<考察>「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」 全てを打ち鳴らすシナプス的恩寵の鐘

考察

「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」は日本で2023年3月3日に公開された映画で、2023年度のアカデミー賞に最多ノミネートされている作品です。

コインランドリーを経営する、様々な問題や生活に追われ余裕を失っている中年女性が、国税庁の監査を受けに行く途中でマルチバースの力に目覚め、世界を救うことになるという一見破天荒なあらすじに見える本作。

ですが見終わってみると、メッセージ性が普遍的で、とても真剣なテーマの最高な作品でした。

しかし、色々周りの人に感想を聞いてみると、「意味が分からなかった」「分からないまま気付いたら映画が終わってた」という感想も多かったので、今回自分なりの考察を上げてみることにしました。

自分は本作を現在のところ、映画館で一回みただけなので、力が及ばない部分もあるかと思いますが、こういう解釈もあるんだなあ位の感覚で見て頂けたら幸いです。

以下、作品のネタバレを含みますので、嫌な人はここでストップしてね。

ざっくりあらすじ

主人公の中年女性・エヴリンが経営するコインランドリーは破産寸前。

それに加えて、優しいけど何だかふにゃふにゃしている夫のウェイモンド、反抗期が終わらない娘のジョイ、頑固親父のゴンゴンと家庭内も問題だらけ。

そんな中、コインランドリーの監査の為に、国税局に向かうエヴリン。

いつも手ごわい女性監査官の監査に緊張するエヴリンですが、エレベーターの中で急に夫のウェイモンドが、自分は違う宇宙から来た存在で、この世界には様々なマルチバース(並行世界)が存在すること。

そしてその全宇宙にカオスをもたらす、強大な悪を倒せるのはエヴリンだけだということを伝えます。

そんなこんなで訳も分からないままマルチバース世界に身を投じたエヴリンは、並行世界の自分の能力を駆使して強大な悪と戦うことになるのでした。

コインランドリーと国税局

本作の主人公・エヴリンが経営するのがコインランドリー。

そして本作においてバトルを含め、ほとんどが国税局の建物の中でドラマが進行します。

私はかつて自転車で貧乏旅をしたときに、かなりコインランドリーにお世話になりました。

そしてそのコインランドリーには同じく貧乏旅行をしている男性がいて、短時間ですがとても楽しくお話できたことを覚えています。

そんなこんなで私は個人的にコインランドリーのイメージというのは、「貧乏人の味方」であったり「地面に近い」と言ったような庶民の象徴だと感じています。

一方で、国税局。これはすなわち「強権的な権力」の象徴です。

近年の世界では、格差はかつてないほど拡大し、それなのに税金は決して安くならないという地獄絵図の様な現実が顕現しています。

そもそも税金というのは、国民のお金を強制的に徴収する権力の発露でもあります。

この「庶民」と「権力の傲慢さ」の二つの象徴であるコインランドリーと国税局が舞台であることが、非常に現代の問題に寄り添い、時代意識を反映することに成功していると思います。

マルチバース・脳内シナプス・心理的象徴

さて、本作を語る上で大事なことをここで言明したいと思います。

本作は果たして「マルチバースもの」というジャンルなのかどうかということです。

もちろんマルチバースという並行宇宙の力を使って戦うコメディ映画として、しっかり成立しているわけであり、その点に疑義は無いのです。

しかし本作は、一歩進むと違う側面も見えてきます。

つまり見方によっては、エヴリンの脳内で起きているだけの出来事とも捉えることが出来るわけです。

そもそも前提として、宇宙の展開の仕方が、人間の脳のシナプス的展開と、とてもよく似ているということは知られています。

学者さんの中には、「この宇宙は一人の人間の脳内である」ということを言う人までいるわけです。

しかも本作は、基本的にコインランドリーを経営しているエヴリンを軸として、そこにマルチバース世界の能力をインストールという形を取っているわけで、とても広い舞台で展開しているのと同時に、個人の脳レベルの規模で展開してるとも言えます。

なので全てエヴリンの精神世界とまでは行かなくても、本作におけるマルチバースの宇宙は、エヴリンの精神世界とリンクしていると言う風にも捉えることが出来るわけです。

そんなわけで、本作を読み解くに当たっては、エブリンの脳内、つまりエブリンの心理分析がとても重要になってきます。

その意味で本作は、色んな所に「心理的象徴」が満ちています。

つまり、本作はそのまま見ても楽しめると同時に、「これはエヴリンのこういう気持ちを表してるんだな」と考えて見ることで、もう一歩深い喜びに辿り着けるようになっているのです。

後述しますが、娘がラスボスなのも、エブリンにとっての一番、悩ましい問題が娘の問題だからです。

それでは、本作が広いマルチバース的世界観であると同時に、心理的な作品であると踏まえた上で次の項目に移ります。

変な行動がジャンプの鍵

本作においてマルチバースに飛んで能力を得る為の鍵となるのが

「現時点において、最も変な行動をすること」です。

もうこの時点で最高だぜ!って感じです。

現代の世の中は、科学も進化し、モラルの基準も固定化し、ある程度の平和を維持し続けています。

しかし、上辺だけは「個性」「個性」と連呼するくせに、学校では同じ年齢の子を40人位、同じような机に並べ、社会という枠にきっちりはまる製品を作ることに重きを置き、いかに社会からはみ出さないようにするかに国家は心を砕いています。

