<考察>「夏帆 The Tale of KAHO」 闇へと向き合い、物語へと転化する意志

考察

「夏帆 The Tale of KAHO」村上春樹さんが、2026年7月3日に発表した、女性を主人公にした初の長編小説です。

絵本作家である主人公の夏帆が織りなす、ありくいの夫婦や、凶悪なジャガー、シロアリの女王など、幻想的かつ可愛らしさが同居する豊かなイメージ。

それに加え、無意識の闇を見つめて、その層を深く下りていく高度な構造を持った本作は、まごうことなき傑作です。そしてその内部には、作者の物語に対する意志や決意が込められています。

例により、考察がかなりの文章量になってしまったので(笑)、一気に読まず、少しずつ読んだり、気になる項目だけを読むのもいいかもしれません。(もちろん一気に読んでくれても構いません。むしろ嬉しい)

村上さんの作品は、象徴性が豊かで物語の構造が深いので、人によって様々な解釈が成り立ちます。

本考察では、文のリズムや流れ上、断定的な表現になる事もありますが、正解を提示しているわけでは全然なく、あくまで私個人の解釈を提示しているだけです。作品には読んだ人の分だけ独自の解釈があり、ゆえに創作作品は豊かなのだと思います。

本サイトにおける考察は、私自身が作品から貰った・掘り出した、その作品の本質の結晶を紡ぎ、文章にする事を目的としています。

なので以下の文章は、「こいつはこう思ってるんだなあ」くらいな感じで読んで頂ければ幸いです♪

以下、本作のネタバレを含むので、それが嫌な人はここまででストップしてください。

↓夏帆の無意識の層、イメージ図

まず初めに本作の構造を説明します。これを捉える事により、本作をより深く楽しめるようになると思うので、その一助にして頂ければ幸いです。

本作は一言で言うと、「夏帆の無意識の穴の世界を巡る不思議の国のアリス」です。

本作の始まりは、佐原による「君みたいな醜い相手は初めてだよ」という言葉であり、これが夏帆の無意識に裂け目を開き、そこから無意識の穴の奥へ進んでいく構造。そのように捉えると良いと思います。

そして夏帆が穴の奥の深い層へ進んで行くごとに、現実の世界と無意識の世界の浸食が進んでいき、精神の在り様が、世界の状態に影響を与えていきます。

佐原との出会いがブラインドデートというのも、視覚・意識の遮断により、無意識を表出させるという象徴性を帯びていたりします。

本作は「夏帆とモーターサイクルの男」「武蔵境のありくい」「夏帆とシロアリの女王」「守護天使、象の卵とスカーレット・ヨハンソン」の四部からなるわけですが、章が進むごとに、夏帆は無意識の奥底へ進んでいき、世界のフェーズが変わっていきます。

イメージで言うと、トルネコの大冒険やチョコボの不思議なダンジョンなどの、深い階層の洞窟を潜っていくゲームの感覚に近いかもしれません。

以降、本考察では各章をそれぞれ夏帆の無意識の層と捉え、モーターサイクル編を第一層、ありくい編を第二層という感じに区割りして呼称していきます。

物語冒頭、第一層の段階では、なぜ夏帆が佐原の言葉により、裂け目を生じさせ、穴に落ちてしまったのかは分かりません。

それは第四層に下りた段階で初めて、母に生誕を望まれていなかったのではという、根本存在の否定とリンクしていた事が分かります。佐原の容姿否定の言葉が、夏帆の抱える根本の闇を想起させた事が、裂け目を生じさせた理由の一つです。

要約すると、夏帆が裂け目から、無意識の奥へと進んで行き、その奥底にある自身の闇と向き合い克服する事で、その裂け目を閉じ、現実へと帰還する。これが本作の基本的構造になります。

注意すべきなのが、ねじまき鳥クロニクルなど過去の村上春樹さんの作品においては、人物や事象に宿る「歪み」の象徴は一貫しており、変化はしないのですが、本作においては層が深くなるごとに、夏帆の無意識も深くなり、問題自体が変化するので、物事の象徴が変化するという事です。

どのように変化するのかは、本考察内で言及していきます。

佐原の言葉がきっかけになり、それが自身の闇へとリンクした。

そう前項で夏帆が無意識の穴に降り立つ理由を説明しましたが、ここではそれ以外の理由も含め、もう少し詳しく述べていきます。

まず前提として、佐原とのブラインドデートを受けたのは夏帆の意志であり、ある種の怪しさを含む会食である事は、最初から分かっているわけです。

夏帆は直近で、恋人と気持ちの良くない分かれ方をした事が物語で言及されていて、恋人探しももちろん理由の一つでしょうが、それよりもブラインドデートに赴いた理由で大きいのは「好奇心」だと思います。

後の項目でも言及しますが、夏帆は基本的に、性欲に対し鷹揚というタイプではなく、一夫一妻的で、平均的な、純愛の価値観を無意識に信奉しています。

また彼女自身は形式的な外見美ではなく、絵や物語という内面的な価値観を大事にする女性であり、佐原が象徴する資本主義社会の歪んだ欲望とは無縁な生き方をしてきました。

しかしここで重要なのが、彼女が絵本作家つまり、物語を作る人間であることです。

つまるところ、彼女の好奇心は強い。そして好奇心というのは、本質的に善も悪も関係なく、光も闇も貪欲に希求するものなのです。

ゆえに夏帆は、自身が選ばなかった、正反対とすら言える歪んだ価値観への興味が、無意識で抑えられず、引き寄せられる様にブラインドデートに臨んだのではないでしょうか。

またいくら夏帆が選ばなくても、世間は悪気なく外見美や消費的価値観を押し付けてきます。その無意識の抑圧のストレスがここにきて、好奇心と混ざり、噴出したという側面もあるかもしれません。

また彼女が26歳という年齢だった事も、無意識の穴に落ちた事と関連性がある可能性があります。

それがいつなのかは人によるし、その人の抱える問題にもよるのでしょうが、夏帆の場合、仕事がある程度成功し、周囲が結婚していくこのタイミングこそが、自身の闇と向き合わないといけないぎりぎりのタイミングだったのではないでしょうか。

これから先、絵本作家として、そもそも人間として生存を続けていく為には、自身の無意識の深くに眠る闇、「母に愛されてなかったのでは」「望まれて生まれてきたのではなかったのでは」という根本的な否定の感覚に向き合わなくてはいけない時期だったのでしょう。

この闇は夏帆が性に対し抑圧的な事にも密接に関わっており(詳しくは後の項目で)、もしかしたら前の恋人と上手くいかなかったのも、性的な問題が関わっていた可能性もあります。

とにもかくにも、夏帆はこのままいくと、自身を蝕む闇に呑み込まれる可能性があった。だからこそ、無意識の層を下りていき、その闇の境目から、闇自体を見つめる必要があったのでしょう。

佐原の言葉は衝撃的ですが、あくまでそのきっかけを与えたに過ぎなかったとも考えられます。

↓夏帆の無意識が抱える表裏の感覚。そのイメージ図

本作に登場する様々な場所や人間は、それぞれが何らかの性質を象徴しています。この象徴性・隠喩、いわゆるメタファーこそ村上作品の特徴ですが、本作はそこにさらに「表裏」という関係性が加わります。

例えば武蔵境とブラジルのジャングルはいわゆる表裏の関係で、これは地理的にも正反対の場所です。

それ以外にも、例えば税務署長の母の兄、と新小岩の洋食屋の叔父。これは階級主義的な価値観と、下町的な分け隔てない価値観という表裏の象徴です。

また夏帆自身の生まれがそもそも冬だったり、作者が春の樹であるのに対し、主人公が夏の帆であったりと、あらゆる表裏が本作には散りばめられています。

しかし本作においてその表裏が大事なのは、それらの表と裏はそれほど遠くなく、境目は存在し、それを超える事でいつでも繋がり浸食しうるのだ、という思想です。

本項目冒頭の図は、陰陽太極図をベースにしています。この図は白と黒がちょうど反転するように合わさり、境目で結び付けられています。

本作は、夏帆の精神・無意識の変化が、現実に浸食していくという構図であり、言い変えるなら、精神の境目を越え、表から裏側へ向きあい、それらが混ざり合う物語です。

劇中において、モーターサイクル男の佐原やとぎやの主人は、明確に「邪」の象徴ですが、層が深くなるとその象徴を変え、夏帆の味方的立ち位置へと場所を移したりもします。表と裏は混ざり合い、時にその性質は変化するのです。

これは絵本作家であり柔軟な内面性を持つ、夏帆の無意識の働きでもありますが、あらゆる物事が、状況や、その時の精神において、白にも黒にもなりうる事もまた表しているわけです。

またこの白と黒の浸潤は、抑圧された歪んだ欲望もまた、夏帆自身の内面に確実に存在する事を同時に現しています。聖のありくいと同じく、邪のジャガーも夏帆の無意識が媒介し登場しているからです。

