いよいよ鶴岡八幡宮の悲劇へと至る本話。
そして悲劇の後のそれぞれの立ち位置や思惑も丁寧に描かれました。
それではくわしく見ていきましょう。
45話のあらすじ
太刀持ちを外された義時は、時房と共に八幡宮の様子を建物から眺めている三浦義村と話しています。
そして陰謀にシラを切る義村に対し、自分も同じ思いであると暗殺を黙認する姿勢を伝えます。
いよいよ八幡宮での儀式を終え、石段を下りてきた実朝たち一行。
そこに公暁が現れ「覚悟っ、義時!」という声を上げ、急遽太刀持ちを変わった仲章を切りつけます。
寒いといいながら壮絶な死を遂げる仲章。
公暁はそのまま実朝の方に向き直ります。
実朝はその時、視界に見えた老婆の巫女の「天命に逆らうな」という言葉を聞き、そっと護身用の小刀を手放します。
そして公暁は実朝に切りかかり、ここに3代目鎌倉殿は息絶えたのでした。
石段の下で控えていた義時により公暁を討ち取る命令が出されるものの、逃げる公暁。
この知らせを聞き動揺していた鎌倉首脳陣ですが、そこに義時が現れ、広元は義時が助かったこと、仲章が代りに死んでくれたことを喜びます。
そしてその知らせを聞いた政子は茫然自失。それでも実朝が望むとは思えないとして公暁の命を助けたいと語ります。
のえも義時の無事を喜びますが、仲章にいずれ要らぬことを喋っていたらお前を切っていたと言われ憤りを露わにするのえ。
一方、逃走中の公暁が政子の館に現れます。
こんなことをしても御家人は付いてこないと語った政子に、分かっていたが自分の名前を知らしめたかったと言う公暁。
義朝の髑髏を手に、形だけの4代目を宣言し、もう会うことは無いと言い、政子の元を去ります。
義時は三浦義村とサシで話して、陰謀についてを問いただします。
義村は完全否定は無理と悟ったのか、途中までは実朝暗殺による覇権奪取を考えたがやめたのだと義時に言います。
力任せで政治を行い、いつも怯えている義時を見て嫌になったのが理由とのこと。
そして義時はここで一番聞きたかったことを声を荒げて問いただします。
私が狙われているのを知っていたのか、私に死んでほしかったのではないのか?
義村はそれを否定するものの、去る時の義村は本心を偽っている時の仕草をしていたのでした。
そんな義村は館に匿われて食事をしている公暁と対面。
一心不乱に食事をしながら京都に戻りたいと言っている公暁を、後ろから一思いに刺し殺します。
そしてその首を御所にいる義時や広元らの首脳陣に届けます。
謀反人を討ち取り、今後も鎌倉殿に忠誠を誓うことを宣言する義村、それを讃える広元、そして義時も義村を讃え、北条と三浦が協力してこその鎌倉だと声高らかに言い放ちます。
ここに三者の老獪な政治家により、乱後の鎌倉の体制が決定しました。
その後に泰時が義時の元を訪れます。
全て父上の思い通りになったし、これからは好きに鎌倉を動かせると思っているだろうがそうはいかない、私がそれを止める!
