<雑記>我らが愛するチャーハンについて

雑記

先月の話だが、家のエアコンが壊れ、もはや日中、家にはおられず、私はそれを逆手に取って、家系・二郎系ラーメンを巡る旅を開始した。(夜には家に戻るので旅ではない学説もあり)

その旅は、横浜や東京の店をあらたかた回り、つい先日終了したのだが、私はその流れで、というかラーメン巡りの最中に、かなり町中華にも行った。

一時期、私はあまりスポットの当てられない町洋食にはまっていたのだが、実は町中華に関してはもはやニッチではなくドメジャーということもあり、実はそんなに注目してこなかった。

しかし不思議なもので、連日ランチで味が濃い、アブラましましのラーメンを食べていると、がぜん米が食べたくなる。

しかし私は白米をラーメンスープに浸し食べるというのが、あまり好みでないので(ラーメンはラーメンで食べたい)、ランチにラーメンを食べ、夜に町中華でチャーハンと餃子を食べるというルーティーンを繰り返していた。

さて、ここでさらに白状すると、実は私は「チャーハン」という存在自体に特段、好意的な思いを抱いているわけではなかった。

別に嫌いというわけではないのだが、基本的にそんなに味が濃いわけでもないし、肉が牛丼ほど入ってるわけでもない。ならばチーズ牛丼とか、焼肉丼を食べた方が満足感は高いじゃないか。

そのように味濃いめ原理主義の私は考えていたのである。(筆者は基本的に焼肉のタレさえかければ何もかも美味しくなると考えている、哀れな舌の持ち主だ)

しかし改めてチャーハンである。

パラパラなご飯に、卵とチャーシューやナルトの旨味と、塩や胡椒、そこに店独自のスープが調和し、香ばしく、完成された凝縮されたエネルギーが口の中で暴発するような幸福感。

そう、率直に言って神なのである。

私は自分の過去の認識と、貧しき哀れで擦り切れた馬鹿舌を呪った。

チャーハンなるものの美味さは、焼肉のタレの分かりやすい直球のストレートではない、その奥に眠る深淵の奥底から微笑を浮かべ、手を振るような、さりげない、かといって自分を高みにおかない、すぐそこにある祝福だったのだ。

さてそんなわけで、今私はことあるごとに、チャーハンの事を考えている。

炒める飯と書いてチャーハン。

漢字表記なのに絶妙な語呂の良さが心地よい。

同じ飯系漢字族にルーローハンもあるけど、やはりチャーハンのシンプルなワードパワーには一歩及ばないように思う。

今、ウィキさんで調べた所、チャーハンは隋の時代から、宋の時代にかけての中華料理の一つだとのこと。

そして「食経」という書物に、7世紀初めの隋の宰相が現代のチャーハンに似た「砕金飯(金のかけらのようなご飯)」と呼ばれる料理を食していたという記述があるのだという。

金のかけらのようなご飯。まさに飯世界のジパング。

その意味でチャーハンはもしかしたらその歴史のスタートの段階から、かなり輝かしい地位を歩いてきたのかもしれない。

しかし逆に、ずっとエリート街道を歩いてきた事が、もしかしたらチャーハンの死角になるのでは?

ふと私はお風呂に浸かりながら、そんなことを思ってしまった。

例えばそのエリート意識の勘違いから、チャー氏がもし結婚式のメニューに自分をねじ込んだ場合、それは出席者から失笑を買う結果になる。

スープが出て、簡単な小鉢やサラダなどの前菜が出て、メインの時に、給仕がすまし顔で、チャーハンを運んでくる。

円形の卓に次々と並べられていく、パラパラご飯たち。

その場違いさは、もはや違和感を通りこし滑稽の域だが、出席者はただのお笑い草では済まさない。

「3万円も包んだのにチャーハン」

この怒りが披露宴会場に蔓延し、幸福の空気をあの黄金の飯が、邪悪な混沌の空気に叩き落とすことは充分に考えられる事態だ。

そしてチャー氏がここで自分を顧みずにさらに、自信満々に新しい挑戦をした場合、悲劇はより加速する。

お菓子の家。

チャー氏はそのファンタジーと子供たちの無邪気な欲望に目を付ける。

「あんな歴史の浅い、お菓子なんてやつらでも出来るなら、7世紀からトップを走る俺に出来ないはずはない」

そんな過信から、悲劇としか言いようがない、焼き飯の家。通称・焼飯家が首都郊外で数店舗スタートする。

しかしこれは自明の理だが、焼飯家は「お菓子の家のチョコレート部分問題」をより深刻さを増して、現代に突き付ける。

床も壁も全て米でベトベト。

もちろん作っているのは精鋭に精鋭を集めたパラパラチャーハンの使い手だ。鍋の振るう速度は常人では見切れないし、口に入れた時のお米の食感は最高である。

しかしそのパラパラはもって30分。

焼飯家がオープンする頃には、全てがベトベト。そもそも床も米なので足はぐにゅりと米の中に沈む。

こうなってくると、いよいよアンチチャーハン派が勢いづいてくるのは必至だ。

信じやすい若者に対し、ピラフをチャーハンだと紹介する闇チャーハン詐欺が横行し、悪質なインフルエンサーは、米と卵と一緒にシュレッダーの屑を混ぜた真のパラパラチャーハンでインプレッションを稼ぎ、チャーハンは社会的な立ち位置を大幅に後退させてしまうだろう。

こうなるとあの堂々とした職人たちにも焦り生じ始め、まだ米とチャーシューと卵がぴくぴくと動いている生の状態で提供してしまい、更にチャーハンのイメージ悪化が加速する。

こうなると最後に辿り着くのは、神秘主義。宗教的精神だ。

古代中国の陰陽思想。森羅万象、宇宙の様々を表現する太極図チャーハン。

↓イメージ

これは一部界隈で好評を博し、チャーハンは決定的な没落は免れるものの、一部好事家たちのマニアックな料理へと転身してしまうことになる。

チャーハンもまた時代と共に変化し、その姿を変え、その流転は永遠に続く。誰もそのルールからは逃れられないのかもしれない。

(おしまい)

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