言うなれば、自らが選んでない価値観とはいえ、夏帆の無意識、いや誰の無意識にも、佐原的な歪んだ欲望や性欲、階級主義的な価値観が存在してはいるのです。

その意味で、物語中で、ブラジルと武蔵境が繋がり、ありくいの夫婦や邪悪なジャガー、性欲の象徴であるシロアリの女王が入り込んできたのは、人間の精神の聖と邪は表裏一体な側面があり、簡単に切り離せないし、混ざってもいる。その様な事実を表しているのだと思います。

本作において主人公の夏帆は、各層で起こった事を物語と絵、すなわち絵本に転化させます。以降、本考察ではこれを夏帆の能力とし、「絵本化」と表現します。

この絵本化は、自身の闇を物語により昇華する行為であるとともに、それらと同じ、類似した闇を抱える読者に対し、善き物語を提示し光を与えたいという意志の現れでもあります。

この豊かな内面性に依拠した闇の昇華こそが、夏帆の主人公たるゆえんと能力であり、無意識の闇を見つめる為の軸になるものです。

これを具現化したものが、ありくいの奥さんと話をした、ゼリー状の半透明な壁の空間であり、この場所を精神の起点・軸に持ち、夏帆は深い穴の奥の層へ進んで行く事になるのです。

ここからは各層毎に起こった出来事とその象徴について書いていきます。

第一層におけるモーターサイクルの男、佐原。本作は彼の人の精神を損なうような、ショッキングで最低な言葉から始まります。

本作は、夏帆の無意識のフェーズが徐々に深くなっていき、物事の象徴性が変化する事は、既に述べましたが、佐原もまた第四層の再登場時、もっと言えば第一層の二回目の登場時にも若干の立ち位置の変更があります。

というより、物語冒頭で、夏帆の精神に裂け目を与えた佐原以外は、夏帆の無意識の影響を受け、存在が変化している可能性があり、純粋な他者としての佐原は冒頭の彼だけかもしれません。

また、モーターサイクル男としての佐原の象徴性を語る前に、ナビゲーターとしての彼の役割にも言及しておきます。

本作は彼の言葉により生じた、無意識の裂け目から、その奥へ下りていき核となる闇へと迫っていく構図です。

そこから考えるに佐原は、不思議の国のアリスで言う白ウサギ。またはファウストのメフィストフェレスの様な存在でもあると捉えていいでしょう。(他にも登場するナビゲーター及び、その概念については後の項目で書きます)

とはいえそちらのナビゲーターとしての役割が色濃く出てくるのは第四層からであり、以下は第一層における佐原の象徴性について言及します。

佐原は、村上春樹作品に何度も登場する、主に中高年の男性が抱える、歪んだ性的欲求、資本主義に呪われた権力志向、人間を部品として、商品として認識する、邪悪な精神性を象徴しています。

他作品で言うと、ねじまき鳥クロニクルの綿谷昇、アフターダークの白川などが、佐原的価値観を有する存在です。

名前がサハラであり、砂漠を冠している事からも、彼の心が渇き病んでいる事が象徴されており、またモーターサイクルのバイク自体も邪の価値観を象徴しています。

佐原のモーターサイクルはBMW社製であり、BMWはドイツのバイエルンを拠点としています。

過去の歴史や、重商的軍事的イメージから、多くの作品でドイツという国は、悪の象徴性を担わされる事が多く、本作もまたその価値観を踏襲し、かつそこにバイク・モーターサイクルという資本主義性・男性性も乗っかっています。

そして佐原が証券会社で働いている事も、ネガティブな象徴性の一つです。架空の概念・マネーゲームへの狂騒という側面の、カリカチュアとしての個性がそこには乗っています。

重商主義的でマネーゲームの象徴が乗る、中高年のイケメン。しかし彼は病んでおり、どこか退屈そうです。

その意味で第一層における佐原は、資本主義社会に病む、歪んだマッチョイムズの象徴として顕現していると言えます。

本作の第一層である「夏帆とモーターサイクルの男」

この層において、夏帆は佐原の衝撃的で最低な言葉により、無意識世界の穴に飛び込みます。それこそがこの層の大きな意義で、物語の起点と始まりです。

言葉により切り裂かれ、開いた無意識の穴、闇に繋がる世界。その闇に対抗したり、影響される形で、既にこの時点において、後の層を形成する多くの事柄が、夏帆の精神・イメージによって形成されます。

邪悪な欲望・性欲の対向者としてのありくい。ブラジルのジャングルのイメージ。ジャガー、象のイメージすら、既にこの層で言及されています。

つまるところ、これらのイメージ・存在を作り出したのは夏帆の精神そのものであり、後の層のあらゆる基本形が作られたのが第一層なのです。

そして更に重要なのが、第一層において夏帆の主人公としての軸、ある種の主体も形成されるという事です。

佐原の言葉により、夏帆は今までの人生で自分が選んでこなかったルッキズム的価値観、異性を消費物のように眺める・比べる価値観、それに付随する消費快楽など、自身が見ないようにしてきた世間体・世間からの抑圧的なダメージに晒されます。

更に自身の裏側・逆側であればあるほど、自分にない要素であり、好奇心の対象にもなる為、夏帆自身が無意識に望んだという側面もあるわけです。

しかし重要なのは、夏帆にはその闇に吞み込まれる事のない、しっかりとした軸・聖なる内面があるという事です。

それこそが彼女の「絵本作家」という主体で、いわゆる物語を作る想像力・優しさ・内面性を重視する人格です。

これがゼリー状の半透明の空間を形成するもので、この場所を軸に持ちながら、彼女は自身の闇を見つめるわけです。

第一層の絵本の内容は、自分の顔を失った少女が、自分の顔を探す旅に出て、様々な出会いや経験を経た後に、とりあえずつけたはずの仮の顔が、自分の顔になったことを自覚する物語です。

これは外見の美ではなく、自分が選びとって経験した内面こそがその人の価値を作り上げるという事を表しており、既に第一層の段階で、夏帆の立つ位置、軸は確立しているわけです。

その後、夏帆という絵本作家は、この軸を確かに持ちながら、自身の深い無意識の闇を潜っていく事になります。

本作は、夏帆が無意識の裂け目から、その層を下りていく物語であり、その裂け目は、現実世界と無意識世界の境目です。

夏帆は、絵本作家たる軸を持ちつつ、その奥の闇へ進んで行くわけですが、この内面の軸に身を置きながら、精神の闇を眺める事は、「境目から闇を眺める行為」と大きく括る事が出来ます。

第二層において、夏帆が武蔵境という土地に引っ越す事にも、その象徴が含まれています。

まずその語の元である武蔵野、武蔵野台地は、東京と埼玉にまたがる関東平野の台地の名称で、そもそも武蔵国とは、かつての東京都の区画を指します。

その境、境目である武蔵境の語からは、関東平野と深い森林に包まれる山間部との境目というイメージが想起されます。(実際の武蔵境はかなり都会)

これを人間の精神に置き換えると、見渡せる関東平野は日本人の表出する意識、一方で深い森を擁する山間部は、闇をたたえる無意識の領域と捉える事ができます。

その意味で夏帆が無意識の奥へと進み、自身の根本を蝕む闇と対峙する為にも、武蔵境という地に引っ越す事は、必要不可欠だったのではないかと思うのです。

そしてその武蔵境と、日本の裏側であるブラジルのジャングルが繋がるという事。

これは前項の表裏の項目でも語りましたが、陰陽太極図の白と黒を象徴するような、武蔵境(日本)とブラジルのジャングルが、夏帆が無意識の領域に踏み込んだ事により繋がり、それらの要素が浸潤・混ざり始めたという事だと思います。

表面上は、礼儀や形式を重んじる日本人の精神の裏側には、抑圧されている本能的な欲望、いわゆるジャングル的な野性が眠っているという事も、二つが繋がった象徴に含まれているかもしれません。

本能と混沌を抱えたブラジルのジャングル。

そこから繋がった通路を通り、夏帆の元へ現れた動物たちもまた、夏帆の豊かな無意識・イメージの産物です。

それらには聖なる感情、抑圧された欲望など、夏帆の様々な精神の要素が象徴されていますが、その中において、ありくいの夫婦は、一夫一妻制的な純愛、安定した貞操観念の象徴として登場します。

これは次項で詳しく述べますが、シロアリは放蕩たる性欲を象徴するわけで、それほとんど残らず掬い取り食べてしまう彼らは、性の安定者、性欲の撃退者・性欲バスターであり、夏帆の奔放な性に対するネガティブイメージも顕著に現れています。(詳しくは後述)

ありくいの奥さんは、劇中において、自身の言葉で、一夫一妻制を称揚し、不倫の様な事は愛に対する冒涜だと断罪します。これは夏帆の絵本作家としての、幼児の様な純粋な正義感の現れととってもいいかもしれません。

