「嵐が丘」は19世紀のイギリスの作家、エミリー・ブロンテが書いた唯一の長編小説です。
エミリーは、皆が文筆家であるブロンテ三姉妹の二番目で、姉のシャーロットは「ジェーン・エア」の作者です。
本作のあらすじは、ヨークシャーにそびえる嵐が丘の屋敷に住むアーンショウの一族と、その主人に拾われた浅黒い肌を持つ混血の少年ヒースクリフ、そして鶫の辻の屋敷に住むリントン家の人たちの交流を通して、描かれる世代をまたがる人間群像劇です。
その中でも軸になるのが拾われたヒースクリフ、そんな彼と姉弟のように育ち愛を育むキャサリン・アーンショウであり、基本的にこの二人が引き起こす出来事が軸となり物語が進んでいきます。
本作は、現代の作家でも色んな人が面白いと言っている古典作品であり、いつか読もうと思っていたのですが、ようやく読了することが出来ました。
読む前のイメージは、巌窟王のような荒々しい復讐劇のような物語を想像していたのですが、読んでみるとその想像は裏切られました。
なんというか本作はとにもかくにも、色んな要素がデコボコのまま練り上げられているのです。
デコボコと表現したのは、面白みや魅力のようなものが、そのまま放り込まれてるという意味であり、悪い意味ではなく、むしろ私はそういう作品が好きです。
本作は一見するとヒースクリフによる壮絶な復讐劇とも見えますし、裏返すとキャサリンとヒースクリフの地獄の業火のような恋愛物語にも見えます。
かたや階級や世襲に対する皮肉や哀れみを描いた物語に見えれば、血の因果を巡るホラーのようにも見え、または愛で因果を乗り越える新世代の物語にも見えるのです。
そして終わってみると、それらのこと全てが魅力を失わないまま1本の糸のように編みこまれていたことが分かる、そんな作品が本作です。
本作は出版当時、その構成についてかなり厳しく言われたということで、まあそれは分からないでもないです。
基本的に本作の大部分が、家政婦のネリーがロックウッドという青年貴族に嵐が丘の物語を聞かせるという体で描かれるのですが、冒頭部や後半部分に違う人物の主観に変わったりするのでチグハグな印象がしてしまうのは否めません。
がしかし、です。
本作は、そのちぐはぐな感じも個人的に魅力の一つだと思うのです。
語り部のネリーの怪しげな魅力も相まって、物語にどんどん体ごと練り込まれていく感覚をこの構成が助けていると思います。
本作を読んで個人的に印象に残ったのが、上流貴族の軽さ・浅はかさです。
鶫の辻の屋敷のエドガー・イザベラ兄妹は本物語において、ヒースクリフやキャサリンに次いで重要な人物ですが、なんていうか非常に浅はかさが鼻に付くのです。
この兄妹を見ると、恵まれた環境で人生に対して何も考えなかった成れの果てを見せられているように感じます。
すごいのは一応主役格であるはずのロックウッドもまた、非常に形式的で浅薄な印象を抱かせることです。
普通の物語なら、本物語の聞き手であるロックウッドを良く描くと思うのですが、あえて作者は貴族のキャラを浅薄に書いているように思え、そしてそれはとても成功しているように思います。
そしてそこをしっかり描くことでヒースクリフの悪と、貴族の浅薄さが合わさると、人間が腐ったような存在、すなわちリントンジュニアが出来るんだな←辛辣だけど本作で一番嫌いなキャラ
とも思い、このように様々な因果や性格が混ざることで、人間群像劇の解像度と魅力を不思議なくらい高めていると思います。
ここまで述べるととてもギスギスした暗い話なのではと思うでしょうが、終盤にはしっかり次の世代の希望もまた描かれるので、人間の業の部分一辺倒というわけでもありません。
とにもかくにも、想像以上のエネルギーを秘めている作品であり、傑作なので、気になったら是非読んで見て欲しいです。