<考察>「海辺のカフカ」 呪いを断ち切る少年の物語

考察

海辺のカフカは、日本のみならず海外でも大人気な作家、村上春樹さんの10作目の長編小説です。

この物語は主に二つの軸を中心に展開します。

お父さんのもとから逃げ出した主人公、田村カフカくん(15歳)が家出の末に、四国の図書館で様々な人々と出会う話と、ナカタさんという不思議なおじいちゃんと途中で出会った星野という青年が辿る奇妙な運命!

この二つの話が交互に章ごとに展開されて最後は繋がっていく・・・というお話なのですが、ネコが喋ったり、カーネル・サンダースが出てきたり、森を抜けて謎の世界へ行ったりと、現実と象徴が織り交ぜられた世界観なので、読む人によっては意味わからん!みたいになるかもしれません。

なので今回は、海辺のカフカで私が感じたこと、考えたことを主観的に考察していきたいと思います。

あくまで私が感じたことなので、こいつはこう思ってんだなあくらいにみてくれたら幸いです。

以下、物語の核心に触れるので、最初から自分で全部読みたい人はここでストップしてね

世界観とメタファー

海辺のカフカにおいて本編でも何度も出てくる言葉がメタファー(隠喩)です。

メタファーとは、比喩だけどそれが比喩だと明示されない表現のことで、ある程度、これはこういうことを指しているのではと考えることが必要とされます。

村上春樹さんの作品は普通に読んでも楽しめるのですが、このメタファーを考えながら読むと非常に深く入り込めます。

とくに海辺のカフカやねじまき鳥クロニクルなどの中期の長編は、深層心理の世界を描くことが非常に多いです。

心理学者のユングという人が、人間は意識のさらに奥に、人間全体が意識を共有し、繋がっているモノ、すなわち集団的無意識があるというのを発見して、一時あらゆる文学や映画でブームになりましたが、村上作品もこの感覚を入れておくと非常に読みやすくなります。

さらに主人公のカフカくんが柔軟な精神を目指してると本編で言っていますが、この作品自体が現実世界と象徴・心の中の世界の境目をゆるく設定しているので、柔軟な精神で臨んだほうがよいです。

哲学の本とかをぱらぱらめくっていると、世界のほとんどのことが解明されていなくて、いかようにも考えられるんだなあと思うことが多いですが、その感覚を入れて読むと、より深く海辺のカフカの世界を味わえると思います!



カフカくんが抱えた呪い

カフカくんは幼いころにお母さんに捨てられたという強烈な体験をしています。

この体験が彼の心の根っこの部分を縛っています。

母に愛されなかったゆえに母を追い求めるというのは、現代に限らず文学のテーマの主流ですが、最も身近な存在、自らを産んだ存在から愛されなかったというのはその後の人生に暗い影を落とすものです。

当初のカフカくんは、自分の中にある砂嵐を越えて世界一タフな15歳になるという目的で家を出ます。しかし具体的に自分の砂嵐がなんなのかについては本能的に分かっていながら避けている状態です。

お父さんとの生活が辛い、お父さんから受けた呪いが怖いというのは序盤に明かされますが、それの恐怖の根本をたどっていくとお母さんに捨てられたという憎しみ、悲しみがあるのです。

自分に価値がないから捨てられたのではという自己否定、そしてなぜ姉だけ連れて行ったのかという恨み、それがカフカくんが抱える精神の奥にある巨大な暗い岩なのです。

カフカくんは図書館での大島さんとの出会い、さくらという自らを助けてくれる存在、そして母への思いを補填してくれる佐伯さんとの出会いにより、自らの心と向き合う準備を整えていきます。

そして最後は、向き合うべき心の森の中に入りお母さんと和解するのです。

この作品において佐伯さんが本当のお母さんなのかは最後まで、どちらともとれる状態が貫かれています。

これは自分が母親だと思いたい人が母親だと思っていい!