またありくいは、第一層で佐原の鮮烈な言葉・邪に相対する形で出てきた、夏帆の最初の守護獣です。

ありくいの中に宿る、純愛・性欲の安定者のイメージが、外見的で消費的な邪悪な性欲に相対し、彼女にとって、とても重要で暖かいものである事が伺えます。

またもう少し象徴の内容を狭めていくなら、ありくいは、夏帆が愛する穏やかな父、及び優しい叔父のイメージとリンクすると捉えていいと思います。

本作に登場するシロアリは、性欲を象徴しています。

動物としてのシロアリは、家屋の木材を食べ、柱ごと、その家を崩壊させる事もあり、その繁殖力とエネルギーはものすごく、ゆえに人間社会で恐れられている生物です。

これは後のシロアリの女王の項目で詳しく書きますが、これらの要素は、明確に母の中に眠る家庭を崩壊させかねない性欲とリンクしています。

また夏帆は基本的に奔放で節操のない性欲や、不倫の様な非倫理的な関係性に対しネガティブなイメージを持っています。

それら、彼女のイメージが具現化されたのが、シロアリだったりシロアリのイルだったりするわけです。

また、第二層に登場する、ブラジルから輸入されたシロアリのオイル漬けについてですが、ブラジルのジャングルは、鬱蒼とした、とぐろを巻くような、本能的で強い性欲を象徴しています。

そしてそのシロアリが詰まった箱は、ヘブライ語で封がされています。

ヘブライ語は、古代にイスラエルに住んでいたヘブライ人が母語として使っていたものが、現代に復興された言葉であり、旧約聖書はヘブライ語で書かれました。

ユダヤ教やキリスト教の性倫理は厳しいイメージがあり、またユダヤ教では、不倫や婚外性交渉などは厳しく戒められてもいます。

その「倫理」で封印されている本能的な性欲。

それら不貞行為を誘発せざるを得ないほどの強い性欲を、ありくいの夫はぺろりと平らげるわけです。ここにも性欲を撃退する、消滅させる存在のありくいのイメージが投影されています。

次に、そのシロアリの瓶詰めを、夏帆自身が取りに行かせられた理由を考えます。

その一つは第一層の考察部でも述べた、性欲への好奇心でしょう。

そしてもう一つは、第二層で対決する歪んだ欲望の蹂躙者・男性性の象徴であるジャガーと向き合う準備だと思います。

また第四層で明らかになるシロアリの女王、つまり母の性欲、自身の根源否定へ連なるものの存在を認知し、向き合う事が必要とされている、という事を表しているのではないかとも思います。

つまるところ、夏帆には、「性欲というもの」と向き合う準備が必要とされていた、と言った所でしょうか。

また夏帆は、持ち帰ったシロアリの瓶詰めから、その中身が夜中に次々と出てくるイメージに怯え、家に入れず、床下との境目とも言える縁側に置くわけですが、それもまた夏帆の奔放な性欲に対する恐れと好奇心の表れだと思います。

第二層の、ゲームでいうボスキャラのような存在が、とぎやの主人に憑依した邪悪な肉食獣・ジャガーです。

ジャガーに乗る象徴は、資本主義や権威主義の中で歪み歪まされた男性性、女性や未成年を快楽の為に消費するような価値観であり、第一層の佐原の側の価値観に属する存在と言えます。

ありくいの夫婦は、ジャガーに子供を食い殺されていますが、彼らは一夫一妻的な純愛を象徴しています。

その子供を食い殺す事。それはすなわち両親の子供としての夏帆を脅かす、女性を商品としてみる歪んだ男性の性欲を表し、もっと広く捉えるなら、未成年すらお金で抱こうとする援助交際的精神に繋がっている歪んだ欲望といってもいいかもしれません。

そして重要なのが、そのジャガーが憑依に選んだ人間の器が、刃物を研ぎ復活させる「とぎや」の店主である事です。

耳がとがり、鼻腔が膨らみ、まるで悪魔のような外見をしている70歳過ぎの刃物研ぎの老人。

まず刃物とはフロイト的に解釈するなら男性器の象徴です。そのなまくらになったモノにかつての切れ味を取り戻させる仕事。

これは、年老いて、男性機能が低下し、歪んだ欲望を諦めていた男が、間違った情報や広告、男性機能を回復する薬等に踊らされ、再度性欲にとりつかれる、いわゆるパパ活的な精神を表しているように、私は感じました。要は邪悪なる回顧欲望じじいです。

また、これは別の角度からの話になりますが、「とぎや」の店主は、未婚の一人暮らしであり、恐らくプライベートで会話する相手も、あまりいなかったのではとも想像出来ます。

スコセッシ監督の映画、タクシードライバー的な、一人暮らしで自己のみの対話で煮詰まり、先鋭化していき、歪んだ欲望を加速させていく無敵の人。このような象徴もジャガーや「とぎや」の店主には乗っているのではないか、そのように思うのです。

第二層のラストは、「とぎや」に研いでもらった出刃包丁で、ありくいの旦那さんの力を借り、とぎやの中に入っているジャガーだけを刺し殺すというものです。

これは言い変えると、正しい男性性の価値観(ありくいの旦那)で、歪んだ男性性(ジャガー)を破壊する行為です。

ジャガーは自分の分身が研いだ刃にやられるわけですが、それは彼の刀を研ぐという技術自体や、それに連なる自分の精神をもう一度磨き直すという思想自体は悪くなく、それらが正しい男性性の回復に使われればこうなる、という可能性の顕現が出刃包丁であり、邪悪が刺殺される事、とも取る事が出来ます。

この行為により夏帆は、自身が世間から晒されてきた、歪んだ男性的な価値感の抑圧を一定程度克服します。それが第二層の意義です。

全てがそうとは言いませんが、資本主義社会の成功者は、人々の欲望を喚起・利用し、資本を集積した人間です。

その思考を突き詰めると、欲望を希求する人間自体をマーケティング対象、もしくは商品と見なす事になり、それは自身の快楽にも当然反映され、自身の精神も蝕んでいきます。

これは哀しい側面でもありますが、現代の若者は高齢者に比べ、相対的に貧しく、ゆえに刹那的な消費価値から逃れられている人も多いです。

しかしバブル世代を中心とした中高年は、豪奢・消費こそを美徳とする人間が多く残っており、彼らが世の中を動かす中心にまだいる為、日本社会(世界も)はその価値観の影響から逃れる事は出来ません。

これはいわゆる美食、豪邸、美酒、良い時計、良い女的な価値観であり、ルッキズムや階級主義も根は浅薄な消費快楽にあると私は考えています。

その世代が過去の栄光を引きずり、自身の歪んだ欲望を再度、研いで復活させ、お金や権力で女性や子供を食い物にする。

今の日本でも、見えない所で、このような事が沢山行われているのではなかろうか。私はそのように思います。

夏帆の人生や価値観は、絵や内面、そこから湧き出る物語に向かっていますが、女性として生きているだけで、それらの歪んだ欲望から、世間の圧力から完全に逃れる事は出来ません。

第二層では、それらの価値観に対し、ジャガーを消す事で一つの決着をつけたわけです。

夏帆がジャガーを刺したのが、ありくいからもらった出刃包丁で、その背中をありくいの夫が押したのは、ありくの夫が聖なる善の父性、所謂、父や叔父を象徴する存在だからです。

言うなれば、夏帆の中にある正しき聖なる男性像が、歪んだ男性からの抑圧を跳ね返した、その様に捉える事も出来るかもしれません。

ここで歪んだ男性性からの抑圧を克服した夏帆は、自身の更に奥深くの層に進み、その価値観の延長戦上にある、呪いに囚われている母の問題、言うなれば自己の根本の問題に向き合う事になります。

第三層では、実家に戻った夏帆が、母がシロアリの女王に乗っ取られた事を認識します。

すなわち自分自身を蝕んでいた問題の核が顕現し、根本に抱えていた闇を直視する事になるわけです。

夏帆の母は、元々地主の娘でしたが没落し、生活レベルが下落します。以降はそのトラウマから高レベルの生活ステータス、ハイレベルな家庭という、世間体と理想がこじれたまま結合した、ある種の症状に近い欲望に囚われながら、彼女は人格を形成し、人生を過ごしてきました。

外見もかなり綺麗であり、異性にも人気があった夏帆の母。

本能では、ルックスが良く、趣味嗜好が好みの男性を選びたいと感じていた可能性があるわけですが、彼女は医者の肩書を重視し、ぼんやりした外見の夏帆の父と結婚します。

ゆえに結婚当初から、豪華なステータスという症状と引き換えにして、彼女の性的満足は満たされないまま抑圧されてきたわけです。

ところが結婚してみたら、個人医院の医者は、大変な割に実入りは少なく、娘は学業や美貌ではなく、絵や物語という内面性を取る。時が経つにつれて、彼女の中の症状としての理想の家族像も、諦めた性的な満足も、両方共が実現しないことが明らかになってきました。

