「暗夜行路」は志賀直哉さんの長編小説です。
白樺派を代表する小説家として名高い、志賀さんの唯一の長編小説で、なんと完成までに26年かかった大作です。
志賀さんの作品は以前、「和解」を読んだことがあり、その延長線上のイメージで「大体こんな感じかなあ」と読み進めていたら、全然予想と違う内容だったのでびっくりしました。
物語としては、文筆家である時任謙作という男の人生を幼少から描いたものであり、そして謙作の人生と志賀さんの実体験とはかなり重なっているところもあって、言わば半自伝的小説とも言える内容だと思います。
ただし、志賀さんの実人生と全く違う、創作上の出来事も多々あり、それが暗夜行路という作品をより複雑にしています(後述)
以下から考察に入りますので、ネタバレが嫌な人はここまででストップしてね。
物語の流れ
まずは物語の流れを記述していきます。
序詞では謙作の幼少時代の記憶が語られます。
父との不和、祖父の家に自分だけ預けられたこと、母の事を愛しているけども、どこか邪慳にされているような節もあった記憶、祖父の家にいたお栄との出会い等の記憶を振り返ります。
第一部では、青年になり東京に戻って、文筆家としての生活を始めた謙作の芸者の登喜子との短い恋、幼馴染の愛子との婚約の話の頓挫、性欲をもてあました遊廓での放蕩等が描かれます。
第二部では、愛子の件で傷ついた神経を休ませるために、尾道へ逗留したことがメインで描かれます。
そこで、ふとお栄と結婚しようと思う謙作ですが、ここで自分が父ではなく、祖父と母との子であるという衝撃の事実を聞かされます。
その事実により、祖父の妾であったお栄との結婚は頓挫します。
第三部では、東京に戻ったけど上手くいかず京都へ行ったことから始まり、そこでようやく得た心穏やかな生活、妻の直子との出会いと結婚、そして一人目の子供が丹毒で死亡するまでが描かれます。
第四部では、不遇になっているお栄を朝鮮まで迎えに行くところから始まり、その間に起こった直子といとこの一晩の過ち、第二子を授かるも上手くいかない夫婦関係、そして気分を変える為の山陰地方の山への旅が描かれます。
そして自然の悠大さに心情を洗われるものの、食べ物が当たり体調が悪化、生死の境をさまよいながらも、心配し会いに来た直子と心が一致するところで物語は終わります。(謙作の生死の言及はありません)
自意識を掘り下げない
さて謙作の人生は確かに壮絶です。
自分が祖父と母との子だったというのは受け入れるのに時間がかかるだろうし、子供の死は何よりも辛いことです。
しかし、各問題に対しての、謙作の思考や行動を物語から読み解いていくと、自分の自意識を深く掘り下げているわけはなく、常識の型にはめて解決策を出しているだけではないかと言う風に感じます。
よく数学の問題集で答えだけを見て分かった気になる人がいますが(私もそう笑)、実際はその答えに至る過程が大事であり、それが心にストンと落ちないと本当に理解したことにはならないと思うのです。
しかし謙作は、自分の中に、軸としてある倫理や道徳、世間の常識に照らし合わせて判断を行っているだけで、実は自分の問題と深く向き合っていないのではと感じます。
その一方で、芸術や感情、快楽などの感覚は鋭いと思います。
お栄と結婚しようと思いたった時もいきなり手紙を出しますし、感覚を信じ突き進む力みたいなものは、かなり強いです。
詳しいことは、後の項目で書きますが、大体こんな印象を謙作に持ちました。
芸術への熱意
謙作の感覚や想像力はとてもユニークです。
瀬戸内海を巡る船の上で見た山が、象の頭に似ていることから、「象と人間の都会での戦争」を妄想するシーンでは、思わずふっとさせられます。
また
「芸術や人生を突き詰めて本当の平安と満足を得て、かつて人の見たことが、聞いたことがないものを感じたい」
という考え方は、情熱的で個人的にとても共感出来ます。
謙作は、現実の自分の問題は倫理や道徳という型で逃げがちですが、芸術や創作論への向き合い方は真摯です。
しかし気分屋で繊細であり、心の状態にスケジュールが大きく左右されるため、気持ちが乗らないと書けません。
基本的には感覚が鋭敏で鋭い感性を持ちながらも、計画的でもなければ言い難く、怠惰に流されがち。
謙作は、そんなタイプだと思います。
女性の描写
この物語に登場する女性で、特に重要なのがお栄と、妻の直子です。
お栄の描かれ方が紋切型だと言われているようですが、個人的に「母の愛の代理の役割」のキャラクターだと考えているので、そこはあまり気になりませんでした。
