「ザリガニの鳴くところ」は、小説家でありアメリカの動物学者でもある、ディーリア・オーエンズが69歳にして書いた初めての長編小説で、発売してすぐにベストセラーになり世界を席巻した作品です。
6歳で家族に見捨てられ、一人で湿地で生きることを余儀なくされた「湿地の少女」と呼ばれるカイアの人生と、村の裕福な青年チェイスの謎の死を巡る物語は、大地や生命の美しさを描くだけでなく、野生の力の荒々しさや、「根源的な何か」についても浮き彫りにさせます。
さらには、アメリカという国が抱える時代や社会の問題、親から引き継がれる精神や呪い、現代の男性が抱える病等、様々なことが読み取れるような作りになっていて、現代を生きる人に取って必読の一冊なのではと思います。
それでは、そんな本作を自分なりに考察していきます。
物語の核心部分にも触れるので、ネタバレが嫌な人はここまででストップしてね。
ノース・カロライナの湿地
主人公のカイアが住むのは、アメリカの南東部のノース・カロライナ州のさらに東部にある湿地帯です。
元々、母や、兄や姉たちと住んでいましたが、父の度重なる暴力や貧困に耐え切れず、次々と家族は離脱していき、カイアは父と二人になり、あげくに父も消えて、一人で湿地に暮らすことになるわけです。
私はこの小説の舞台が、海に出る前の湿地帯であることに、「物語の重要な精神が隠されている」と個人的に考えています。
大地と水というのは、地球や自然を構成する根源的なモノです。
そして海に出る前の水と泥が溶けあう湿地帯には、沢山の生命がおり、まさにどろどろの生命のプールのような場所です。
湿地には泥も水も溶けあっており、明確な輪郭はありません。
一方で、現代を生きる我々の多くは、コンクリートの道路や建物と言った、しっかりと区切られた機械的な輪郭の中で生きています。
さらに、ノース・カロライナは数千年前から先住民族の様々な文化が続いてきた地域で、先住民のインディアンが大事にしてきた土地でした。
自然を大事にしてきた先人たちの思いというのも、この地域を舞台にした本作に重みを与えているように思います。
この小説は、湿地帯とそこに生きる少女を主人公とすることで、現代文明が忘れた、色んなものが混ざった生命の根源や自然と共に生きる精神にスポットを当てたのではないかと思うのです。
アメリカ社会と時代の問題
この小説は、主に1960年代から70年代に起こったことを中心に描かれます。
1960年代にはベトナム戦争が起こり、アメリカ国民が「アメリカの正義は果たして本当に価値があるものなのだろうか?」と疑問を持ち、アメリカ人が自信を失い始める時期です。
そして疑問を持った若者たちが、積極的に行動を開始し、ヒッピーと呼ばれる人々が現れたり、ビートルズブームが起こったりと、いわゆるカウンターカルチャー(今までの社会に対する反抗の文化)が花開きます。
キング牧師の登場により、黒人問題がクローズアップされたのもこの時期です。
70年代にはオイルショックも起こり、景気の停滞、貧困問題も持ち上がります。
カイアの父の、戦争でのトラウマや戦後の没落、プライドを失っていく様はあの当時のアメリカととても重なりますし、チェイスや村人のカイアに対する偏見からは、カウンタ―カルチャー世代の若者から一番憎いもの・ダサいものとされた、アップデート出来ない依然と残る差別意識が浮かび上がります。
しかし、裁判の項目でも後述しますが、この時代は若者たちが行動し、結果としてアメリカ人の黒人問題や偏見に対しての、意識が変わりつつある時期であり、一筋の光も小説内で見えてきます。
逆に意識が変わらない人たちは、小説内で悲惨な目にあうわけですが(特に男)
そして、この作品が60年代や70年代を舞台にしたというのと同時に、2020年に作者が書いた作品ということも重要です。
現在、世界では女性問題や環境問題の意識が急速に良い方向に変化しつつあります。
この小説内の裁判の判決や、チェイスの死は時代の変化や意識の変化が如実に現れている。
そんなことを感じました。
つぶされた母
父も居なくなり、一人になってしまったカイアですが、一方で彼女の生活の描写はとてもしなやかで美しく、力強い生命力を喚起させます。
そこで描かれる動物との交流や、カイアの自然の恵みを集めたコレクションの描写は、本作の醍醐味の一つでしょう。
カイアは大地の感覚を感じ取り、そこに寄り添い生きていく力があり、繊細ですがとても強い女性なのです。
さて、ここでカイアの母親のマリアに話を移します。
単純な比較は出来ないですが、個人的にカイアよりも悲惨な運命を辿った人物だと考えており、もしかしたらこの小説の一番の犠牲者かも、そんなことまで思ってしまうのです。
ある程度、裕福だった実家を飛び出し、口八丁手八丁の偽物王子であるジェイクに騙され、湿地で生活することになったマリア。
沢山の子供を育てる為、一生懸命前向きに生きようとしますが、夫の暴力に耐えきれず湿地を逃げ出します。
そして実家に戻ったものの、幸せにはなれずに、最後は子供を捨てた罪の意識にさいなまれて死んでいくわけです。
カイアの母が象徴しているのは前時代の女性の苦しみだと思います。