娘も独り立ちし、夫婦仲は悪くはないけど、特段仲が良いというわけでもない。その停滞した安定の中、更年期を迎えた時、彼女の中の抑圧してきた性欲の逆襲が始まった。

それがシロアリの女王という形を取り、内面を侵食していった、私はそう考えています。

シロアリは木の柱を食い荒らし、家の土台を崩壊させます。

夏帆の母は、既に結婚前から実家のトラウマがあり、理想の家庭・生活という病に囚われていました。ゆえに人生の長い期間、自分を蝕み苛んできた<家庭>というものを、蝕みめちゃくちゃにしたいという無意識が働いたのも、彼女がシロアリの女王に乗っ取られた理由の重要な一要素だと考えています。

母の変化としての具体例である、ママ友との恐らく少し高級なランチ会、派手な赤い車などなどは、ある種、誰もが持つ華やかな憧れ、パリピ女子大生的な価値観に通じるものがあります。これも彼女が、父を選んだ事により抑圧してきた欲求の復活の一部分です。

またシロアリの女王の地位は、若い世代の女王に取って代わられるものであり、夏帆の母に入っている女王も、ブラジルでの女王の地位を若い世代に奪われたもの、という描写があります。

先程少し述べた、パリピ女子大生やそれに連なる価値観を突き詰めると、いわゆる港区女子的なモノに行きつきます。

それは自身の性的魅力や外見を武器として、男に高くそれを売る様な価値観であり、その全盛期は、当然ながら若い時がピークであり、長続きするものではありません。

ゆえにその価値観や欲望だけで立っている女性は、年を重ねれば簡単に若い世代にその場所を奪われる事になります。それが女王の世代交代の裏に潜む、現代社会の風刺的寓意ではないでしょうか。

上記の価値観は、モーターサイクル佐原やジャガーに通じるものであり、夏帆の母がここにきて、その価値観に邁進する様子は、「とぎや」の店主がなまくらな刃物を研ぐ事、すなわち歪んだ男性器エネルギーの復活に近い要素もあるかもしれません。

第一層で、自身の無意識の穴に入り込み、絵本作家的主体を獲得し、第二層で自身を抑圧していた、世間の価値観・歪んだ男性性を克服した夏帆。

そして第三層ではいよいよ、夏帆の無意識の底に眠る闇が顔を出します。

「私は母に望まれて生まれた子ではなかったのではないか?」

「母の人生にとって私は生まれてこない方が良かった存在なのではないか?」

親は自身を産んだ存在であり、自身の半身の様な存在とも言えます。そのうちの片方である母親が、自分の誕生を歓迎していなかったのではないかという感覚。これこそ、夏帆が抱えていた闇の核心です。

夏帆が奔放な性欲に対しネガティブイメージ(特に母に対する)を持っているのも、夏帆と心が通じ合う父に対する裏切りが許せないからであり、また自分と似た性質を持つ父を裏切る事は、夏帆の半分の遺伝子を裏切る事でもあるからです。

そもそも不倫的な性愛イコール父の否定は、夏帆の存在の根本をも否定する事に繋がっています。

つまるところ母の問題は、夏帆の根本存在への否定という問題に密接に関わっているわけです。

第三層の物語で夏帆は、シロアリの女王に意識を乗っ取られた状態の母から、夏帆を産んだ後悔を直接聞いた上で(あくまで気持ちの中の一部、母には夏帆に対する愛もしっかりある)、シロアリの女王と対峙する決意をします。やはり彼女は絵本作家たる聖なる空間をもつ主人公であり、精神の軸は強いのです。

ここまでが第三層の物語で、第四層で夏帆は母の内面に潜むシロアリの女王を倒す為、動き始め、そして決着をつけます。

以降の項目からは、第四層や物語の終盤を中心にしつつも、これまでのようにその層に視点を据えたものではなく、本作全体を含めた考察になります。

モーターサイクル佐原やジャガー、そしてシロアリの女王は、夏帆の闇サイトを媒介して知り合いました。これは一体何を象徴するのでしょうか?

夏帆は、人生において、内面性や想像力を重視する絵本作家的な価値観を選び、生きてきました。しかし物語を作る人間には好奇心が必要であり、夏帆の好奇心もまた強いです。

そして、好奇心は、本質的に道徳や善悪に束縛されません、そもそもどんな人間も多少は歪んだ欲望や感情は抱えており、好奇心はあらゆる感情を媒介とし、光闇に関係なく、無造作に動き回ります。

また逆説的ですが、精神は自身が否定するものこそ、無意識で惹かれているという側面があります。

否定するという事は、意識しているという事であり、自分が選ばなかったという事は、今の自分には無い要素なわけで、それが時間や環境により裏返り、魅力的に映る事もわるわけです。

言うなれば夏帆の闇サイトとは、彼女が意識から排除し抑圧しつつも、好奇心が捉えていた歪んだ闇の欲望の象徴なのだと思います。

その意味で、その陣営に属する佐原やジャガー、シロアリの女王は、意識で否定しつつも彼女の無意識の中に、確かに眠る存在でもあるわけです。

本作は夏帆が、光の軸を持ちながら無意識の奥の闇へ迫っていく話であり、それを違う言い方で言うなら、自分自身を確かに保ちながら、境界を越えて闇に迫っていく物語です。

それら境界を踏み越える・越境を象徴しているのが、夏帆が小学生の頃に家に居ついた、白地にくっきりした黒の斑点が入っていた猫、ホルです。

ホルは、劇中での境界線の描写や、その模様からも、現実と無意識の浸潤、闇と光が混ざる事など、これまでの夏帆の無意識の穴の冒険自体を象徴した様な存在です。

ネコは睡眠時間が多い動物で、古今東西の物語で、夜と昼、幻想と現実を媒介する様な神秘的な存在として描かれる事も多いです。

本作でも、ホルやその絵本化としての存在であるスカーレット・ヨハンソンさん(長いので以降からはスカヨハさんと表記)は境界を行き来し、媒介する存在として描かれています。

スカヨハさんに乗っている象徴やその存在の解釈ですが、その女優さんの名称や凛とした芯が強いイメージからも、ホルの要素に、夏帆自身の毅然と闇に向き合う精神が融合した存在だと私は解釈しています。

そんなホル及びスカヨハさんが、主に最終層である第四層の、夏帆のナビゲーターなわけですが、それらの詳細はナビゲーターの項目で語ります。

「とぎや」の店主から夏帆が授かる、シロアリの女王を退治する刃物。その形状は独特です。

柄の部分は胡桃材で腎臓に似た形をしており、刃物というより鋭い太針のよう。

本考察で、シロアリの女王は歪んだ性欲の象徴、ありくいは純愛・貞操を象徴すると述べてきました。

それを踏まえた上で、このとくべつな刃物に乗る象徴、腎臓についてを見ていきましょう。

まず腎臓には、血液をろ過し不要な毒素・老廃物の排出をして、血液自体を綺麗にする役割があります。

また体の中の水分量や、ナトリウムやカリウムといった成分のバランスを保ったり、血圧を調整するホルモンを分泌して、血圧をコントロールする働きもあります。

その他にも、骨髄で赤血球の増殖を促して血を作るのを助けたり、骨を丈夫にするホルモンを作ったり、体の循環や安定を保ってくれる重要な臓器が腎臓です。

これらが総じて象徴するのは、安定性や循環、バランスであり、これは更年期を迎えている母の精神面だけでなく肉体面にとっても必要な要素です。

そして大事なのは、腎臓は二つあるという事。

性欲を撃退するシロアリを食べる動物はありくいで、かつ二匹の夫婦です。そしてこの刃物も、期待される役割は性欲を撃退する事。そしてその象徴である腎臓も二つ。

その意味で、この刃物もまた歪んだ性欲と対置され、ありくいの夫婦が象徴する、純愛・貞操を象徴しており、そこにバランスや循環という腎臓的な象徴も加わっている、そう考えるのが良いと思います。

また、シロアリの女王が象徴するのは、溢れ出す家庭を壊す程の性欲なので、それに相対する、この貞操と腎臓の刃物は、穏健な安定性を信奉する精神の強さを象徴している、そのようにも言えるのではないかと思います。

第四層でありくいの奥さんが登場しないのは、母の問題は夏帆自身が向き合わなければならない(象徴に逃げる事が出来ない)というのと同時に、ありくいの奥さん的な要素は、純愛・貞操の価値観が象徴する特別な刃物という武器になり、夏帆に力を貸している、そう言う風に捉える事も出来そうです。

本作は、夏帆の無意識の層を下りていく物語で、その層が深くなるごとに、物事の象徴も変化していきます。

モーターサイクルの男・佐原は、この無意識の裂け目、穴に夏帆を導いた張本人であり、その意味で最初から物語のスターター兼ナビゲーターの象徴を帯びていました。

その意味で彼は、第一層における不思議の国のアリスでいう白ウサギの役割を担っていると言って良いかもしれません。

一方で、既に言及済みですが、主に第一層においては、村上作品に頻繁に登場する、資本主義的で消費的な価値観に毒された、男性的欲望を象徴する存在としての側面の方が強く出ていました。