問題は直子です。
文学が分からないと言ったり、素直に思いを吐露する可愛さみたいなものは、作者自身の女性の好みもあるのでしょう。
「こういう魅力的な女の子いるよなあ」
と感じ、リアリティがあると思いました。
しかし、いとこと犯した過ちの描写には、違和感を感じます。
物語上、直子に不貞行為をさせる必要があったのだとは思うのですが、描き方が生ぬるいのです。
幼少時の少しいやらしいお遊びにしても、一晩の過ちにしても、何か必要最小限度におさえようおさえようとしているのが透けて見えてしまいます。
現実の性欲はもっとドロドロしてるし、そんな寸止めみたいなもので止まるものではないと思うのです。
こういう抑えた描写になるのは作者自身が持つ、女性の倫理観への願望が背景にあるのだと感じます。
そして私はこの男性側の押しつけがましい一方的な倫理観に対し、とても違和感があるのです。
人間はそんなに強い生き物でもないですし、ずるずる欲に流されることも、長い人生ではあります。
よく自分の彼女の過去の付き合った人数を気にする男がいますが、振り返って自分のことを考えてみてほしいです。
性欲に流されてやんちゃした経験の一つや二つくらい出てくるのではないかと思います。
自分にもあるんだから、相手にだってそういう経験があるのは当然なのです。
なのに女性にだけは理想を押し付ける男の身勝手さにこりごりします。
「過去はどうであれ、今はあなたが好き」
大事なのはこの事実だけでしょう。
作中では、リアリティを担保しようとしているのか、男と誰彼問わず寝る女を、屋根屋の妻として登場させていますが、メインの女性は基本的に倫理観と道徳から大きく外れない描かれ方をしています。
作者が生きている時代と現代では違うことを加味しても、作者が求める女性像や道徳と、リアルの女性とでは、乖離が見えると個人的に感じました。
性欲の描写
謙作が悩まされる性欲の問題。
青春時代は、心と体がアンバランスで自分でも制御出来ないものです。
放蕩するために遊廓に足を運ぶものの、どこか後ろめたかったり、お栄への肉欲を妄想してしまう罪悪感などの描写はとてもリアルです。
感覚が強く、美に敏感な人は、性欲や快楽に対しても貪欲なものです。
しかし謙作が辛そうなのは、自身が抱える倫理や道徳に縛られていることです。
「愛欲に溺れることもまあ、ありますわなあ!」
とフランスばりに開き直れば、色々許せて楽になれると思うのですが(フランスに対する偏見かしら笑)
しかし何を心に抱え、許せるかは人によって違うし、正解は無いのでこの問題は一旦ここまでにします。
本作は男性側の性欲の問題を素直に描いてることが、謙作という人物に気持ちが乗り共感出来る、一つの要素になっていると感じます。
道徳と倫理の呪い
さてここで、謙作が抱える問題の根本を整理したいと思います。
それは道徳と倫理の呪いでしょう。
理性と倫理を信奉し、一人の人間を愛し、清く正しくあること。人を許すこと。
これはキリスト教圏の西洋から入ってきた考え方です。
明治維新以降、徐々にこの考え方が浸透し、現代では多くの人の規範や常識になっています。
しかし、ここで重要なのは、日本人はそれを常識として知っているだけで、自分自身で深く考えたものではないということです。
外国の物や思想の効果だけを輸入して、考えるという精神性を理解出来ないと言われることが多い日本人ですが、まさに謙作も、道徳や倫理の型に当てはめているだけなのでは?と個人的に感じました。
直子の不貞行為の時の、謙作の思考も、許すことが幸せになると常識として知ってるだけで、具体的な、自分と直子の、「具体的で世界に一つしか無い事象」について深く考えてはいないのです。
謙作は常識を持って生きていますが、怠惰なのです。
自分が持っている道徳や倫理について頑固であるとも言い換えてもいいかもしれません。
道徳や倫理の型に、頑固に固執してそれ自体を考えない怠惰さが、謙作の根本の問題な気がします。
母の愛 上辺 怠惰
前項では、謙作の考え方の問題について述べましたが、ここでは個人的な問題の根本について述べたいと思います。
それは母の愛情への飢餓でしょう。
自分が母から愛を満足に与えられずに、それへの飢餓感があるから「自分は心の底から愛されない」と思ってしまうことに彼自身も気付いています。
しかし気付いているだけで、深堀して向き合うわけではなく、またもや常識の範囲から眺めるだけなのです。
