<弟>
校舎の中に入ってすぐに姉を発見する。危うく姉の視界に入りそうになり、さっと下駄箱の影に隠れる。
姉は、職員室の前で斜め上を見上げて、何やら青ざめている。
姉が何に青ざめてるのかは分からないものの、珍しいこともあるもんだ。
様子から推測するにどうやら職員室のドアは開いていないらしい。これはチャンスだ。
いままでの僕は、姉の行動を追うばかりで常に後手後手に回っていた。
しかし彼女はいま弱っていて職員室は閉まっている。いまこそ僕が先行すべき時!
ここで姉が行きそうな場所を先回りして、奇妙な行動を事前に防いでしまおう。
ばれないように忍び足で中央の階段を上がる。姉の動きはまだ鈍い大丈夫だ。
さて動きながらも僕は思考を働かせなければならない。
姉が行きそうなところとはどこぞや?
まず最初に浮かぶのは教室だ。
しかし教室にすぐ行くだろうか。
教室は普段姉がいるところ、つまりあの奇人の、昼の拠点だと思っていい。
言い換えれば、いつも見ている、少し退屈な場所ともいえる。せっかくの夜なのだから、いきなり教室には行かないような気がする。
するとやはり化学室だろうか?
たいてい漫画や映画で、夜の学校を舞台にする場合、化学室はマストでピックアップされる。
姉が理不尽畑の耕作人だということを考えても、その耕作地から化学室は外さないのではないだろうか。
王道があるから奇道があるともいえる。決めた、これから化学室へ向かおう。
とりあえず目的地が決まるが、ふと足を止めて考える。
そうだ化学室に行こうにも、僕にはどこがどこだかさっぱり分からない。
しかし足を止めれば止めるだけ、耕作人の鍬が僕の背後に迫ってくる。
さて、こうなってくると大事なのは直観だ。世の中においては理屈ではなく、直観が道を切り開くこともあるはずだ。
なかば無理やりに自分を鼓舞し、直観の命ずるままに階段を上り、右に向かう。
すると他の教室とは雰囲気が違う、やたら古い木の配色の部屋が目に入った。
まっすぐそこに向かい、上にある札を見上げると化学室と書いてある。
うむ、これはかなりいい展開だ。初めて僕が運命の先手を取っている。
ドアを見ると、建付けが悪いのか、普通の教室よりも隙間がかなり空いている気がする。
鍵はかかってるみたいだが少し心もとない、念には念を入れておくべきだ、確認をしておこう。
ドアに手をかけると、割としっかりした抵抗感を指先に感じる。やっぱり鍵はかかってるようだ。
一安心し、これが最後ともう一度ドアに力をかけたとき、ゴトッという音が聞こえる。
床を見ると、何とドアの鍵を引っかける、長方形の受けの部分が、丸ごと下に落ちていた。
僕が引いていたドアを見ると、収まる場所を失った鍵の金具の手が、哀れにもだらんと下に垂れている。
一応ドアを引いてみる、普通に動く、そりゃそうだ。
・・・
うむ、最悪である。
このままでは、あの科学とは正反対に位置する女が、実験と検証が支配する常識のテリトリーに攻め込んでくる。
そして重要なのはその扉を開いたのが、誰であろう僕自身の手であることだ。
一瞬、諦念と敗北感の気配が細胞を支配するが、浮かんでくる悪寒をお腹に力を入れて振り払う。
考えろ!
今こそ科学や良識の側に位置する僕が、思考により解決策を導かねばならない。
まだ諦めるべき時ではないはずだ。
拳を握り直し、姿勢を正す、目を閉じて全神経を脳に集中させる。
しかしである。
・・・・・・
へへへ、さっぱり何も浮かばない。頭が完全にからっぽの入れ物みたいでもはや笑えてくる。バチで叩いたなら、トーントーンと良い音が鳴るんじゃないかしら。
空っぽの頭の中を意識が行ったり来たりする一方で、時間がどんどん流れるのも感じる。
すると、残酷にもこつこつという足音がどんどん近づいてくるのが聞こえてきた。
ふう、仕方がない。緊急退避と行こう。
僕は突き当りの廊下を曲がり、まんじりとそこに身をうずめる。
そこから覗いてみると、姉がドアに手をかけるところであった。
そして姉は確信に満ちた笑みをうかべ、部屋へと消えていった。ゲームの主導権が、しっかりと姉に戻ったことを内臓レベルで確信する。
つまり僕の主導権は10分も持たなかったということだ。