<考察>「薬指の標本」 喪失という暗美

考察

「薬指の標本」は、作家の小川洋子さんの小説で、2005年にはフランスで映画化もされた作品です。

小川さんは作品も多く、とても大人気な作家さんですが、恥ずかしながら私は今まで、小川さんの作品を読んだことはありませんでした。

しかし、本作を読んで衝撃を受けました。

とても読みやすいのにもかかわらず、優しく、研ぎ澄まされた世界を心の中に映して出してくれる描写は、唯一無二で、完全に小川ワールドにはまり込みました。

そんな本作を自分なりに考察していくのですが、本作品は読む人によって如何様にもイメージを広げることが出来る、深い懐を持った物語なので、あくまで私が考える意見の一つだと思って、肩の力を抜いて読んで頂けると幸いです。

以下、物語の重要部分に触れるのでネタバレが嫌な人はここでストップしてね。

あらすじと本考察について

まずは本作品のあらすじと、どういう感覚で考察をしたのかについて簡単に書きます。

あらすじ

海に近い田舎の村で、清涼飲料水を作る工場に勤めていた「わたし」は、あるとき工場の機械で、左手の薬指の先の肉片を、わずかながらも切り落としてしまい、それがきっかけで工場を辞めてしまいます。

あてもなく、街の中を無闇に歩き回っていたところ、コンクリートのアパートみたいな外観の「標本室」に辿り着きます。

そこでは白衣を着た弟子丸という男性が、個人が持ってきた様々な物を標本にするという仕事をしていました。

標本室では事務員を募集しており、「わたし」はそこで働くことになります。

本考察について

この作品をどう読みとくかというのは、人によって様々だと思います。

そのうえで私は、本作品を人間の精神世界の象徴として考察しています。

ですので、以下の項目からは、人物や物、描写が、どういう状態で何を表しているのかに着目して物語を深堀していきます。




清涼飲料水、果樹園、サイダー

わたしが、標本室に行く前に居た場所。

それは海に近い田舎の村で、周りは果樹園に囲まれています。

そして村の工場では清涼飲料水やジュースを作っており、そこでわたしはサイダーを作る仕事に携わっていました。

そしてその工場の機械により、左薬指の先の肉片が、少し欠けることになるわけです。


この村を装飾する、果実、清涼飲料水、サイダーの文言は、とても爽やかな印象を想起させます。

私は、この村を純粋であった少女時代の精神の象徴として考えました。

まだ女性や大人という意識が入り込んでいない、爽やかな花園。

しかし、透明なサイダーは薬指の、桜貝に似た形の肉片と血により、桃色に染まってしまいました。

薬指については、詳しくは後述しますが、ここでは結婚や指輪など、女性としての性質の象徴として大まかに考えておきます。

わたしが、この事件によりサイダーが飲めなくなり、工場で働けなくなったのは


薬指という女性の意識を刺激されることにより、少女ではいられなくなり、女性として旅立たざるを得なくなった


そういう風に捉えています。

また工場の機械を、人間を部品として考える現代社会の秩序と考えると、社会の常識や秩序が、少女で居続けることを許さなかったとも取れます。




標本と弟子丸

わたしが働くことになる標本室。

取り壊しを待ってるアパートのようでありながら、とても規則正しい外観の建物です。

そしてそこに住む弟子丸は、白衣を着ており、隙が無く、バランスが取れており、自分にまつわるあらゆるものを排除していると表現されます。

そして標本を作ることについては

「政治や科学や経済や芸術とかは無関係で、あくまで全く個人的問題で、標本を作ることでその個人的な問題と対面することになる」

と言っています。

そして標本作りに大事なことについて

「一番大切なのが誠意で、慈しむことが必要」

と語っています。


まず標本についてです。

標本というのは、死んだ生物を、観察して研究出来る状態に保存した物のことです。

そして標本室では、個人の思い入れがある楽譜や写真、文鳥の骨等、有機物や無機物に関わらず様々な物を標本にします。

私は「標本にすること」とは

自分の心に残っている思いを切り離し、振り返ったり無視出来る位の、思い出にする行為

だと考えます。

そして元々、女子専用のアパートだったという標本室の建物は

女性の肉体・精神それ自体を表しているのだ思うのです。

規則正しい外観は、普通の人間が無意識に持っている秩序の精神の表れでしょうか。


そして弟子丸ですが、白衣からは医者・医学・学問が連想され、自分自身の排除は観察者のイメージです。

そして誠意や慈しみは、キリスト教や西洋の思考を連想させます。

弟子丸は

精神内での学問や知識を司る、理性を表していて、それを利用して心の傷を、思い出という標本にする役割を担っている精神の働きの一つ

と私は考えました。