しかし第二層で、とぎやにとりついたジャガーを倒した事により、夏帆は歪んだ男性性を克服。以降において佐原の象徴は変化します。つまり歪んだ男性性の側面が抜け落ちた・弱まった形です。

結果、第四層で登場する佐原は、アリスでいう白ウサギ。すなわちナビゲーターとしての側面が強く出ている存在へと変化しているわけです。

さてその第四層の佐原が、自身を守護天使だと言及した時に、引用するのがアメリカの作家・ジャック・ケルアックであり、彼はいわゆるヒッピー的カウンターカルチャーを代表するビートニク世代の作家です。

ビートニクやヒッピーカルチャーとは、スピリチュアル世界への探求、東洋的価値観への憧憬、資本主義的価値観の否定、性欲やセックスへの肯定などなどを掲げ、実践した60年代にアメリカの若者を中心に風靡した文化・運動であり、現在でもその文化的遺伝子を継ぐ作家が活躍しています。

本作の作者の村上さんも、アメリカ文学への造詣が深く、青春時代にビートニクを食らった世代であり、特に初期の作品の作風に、その影響が垣間見えます。

そのことを考えた時に、第四層の佐原には、明らかに作者自身の体重が乗っかっています。

もちろんそもそも物語がスタートしたきっかけが佐原である事を考えた時、物語を書き始める<作者>とそもそもリンクしている為、冒頭から既に村上さんが乗っかっているわけですが、第四層では更にそれの比重が高まった、そう捉えるのがいいと思います。

また第四層で登場するネコのホル・スカヨハさんも、境界を飛び越え・媒介する案内者でありナビゲーターです。

キャラクター的にもアリスの白ウサギに近いので、こちらが本来なら冒頭から出てきそうですが、夏帆の中の猫の記憶は、家族に結びつき、自身の深い無意識の中に眠っていたのであり、第四層に潜る事でようやく解放された、そう捉えるのが良いと思います。

「表裏」の項目で述べた劇中の対比の一つ。父・叔父と母の兄が象徴する価値観の違いについて、ここでは詳しく述べます。

新小岩で洋食屋を営む叔父は、気さくで陽気な人物で、夏帆の事を可愛がってくれます。またそもそもとして夏帆が愛する父の弟なのもあり、元々夏帆と距離は近く、父も含め彼らは「聖」の「正しき父性」の陣営を構成しています。

一方で税務署長である母の兄は、他人が自分より上か下か、命令する方かされる方かでしか人を判断しない、浅薄な階級主義的な人間として描かれます。これは佐原・ジャガーに通じる「邪」の価値観の陣営です。

本作は武蔵境とブラジル、夏帆と春樹(後述)の様に、性質が反対のものを多く登場させており、父の兄である叔父と、母の兄の対比もまた、二つの要素・価値観を象徴しており、読者はそれらの要素から、様々な事を思考出来るように作られています。

またこれらの象徴は、夏帆の絵本力や想像力により動物に置き換えられてもいます。

具体的に言うと、父の書斎で音楽を聞いた時、夏帆に浮かんだイメージである「柔らかな栗色の毛並みの、たくましい熊さん」が父や叔父の様な、聖なる父性を象徴。一方で、佐原や母の兄は、純粋なものを食い散らかす、悪しきジャガーとして象徴されます。

この対比は、実は母の問題にも密接に絡んでおり、夏帆は自分自身を父の聖なる陣営、そして母を蝕み構成する価値観を悪しき陣営の方に、無意識で捉えています。本作はその価値観と夏帆が相対し決着をつける物語でもあります。

第一層から夏帆が想像力を媒介させ、闇を物語として昇華していた絵本化の能力。その集大成が第四層で描かれるミソラの物語です。

各層の絵本は、それぞれ夏帆が抱える闇や問題を昇華し、聖なる善の物語へ変換したものでしたが、第四層の闇は、夏帆の闇の根本なのであり、今までよりも更に重要な意味を持っています。

家族と遊びにきていたはずなのに、いつの間にか深い森の中に一人で取り残されてしまった少女・ミソラ。

これは望まれて生まれてきたと考えていたのに、成長し色々な事が分かってきた時に

「母が本当は自分が生まれてくるのを望んでいなかったのではないか?」

と考えてしまい、深く傷つき、森の中に一人取り残されてしまったように感じた、夏帆の少女時代の体験が、ほぼそのまま反映されたもなのではと、私は考えています。

ゆえにこそ、夏帆の無意識の森の奥深くの闇、それを照らすのは、その闇を切り裂く様な、美しい空、ミソラという名前の少女でなくてはならなかったのでしょう。

夏帆は、その闇を抱えたまま26歳まで生きてきたものの、その先の人生へ進むには、根本が否定された様な自己欠損の感覚と何かしらの決着をつけないと、自分自身がどこかでバラバラになってしまい、精神が失われてしまう。

その様な状況にいたのではないでしょうか。

そんな時、佐原とのブラインドデートで「君みたいな醜い相手は初めてだよ」と言われ、その言葉が、自身の根本の否定へと繋がり、その闇が振動し、無意識の裂け目が開いたわけです。

夏帆が劇中でミソラも自分も失われてはならないと述べますが、夏帆がミソラを書き救う事でミソラを救い、ミソラの救いが描かれる事が夏帆を救う事になる事が、この言葉から分かります。

これは作家が作品を書く事、読者に読んでもらう事で救われるのと、読者がその物語を受け取り救われるという相互関係がそのまま当てはまります。

その意味で夏帆の物語は、村上さんの一つの作家論、作家自身の精神の昇華の方法を描いている作品とも言えるのではないでしょうか。

ミソラの絵本で登場する象、そしてその卵。これは一体何を象徴しているのでしょうか。

そもそもとしてブラジルにおいて象は実際には存在しません。

また象の優しい瞳、巨大な体、戦争時の動物園での殺処分などからは、滅びゆく純粋性、寄る辺ない哀しみの様な要素も象徴しているように、私は感じます。

本考察で、ありくいは純愛・貞操などの純粋性を象徴していると述べましたが、象もまたありくいと同じく鼻の長い動物です。

それを踏まえ考えると、象には巨大化した肥大化した純粋性という象徴も含まれているのではないでしょうか。

そうなると、象の反対に、ありくいが小さく小回りが利く存在なのは、夏帆が持つ純粋性の柔軟さ、ささやかさを象徴しているのではないかとも考えられます。

ここからは、物語から読み取れる解釈を中心に、象とその卵について掘り下げていきます。劇中の表現をストレートに解釈すれば、ミソラは夏帆を象徴し、象は夏帆の母を象徴しています。であるならその卵は何を表すのか。

まず象と母のリンクについてですが、長い鼻がフロイト的な解釈では男性器を表す事も踏まえると、没落し失った旧家の豪奢な暮らしへの憧れ、それを構成していた封建主義的な家父長制的な価値観への無意識な依存を象徴しています。

別段、象自体に邪悪な象徴は乗っていないのですが、時代に取り残された巨大なモノという象徴が、母の囚われている価値観とリンクして象に象徴されている、そのように考えるといいと思います。

夏帆の母の根本の闇は、没落の衝撃や屈辱であり、以降の、やたら肩書や社会的ステータスにこだわる性質もここから生み出されいるわけで、その虚しき価値観も象に乗っかっています。

母自身も虚しいと気付いているのが、巨大で哀しみを背負う象に象徴され、絵本化している夏帆も、母のこだわりを虚しいと思っている事が、象という巨大で儚い存在に乗っているのです。

さて、次はいよいよその象の卵についてです。

まず象は哺乳類なので、そもそも卵を産む動物ではありません。つまりこれは幻想であり、ある種の願望の象徴だと言えます。

また象が夏帆の母の象徴であるなら、その卵は、彼女が、実現しないと思っているけど抱えてしまっている理想の象徴という事になります。

卵を奪われた母象は狂暴になり暴れるという描写から、それは母にとっての核、ある種、症候的なこだわりである事も推察出来ます。

そこから考えると、先ほど述べた、豪奢な上流階級の暮らしの理想や、誰もが羨むハイソな家族という要素が、卵を構成しているのは間違いありません。もちろん母は、その二つ両方が実現しない(充分裕福な暮らしだが彼女自身の理想には届かない)事を知っています。ゆえに幻である卵なのです。

そして卵が孵化イコール子が生まれるという事実から連想した時、象の卵は、母が望む理想の娘という願望も含まれる。その様に言う事が出来ると思います。

勉強もせず絵ばかり描いていて、外見にも無頓着な現実の娘ではなく、美しく学歴優秀で上流階級と結婚しハイソな家庭を築く理想の娘。

それはまるで理想の自分の分身です、それが叶わぬ事は分かっているからこその幻である卵なのであり、だからこそ、母は、象は、自身の中で大事にそれを抱えているわけなのです。