そして一般の人々もまた、他人の不倫や、少しの違いを探し合って、異分子を吊るし上げることを無意識で行ってる人が多いです。

そして多くの国の官僚組織や社会は、新しい考え方に怯え、前例踏襲こそを信奉しています。

すなわち現代はとても狭苦しく息苦しい世の中なのです。

しかし、本作において、違う宇宙に飛ぶ時に必要なことは「変な行動」です。

言い換えると、つまり今の自分とは異なる価値観や発想を手に入れる時には、今までとは全く違う方法が必要になるということを表しているとも言えます。

さらに言うならば、世の中の価値観を新しいものに変えていくのに最も重要な人物は、今の社会において「ダメな人間」や「変な人間」かもしれないということも現わしているように感じました。

なので本作は、一つの側面として、変わってるダメ人間賛歌という面があるのです。

ラスボスの正体とその意味

本作のラスボスの正体は、自分の娘でした。

この展開に「ええっ!」て思う人もいるとは思いますが、前の項目で述べた心理的側面に着目すると、納得の展開です。

これは多くの文学のテーマにもなっていますが、母にとって娘とは最大の問題なのです。

息子は異性であり自分とは違う為、柔軟に慈しむことが出来、スムーズに母としての愛を与えることが出来るのに対し、娘は自分と同じ性別です。

なので分かることが多い分、違いもとても目に付き、許せない部分がどうしても目に付きやすくなります。

しかも娘は自分の血が流れており、言うなれば自分の分身を目の前で見せ付けられているような感覚に陥ることもあると思います。

なので自分の嫌なところを娘が受け継いでたら、我が業を見せられているようになるでしょうし、良い部分が自分にないものであれば、自分を否定されているようにも思える。

このように、母と娘という関係はとても難しいからこそ、長年において文学のテーマになりえてきました。

本作のエヴリンもまた、娘のジョイとの関係は上手くいかず、ジョイが女性が好きなのも、心のどこかで受け入れることが出来ないでいます。

ゆえにエブリンの精神宇宙における、最大の問題であるラスボスが娘であることは、当然の帰結でもあるわけです。

黒いベーグルの意味

さて前項で娘がラスボスである意味について考察しましたが、次にその娘が信奉し、そして自ら飲み込まれようとしていた、黒いベーグルのような空間について書いていきたいと思います。

娘のジョイにとって、というより今を生きる若者にとって現代社会はとても厳しい世界です。

母親はコインランドリーや税金の問題で精一杯で、いつもイライラしており、そして経済的余裕もありません。

また学校では、同じ年齢の子が同じ場所に詰め込まれ、そこで不毛な競争を強いられる。

さらに自分の性的嗜好も、多くの人とは異なる。

こんなどこを歩いてもストレスに行き当たるような世の中において、若者はどこかでストレスを発散しなくては生きていけません。

それがアイドルだったりする人もいるでしょうし、アニメだったりする人もいるでしょう。

そしてジョイにとっては「食べること」でした。

ジョイはきっと特に食べ物の中でもベーグルを食べている時が、一番幸せを感じられたのかもしれません。

逆に言えばベーグルという逃げ道が無ければジョイはとっくに壊れていたかもしれないということです。

つまりジョイは、世間の無理解に対する怒りや、母への愛ゆえの憎しみ、ままならない生活の歪み等の黒い感情の全てをベーグルに乗っけて食べていたとも言えるわけです。

しかし食べ物は適量以上を取り過ぎれば、体だけでなく精神も壊していきます。

本作は、エヴリンが娘のジョイと向き合い、娘をストレス等が入り組んだ精神の混沌から救い出すと言う話でもあり、そしてそれは娘を通し自分自身と向き合うことでもあるわけです。

石の意味

マルチバースの一つに、有機物が全く進化しなかった無機物のみの世界が出てきます。

そこで石になったエヴリンとジョイが会話を交わすわけですが、この石には何の意味があるのでしょうか。

この場面もまた心理的象徴として考えて見るに、これは凝り固まって動かなかくなった精神の象徴だと思います。

現代社会は、昔と比べて女性の権利などが議論され、改善されるようにはなってきました。

とはいえ、それでも依然として価値観が古い人も多いし、それを隠し持っている人も大勢います。

自分は男性ですが、男性として生きていても世の中は生きにくいと感じます。

なのに女性は、それに加えて社会に出たら無理解やデリカシーの無い発言にも対処しなくてはならないわけであり、より過酷なのは間違いないと思います。

そしてそういう言葉や態度を心にダメージとして受け続けた場合、心や感情はどんどん固まっていき、しこりのようにずしりと精神の奥に鎮座し、容易には溶けることのない重石となっていくものです。