現在の2020年代こそ、自然や大地の中で生きる価値が見直されたり、お金じゃない精神の幸せみたいなものを見つめる雰囲気が醸成されつつあるものの、少し前までの日本やアメリカでは、バブルの時代を引きずり、「お金やステータスを兼ね備えた王子様がいつか自分を連れ出してくれる!」みたいな幻想が長いこと根を張っていたような気がするのです。
カイアの母は、ここではないどこかを求めて、ニセモノの王子に騙されてしまったと私の目には映ります。
そして湿地の自然の中を泳ぐように生きていけるカイア(次世代)とは違い、母は結局、湿地に適応出来ずに実家に戻ることになります。(一番の原因は夫の暴力で、これが諸悪の根源)
カイアの母からは、その時代を反映した女性の意識や、まだ女性の権利問題が希薄だった時代につぶされた女性の悲しみが滲み出ています。
また、カイアが子供が欲しいと望みつつも子供が出来ず、母親にはならないというのも、家族は絶対的なものではなく、母親になるだけが幸せの形ではないという、ようやく見直されてきた、現代的な幸せに対する思考についてを表してるのかなとも思うのです。
カイアの母は、結局子供を育てられずつぶされてしまいますが、そもそも社会全体が「母親」という役割に対し過度な責任を要求しすぎていると私は考えています。(現代のお母さんの負担軽減を本気で考えるべき)
しかし、カイアの母がカイアに残したものもあります。
それは前向きに生きる魂と詩を愛する心です。
カイアの母は時代につぶされた犠牲者とも見えますが、一方で母として大事なものをカイアに残すことは出来たのだとも思うのです。
呪われた弱き男たち
さてこの小説での最大の問題が、ずばり「男たち」です。
まずはカイアの父・ジェイクです。
もともと土地を持っていた「良家のプライド」から没落を認められず、そのプライドから失敗を重ね、好きな女性を騙し結婚するも、自分の弱さから自暴自棄になり暴力を振るう。
戦争で心に負った傷がある事を勘案したとて、まあ最低な野郎です。
戦争のトラウマには同情出来る余地があるとしても、そもそも彼には男としてのプライドを支える精神も行動も伴っていません。
そもそもがそのプライドというのは、結局「自分の為のもの」でしかない「偽物のプライド」なわけです。
本当の男としてのプライドというのは、愛する人を自分の事のように、または「それ以上に」考える精神のことで、考えの根本から、彼は既に間違えています。
この手の男は妻のことが好きなのではなく、妻の外見等の要素を自分が好きなだけなので、だから平気で暴力を振るったりが出来るんです。
なんでこういう男が出来上がるのかというと、それは歴史の呪いという側面もあるのではと思います。
有史以来の人類は、まことに悲しいことですが、女性をある種の商品や、お世話ロボットみたいな存在として捉えてきました。
現代に至り急速にその価値観が見直されつつありますが、多くの男性がまだその価値観を引きずりアップデート出来ないでいるのです。
次の問題はチェイスです。
一見好青年に見える彼ですが、こいつも同レベル以下のクソ野郎です。
「裕福で村の上位階級である」という肩書に起因する自負を持つ両親の元で育っており、両親がすでに人間として歪んだ精神を持っているという不幸があるのは事実です。
村の上位階級として両親が求めるプレッシャーは、おそらく重かったことも理解出来ます。
私は、彼はその期待に答え続けた結果、自分は選ばれたものであり、こんなに努力しているんだから、ある程度何をしても許されるという傲慢な精神を抱えた若者になってしまった、そう考えています。
えてして重いプレッシャーの反動や歪んだ精神は、性欲を歪ませます。
彼がカイアを求めるのは、本能的にカイアの魅力に気付いた側面もありますが、裏にはどす黒い闇の性欲への憧憬があります。
以上二人の人物の個別的事案について見てきましたが、二人の大きな共通点としては、女性を物として扱い、さらに女性だけに関わらず、他人も自分と同じ人間という想像が出来ない、想像力が欠如している愚か者ということです。
だからこそ、カイアの父みたいに、自分勝手に他人を巻き込んだり、チェイスみたいに「自分は選ばれた人間」みたいな考えを持つことになるのです。
これは小説に限った話ではなく、現代の男性もかなり多くの人が抱えている現在進行形の課題だと個人的に思います。
ただし救いもあります。
それはテイトの存在です。
彼は湿地に住むカイアに読み書きを教えてくれて、当り前の話ですが、一人の同じ人間として接してくれました。
彼もまた大地に思いを馳せ、他者のことを思いやり、自分の行いを反省出来る、想像力がある、物事を考えられる人間です。
次世代の正しい男性としてテイトが描かれることがこの小説の救いになっているなあ、としみじみ思います。
時代の変化と裁判
チェイスの問題を巡る裁判で、カイアは無罪を勝ち取ります。
地域の人間関係と偏見を描いた他の文学作品では、主人公は有罪になり、その死により社会の矛盾を描くというパターンが多かった印象があるので、この展開には少し驚きました。
ここにも、ある種の現代における意識の変化の兆しが書かれている様に思います。
女性の権利の上昇、環境問題の意識の変化・・・
少しづつではあるものの、人間は差別や偏見から解き放たれつつある。
そういう側面があることを、この場面で感じました。
ザリガニの鳴くところ
さて、本作でも実際の言葉でも出てくる「ザリガニの鳴くところ」とは何を現わしているのでしょうか?