というメッセージなのではないかと思います。

もし自分の産んだ人が毒親であったり、もしくは捨てられたりした場合、その子は一生十字架を背負わなくてはいけないのでしょうか、そんなことはありません。

自分のことを大事に思ってくれる年長者や恋人、それは創作物の中の人でも構わないと思います。

自分が母親だと思いたい人が母親でいいのです。

大事なのは自分の心を壊さずに楽しく生きていけることです。

カフカくんは佐伯さんを自分の空想上の母親と融合させて、自分の心と母への思いに向き合いました。

最後にはお母さんにもいろいろな感情があり、そして事情があったのだと許して和解します。

そしてこれは自分の岩を溶かし自分自身も許すことができたということです。



失われた人1:ナカタさん

ナカタさんは、日常生活では父親から暴力を振られ、そこに担任の先生の突発的な暴力が加わったことで、自分を白紙にしてしまいました。

担任の先生の暴力は、夫が戦争から帰ってこないことが原因の、ねじれた性欲の発露で、戦争がいかにあらゆるものを歪めてしまうかがわかります。

空っぽになってしまったナカタさんは、強い自我や欲望を持っていない状態になってしまいます。

そのかわりネコの言葉が話せるようになりました。

ネコは心の闇の世界と普通世界の中間的な存在として本作では描かれます。

ナカタさんは2週間の意識不明状態のあいだ、無意識下の心的世界にいったことからネコの言葉を話せるようになりました。

ジョニー・ウォーカーを殺してからは呪いの一部を受け継ぎ、ネコの声は聞けなくなりますが、ナカタさん自体の性格や本質は影響を受けてません。

ナカタさんが面白いのは自我がなくなった結果
人のことを想い、人の話が聞ける素敵な大人になっていることです。

ナカタさんは知識も乏しく難しいことは出来ませんが、人の話を素直に聞き、受け入れて寄り添うことが出来ます。

そんなナカタさんを誰もが好きになり、ありとあらゆる人がナカタさんを助けてくれるのです。

またナカタさんを助けた側の人たちも、バディを組む星野くんはもちろんのこと、一生懸命に話を聞いてくれるので、少し関わっただけの人にも、ナカタさんは感謝されています。

自分のことだけではなく、他人のことを思える、そして話を聞ける人は誰かを救うことが出来ます。

そして結果として、自分もまた救ってもらえるのだとナカタさんを見てると思います。



失われた人2:佐伯さん

幼馴染の男の子と、完全に近い幸せな世界を作り上げていた佐伯さんは、成長するに伴う変化・外に向かう興味やエネルギーを無意識に排除して成長します。

しかし成長は止められず、エネルギーは流れていくもの・・・

恋人の男の子は都会の大学に行くことを選び、遠距離恋愛が始まります。

そこで学生運動のごたごたの混乱の中で男の子は殺されてしまうのです。


佐伯さん自身、自分が閉じた幸せに固執して、外に向かうエネルギーや生の流れを滞らせたから破綻が起きたのだと考え自分を責めます。(そういう面もあるとはいえ、学生運動の闇がもたらした不幸以外の何物でもない悲劇だと私は思う)

この経験で佐伯さんは自分を責め、悲しみ、そして心の闇の奥に自分をほとんど置き去りにしてしまいます。

現世にいる自分を影、もしくは抜け殻みたいな存在として扱い生活することを選んだのです。

ナカタさんは空白でしたから、自分に対するこだわりもなく、自然体で生きることが出来ました。

しかし、佐伯さんは闇と虚無にとらわれているので、自分のこと・世の中ことを積極的ではないにせよ、根本的に憎んでいます。

だからこそ、誰構わず寝たり、投げやりな恋をしたりします(自分も含めて世界を放擲してるので、自分を大事に出来ない)

そしてやっかいなのはこういう状態の人に恋をしてしまった人です。

実在の佐伯さんとカフカくんのお父さんが知り合いかどうかは本編では明示されないのですが、おそらくカフカくんのお父さんも、こういう状態の女性を愛したものの、求めていた愛は得られずに闇落ちしてしまったのではないかと思います。(その呪いを息子のカフカに託しているように見える)

