「地下鉄道」はアメリカの作家、コルソン・ホワイトヘッドさんが2016年に出版した、長編小説です。
19世紀の米国による、黒人奴隷や人種差別の問題を正面から描きつつ、そこに歴史的ifを混ぜ、物語としての魅力すらもふんだんに備えた傑作であり、辛い内容ではありますが、その奥には希望への意志がある、今読むべき作品です。
そんな本作を自分なりに書評してみたので、良ければお読みください。
「あらすじ」の後の文章からは、本作の内容やメッセージ性に触れるので、それが嫌な人はあらすじまでで、読むのを留めて下さい。
▼あらすじ
19世紀のアメリカ。
南部の農園に従事する黒人奴隷のコーラは、新入りの奴隷の少年・シーザーから、奴隷を逃がす為に存在する「地下鉄道」の話を聞く。
シーザーの逃亡への誘いを受けたコーラは、彼と共に地下に敷かれた鉄道に乗り逃亡を成功させるが、逃亡奴隷を捕まえて所有主の元に帰す仕事をする、冷徹な男、奴隷狩り人であるリッジウェイに追われる事になる。
人に助けられつつ、また様々な形の差別に直面し絶望しつつも、コーラは自由へ辿り着く為に、逃走を続ける。
本作の読ませる力、「物語」の力はすごい。
もちろんテーマは重いし、多くの人が死ぬので、辛い物語ではあります。
とはいえ追う者・追われる者の緊張感が錯綜する「逃亡劇」であり、かつ世代が三世代に渡る大河的な要素もあり、またコーラが複数の地方を移動する為、旅という要素も含まれています。
ゆえに本作は構造からして既に、読者の精神を惹き付ける魅力がふんだんに含まれています。
本作の舞台は、19世紀。南北戦争が起こる前の、黒人奴隷が農園で酷使されていた時代です。しかしその待遇は、その地域によって違います。
冒頭のランドル農園では、黒人はまるで、所有物や機械の部品のように、農園の為に酷使されています。しかし次のサウス・カロライナでは、自由黒人として寮に入り、形式上は自由な生活を保障されているものの、その裏には劣った人種を管理しようという、歪んだ啓蒙心が隠されています。これもまぎれもない差別の形の一つです。
サウス・カロライナの博物館では、黒人問題を歴史化、更に都合の良い改竄を施し、白人側の良心を痛めないようなコーティングがされています。この欺瞞には反吐が出ますが、実の所、この事実との距離の取り方・意識の誤魔化しは、我々自身も生活の中で行っている事です。
人間は、自分自身が悪であるという思考に耐えられるようには出来ておらず、己の精神を守る為に、自分の罪を都合よく編集・忘却し、少しずつ改竄しながら生きているのだと思います。
もちろんそうでない人もいるでしょうし、その罪の軽重は様々でしょうが、多くの人間が剥き出しの真実を直視せず、コーティングを加える事により、なんとか日々の暮らしを営んでいます。
次の地域であるノース・カロライナでは、今まで自分たちが黒人にしてきた非道な所業に対する復讐の恐怖に、彼らの人口増加の恐怖も加わり、黒人奴隷の死体を公園や道路に吊るし、さらす事が状態化し、一つの儀式・イベントの様になっています。
この異常とも思える恐怖心から、私は中国の王朝交代の歴史を連想しました。
紀元前から歴史上、多くの国が入れ替わり覇を争った中国の歴史は、王朝が腐敗し、周囲の諸侯の一部が、腐敗した政体を倒し、違う王朝を建て、しばらくするとその王朝が腐敗し、また周囲の諸侯が中央へ進軍するという繰り返しです。
つまるところ、人類の遺伝子には、誰かより上に立ちたいという心、物として支配したいという心、そしてその裏返しで、自分も物としていつか支配されてしまうのではという恐怖心があり、それがあらゆる差別や戦争を生み出している源のようにも思うのです。
黒人への差別はそこに、肌が黒いから、黒人は白人とは違う(昔のイギリスは本気で黒人は猿から進化した存在で、白人とはルーツが違う事を研究していたらしい。最低です)という都合の良い逃避・解釈が絡んだ、愚かな産物ですが、人間にはそもそもあらゆる差別・物化の因子が眠っているわけで、本作の問題意識はそのレベル、人間の普遍的性質にまで到達しているように思います。