そんな泰時に対し、義時は面白い受けて立とうと返します。
一方、館で一人佇む政子は小刀で喉を突き死のうとします。それを「自分で死んではならない」と暗殺者であるトウが止めます、そして泣き崩れる政子。
義時は、広元や時房・泰時たち首脳陣と話し合い、親王を迎えるのを向こうから断るように仕向ける戦略を話します。ここから高度な政治的駆け引きが始まりそうです。
政子は義時と館で向き合い、伊豆に帰る心づもりを話しますが、義時はあっさり却下します。
頼朝の妻である政子の地位はこれからさらに重くなること、いよいよ北条の鎌倉が始まることを語る義時に、政子は「勝手にやって」と反発。
すると義時が「鎌倉の闇を断ち切るために、あなたは何をしてきたのか」と声を荒げます。
それに驚いた政子に対し「頼朝から学んだのは私だけではない、これまでもこれからも我らは一心同体だ」と義時はゆっくりと語りかけるのでした。
その後、義時は運慶の元を訪れ、頼朝ですら成し遂げれなかったことをしたいと、神仏と一体となった自分の像の作成依頼をします。
自分は欲得で仕事をしてないと断る運慶に、義時は「お前は俗物だ。だからこそお前の作ったものは人の心をうつ」という義時。
その言葉に対し、よくぞ見抜いたと笑いながら言う運慶は、仏像の依頼を引き受けるのでした。
以上が本話のあらすじです。
それでは以下から本話の雑感を書いていきます。
天命とは
巫女の老婆は実朝や重要人物だけでなく、誰彼構わずに「天命だ」と言っており、どうやら少しおかしくなっていたという演出でした。
これはとても良かったです。
つまり実朝に決意を促した言葉もただの偶然に過ぎず、ここに神意や人の思いに対する皮肉さが出ていて、非常に哀しい気持ちに包まれました。
自分は神や仏の存在を否定しませんが、信仰は自ら作り上げていくものだと思います。
そしてその結果の行動に、神の意志がまるで乗ったかのように思えることがある。
そんなことを思います。
実朝は、警備を増やすこともしませんでしたし、抱えていた悲しみもありました。
公暁も深い憎しみと悲しみに捕らわれていましたし、今回の悲劇は根本に人間の思いや行動があります。
また、それを見た上で八幡宮の階段にあの老婆が何かの力で導かれたようにも思え、色んなことを考える余地を与えてくれる名シーンでした。
惨劇が舞台化してる問題
八幡宮の悲劇の実朝や公暁の熱演は良い。
しかし気になる・・・
義時も泰時も義村もみんな下に居る!
そうまるで今から死ぬという演目の舞台を見ているかのよう。
これはもし狙ってやっていたとしても個人的には微妙でした。
別に史実通りにする必要はないですが、それでも義時は門のところで待機しているか、邸宅に戻っている印象がインプットされてます。
そもそもこの悲劇は雪の中で厳かに深い悲しみに包まれた惨劇という重さを期待していました。
しかし今回のまるで小劇場のような悲劇は、ある意味で出来レースのようにも感じてしまい、そこは残念でした。
のえとの会話における圧倒的人物描写
仲章が死んだことをのえに告げ、いつか余計なことを喋っていたら切っていたかもしれないから、お前も命拾いした。
と告げる義時は、もはや夫でも男でもない「政治の冷徹な修羅」です。
この怜悧なすごみは演じる小栗さんや脚本の良さが相乗効果を生んでいて、本当にゾクゾクします。
そして「八重も比奈も、もう少し出来た女子だった」
と絶対にやってはいけない人と人と比べるという下劣な事も、冷ややかにやっています←人を比較するのは本当にダメよね
しかしこれにはのえももちろん言い返します。
「言っていいことと悪いことがあります。今のはどちらでしょうか、どちらでしょうか」
このセリフもすごいです。
この語彙力の無さと、それよりも感情が先立つセリフがのえというキャラクターを的確に表しています。
公暁という一つの生き方
政子が「何でこんなことをしたのか」という問いかけに
「自分の名前を知らしめたかったのかもしれません。」
「源頼朝を祖父に持ち、頼家を父に持った私に、結局武士の名はありませんでした」
この言葉もとても染みます。
確かに八幡宮別当として生きていけば穏やかに人生を過ごせる。
しかしそれよりは武士の子として散るとしても名前を残したい。
もしかしたら公暁もうっすら死ぬことを分かっていたのかもしれません。
