屋ではなく、前衛芸術の美術館だな」
きっとそう思うに違いない。
今の時代、どんな突飛で奇抜なことも「前衛芸術だ」と言い張れば、どうにか格好がつく時代である(今の所、迷惑系ユーチューバーを前衛芸術だと評価している人はいない、まだ人類はぎりぎり踏みとどまっている)
しかし大将の見た目とオーラは、水見式で見ても、ネタ操作系のがっつり寿司を握る能力者だし、他のお客も日本酒をつまみに、こはだやいわしなどの光物を口に運び、乙な宴を楽しんでいる様子。
こうなると次に思い浮かぶ可能性が「伝承・伝統」である。
延喜二十年、庚辰(かのえたつ)。夫の仕打ちに耐えかね、身投げをしようとした海老局(えびのつぼね)が、縁側岬の崖の上から飛び降りたところ、天から舞い降りた不思議な白い衣に巻き取られ、一命を取りとめたと言う。
それ以来、この地域の寿司屋では、最初にお茶と一緒におしぼりに巻いたエビを出すことが、吉兆の証として共同体に受け入れられてきた。
こんな伝承であれば今までの事の理屈は一応通る。
しかしもう一度周りを見ると、どうやらおしぼりの中にエビが入っているのはあなただけのようである。あなたより後に来たサラリーマンの集団のおしぼりは、至って普通のおしぼりである。
この自分だけに提供されている謎のお通しについて、いよいよ深く考えざるを得ない状況に追い込まれるあなた。
ここであなたは歴史のある一場面のハイライトを思い浮かべる。
それは織田信長が、朝倉を攻めようとした時、浅井長政に嫁がせた妹のお市から、両端を縛った小豆袋を送られたエピソードである。
これによりお市は、浅井が織田を裏切り、信長は袋のねずみだと知らせようとしたのだ。
もしかすると、このおしぼりが巻かれたエビは、寿司屋の大将が見張っている何者かに気づかれないように、あなたにだけ送ったSOSのメッセージではないのか?
「私は家族の命を担保に、ここで無理矢理握りたくもない寿司を握らされている、まさに袋のね・・・いや、巻かれたエビ状態だ」
これはそんな状態を現わした、大将の決死のメッセージではないのだろうか。
そんなことを思いつつ、あなたは再び大将を眺める。
南国を感じさせる小麦色の肌にふくよかな二の腕、まるで恵比寿様のようなまん丸な顔は基本的に笑っているし、鼻からは大きな太い鼻毛が二本ほど出ている。
人間、監禁されている状態で、そんなに無防備に鼻毛が伸びたりするはずはない。
あなたは、すぐにここが回転寿司でもなければ監禁寿司でもないことを直観で理解する。
ここまで全ての可能性を試行錯誤したあなたは、諦めて、とうとうおしぼりの中のエビを取り出し食べてみることにする。
エビの頭の部分を取り、味噌がついているぷりぷりの身を、少し醤油につけ、口にゆっくりと運ぶ。
その瞬間、エビの芳醇な香りと磯の風味が口から鼻にかけて広がり、ぷりぷりした身が口の中で一気にとろけだす。
そのエビは今まで食べたエビ、むしろ海産物の中で圧倒的に美味しいことを理解したあなたは、今まで考えてきた全ての事がどうでもいいことのように思えてしまう。
他に何も握ってもらう気分にもならず、大将に「おあいそ」というあなた。
恵比寿様のような大将は、あなたにささっと近づき「はいよ」と言う。
しかしその瞬間、大将の小麦色の二の腕があなたの顔面に振り下ろされる。あなたは顔面にめりこむ大将のお寿司を握るはずの握りこぶしを受けつつ、自分が寿司を一貫も頼んでいないことに思いを馳せる。
寿司屋で寿司を頼まないまま帰ろうとして、顔面に握りをお見舞いされた自分を認識した直後に、あなたの視界は暗転し、そのまま意識を失う。
気付くとあなたは駅前のロータリーのベンチでぼうっとしている。
あなたは自分が何でここにいるのかも分からないまま、街をぶらぶら彷徨う。
しばらく歩き、お腹が空いてきたあなたは、一軒の寿司屋に入り、そこでお茶と一緒に出されたおしぼりの中に、何かが入っていることに気づく・・・