佐伯さんの例は闇と虚無は連鎖し、巻き散らかされる例です。

しかしここで面白いのは大島さんやカフカくんの例です。

大島さんは血友病や性の問題でとても葛藤を抱えていました。

そんななか佐伯さんの空白を抱えながら生きている姿に、何かをシンパシーを感じ図書館で一緒に働くわけです。

そしてカフカくんも自分のお母さんのことで悩んでいました。

そのときに佐伯さんという自分と同じで、どこかが欠けていると感じる存在に出会い、自らの仮想のお母さんとして思いを馳せることになるのです(佐伯もカフカにより救われます)

いくら失われている状態であっても生きてさえいれば誰かの救いになるということです。



救ってくれる・支えてくれる存在

旅に出たカフカくんと最初に出会うのが、美容師のさくらという女の子です。
カフカくんの姉への思いを少し満たし、かつカフカくんを助けてくれます。

ねじまき鳥のメイちゃんなど、村上作品では、失われた誰かを救おうとする主人公を救ってくれる存在が登場しますが、さくらもその系譜のキャラクターです。

自分のお姉ちゃんに近い年齢のさくらがカフカくんを気にかけてくれることが、カフカくんを支えています。

また甲村図書館で出会う大島さんも、カフカくんと話をし自分の心への距離の取り合い方・向き合い方を教えてくれます。

こういう人に出会えるか出会えないかがその後の人生を台無しにするかしないかの分かれ道のような気がします。

カフカくんは、大島さん、佐伯さん、さくらとの出会いに支えられ自己と向き合えるのです。



カーネルと娼婦

物語中盤で、ほこらの石を動かし、深層心理世界の扉を開けるときに星野青年の前に現れるのが、カーネル・サンダースと娼婦です。

カーネルは自らを「異世界との相関関係を管理する観念的客体」と言っています。

これは心の奥にアクセスする学問・思考方法いわゆる精神哲学のメタファーだと思います。

後述するジョニー・ウォーカーが偽物の西洋であるとするなら、カーネルは思考体系、中身が備わった西洋精神のあらわれとも見えます。

カーネルと一緒に現れる娼婦の存在ですが、彼女は性に対する職業をするかたわら、大学では生命の本質を考える哲学を専攻しています。

自分は好奇心が強い人はえてして性欲が強いと思うのですが、セックスという性と向き合う仕事と生と向き合う哲学は実は相性がいいのではないかと思います。

物語上カーネルは神社にある石を動かし、内的世界の扉を開くキーパーソンとして出てきます。

自分の意志・心の向きを変えるときにあらわれるのがカーネルなのは、哲学が心と向き合う指針になるということを表現してるのだと思います。



ジョニー・ウォーカーと軍用犬とネコたち

ナカタさんの前にあらわれて次々とネコを殺害していくジョニー・ウォーカーは強烈な印象を残します。彼は一体、何者なのでしょうか?

