今年の9月は異常である。
雨、雨、さらに雨。雨のマシマシ、雨のグランデ、雨の5倍盛、岩倉玲音もびっくりのワイヤードっぷり←は?
これはどう考えても、常識では考えられない事が起こっていると言って良い。つまるところ、これは呪術的な超常現象的な、人智を越えた何かの意志である。
その人智を越えた何かは、実の所、私たち庶民でも少しの想像力さえあれば、容易に想像がつく。
そう「てるてる坊主」の怨念だ。
私は長い間、アジアの極東でありながら、早々に先進国入りを果たした日本における、この「てるてる坊主」という文化・因習に、違和感を抱いてきた。
なぜ、白いつやつやした坊主さんを、空中に宙吊りにしなくてはならないのか?
彼は当たり前だが、何の罪があるわけでもない、王族に対する反逆者でもないし、多くの人民を傷付けた独裁者なわけでも、数億円を超える横領や背任を働いたわけでもない。
「ただ雨が降った」
それだけで、地面と空の中間。誰も足がつかない中空、虚空の地獄に吊るされ続けてきたのだ。何にもなれず、どこにもいけないままに。
さて9月である。
9という数字を反転させると6。そして6月は梅雨。雨の季節だ。
ここに今年の9月が置かれていた状況のヒントがある。それには我々が「てるてる坊主」に対し犯した更なる罪悪の説明をしなくてはならない。
「るてるて坊主」
これはただでさえ、吊るされている「てるてる坊主」をタロットの吊るされた男の様に、逆さに吊るし、雨を求めるという、人倫にもとる、欲深き人間の最低の思考の産物だ。
我欲の為に太陽を求め、そして場合によっては雨を求める自分勝手さ。
その理由も、急な天候不順を理由に愛人に会いたいから、運動会に出たくないからなど、くだらないものがほとんどだ。そんなやつらなど、まとめて運動会に放り込み、愛人対抗パン食い100メートルリレーをやらせておけばいい。
しかしそれでも人間は「てるてる坊主」を吊るし、時には逆さづりにすらしてきたのだ。
そんな彼らの怨念・憎悪は臨界点を迎えた。
お前らが逆さづりに吊るすなら、俺らも雨の季節を逆さにしてやる・・・
こうして6の反転である9月、今年の生粋の行楽シーズンは、昏い雨雲に覆われる事になったのだ。
既に9月は終わり、暦は10月に入った。しかし「てるてる坊主」の怒りがこれで収まったとは到底思えない。明らかに今の我々がすべきなのは、彼らの鎮魂。言うなれば「てるてる坊主」様たちの怒りの着地、地面への着地へと動き出す事だ。
その鎮魂の儀において注目すべきは、てるてる坊主における後半部、「坊主」の方に隠されている。
常識的にてるてる坊主の実年齢を考えた時、あのつるつる感とうぶな感じから、彼らは成年ではなく、恐らく十代の少年である事は自明の理だ。
さて十代の少年の坊主。それはつまり野球部である。
野球部の坊主頭。これもまた日本に存在する根深い因習の一つだ。
球を取り投げ、打つ。確かに野球はシンプルなスポーツだ。
しかしだからといってそれを行うプレイヤーの髪型をシンプルな、ボールを象徴するような頭にする必要はどこにもない。
現在では坊主を強制する学校は少なくなったのだろうが、自分の意志でない、自分の意志でない、望まない「球投げ坊主」がかつてのこの国では、グラウンドに縛り付けられていたのだ。
この坊主の怨念もまた、てるてる坊主の負のパワーに引き付けられ、もはやてるてる坊主の怒りは、国土を飲み込もうとしている。
ゆえに我々は早急に鎮魂の儀を行わなくてはならない。
まず私たちは第一に、坊主頭の聖地である甲子園の土を集め、そこでてるてる坊主が降り立つ大地の象徴・神具である縄文式土器を作る。
もちろんこれはてるてる様の怒りを覆う深鉢形土器、さらにはその怒りを象徴した火焔型土器でなくてはならない。
そこに老若男女の毛髪と白い布を入れ、火をくべる。
土器の上から炎が上がったら、高らかに私たちは歌い上げる。
そう
さわやか3組のテーマを。
太陽の光は僕らに降り注ぐ、なぜなら、僕等は手を取り合う仲間だからだ。
こうしててるてる坊主は地面に着地し、誰かの犠牲ではない、横の真の連帯による祈りが大地を覆い、ようやく太陽は顔を出すのだろう。
(おしまい)