絵本の主人公であるミソラは、象の卵を盗んだ後、母象の怒りを買い、踏み潰され、ぺしゃんこにされてしまいます。

前項で、象の卵は、母が抱えていた実現しないのに持ってしまうこだわりや願望、理想の娘像であると述べました。

それをミソラが盗むという行為を考えてみます。

ミソラは夏帆の純粋性の象徴で、象の卵は、母の実現しない理想。

この理想は失った少女時代の豪奢な生活など、様々な物が含まれますが、そこには自分の思い通りにならかなった現実の娘ではなく、自身の理想の分身の様な、願望としての娘という要素も入っています。

それを盗むという事は、すなわち母の理想の娘像を奪い去る事であり、夏帆という現実の存在に目を向けて欲しいというメッセージを含んだ行動です。

その結果、ミソラは怒った象に潰され、ぺしゃんこにされるわけですが、これは夏帆がシロアリの女王に乗っ取られた母と対峙し、自分が望まれて生まれたわけではなかった事を聞き出した事、すなわち自身の闇・痛みと向き合う事を象徴・リンクしています。

夏帆は劇中では淡々としていましたが、それを聞いた時に、内心では自分の存在が崩れていく様なショックがあったのは確実だと思います。

夏帆はその闇と向き合う事で、母と自分自身を蝕むものでもあるシロアリの女王と戦う決意へと一歩を踏み出すわけですが、その夏帆の絵本上の人格であるミソラも、家族の元に真の意味で帰るには、母の象の症候的こだわりを奪い、自身がぺしゃんこになるという、イニシエーションを経験する必要があるわけです。

村上作品には、ねじまき鳥クロニクルの井戸の底で見た光や、海辺のカフカの銀色の円盤の様に、その後の人生にプラスになるかマイナスになるかという観点では測れない、自身の存在を揺るがすような崇高な経験の描写が存在します。

本作のミソラの経験もまたそれに近いものがありますが、本作では闇を見つめ乗り越える、傷ついても相手の本質と向き合う、と言うような、次の次元への痛みを伴う脱皮の様な要素が強いのも特徴です。

またミソラの、象にぺしゃんこにされるという行為は、夏帆による母の中に巣くうシロアリの女王退治ともリンクしています。

実際の母の肉体に刃物を突き刺す行為は、彼女の中で自分が一度ぺしゃんこになる位の体験だった、そういう風に捉える事が可能です。

ここまでの考察を踏まえ、本作の最終章である第四層で描かれる事をまとめます。

最終層において、夏帆は小さい頃から抱えていた、自身の根本否定、すなわち自分は母に望まれて誕生した子供ではないのでは? という闇を見つめ、その原因である母の抑圧された欲望の発露であるシロアリの女王を倒して母を救い、母との関係の折り合いをつけ、現実へ帰還します。

現実に戻った後、夏帆は、その体験をミソラという主人公が登場する絵本に転化し、森の中に取り残されたミソラが家族の元へ戻るというお話に昇華する為、机に向かう。

これが夏帆による夏帆の物語の出口・ゴールになります。

シロアリの女王の項目でも述べましたが、母の中の生い立ちのトラウマとそれが生み出した抑圧が、女王を呼び込む彼女の隙でした。

しかし私は、夏帆の母が歪んだ価値観に囚われた大きな原因は、社会の方にも、その帰責性があると考えています。

日本社会における母に求める役割の重さ・その抑圧。

個の時代と言われているのに、なぜか母親は「聖母」を求められ、その上で、洗濯・食事の準備・子育てに忙殺される。

本作の中でも、夏帆の母が、シロアリの女王の影響から寝込んでいるのにも関わらず、台所の片づけをしているという描写があります。

これは夏帆から眺めた時には、偏狭な几帳面さという感覚になるわけですが、私には、これが母という役割に染みついている呪いの描写に感じました。病の時でも母親は台所を綺麗に保たなくてはならないのです。

また夏帆の母の世代による常識的価値観や、裕福な地主という旧来的な価値観の土壌で育った事も含めた時、女は「家内」として家の中にいて家を守るという概念が、当然の様に、夏帆の母の中に根付いてしまった事は容易に推測出来ます。

さて、こうなった時にです。

その牢獄のような抑圧である家庭を壊してしまう性欲が爆発する事は、そんなに悪い事なのでしょうか。むしろ自由に幸福を全うするスパイスとして、その力にエールを送りたくなってきます。

私のもう一つの問題意識として、父親の不倫よりも母親の不倫の方が、背徳的で禁忌のように感じられる社会的価値観への違和感がありますが、不倫の罪悪はここでは一旦置いとくとして、母親が自身の性欲を大事にすることは、何ら責められる必要はないと思うのです。

もしその欲望に夫が応えられない、応える気が無いのであれば、それを外部に求めてしまうのもある種、仕方がない事のように思います。

この話の続きは、本考察の一番最後の項目に譲ります。

ずっと自身の中にある、絢爛と輝く理想の「家」の価値観に苦しめられてきた夏帆の母。その心は内部で分裂しています。

夏帆は第四層において、母との和解を決意するわけですが、自室のベッドで眠っていた時、シロアリの女王に意識を奪われている状態の母が襲い掛かってきて、夏帆は首を絞められ、危うく命を落としそうになります。

母の中にある邪悪な欲望が夏帆を襲う中、極限状態の中、夏帆は母の中にある愛を信じ、「お願い、お母さん、助けて!」と声を振り絞ります。

実の所、これが言えて、それが母の意識に届いた時点で、母との和解は進展しており、母娘のある種の和解・心の交流は成った。そう言う事が出来ます。

その後、夏帆は自身の無意識や絵本力、外部の力を頼り、シロアリの女王を倒しますが、その前段階で既に倒す準備は出来ていたわけです。

つまるところ、対決前に「母に愛されていないのでは?」という問題は、かなりの解決を見ており、シロアリの女王を討伐し、その問題は収束します。

しかし、夏帆の問題はそれでいいにせよ、母の方の問題はどうなのでしょうか?

これもまた最後の項目において書きたいと思います。

第四層において夏帆は自身の闇と向き合い、それに立ち向かう事になるわけですが、そもそも物語冒頭から彼女は自身の、内面に宿る、物語の想像力を軸にしています。

それは彼女自身の資質によるものですが、父の価値観も確実に影響しています。

クラシックのレコードを集めるのが趣味な、穏やかで優しい父。夏帆が音楽から連想する、柔らかな栗色の毛並みの、たくましい熊さんは、彼女が芸術へ向き合うまなざしの象徴でもあり、それは父の価値観が彼女の中で優しく育ったものです。

また父の兄である叔父のユーモアも彼女の価値観を醸成するのに役立っているでしょう。

夏帆は幼い頃から絵ばかり描いていたわけですが、そのきっかけに確実に誰かから褒められた経験があると私は思います。褒められて子供は伸び、その肯定が羽を伸ばしてくれるのです。

劇中の感じから見るに、母は夏帆の絵を褒めていないでしょうから、夏帆の絵を褒めてくれたのは、間違いなく父や叔父でしょう。

それにより夏帆の内面の豊かさが育ち、自身の闇に向き合う軸になったのですから、第四層も含め、本作がその価値観を元に展開され、シロアリの女王との対決もその価値観が全面に出てくるのは当然の事のように思います。

しかしです。それを差し引いても、実の所、夏帆は、基本的にほとんど、母の側に、母の価値観に立って物事を考えていません

これについては夏帆自身の闇も深く、ギリギリの戦いをしていたわけで、そこまでは出来ないよというのも分かります。

しかしシロアリの女王が最後に言う、「あんたは母親を何ひとつ理解してない、ほとんど何も知らない、愛してもいない」という指摘は、核心を突いている部分もかなりあるのです。

そもそも、夏帆が母との和解を決意したのも、父の音楽レコードを聞いていた影響(柔らかな栗色の毛並みの、たくましい熊さんのイメージ)が夏帆の思考を動かしたからですし、夏帆の中で父の存在が大きいのは明確です。

また作中の寝付きの良さなどの共通点も含め、様々な性質を父から受け継いでいるのが伺えます。

もちろん夏帆は、劇中で母の本音の一部分と向き合い、それを認めた上で、愛もあると信じ、自分なりの和解を見つけたわけで、それはすごいことです。

しかし母の問題、母の価値観に対しもう少し向き合う余地はなかったのでしょうか。これについても最後の項目で詳しく書きます。(最後に回し過ぎ笑)

夏帆は、秩序を危うくするような奔放な性欲に対し、ネガティブなイメージを抱えています。

それは劇中の様々な描写にも現れています。

かつて家に居ついていた、ネコのホルが去勢されていたり、守護獣であるありくいの奥さんが、一夫一妻的な純愛・貞操の象徴であったり、そもそもそのありくいが性欲の象徴であるシロアリをぺろりと食べつくしまったりなどなど、彼女の無意識には性欲への抑圧的なイメージが付きまとっています。

これは夏帆自身の言葉にも現れており、劇中において、特に母親の不倫的性愛に対しては、たびたびその嫌悪感を表明しています。

それぞれ抱えている価値観には違いがあり、夫婦なんだから不倫はダメ、両親の婚外性交渉など論外という考え方の人も沢山いるし、むしろそちらの方が主流派なのだろうと思います。