謙作がやらなくてはいけないことは、自分の心と向き合い、母と祖父の話を聞いて、自分の中の抱える石を溶かして、許すことです。
しかしここでも道徳・倫理の型が足を引っ張ります。
そもそも清く正しい母、そんなもんはどこにもいません。
人間は動物なのだから、性欲があって当たり前、それに耽溺し間違いを犯すことだってあります。
謙作だって遊廓で放蕩していました。
一方で、人間は性欲だけでもなくて、母としての慈愛の側面ももちろんあります。
そういう色んな感情の中で人間は生きているのです。
しかし、謙作は具体的事象を深く考えることはせずに、許すという上辺を漂うだけです。
彼は道徳的で常識的で、かつ怠惰な人間なのです。
直子を許したと思いながらも、ふと突き飛ばしたりしてしまうのも、「許すという地点」を見てるだけで、辿り着いてないからでしょう。
別に私は絶対に許すべきと思ってるわけではありません。
許せるのがベストですが、全てを許すことが出来るとも思わないし、許せないことがあるのは当然だと思います。
許せないならその気持ちと向き合い、どうしても無理なら分かれればいいんです。
人には人それぞれのキャパシティがあります。心に無理する必要なんてありません。
自分の心と幸せを考えればいいんです。
しかし、謙作は、実は問題と向き合っていないから、上辺だけを取り繕った現状維持の状態で留め置かれています。
それは結局、自分を幸せにしないどころか、他人をも幸せにしません。
自然への逃避
第四部で、山陰の自然に包まれた生活に癒しを求める謙作ですが、これは一見リフレッシュ出来るように思いきや、実は根本的に何も解決しない方法です。
ざっくばらんに言うなら、自然や東洋的な思想に問題を放り投げてるだけです。
言うなればこれもまた怠惰な逃避だと言えると思います。
個人的に思うのが、二人目の子供が生まれた後に、いきなり自然に逃げ込むような男を果たして、直子が迎えに来るんだろうか?
そんなことを考えてしまいます。
ラストで直子が、謙作に、どこまでもついていくという心情になったことが描かれますが、少なくとも現代の女性で、そういう気持ちになる人は稀有だと思います。
宙ぶらりん、されどそれもまた良し
さてそんなわけで、私は謙作の「型としての道徳・倫理観」は好きではないですが、この小説は好きです。
その理由は、宙ぶらりんの人生を素直に描いているからです。
大体の日本人は忙しい中で、日々の生活を常識の型に添って、深く考えずなんとなく生きているわけで、その意味で謙作の描写はとても現代的ですらあり、とてもリアルな小説だと思いました。
今までの項目で偉そうに自分と向き合えと言いましたが、言うは易し、行うは難しです。
自分自身と本当に向き合うことは、誰かの助けや、自身の余裕が無ければ気付くことも難しいし、大変な作業です。
また自分に向き合うことは、必然的に自分以外の他者のことも考え続けるということが必要とされますし、それにエネルギーを割くのは意識してないとなかなか出来ることではありません。(だからこそ自分は考えていきたい)
さらにこの小説が秀逸なのが、謙作が最後、命を落とす位まで追い詰めれれる原因が、重い病ではなく、「鯛の焼き物に当たったこと」だということです。
最後、何もかも放り投げるような終わり方も含めて、読み終わってからしばらくは、不思議な笑いの感覚が後を引きました。
作者のユーモアとシリアスのバランス感覚がそのまま、思い通りに行かない人生の滑稽さを描いてるようにみえて、淋しいようでありながら、どこかしら愉快な気分にさせてくれたのです。
道徳や倫理が反映されたような女性の描き方も、こういう風に思いたいというのが素直に出てるとも言えるでしょう笑
本作は、宙ぶらりんで、悩んで苦しんで生きる人生を、とても率直に描いてると思うのです。
謙作が、人生を暗い夜と思ってるうちは暗夜なのでしょうが、こういうタイプは生き延びて、いい歳までいったら
「あれ、なんとなく許せたぞ」
とかなんとか思って、良い好々爺になりそうな気もします。
個人的にこの小説を私は深刻にとらえておらず、人生の一つの類型を興味深く読ませて頂くものだと考えており、その意味においてとても好きな小説でした。
さて色々書きましたが、上記の意見はあくまで自分個人の考えです。
この小説は読んだ人それぞれに感じることが異なる作品だと思うので、是非色んな方々の読んだ意見を聞いてみたい、そんなことを思わせてくれる作品でした。