私は、粉ものが好きである。
ここでいう粉ものというのは、「お好み焼き」と「たこ焼き」の二種類のことだと言って差し支えありません。
特にたこ焼きに関しては、どんなに安いバイキングで出てこようが、一定の美味しさを必ず提供してくれるという認識があり、その信頼感は絶大です。
その意味で私は大阪という町がとても好きなのですが、景色や雰囲気もさることながら、基本的に何を食べても美味しいという食に対する信頼感がそれを支えているのだなあと思います。
しかしこれがうちの母親に関した場合、話は変わってきます。
そう、彼女はまるで粉ものに魅力を感じない輩なのです。
以前このブログでも書きましたが、私の両親は大阪に行きながら、お好み焼きもたこ焼きも食べてこなかった猛者です。正直同じ人間として理解に苦しみます。
ゆえに大阪の印象に関しても母とはまるで食い違います。
僕が「大阪は何を食べても美味しい」と主張しても「特に食に対し魅力的なモノを感じなかった」と正反対のボールを正確に、私のみずおち目掛けて豪速で投げ返してきます。
「そうかそうか、なら何も言うまい。もう二度と大阪に行くんでないぞ」
そう心の中で思った私ですが、次の瞬間には
「でも道頓堀の雰囲気は大好きだから、また行きたいな」
そうのたまったのです。
「はにゃ」
私は思わずはにゃと声に出して言ってしまいました。
なぜなら私の中で道頓堀とは粉ものの町であり、そして粉ものとは道頓堀のものであるという認識が、精神の深い部分に根差しているからです。
むしろ私は道頓堀という町は、全て粉で出来ているのではと思っているくらいです←すいません言い過ぎました
なので粉ものの魅力が分からないやつが道頓堀の魅力など分かるはずはないのですが、本当に道頓堀の景色は好きな様子。
私はこの事実から色んなことを考えてしまいました。
つまりその物事に関する好き嫌いの要素は、千差万別であり、色んな人がいるという事です。
例えば博多に住んでいるけど、豚骨ラーメンも嫌いで、明太子も苦手、水炊きという概念も理解出来ないけど、何だか中州の雰囲気だけは好きという人もいるかもしれないし。
北海道に住んでいながら、魚介は一切食さず、味噌ラーメンを憎み、寒さに対する反感から半袖半ズボンで生活しながら、北海道の空気はなんとなく好きという人もいるかもしれないわけです。
私なんかは、特にこだわりもなく、その観光地の魅力をそのまま受け止めて楽しむ人間なので、上記のような倒錯的嗜好は持ち合わせていませんが、しかし上に上げた二人は間違いなく面白い人なのは間違いなさそうなので、そんな人がいたら喫茶店で1時間くらいインタビュー形式で話を聞きたいなとは思うでしょう。
しかしその反面、物事には裏切ってはいけない期待値というものもあります。
例えば、インド人の友人のモティー君に「故郷ではどんなカレーを食べてるの」と聞いた時に
「いえ、僕はあまり香辛料が得意でなくて、いつも白飯とお漬物ばかり食べています」
と言われた日には半日くらいは何だかがっかりした気持ちから抜け出せませんし。
僕がヨーロッパへ行った時に
「やっぱり日本人は醤油に愛着があるのかい」
と言われた時に
「あんなしょっぱいもの体が受け付けませんよ。僕はお寿司にも何でもオリーブオイルをかけて食べます」
と言ったら、おそらく相手は午後のダンスパーティーに私を誘ってくれなくなるでしょう。
しかしここで難しいのが、大阪が好きなのに粉ものが嫌いな人や日本にいながら醤油を憎む人の書くものというのは間違いなく、普通の人より独特な感性があり面白いのではないのかということです。
しかしかといって無理矢理、エッジが効いた感性を得る為に、食に対し倒錯的な嗜好を抱いたとて、それは違う気がしますし、何より食という至福の時間を無駄にしてしまうことになります。
そう思うと何でも美味しいと思える自分が、愛おしくもあり恨めしくも思え、今日も今日とて二律背反する思考の中でへらへら生きていくしかないのでした。