ただし私に関しては、お互いが納得しているなら、別に性生活は自由に楽しめばいいのでは? というタイプです。

ありとあらゆる物事が不規則に流動している世界で、人も物も、その場所や所有者は移動していきます。

そうやって移動により世界が成り立っている以上、全ての物事に次の第三者が予定されているわけで、夫婦という二者にずっととどまっている方が本質的にはおかしいのではと思ったりもします。

夫婦関係というのは人間の理性や倫理に、相当な負担をかけ依拠しているのではないでしょうか。(ただし自由恋愛を認めるなら夫婦で話合いは必要、互いが納得する道を模索すべき)

さて、本作の話に戻りますが、私自身は夏帆の母が自身の歪んだ「家」の概念から解放されるのであれば、シロアリの女王が象徴する性欲を、ある程度楽しむのもありで、害なく共存できるのであれば、そのままでいいのでは。そう考えています。

しかし夏帆にはそう思えない、明確な事情があります。

それは母の自由な性欲というのは、イコールで夏帆と遺伝子が繋がる父という存在の否定に繋がり、夏帆自体の根本存在の否定へ繋がる価値観だからです。

ここに夏帆の性的なものに対する否定の根源があります。ゆえに夏帆の中のありくいは一夫一妻制や純愛を信奉するのです。

シロアリの女王との対決の最終局面で、夏帆は母の体に刃物を差し込む事を、最後まで決断できません。

これは作者の村上さんが、夏帆という人間性に添い物語を進めているからで、彼女はいかなる時でも人に刃物をさせる人間ではないのです。(ジャガーの時もありくいの夫に助けられている)

その意味で夏帆が、何かを倒す時には、そのつど「何か」の助けを必要とします。

そして最終局面において、それは守護天使であるスカヨハさんの、洞窟の奥から聞こえる声です。では果たしてそれは一体何を象徴するのでしょうか。

結論から言うと、それは佐原の言った「外部からの手助けの力」であり、その正体は、彼女の中に眠る絵本力であり、夏帆という物語自体の小説の力でもあり、更にそこには作者である村上さん自身の精神も含まれていると思います。

これら全てを含めたものが、善き物語へと導く為の力であり、これが、夏帆が意識を預けたものの正体です。

本作で何度も引用されるドイツの哲学者で、精神に通暁した素晴らしい著作で有名な、ヴァルター・ベンヤミンの「善き物語とは必ず何かしらの有用性を含んでいる」という言葉。

私自身、ベンヤミンさんの著作を読んだ事が無いので、自分の解釈が合っているのかは分かりませんが、善き物語というのは、そこから何かしらの希望や光を受け取れるものである。その様にこの言葉を捉えています。

さて、考察前半で述べたように、そもそも物語のきっかけである佐原、ホルやスカヨハさんも、本作のナビであり、ナビというのは物語の方向性を導く作者である村上さんの分身です。

その意味で、物語世界の一人の女の子・人間である夏帆に出来ない事を、物語や作者の精神という上部存在が助け、希望や光を受け取れる結末・善き物語へ導いたというのが最終局面の構図なのではと、私は考えます。

さて、それでは物語は、作者は、なぜ、ある種、残酷とも思える、シロアリの女王を倒す事を後押ししたのか?

ここには、村上さんの現実世界への視座と矜持があるように思います。

当り前の話ですが、世の中には絶対の正解は存在しないし、全てが丸く収まるという事はありえません。

むしろそれぞれが何かを我慢する中で、そこにある自身の内面から、また自分とは全く違う他者から、至高のものを発見し幸福を追求していくのが人生なのだと私は考えます。

その意味で物語の「有用性」の中には、現実の厳しさを見つめ、それに即している事も含まれているのかもしれません。

本作において、物語・作者は、母の中に巣喰うシロアリの女王は、母と夏帆を損なうものと判断した。すなわち善き物語の為に、捨てるものを捨て、選ぶものを選んだ。それが本作の善き物語の意志なのだと思います。

そしてこれは実は夏帆が第一層から行ってきた絵本化とも関係性があります。

シロアリの女王との最終対決の前、実家の自室にベッドに入った夏帆が、その眠りの中で、ミソラの物語自体が、作者である夏帆のプランや意見とは無関係に、それ自体の力によって自然に進行し始めたと感じる場面があります。

この場面においてミソラの物語を動かしているのは、夏帆の深い無意識の奥底に眠る、善き物語へ向かう意志でしょう。

つまるところ、シロアリの女王を刺した力には、外部の力だけでなく、内部である彼女の中の無意識の力も含まれているのです。むしろ無意識を通じ内部と外部が繋がっていると捉えても良いかもしれません。

夏帆が母の体を刺せない時に、ありくいの奥さんを象徴する刃物の柄を握っていた事と「誰かが自分を助けてくれなくてはならない」という願いや言葉が、外部の助けを呼びました。

その助けに呼応した守護天使のスカヨハさんの声も、刃物の柄も、助けてという願いも、その全てが夏帆の無意識に含まれる。その様に捉える事も出来るのではと思います。

またここに「読者」という視点を入れるなら、夏帆の無意識、作者の無意識、物語の力が、読者に対し善き物語を伝えたいという力や意志に導かれ、夏帆の体を動かした。その様な解釈も可能です。

夏帆は自身の闇と向き合い、そして外部と自身の無意識の力を借り、母の中の歪んだ欲望、シロアリの女王を倒す。

これが夏帆の無意識の裂け目・穴の最下層の物語で、夏帆はこれにより現実へと帰還します。

しかしその直後、シロアリの女王が抜けた母と会話した夏帆は「私は昨夜、実際にこの人を殺してしまったのかもしれない」という、ひやりとした、ある種の後悔に近い感覚を抱きます。

そしてその直前に母が夏帆に言う「ねえ、みんなそうやっていつかはいなくなってしまうのよ」という言葉。本作の終盤は単純で安易なハッピーエンド的な展開でなく、深みと余韻に満ちています。

これらの終盤の展開、そしてエンディングについて、私は二つの意味が重なり合っているのではと解釈しています。本項目と次項目では、それらについて詳しく掘り下げていきます。

まずエンディングを夏帆の母視点で見るなら、彼女が長い間、囚われていた理想的な暮らしや家にまつわる願望、その形式美にも密接に繋がる性欲が、諦めと共に失われてしまった。という事でしょう。

シロアリの女王の消滅により、母の体や命、夏帆の家庭の崩壊はまぬがれましたが、それと引き換えに失ったものもあったわけです。

次に夏帆の視点で見るなら、エンディングの母の中の欲望の消滅は、無意識の裂け目・穴に落ちてしまった原因の喪失を意味します。

母は夏帆の半身であり、同じ女性なので、ある種一つの未来の形とも言えるわけです。その母の中から、歪んだ性欲やこだわりが消えた。

これは夏帆自身が抱えていた闇の昇華であると同時に、ある種の喪失でもあるのです

人間は自身が選んでない忌避している価値観も、無意識のどこかで惹かれている様な複雑な精神構造や好奇心を持っているわけで、それは物語を作る絵本作家であるなら、なおさら強いはずです。

そもそもありくいもジャガーもホルも、夏帆の無意識に眠る闇と対峙する為に出てきたものです。その原因の闇が消えた時に、ある種の喪失感を感じるのは当たり前の事だと思います。

自身が精神の中で症状だと捉えているもの。自己はそれを嫌悪する一方で、それに固着してもいるわけです。それらが複雑に願望や快楽とも繋がり、聖と邪が浸潤している存在、それが人間です。

その意味で夏帆も母も、何かを選ぶと同時に何かを捨てざるを得なかった。これがこのシーンの意味する所、作者の考える人生の本質の一側面なのではないか、私はそう思います。

どんな選択にも完全はなく、失うものもある。それでも善き物語の為に何かを選ばなくてはならない。ここに前項でも述べた村上さんの矜持があります。

しかし夏帆は失ったままでいるわけではありません。

本作の最後は、夏帆がミソラの絵本を完成させる為に、机に向かう文章で終わります。

自分自身の闇と向き合い、打ち勝ったものを、今は姿が見えなくなり失ったものを、再び脳内に呼び出し、文字と絵に具現化し、善き物語に昇華して読者に届けにいく。

これこそが夏帆の辿り着いたゴールであり、物語冒頭からずっと続けてきた彼女の価値観そのものです。

そこにあるのは世間の貸方・借り方のせましい価値観でなく、読者を信じ、作者を信じ、お互いが与え合う、光の価値観なのだと思うのです。

前項の内容が、「夏帆」という作品における、物語としてのエンディングの解釈でした。

しかしこのエンディングには、もう一つ、作家・村上春樹自身の現状と決意が乗っかっています。

まず前提として本作の主人公・夏帆には作者自身の価値観が深く投影されています。もはや分身とさえ言っていいかもしれません。すなわち劇中で言う、夏帆とミソラの関係です。