物語では
「ザリガニたちが鳴き声を上げることが出来、生き物が自然のままに生きている湿地の深い場所」
という風に記述しています。
これを人間の精神に置き換えて自分なりに考えてみました。
「ザリガニの鳴くところ」とは
誰の精神や、体の中にも存在する、生物としての人間の遺伝子に刻まれている深い業やどろどろとした根源の力を司る場所なのではないか
私はそう思います。
深い業や、どろどろしたものの中には動物としての本能もある一方で、輪郭があいまいな優しい寛容さや自然の美しい調和もそこにはあると思うのです。
そんな場所でこそ鳴くことが出来る、エビのようでもあり、カニのようでもある、生物の区別的にあいまいに思えるザリガニたち。
曖昧で寛容でありつつ力強い、そんなザリガニたちの鳴き声がする景色、それは我々人類の原初の記憶として細胞に植え付けられているのかもしれません。
野生の逆襲
この作品は作者が動物学者ということもあり、動物の行動の描写が丁寧に描かれ、そこには動物に対する敬意があります。
しかしそれだけでなく、人の意識や道徳とは違う、動物の野生の力の荒々しさも描いています。
別種の雄をおびき出し、食べるホタルの雌・・・
交尾が終わり次第、雄を食べるカマキリの雌・・・
これらのことは、生命の還元の輪の流れの一つとはいえ、残酷に見えることも事実です。
そしてここからは私の主観ですが、ここにきて「野生の残酷さ」は現代社会にもいよいよ表れてくると考えています。
人権意識の高まりと同時に、差別されてきたものたちの野生の逆襲が始まるのでは、そんなことを思うのです。
有史以来、差別されてきた黒人や女性。
しかしここにきて時代の潮流は確実に変わりつつあります。
白人の横暴に拳を上げる黒人の人々。
東京五輪では旧時代を引きずった発言をした男性が役職を下ろされました。
アップデート出来ない人は社会的に淘汰される時代に来ています。
そして個人的な感覚ですが、最近の社会での立ち振る舞いを見るにあたり、本来女性の方が精神的には強いのだと、つくづく感じるのです。
男子の草食化というのも、当然の流れで、これからは女性がどんどん社会の責任ある地位についていくのは、もはや誰にも止めることが出来ない流れのように思います。
そしてグローバル社会の中で富の集中が進み、貧困者がものすごいスピードで増えていることも深刻です。
このままのスピードで進めば、間違いなく暴動が世界中で起きるでしょう。
ここにきて世界は弱いもの、虐げられてきた者たちの、野生の逆襲のターンに入ったと個人的に思うのです。
劇中でカイアがチェイスを殺したのが過剰防衛だと思う人もいると思います。
しかし、これは野生の力を見くびった報いで、自分はある種当然の結果であると思いました。
昔の男尊女卑を引きずり、性欲の対象や、購入した家電やお世話ロボットのようにみなす想像力のない愚か者は、その正しい野生の力により、これからはなすすべもなく引きちぎられる運命にあるのです。
そしてその野生は、実際の暴力という形を取らずに、SNSであったり人々の一人一人の声であることもあると思います。
これからは、前時代的な価値観をアップデート出来ずに、想像力が欠如した人々は間違いなくつぶされていくことになるでしょう。
そして話をもう一つ大きくするならば、「環境問題」も野生の発露だと捉えることが出来ると思います。
この状況に至ってまでも、人類全体がお金や高層ビル、自分の快楽だけを優先し環境を疎かにした場合、どこかで地球という野生の逆襲にあい。人類自体が淘汰される可能性もあるのでは、そんなことを思うのです。
最後に
この小説は、大地と水が混ざり合う、生命の根源の景色を感じることが出来る、生物として正しい感覚を持つ少女の、人生を描いた物語です。
野生が持つ残酷さがしっかり描かれ、今の高度な文明の問題点、男の業等、様々な社会的な問題を浮き彫りにさせる本作。
美しい景色と、しなやかな優しさと強さをかねそなえたカイアの描写に心が温まるからこそ、根源的な野生や、社会の問題という重い銃弾を、深く感じることが出来るのだと個人的に感じました。
当り前ですが、私が考察で述べたことなんて、この物語の魅力のほんの一部に過ぎず、それ以外にも何か大事な景色を、本作は沢山与えてくれます。
そんな本作は、脳と心に新しい何かを与えてくれる「文学」の素晴らしさを、改めて再認識させてくれるのはもちろんのこと、現代を生きる人間にとって必要な、忘れていた景色を見せてくれる必読の書だと思います。
こんなにも素晴らしい作品に出合えたことに感謝しつつ、この考察を終えます。