老人の定義、老害の定義
先日、御年95歳であるエリザベス女王が、高齢者向け雑誌が主催の「オールディー・オブ・ジ・イヤー(今年の高齢者賞)」に選ばれたものの辞退したというニュースを見ました。
しかも辞退した理由が「年老いているかは感じ方によるものだ」というものなのです。
つまり自分は年老いているとは思っていないということです。
エリザベス女王様、かっこよすぎる!!
最近ではイギリスでなくても、日本の70歳ぐらいの女性が、バックパック一つで世界を飛び回っていたり等、そういう話をちらほら聞くようになりました。
こういう話を聞くと、この先の人生の列車のレールが黄金色に輝いて見え、まだまだ自分の列車の行く先は明るいぞ!!という気分にさせてくれます。
最近気づいたのが、長く生きている人の顔には特徴があるなあということです。
いわゆる「長寿顔」の特徴としては、男女問わず、とてもかわいらしく小動物のように表情が動くこと、また、眼の奥に底知れぬ何かがあること、それでいてどこかしら上品さをたたえてることが確認されています(完全なる自分調べ)
こういう方を見ていると、精神が練り上げた物が、身体になっていくんだなあというのが伝わってきます。
そう思うと、高齢や老人という定義は、肉体ではなく、精神の在り方が決めるのだろうなあと改めて思うのです。
よく老害という言葉が使われますが、これを自分流Wikipediaに記載するならば
「変化を恐れず何もしない精神」とか
「アップデートしてない価値観を押し付ける精神」
という風に記載します。
上の条件だと考えると、実は若い人にも老害はかなりの数いるんではないかと思います(親の価値観を押し付けられてるケースも多々あり)
老後というシステム
世界、とくに日本では生活モデルとして、若いうちは一生懸命働き、老後には好きなことをして生きていくというスタイルがあります。
前項で、老人の定義は精神の在り方ではないかと言いましたが、とはいえ体力が若いころと比べて衰えていくのは、自然の摂理です。
なのに肉体に自由が利く若いころには我慢して働き、体力が衰えてきた老後にやっと好きなことができる・・・
やはりこれは、かなり歪んでいると思います。
この「悠々自適老後安心パック」なるものは、体力のある時に、それを生産につぎ込ませて税金を確保したいという、国の都合による部分が大きく、その都合を「安心」というキーワードでぼやけさせてると思うのです。
国が出来たばかりで、インフラや生産システムが構築されてないときは、まだ分かるとしても、しっかりとした基盤がある現代なら、若い時にやりたいことをやれる状態やシステムを作る方に向かっていかなければならないのに、意識も含めてなかなかそちらの方向には向かいません。
自分はいくつになっても、世界中を歩き回る、生命エネルギーあふるる「歩くウィダーインゼリー」みたいな人間を目指していますが(例えが謎)
一方で、やりたいことは直観的にすぐやることも大事だと思います。
先ほど、意識がなかなか変わらないと言いましたが、一方で、最近の10代、20代(特に女性)の中で、問題意識を持って考えながらも、バランス感覚を持って生きている子たちが増えてきたイメージもあるので、徐々にいい方向に向かっていくのかなあとも思うのです。
直観と感覚を大事にしつつも、肩の力を抜いて、余裕をもってのんびり人生を生きていける、そういう世の中に少しずつでも変化していったらいいなあと思います。