<雑記>素っ頓狂はどこへ行った?

雑記

「素っ頓狂」という言葉は可愛い。

「狂」という字から連想される「狂人」「狂犬」「狂暴」などの、禍々しい何か。

それを「素っ頓」という柔らかいようで情けないような、ひょっとこ顔の彼が、狂気を和らげ、まるでマカロンのようにサクサクにスイーツコーティングしている様は、正に言葉の芸術品であろう←言い過ぎ

しかしここでふと「素っ頓狂」を俯瞰して眺めてみるに、実はその言葉のパワーに見合う様な具体的な行動は、ほとんど現代に存在していないのではないか? そんなことを思ったのです。

駅のホームでいきなり「玄米!」と叫びを上げ、笑顔で大地の豊穣の舞を踊り出すことは、一見、「素っ頓狂」のように見えますが、アニミズムがとうに忘れ去られたこの時代では、人々が怯えるだけであり、ただの狂人になってしまいます。

かといって、トイレの個室に並んでいる人々の背後に立ち、耳元で「お前の背後にいつでも地獄は存在している」とささやいたりしたら、恐らく捕まるだろうし、それは「素っ頓狂」というよりは黙示録主義者でしょう。

その意味で今の私たちに求められているのは「素っ頓」という言葉の解像度を高めることかもしれません。

やはり、「すっとん」という少し間抜けで可愛らしい音の響きからも、その行為には、わざとらしくない不意打ち感、そしてあざとくない可愛らしさが必要だと思います。

まず考えられるパターン1、それは老舗で職人肌のいる角刈りの大将がいる寿司屋での「すっとん」。

いきなりスーツ姿の新卒っぽい爽やかな黒髪青年が寿司屋に入り、大将の前で「さて何を握りましょう」とのたまうことは、中々に「すっとん」です。

しかしこのパターンは、大将に握る側と握られる側というのは、場と時と運でいかにも入れ替わりうる不安定な立場であるという、哲学的視野の深さが無い限り、青年の顔面に大将の握り拳が飛んでくるでしょうし、良くて青年のストレートの髪がバリカンで角刈りになります。

パターン2は、皆が大好き、カントリーマアムを巡る家族の一場面です。

父親の前では良い顔をしていながら、裏ではねちねち自分に嫌がらせをしてくる義母に対し

「お前に俺の本当の母親をお見舞いしてやるぜ!」

と言い、義母の口にめいいっぱい、カントリーマアムのバニラ味を詰め込む行為は、ほどよい残虐さと行為の可愛らしさが、良い感じに「すっとん」です。

しかしこれは詰め込む側が、余程愛嬌があってからっとした陽キャじゃ無い限り、巌窟王のような義母への復讐譚の一幕になってしまい、そうなると全然「すっとん」ではなく、現代風の古典オマージュになってしまいます。

そうなのです。実は現代において「素っ頓狂」を実践することは至難の業なのです。

可能性としては、個々の事案として「素っ頓狂」を実践するのではなく、空間や土地、場の力を使い「素っ頓狂」を顕現させることでしょう。

そうなると一番結果が最速で出そうなのは、日本の首都である東京を、新首都「素っ東京(すっとんきょう)」にしてしまうことです。

このあまりにチャレンジングな姿勢に世界各国も真のクールジャパンを見せつけられることになります。

そんな新首都「素っ東京(すっとんきょう)」の特徴↓

・渋谷は109も含め全て米軍キャンプに、若者の街から兵(つわもの)の街へ。ハロウィンでは米兵がアメとかガムをくれる

・巣鴨の8割が超高層ビル。そのほとんどが刑務所。

・新宿はやっぱりストリート系。通りではパパ活ギャング、ママ活ギャングによる抗争が勃発、歌舞伎町のアーチ以外建物は消失し焼野原。

・そもそも場所が山梨県。元々の東京は温暖化によりピンポイントで水没し湖に。

・素っ東京オリンピック2020の開会式は、壮麗で芸術的であり大成功。2024年のパリオリンピックに多大なプレッシャーを与える。

ここまですれば、さすがに「素っ頓狂」でしょうが、日本社会がディストピアになるという犠牲を払わなくてはなりません。

ふむ、やはり「素っ頓狂」は一朝一夕にいかないもんですなあ。

(おしまい)

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