心の問題と向き合う時に、闇に引きずられないようにするには、知識や理性で武装し客観視することも必要になります。

また、弟子丸が男性なのは、男性の方が知識や理性を重視しがちで、頭でっかちな側面があることも関係しているのかなと思います。

そして現代社会において、徐々に女性の地位や権利が確立してきているとはいえ、依然、男性の論理で社会が動いているのも事実です。

そんな社会では、男性の思考も精神に取り入れなくては生きていけない。

そのような表現にも感じました。




きのこの標本

この物語で最初に出てくる具体的な依頼者と標本。

それが左の頬に火傷がある少女と、3つのきのこの標本です。

物語中では、家事で焼け死んだ3人の家族、そしてその家の焼け跡に3つのきのこが生えており、そのきのこを標本にしたことが語られます。

普通に考えれば、「家族の思い出に決着をつけたいから標本にした」と考えるのが筋ですが、なぜきのこなのか。

小説を読んでるときは、きのこについて違和感があったものの、深くは考えなかったのですが、読了後に再度考えた時に一つの考えに至りました。


きのこから思い浮かべるのは、男性の象徴です。

そして頬に火傷、傷物にされた少女・・・

私は、きのこの描写は

関係を持った3人の男性の象徴

そして頬の傷は

傷つけられた貞操や女性の心の象徴

火事と家族については

恋や性欲の炎に呑み込まれたことの、家族に対する罪悪感の象徴

ではないかと考えました。

この少女自体については、後述します。




309号室婦人と223号室婦人

元女性専用アパートだった標本室の建物。

そこのアパートの居住部分には、二人の老婦人が住んでいます。

物語中では部屋番号に従い、309号室婦人と223号室婦人と言う呼び名で呼ばれています。

309号室婦人は、昔はピアニストだったらしく、立派なピアノを持っており、223号室婦人は元電話交換手の経歴を持ち、今は部屋にこもり手芸ばかりしています。

この二人の老婦人、特に309号室婦人は、物語を読み解くうえで、かなり重要な存在だと考えています。

どう重要なのかについては、後述の「わたし」についての項目で語りますので、ここでは二人の老婦人が何を表すかを考察します。

309号室婦人は、ピアノや音楽、音から

すなわち人間の感性・柔らかさを司る人間精神の象徴

223号室婦人は、電話交換手という対人での社交、手芸という生活感を想起させる趣味から

社会性・生活を司る人間精神の象徴

だと考えていることを述べておきます。




浴槽

弟子丸の秘密の安息所。

それは、水がとうに抜けて、白い粉をふいている様にさえ見える、がらんとした浴槽です。

物語中で、昔のまだ若かった老婦人たちも含めた、若い様々な女性たちがここで体を洗ったであろうことが語られます。

かつてはたっぷり水が張っていた、今は枯れた場所。

そして若い女性たち。

私はこの浴槽は

若さという瑞々しさが完全に抜け落ちた、精神の一つの場所

だと考えています。

そして弟子丸という「理性」は、考えること、知識を駆使して、思い出という標本にする行為に疲れた時、この乾いた精神の場所から、瑞々しかった時を思い出すことを癒しに感じている。

そういう印象をこのシーンから感じ取りました。




黒い靴と足

浴槽の場面で、弟子丸から黒い皮靴をプレゼントされるわたし。

21歳にしては幼過ぎると言われ、海の近くの村にいるときから履いていた靴は弟子丸につぶされてしまいます。

この新しい黒い革靴は、シンプルなデザインかっちりとした作りで、つま先は優美にカーブし、小さめの黒いリボンがついていると表現され、足に完璧にフィットします。

そして弟子丸からは、「これからは、その靴をはいてほしい」と言われます。

「僕が見ている時でも見ていない時でも、とにかくずっと」

という弟子丸の言葉は何かしらの執着が伺えます。


私はこの黒い靴は

世間が求める成人女性像の型

だと考えています。

女性の体は男性に比べて、カーブのように曲線的です。

シンプルでかっちりしているのも、世間や男性の常識や願望を反映している気がします。


後にわたしは、文鳥の骨を標本にすることを依頼しにきた、元靴磨きのおじいさんから

「靴が足に合い過ぎている場合、ずっと履いていると足を侵食し、足を失くすことになる危険性」

について警鐘を鳴らされますが

これは成人女性の型という外面を常に付け続けていると、自分の中の柔らかい自由で純粋な精神が失われるということを表しているのだと思います。

おじいさんの

「絶対にこの靴は、お嬢さんの足を自由にしない」

という言葉が胸に刺さります。




活字とは

詳しくは思い出せないものの、おそらく弟子丸が出したであろう足につまずき、活字盤を落としてしまう私。

しかしそれを拾ってという弟子丸の態度は、とても穏やかで落ち着いて見える・・・

この奇妙なシーンは一体何なのでしょうか?