まずジョニー・ウォーカーという名前を聞いて真っ先に思い浮かぶのはイギリスのお酒です。

この物語のジョニーのシルエットも西洋紳士そのものです。ずばりこれは日本人が抱えた偽物の西洋主義のメタファーでしょう。

日本人は明治維新、そして敗戦により西洋化を重ねてきました。

前者では積極的に自ら輸入し、後者はいやがおうがなく欧米文化を受容しました。

しかし、大事なのは両方ともその根本たる哲学・精神の輸入には失敗したということです。

考えることを放棄し、その具体的効能や果実だけを取得したともいえます。

その結果、日本はただ、自分が気持ち良ければ便利であればいいという消費型資本主義のトップランナーともいえる国になってしまったと私は思っています。

ジョニーはいわゆる敗戦により自らのプライドも失い、訳も分からず西洋の服を着ている偽物の西洋紳士、つまり現代日本のメタファーといえるでしょう。

それに従う「睾丸の大きい軍用犬」というのは、間違った自意識だけが肥大した国を運営する人々をあらわしているように思えます。

圧倒的な強者としてふるまいながら、意思決定はジョニーがやるため、軍用犬はその通りに事務的に物事を運ぶだけなのです。

アメリカに言われたことを粛々と実行するプライドだけは一人前の人々・・・・・

なかなか強烈なメタファーです。


またジョニーに殺されるネコたちは、いわゆる歪んだ市場や利己主義の企業に夢というものを餌に搾取される若者にも思えます。

ネコは他の村上作品でもよく登場します。

本作でも現実世界と心的世界の中間存在として描かれますが、もう一つの側面として、夢と現実の間で宙ぶらりんな若者のメタファーにも取れます。




ラスボス 白いものの正体

星野くんがクライマックスで対峙する白いもの、これが本書の本質的なラスボスです。

こいつの正体については、本の中で様々な手がかりやヒントがあるように思います。

  • 大島さんが、図書館を訪れた実地調査員に言った「想像力を欠いた狭量さ、非寛容、一人歩きのテーゼ」
  • カラスとジョニーの会話にある、善悪をこえた原始的欲望についての記述
  • 書のいろいろな場面で表記される受け継がれていく呪いの記述
  • 移動中はそんなに危険ではないが、移動を終えたときにはじめて危険になるというネコの言葉


佐伯さんとナカタさんを大きくゆがませたものは戦争と学生運動です。

これはそれぞれの想像力を欠いた非寛容な民族主義、思想が生み出したもので、そしてそれによりさまざまな人を不幸に落とし、それは呪いにより受け継がれていきました。

この白いものの正体は、いわゆる人間の思考のメタファーだと思います。

想像力というのはいいかえると立場や偏見を捨てて考え続けることです。

もし、どこかで考えるのをやめて自分が正しいという独善的で非寛容なところに立ち止まり続けてしまう場合、それはイデオロギーになり、だれかを排除し、傷つける道具になってしまうのです。

本作のラスボスである白いものは、ナカタさんと佐伯さんの邂逅によりあぶりだされた呪いの思考の抽象概念で、いわゆる前の世代の戦争、学生運動、偏見を生み出した存在です。

次の世代の代表者である星野がこれを倒したことにより、一つの呪いを終わらせたことになります。

それは佐伯さんが自己と向き合い、ナカタさんが呪いを清算しようとした意志のリレーにより星野くんが成し遂げたことでした。

つまりこの小説においてナカタさんと佐伯さんはしっかり前世代の責任を果たしたということです。

そして柔軟な想像力、まわりを観察し、自分の心と大事に向き合うことを学んだ星野やカフカくんの新しい人生が始まるのです。

それは白く淀んでいたり、濁っていたりしない透明な思考の世代の挑戦なのだと思います。思考という歩みを止めず、透明な水のように常に考えつづけることが出来るかがこれからの世代の課題なのだと思いました。




まとめ 海辺のカフカとは

カフカくんの名前の「カフカ」には色んな意味が込められています。

幻想的作風の小説家フランツ・カフカ。

またカフカはチェコ語ではカラスの意味もあります(小説内では、ここから自分の名前を取ったと佐伯さんに言ってます)

生命は全て海から生まれました。

しかしその海は生命を生むこともあれば奪うこともある不条理で神秘的なものです。

海辺のカフカとは不条理な海辺をただよう人間自身とその魂でもあり、そしてこの物語はいかにその魂を損なわずに生きていくかということを示してくれる物語なのだと私は感じました。

物語では1枚の絵や音楽として出てくる「海辺のカフカ」も、優しい調和的な作品として描かれています。

最後に佐伯さんはカフカくんに、迷ったら絵を見なさい、風の音を聞きなさいといいます。

世の中のことをよく見て感じ、そして自分で考えること。

想像力を鍛えて柔軟性をもって生きること。

これがカフカくんの物語を通じて作者が伝えたいメッセージだったのだと思います。

私自身、この物語を読んで、救われ、そして新しい価値観と光を得ることが出来ました。

個人的に現代日本の最高峰に位置する作品なのではと考えています。

本作はこれからも、色んな人々が読み、次の、さらにその次へと受け継がれていく物語だと思います。

そんな素晴らしい本に出会えたことを感謝して本考察を終えたいと思います。

↓最新作「街とその不確かな壁」も考察してるので良かったら見て下さい

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本の書評や考察・日々感じたこと・ショートストーリーを書いてるので、良かったら見て下さい♪

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