つまり石とはエブリンやジョイの心の中にある凝り固まった精神の象徴であり、殺伐とした無機物の世界は、凝り固まったところから見た世界であると言えると思います。

ウェイモンドの緩くて寛容な戦い方

さて本作の主人公・エヴリンの夫であるウェイモンドについてここで言及したいと思います。

こういう心理的作品において珍しく、ウェイモンドは良い男です。

しっかりとエヴリンを助け、背中を押し、違う価値観を提示しています。

本作におけるマルチバースの利用法は、違う人生から能力を得るというもので、これを現実に置き換えると、違う人生を想像したり考えることで生きるヒントを得ることだと言えます。

そして行動する時に大事なのは、前例に無い変な事をすること。

実はこの価値観を体現している人こそウェイモンドその人だと思います。

鞄には変なゆるキャラを付けてるし、良い大人なのに目玉シールが好きなのも最高です。

ウェイモンドもまた生活に追われているはずなのですが、彼はいつもふわふわしていて、そこに何かしらの余裕があります。

つまり世間の価値観に縛られ、そしてそこから外れることに心の奥底で恐怖を抱いているエヴリンに対して、ウェイモンドは「生きていればどんなことでも如何様にもなるさ」というような寛容的な価値観があるのです。

非常に楽観的で夢見がちですが、それは悲観的で現状維持的な諦観よりは断然良いのだと思います。

そもそもエレベーターで始めにマルチバースのことを話しかけてきたのもウェイモンドであり、実は初めからエヴリンのことを助ける役割を引き受けている存在です。

前に進む意志の力が強く、それが美点でありながら頑固にもなりがちなエヴリンに、緩くて寛容な戦い方を指ししめすこと、それが本作におけるウェイモンドの役割だったわけです。

ゆえに凝り固まった石に目玉シールがついて、無機物世界を揺り動かすシーンは、目玉シールという目を開かせるという意味と共に、ウェイモンドから学んだ緩くて寛容な心こそが、凝り固まったモノを溶かすという意味も込められているようにも思え、本当に最高のシーンだと思いました。

最高過ぎる神の存在証明

本作の終盤において、現実のエヴリンが娘のジョイに語りかける言葉が最高です。

私は現時点において本作を映画館で1回見ただけなので、セリフを正確には再現出来ませんが、感動したので意味を抽出しつつ、思い出しながら書いていこうと思います。

私は、もしかしたら至高の存在がいるかもと思う。なぜならこんなにもままならなくて、思い通りにならない娘なのに、それでも無条件に愛おしいのだから。

大体こんな意味だったと思うのですが、これぞ最高の神の存在証明です。本当に感動してしまいました。

私は優れたエンタメ作品は、何かしら普遍的な所だったり、未知の感覚を呼び起こしてくれたり、等宗教的とは別の意味で、神の息吹を想起させる力があると思うのですが、本作もまたコメディでありながら非常に神の息吹を感じる作品でした。

全てを打ち鳴らす鐘

本作は3つの部分に別れ、第一部が「エブリシング」(全ての事)。

第二部が「エブリウェア」(全ての場所で)。

そして大円団の最後のパートが「オールアットワンス」(同時に)。

というような構成になっています。

最後のシーンは、家族が上手くいき、国税局の監査もスムーズに行くわけで、ウェイモンドとのキスシーンはとても微笑ましく素敵なシーンです。

さて本作を表面通りにマルチバースでの戦いにおいて、娘に巣食った悪に打ち勝って幸せを勝ち取った作品として捉えた場合。

全ての場所の、全ての問題を起こしていた元凶を倒したことになるわけで、ラストシーンではおそらく全てのマルチバースが同時に幸せになっているのだと思います。(まさに同時に)

そして本作を脳内的、心理的に考えた場合。

エヴリンの新しい価値観や、ifの可能性に思いを馳せる想像力が、彼女の脳内での戦いという葛藤の末に幸せの認識へと導いたとも考えられます。

すなわちエヴリンの想像力が精神宇宙の全てを幸せにしたということです。

この場合、第一部と第二部は精神に立ち向かうまでの準備と実際の戦いの話で、第三部はその戦いの末に辿り着いた場面です。

最後のシーンのエヴリンは、想像力や寛容さにより、幸せの鐘がエヴリンの脳内に鳴り響き、それが現実にも波及して、幸福が鳴り響いている状態なわけです。

さて、ここまでマルチバースで戦った場合と、エヴリンの精神世界だった話に分けて話してきましたが、実はこの二つは本質的には何ら違いはありません。

というか二つのことはリンクしており、正解不正解という文脈ではなく、どちらもまたお互いを象徴しており、ここもまた同時に真実でもあるのです。

つまり本作は、マルチバースでの戦いでもあり、エヴリンの精神世界でもあり、それが同時に起こっていていいじゃないかという寛容な映画なのです。

すなわち本作は、想像力と寛容ささえあれば、どんな事があって、どんな場所にいても、一瞬にして同時に幸せになることが出来るという恩寵の映画なのです。

全てを包み込む恩寵の鐘のような映像体験に感謝しつつ、これにて本考察を終えます。

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