本作では頼家の死も「座して死をまたずに行動を起こして散る」という風に書かれていて、公暁もやっぱり頼家の子なんだなあと感じます。
そして自分も一瞬に瞬間に生きるという価値は分かります。
本作で、もともとそんなに好きではなかった頼家や公暁を、好きになることが出来たことは自分にとってとても価値があるものでした。
三浦義村という男、そして終わりを告げた友情
問い詰める義時に「力任せで政治をして、そしてずっと怯えるお前をみて嫌になった」こう語る義村ですが、ここには少しの本音、そして嘘、そして義時を攻撃する狙いが良い感じにブレンドされていて、義村の人となりを現わしています。
自分が権力奪取する気まんまんだったのに、こういう本音を言う空気の時にすら色んな狙いを交えています。
そして「誰も邪魔するものはいないから、これからは好きにやる」という義時に
「まるで頼朝気取りか、しかし鎌倉はガタガタだ。せいぜい馬から落ちないように気をつけるんだな」
このセリフもすごいです。
このセリフは的確な現状認識から未来に起こることをある程度予想出来てしまっています。
これを機に京都が攻勢を強めてきますし、本作の義時はどうやら幸せな死に方はしなそうです。
しかし本作の三浦義村は独特な魅力を放っていますね、まさにクセになるクセ者です。
そして義時自身の暗殺を知っていたことを否定するものの、義村の癖から義村が義時を亡き者にしようとしていたと知った義時の後ろ姿も良いです。
切ない後ろ姿だけで、今までも欺瞞を抱えながらもなんとなく続いていた友情が終わったことを表現しています。
素晴らしいシーンです。
三人の政治家と、坂東武者の鎌倉の完成
後ろから刺し殺した公暁の首を持って御所に来る義村、それを讃える広元、そして同じく讃えて北条と三浦の連携を確認する義時。
この老獪な政治家により、簡単に将軍暗殺の後始末は終わり、そして今後の鎌倉の体制が決まりました。
ここで描かれたのは、まさに政治の作法や言語を濃縮したようなもので、見ていて思わず唸ってしまいました。
三浦は首を持ってきたことにより疑いを晴らし禊を済ませ、北条に協力をアピール。
北条は混乱した鎌倉を立て直すため、ナンバー2と協力して他の御家人の不満を封じ込めたい。
そして広元は、政権の意志が二つではなく、義時を中心とする一つの意志系統にまとまり、鎌倉政治の形式が定まったことを喜んでいる。
こんな意志を三者が抱えているように思います。
そしてある意味で、このような形を最初から望んでいた人は居なかったでしょうが、将軍暗殺により、いよいよ源氏ではなく坂東武者の鎌倉が顕現しました。
こういう濃厚な政治ドラマはなかなか他作品では見れないので、個人的に本当にありがとうと言いたいです。
泰時がいよいよ熱い
本話で泰時が、思い通りに鎌倉を動かすと思っている義時に
「私がそれを止めてみせる。あなたの思い通りにはにさせない」
ととうとう宣戦布告します。
あまりに美化されて描かれる本作の泰時にイマイチ乗れなかった私ですが、こういう理想に向けて戦う精神はロックで熱い!!
行け泰時!そう心の中で叫んでいました←マジです
そして「面白い、受けて立とう!」そういう義時も熱いです。
おそらく義時は、内心嬉しい気持ちもかなりあるように思います。
自分が出来なかった理想を抱える息子VS現実の最前線に立つ父
うーん、熱い展開だ・・・
暗殺者が自殺を止める
トウが政子の自殺を止めるシーン。
これは個人的に心がとても揺さぶられました。
「主の命がなければ人は殺せない、自分で死んではならない」
これは人を殺めてきた者の何かしらの考えが現れているすごいシーンです。
自分の仕事であっけなく終わる命に接しているから、逆に命の尊さが分かるのでしょうか。
それとも人の死も、自分の暗殺も運命のように捉えていて、自殺を運命から外れているように思っているのか、本当の気持ちは分かりません。
しかし、このシーンでは言葉に出来ない何かが伝わる・・・
そういうシーンがあることが作品の深みを何倍にもしてくれます。
親王をめぐるあれこれ
義時は戦略として、親王を鎌倉に送るのをあっちが断るように仕向けさせようとします。
ドラマとしては京都との駆け引きが見れるので面白いと思いますが、将軍が死んで今の鎌倉は形式上のトップが不在で、組織として未完成な状態です。
