子供のころ、「宗教」と聞くと、何かコワいもの、困ったときにすがるモノみたいに思っていました。
特に日本では「宗教」を敬遠する雰囲気が、そこらじゅうに蔓延しているように思います。
今回は、そんなことについて色々考えてみました。
信仰
海外文学を読んでいると、そこらじゅうにキリスト教の引用や描写が出てきます。
欧米圏では特に、生活の根本に「信仰」があり、それが当たり前なのです。
なので世界標準でいうと、「信仰」が無い日本の方が特殊です。
少し話題を広げて、日本が弱いジャンルに「哲学」や「SF」があると思います。
そしてこれらのジャンルが弱い理由を考える時、やっぱり「信仰」の有無にぶつかるような気がするのです。
「信仰」が無い場合、生活の基礎は、「いかに日々の暮らしを自分が気持ちよく送るか」におかれることになります。
つまり精神よりも、本能や自分の肉体が重視されてきます。
日本において、毒にも薬にもならないような、似たような量販マッサージ器みたいな作品が作られるのは、ここに原因の一端があるのではとも思います。
また日本人の中には簡単に「神様なんかいない」とよく考えもせずに言う人が多いですが(自分も昔はそうでした)
しかしよくよく考えると、宇宙の始まりは「無」から、何かが始まったところにあるわけで、「無」という存在が一切無い状態から、何かが始まるということ自体が矛盾してますし、理論的に説明できない何かしらのエネルギーが働いていると考える方が自然なのではと思います。
また量子力学では、物体がそこにあるのは確率に過ぎないということが言われており(自分流の解釈)、人間が知覚できるのは現実の一部にしか過ぎないのではないかということも言われています。
考えれば考えるほど、人間には理解できない「未知の領域」というものがあり、「神がいない」とは簡単に言えないことが分かります。
宗教における「信仰」の大事な要素は、自分よりも大きい未知のものに思いを馳せ、そしてそれを素にどういう精神で生きれば皆が幸せになるのか、を考えることにあると思います。
「哲学」は、この世の根本原理を考えることですし、「SF」も物語の中で、宇宙の原理や、他の生命との違いを考えたりすることに重きを置いている気がします。
しかし、日本には「信仰」が無く、自分を超えるものに対して考えることが苦手なため、「哲学」も「SF」も生まれないのではと思うのです。
そして自分の範囲でしか考えれないということは、他人の幸せを考えれないことでもあります。
それが現代の日本の生きづらさに繋がってる可能性もあるなあ、と最近は考えてしまうのです。
自分が色々な本を読んだり、旅をしたりするのも、自分流の「信仰」であったり、考えを深めていくための活動の一環なのだと思います。
世の中が殺伐とした現代だからこそ、精神の素養を大事にしていきたい、そんなことを思いました。