活字とは文字の字型です。

そして文字で表現することから、詩や文学などが生まれます。


弟子丸が活字盤を落とさせたのは、わたしの中にある詩や文学などの柔らかい感性に脅威を感じたからなのではないでしょうか。

社会と上手く折り合いをつけるための存在である知識や理性にとって、弱さや隙間に光を当てる文学性は邪魔なのです。

落ちた活字を拾わせたのは、とはいえ理性や知識にも文字は必要だということでしょう。

文字から、感性をふるい落とし、だだの字にしたと言い換えてもいいのかしれません。




309号室婦人の死

物語の終盤における309号室婦人の死。

彼女が死んだ部屋の中にはみかんが転がっていました。

生前、彼女が大事にしていた写真やピアノカバー、メトロノームなどは弟子丸や223号室婦人との相談により、標本にすることに決まります。

考察の序盤の「309号室婦人と223号室婦人」の項目で二人のことを、二つの精神の象徴と書きました。

そしてここにおいて感性・柔らかさを司る、人間精神の方が死んだのです。

このことにより物語に重要な変化が生じたと私は考えます。


次の項目が考察の最後の項目で、ここにおいて全てが繋がります。





「わたし」とは

さてここまで各ワードや人物・場面について掘り下げて、物語を考察してきましたが、一番重要なことが残っています。

それは「わたし」とは何かということです。

標本室は、女性の肉体・精神それ自体。

弟子丸は知識・理性を司る精神。

老婦人は片方は感性、片方は生活を司る精神。


そんな今までの考察を踏まえて導き出した答え・・・


「わたし」とは、純粋で柔らかい少女の精神だと考えています。



つまりこの物語は、自分という一人の人間の、理性や感性、生活などが、それぞれ別に存在している精神世界全体を「わたし」という純粋で柔らかい少女の精神から見た構造だということが出来るのだと思います。

この物語世界を一人の人間の精神世界全体と見た時に気になるのは、その人が現実世界ではどういう人なのか?ということです。

これは私の推測ですが、老婦人と同年代の女性なのではと考えています。

この小説を執筆した当時の小川さんは30代前半でしたので、30代から眺めて想像した、老年にさしかかった女性の人生への折り合いの姿を書いたのが、この小説なのかなと思うのです。

「わたし」も、弟子丸も、309号室婦人も223号室婦人も、一人の人間の中の様々な精神の役割の一つなのでしょう。


頬に火傷を負った少女も、男性に傷つけられた精神の傷の、一つの形態の象徴だと思います。

そして少女と火傷は切り離せない物で、火傷と少女はイコールなのでしょう。

そして弟子丸が火傷をなかなか標本に出来ないのは、その傷を自分の理性がまだ消化できないからだと推測出来ます。

「わたし」は純粋で柔らかい少女の精神と書きましたが、薬指もまた結婚や純潔であったりと、女性の純粋な精神の象徴であり、薬指と「わたし」はイコールだと考えていいと思います。

つまり薬指を標本にするということは、純粋で柔らかい少女の精神を人生から切り離すことを指します。

弟子丸が火傷の少女のことを「わたし」に問い詰められて、薬指を標本にすることを求めたのも、理性の働きで男性に傷つけられた心の傷を処理するためには、根本である薬指、すなわち純粋で柔らかい少女の精神自体を断ち切らなくてはならないということを表現してるのではと思います。

この結末の始まりの鐘が鳴ったのは、309号室婦人の死です。

音楽や感性・柔らかさを司る人間精神が死んだことが引き金になり、年を重ねても持っていた少女の精神自体を断ち切らなくてはならなくなったということでしょう。

薬指の標本番号が26-F30999というのも、309室婦人と「わたし」が近い感覚の精神であることを表しています。

「わたし」は終盤、弟子丸への思いを

「根本的で、徹底的な意味において、彼に絡め取られている」

「自由になんてなりたくない、この靴をはいたまま、標本室で、彼に封じ込められていたい」

と表現します。


これはつまり、純粋な少女の気持ちを抱えて苦しむより、精神から切り離して、理性の中に死んだ心として沈殿してしまいたい

ということであり、現代の、固くてきっちりした秩序やルールの中で、柔らかいものを許さない社会においては、そちらの方が楽だし、生きやすいのでしょう。

柔らかい精神が生きづらいのが今の世の中なのです。


つまりこの小説は、少女の精神が、自分の中から失われていくまでを、失われていく精神の目線から描いたものなのではないかというのが私の結論です。




最後に

とても優しくて読みやすい文体なのに、この小説にはとんでもない深さがあります。

その深い世界は暗いことは確かですが、暖かさもあり、音もあり、景色もあり、そして何よりとても美しいのです。

ここまで暗く、美しく、優しい小説に私は出会ったことがありません。

しばらく「喪失」の甘美ともいえる哀しい闇に浸っていたい・・・

そんな思いに胸が焦がされるほど、圧倒的な小説でした。


最後に繰り返しますが、この考察はあくまで私が考えた推測でしかなく、読んだ人それぞれに「薬指の標本」の世界が広がっているはずです。

なので、この考察は私の精神が、作品を読んで感じたに過ぎない物だと思っていただき、同じなら同じ感覚を、違うなら違う感覚を楽しんでもらえたら幸いです。

素敵な小説に出会えたことを感謝して、本考察を終えます。

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