そんな不安定な中で一刻も早く、将軍を迎えたいのが鎌倉首脳陣の本音であり、その場合やはり親王という位が高い人物の方が良いと思います。
その意味で、この描写は政治的リアリティにおいて個人的に微妙かなあと思いました。
姉に爆発する思い
伊豆に帰るという政子を「頼朝の妻」としてこれからさらに立場は重くなると引き止める義時。
北条の鎌倉実現を目指す義時に、政子は勝手にやりなさいと言います。
その瞬間、義時の抱えていた本音が爆発します。
「鎌倉の闇を断ち切るため、あなたは何をしてきたか!」
家族だからこそ出る言葉ですね、ここに義時の抱えてきた本音が出ています。
思えば義時は頼朝が死んでから、最初は理想を抱え、そして途中で理想を修正し、そして今は力と政治の倫理の信奉者と変化していきました。
しかしその間ずっと鎌倉政治の最前線に立っていたことは変わりません。
修羅のように見えても確実に心のどこかに痛みは蓄積されています。
一方、政子はその役割や人格が鎌倉には必要不可欠ではありますが、現実から距離を置いて理想を見ることが出来ていました。←それが御家人を癒していたと思う
だからこそ義時は、その差を突きつけることにより、ここで姉と一心同体であることを確認し、これからはより深く協力してほしいと思ったのだと思います。
もはや鎌倉の闇は義時も含んでしまっているとは思いますが、この姉弟の関係が今後どうなるかは見物です。
来るところまで来た義時、芸術論を巡る戦い
神仏と一体となった己の像を作らせる・・・・・
頼朝もなしえなかったことをしたいそういう義時は、その価値基準も含めていよいよダークというよりは「悲しい邪」の道へと踏み出したように思います。
この時代は科学も無く、信仰が強い力を得ていました。
頼朝も神仏への敬いは欠かさず、そして本作でも非常にその点では敬虔でした。
しかし義時は自分の像を神仏と一体化させると言う。
自分の像を作らせるだけでもおぞましいのに、神仏に似せるという・・・
もちろん政治上の重みを増すためという狙いもあるでしょうが、ここにきて本作の頼朝よりも義時は邪なる道へと踏み出したように思います。
自分と同じ全ての人間の安寧を作るのが政治であるとするなら、自分を特別視した像を作らせるのは愚の骨頂。
しかしここまでの義時を知っている身からすると、悲しい感情もありますね。
だからこそ私はこの義時を「悲邪」と呼びたい。
そんな義時と運慶との会話は怜悧で凄みがあり、しかも内容も凄いです。
欲得で仕事をしないという運慶に
「お前は俗物だ。だからお前の作るものは人の心をうつ」
と言う義時。
これは高度な芸術論でもあります。
一般庶民の欲望や快楽原則が分かっていないとヒット作にはなりえないし、残らない。
これは一つの側面ではあります。
しかし、歴史を振り返っても、自分だけにしか届かないまだ見ぬ光を追い求め作品を残し、それが今でも評価されれいる人もいます。
この義時の発言は、後者を自分が完全に捨てたという思いも含まれていると思います。
政治という俗物なものに生きる、これが義時の思いでしょう。
そして人間には完全な白も黒も無い。
運慶にしても、弟子に仕事を任せているからといって完全な俗物でもないし、また完全に聖者でもないでしょう。
しかしそれを断定してしまう。
この断定こそが、義時が本当に非邪の者へと堕ちてしまった所以です。
八重の死の時、運慶の仏像を憧れたように見ていた義時はもういません。
私は世の中に断定出来るものなど何一つないと思っているので、この断定こそが義時が修羅へと誘うキーワードに感じました。
しかし笑いながら「よくぞ見抜いた」と言った運慶は本当に義時の言葉を認めているでしょうか。
本作の運慶は、自分が面白いことに没頭する芸術快楽主義のように自分は見ています。
なので俗物を交えて芸術を語る義時に面白いと思っただけで、完全に見抜いたとは思っていないように思います。
というか作品を通して義時の魂や精神の邪悪さを見せつけよう思っている可能性がある、そんなことを思いました。
うーん、本作はとんでもなく精神に切り込んでくるドラマだ。本当にすごい・・・
最後に
本話は特に後半にかけて、名シーン名セリフの連続で見ていてクラクラするほどでした。
この圧倒的な激流が最後に何をみせてくれるのか?
今から想像するだけでドキドキします。
引き続き本作の雑感をアップしていきますので、よろしくお願いします。