夏帆は父から音楽を慈しむ、すなわち芸術を愛する内面性、寝付きの良さ、楽観的で鷹揚な価値観を受け継いでいますが、これらは作者のパーソナリティと合致します。夏帆の父の価値観は、イコール村上さんに近い価値観と言って良いと思います。

また主人公である夏帆の名称にも作者との関連性があります。

「夏帆」の字から連想されるのは、夏の大海原に凜と立つ船の帆です。一方、村上春樹さんの「春樹」からは、春の平原に凜と立つ樹木が連想されます。

春の樹と夏の帆、それらの相関性から、夏帆は、村上さんの作家・物語メイカーとしての思想の軸を象徴する存在なのは明らかなように思います。

村上さんは、インタビューで「物語を生むには、自身の深い闇に下りていかなくてはならない」とたびたび言及しており、また「ただしそこに吞み込まれてはいけない」とも述べています。

その意味で、本作で夏帆が絵本を書いているのは、まさにそれの実行であり、言うなれば本作自体が、闇に下り物語を生む過程と結果を描いた作品だとも言えます。

前項では、エンディングの喪失感を、作品内のレイヤーにピントを合わせて考え、述べました。本項ではその軸を、作者の村上さんの現在というレイヤーに合わせます。

夏帆の物語の集大成に乗るもう一つの意味。それは70歳を超えた村上さんの想像力の源泉への自己認識についてです。

本作のインタビューで村上さんは、執筆中に大きな病気をした事を述べており、入院中は体重も落ち、何も書く気が起きなかったけど、退院し、体重も戻ると、小説を書きたい気持ちが戻ってきて、とても嬉しかったと述べています。

村上さんの作品はどの作品も、キャラクターの精神、そして自身の精神に対し、とても真摯です。

その意味で先に考えたアイデアに人物や内容を合わせていくというタイプの作家さんではありません。自身の無意識に潜り、そこから出てきた結晶を紡いでいく作家さんです。

それが本作・夏帆にも現れており、本作のエンディングには、かつて自分自身が囚われていた問題意識や崇高なモノに対しての純度の低下、また豊かな想像力が失われていっているのではという、作者の無意識が滲み出ているのではと思うのです。

それらが夏帆の母の「みんないなくなってしまう」という言葉、夏帆の喪失への涙に乗っている。私は本エンディングをそのように読みました。

しかしここで一番重要なのは、それでも夏帆は絵本を書く為に机に向かうという事です。

自身から失われたもの、失われつつあるものを絞り出し、転化しブラッシュアップし、物語を紡ぎ続ける。

ここに作家の、「それでも書き続ける」という意志が宿っています。

ここからは私自身の感想なのですが、本作の内容の豊かさから考えるに、作者である村上さんの想像力が過去作よりパワーダウンしているとは全く思えず、むしろ独自の面白い方向へパワーアップしているように感じました。

ありくいの夫婦、ジャガーと「とぎや」の店主のリンク、シロアリの女王のイメージ、象の卵の描写など、本作の幻想的かつ可愛らしい価値観は、私の心を豊かに幸せにしてくれました。

さらに本作は可愛らしいだけでなく、層が深くなるほどに現れてくる精神が抱える問題、事物の象徴内容の変化など、かなり高度な構造を擁しています。この複雑さに私はかなりわくわくし、物語にのめり込みました。

その意味で、表現も物語の構造も、世間の村上作品のいつものイメージとは違う形で進化し、一方でその良さを残してもいる・・私はそう感じたのです。

結論をまとめます。

作者の無意識は年齢による精神・体力の衰えから、想像力の源泉の喪失を感じるも、それを越えようと書き続ける事が、実はその源泉をより豊かなものにしている。

これが、私が本作から感じた、作者も含んだ物語の感想・結びです。

前項で私の本作の結びの解釈と、作品に対する愛を述べさせてもらいました。

一方、本作は更に、私に人生で初めての経験もさせてくれたのです。

それは

「作品として大好きなのだが、結末は納得できない」

というもの。

大好きだが納得は出来ない。しかしそれでも好きなのは1ミリも揺るがない。これが本作の現時点での私の素直な感想です。

そんなわけで、ここからは自分が何に納得出来ないのかを、自己分析しつつ書いていこうと思います。

単刀直入に言えば、「果たしてシロアリの女王を倒す以外に道はなかったのか?」というのが、私が引っかかっている点です。

これは私がかなりの楽観・快楽主義者で、両親に愛され、性に対し寛容に育ったというのが影響していると思います。

もちろんシロアリの女王により、夏帆の母の体は衰弱していたわけで、夏帆が取れる最善の選択であった事は分かっているのです。

しかし私はそれでも、母が抑圧してきた性欲やエネルギーの発露と共存する道もあったのではないか? そう考えてしまうのです。

「母の役割」の項目でも書きましたが、社会の、特に日本の母親は、世間の圧力にさらされ、過剰な聖母願望を押し付けられています。

夏帆の母の場合、確かに娘に対する接し方に問題はありましたし、実家の没落から外形上の格式や世間体に囚われてはいましたが、その価値観を生み、母に押し付けたのは、社会や世間でもあるわけです。

それらの様々な要素が絡み合い、家庭が落ち着き、更年期になったタイミングで、性欲などの欲望が溢れ出して来たのだとするなら、それ自体を全否定、消滅させる事はないのではと思うのです。

シロアリの女王というネーミングの、「シロアリ」からは家を土台から崩壊させる性欲。

「女王」からは、人を階級で判断し上に君臨したいという欲望が象徴されているので、確かに母の歪みが全面に出された存在なのは間違いないでしょう。

しかしこのイメージには夏帆が、性欲を、母の抱える価値観をどう捉えているかというのも投影されているわけであり、このイメージが過剰な可能性もあります。

もちろん夏帆からすれば、歪んだ階級意識や世間体に囚われた理想から、自身を全力で愛してもくれず、その上、その抑圧から性欲に邁進し、父を傷付け、家族を崩壊させる事など、絶対に許せないという気持ちになるのは分かります。

しかしそれらの感情や問題は、あくまで夏帆の事情に過ぎず、母の事情ではないわけです。

ただしタイトルにある通り、本作は夏帆の夏帆による物語であり、彼女が、自身を失われないように行動したのは正しいし、彼女の精神が尊重されるべきなのは間違いありません。

しかしそれと同時に、母の中にも、母の母による物語があったはず。

作者のリアリズムである、全てを救う事は出来ないという価値観がある上で言いますが、本作において、その母の物語の昇華までは、夏帆は到達出来ていません。

その意味でシロアリの女王が最後に言った「あんたは母親を何ひとつ理解してない、ほとんど何も知らない、愛してもいない」というのは、全てでないにしろ、ある種の核心を突いているのです。

最終局面で女王にこのセリフを言わせるのですから、作者自身も夏帆が、母の物語を完全に昇華出来てない事・人間にはその局面で出来る限界がある事に、自覚的なのは間違いなく、分かった上で本作のエンディングを書いたのだと思います。

もちろん「母との和解」の項目で述べたように、夏帆は「お母さん助けて」と呼びかける事が出来て、それに母の意識も応えているわけですから、一応の形は、成立しているのです。

しかし私は本作の主人公である夏帆が好きだからこそ、もう一つ先を期待したかったのです。

夏帆には、それでももう少し、父の側の価値観でなく、母の側の価値観に立って欲しかった。

そして自身も持つであろう、歪みを内部に抱える性欲をもう少し受け入れて、シロアリの女王と母との共存の方向性で見守って欲しかったのです。

分かっています。これはかなり願望過多です。

本作では夏帆自身が自身の闇により失われかねない状況であり、かつ母も衰弱していました。

何かを捨て、何かを選ばなくては、善き物語には到達出来ないし、その善き物語すら完璧ではなく、それを維持し発展させる為には、各々の精神が絶えず思考する必要がある。それゆえに大円団のエンディングではなく、喪失の余韻を残す。それが本作の結びです。

しかしそれでもです。夏帆の、絵本力・豊かな想像力と内面性があるなら、時間をかければシロアリの女王との共存も、もしくは善き欲望へのマイルドな変化も可能だったのではないか? 私はそう考えてしまうのです。

とはいえ本作のラストは、何かが失われたとして、それでも書き続ける意志を表象しています。であるなら夏帆の母の願望も、今後の人生の中で、いい形で何かに転化し、誰かに影響を与えていくのかもしれません。

最近色々な本を読みつつも、わくわくするエネルギーを感じる作品がなかなか見つからなかった中、本作は、私にわくわくを、物語への意志を、余韻が残る感慨を与えてくれました。

夏帆と共に、深い穴の奥の層へ潜り、境目から光を軸に、闇を覗く作業はとても楽しかったです。

恐らく今後も村上さんは魅力的な作品を書き続けてくれると思うので、それを楽しみにしつつ、長かった本考察を終えます。ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。

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