そもそも人間は、自分自身のエネルギー・糧にする為に、「他」である動物を食べています。それは肉の塊という「物」として扱っている事に他ならず、生存とは「他」を「物」として糧にする行為が前提に組み込まれています。
また旅行に行ったり、スキーをしたりという基本的な遊び・快楽の行為も、道具や環境を自分に都合の良い「物」として扱う事により、効能・喜びを引き出しているわけで、人間の基本的な行動のほぼ全てが、「物」を使い、そこから何かを引き出す事です。
ゆえに全ての人間の中に、「他人を物として扱いたい」という願望が眠るのは道理であり、人種差別の根本もそこに原因があるのだと思います。自分の人種を優位に置きたいというのは、自分は物より一段上の存在、物を使う側であるという優越感の発露に他なりません。
その証拠に、本作においては、ヴァレンタイン農場において仲間であるミンゴが、同じ黒人仲間に対し、その能力や過去において一段低い扱いをし、彼らを見捨てる事を提案します。主人公のコーラすら、サウス・カロライナで、最近学校に来た老婆の能力の無さに対し苛立ちを感じていました。
人間は自己があり、それに「物」や「他」が対応する以上、完全には差別する心・無意識からは逃れられないのです。
とはいえもちろんそれだけが人間の精神の内容物なのではなく、精神の奥底に深い源泉をたたえた愛や善意が眠っている事が、本作のメインテーマです。それがすなわち地下鉄道なのです(詳しくは後述)。
本作はまた、個別の人物の心理描写も群を抜いています。
本作における悪役、奴隷狩り人であるリッジウェイは、複雑な動機、信仰心と歪みがないませにより出来上がった奇怪な存在であり、その奇怪さには不思議な人間らしらが同居しています。
鍛冶屋の息子に生まれた彼は、父親よりその才は薄く、劣等感を抱えていました。そんな彼は奴隷狩り、すなわち逃亡した労働力である黒人奴隷を連れ戻す仕事に、アメリカの拡張の精神と秩序の維持という崇高さを結び付け、それを己の信仰にまで高めています。
コーラを葛藤の末にかくまう事に同意し、手助けをしてくれるエセルは、幼少の頃に未開人に囲まれる宣教師の絵に衝撃を受け、その光景への憧憬を抱えています。
その動機は、「劣った未開人を助ける女神としての私」という、歪んだ承認欲求と啓蒙心のキメラですが、それでもコーラを助け、彼女はそれがばれて命を落とす事になります。
エセルのエピソードから私が感じたのは、彼女の承認欲求の源泉は、現在の日本人に根付いているものとそう変わりはないのでは? という事です。
例えば、大勢のファンに囲まれて歌っている姿に憧れ、アイドルになりたい女性。
日本には地下アイドルという文化もあり、また駅のポスターにも自治体の広報なのか企業のコマーシャル的な狙いなのかは分かりませんが、よく知らないアイドルたちの姿を多く見かけます。日本はアジアのアイドル大国です。
別に、それ自体に善悪は無く、自身を崇拝する人の中で輝きたいという思いは、誰しもが少なからず持っているものだと思います。
ただしファンを自身と同じ自由意志を持つ存在として捉え、その上で崇拝して欲しいなら健全でしょうが、ファンを群れ、劣ったものとして捉え、自身を輝かせる養分の様に見ているなら、その人間・職業に魂は存在しません。そこにあるのは、ただの歪んだ承認欲求による搾取の転換物です。
そして恐らく多くのアイドルの心の中には、多いか少ないかはさておき、ファンを養分とする感覚が入り込んでいます。なぜならそれは人間が普遍的に持つ他を糧としたい感覚だからです。
それを意識的に排除する思考・思想を持っている人こそ、素晴らしいアイドルなのでしょうが、そこまで考えている人間は稀な気がします。
人より優秀・上でありたい、物として扱いたい、これらは人間に根付く普遍的な感情であり、いかにそれを理性・善性により改善していけるかが、これからの人間社会の大きな課題なのだと、私は思います。
私が本作の中で特に印象に残っている言葉。それは弁舌家であるランダー氏が、ミンゴとの論戦で述べた以下の言葉です。
「意義ある幻想は無意味な事実よりもときに価値がある」
この言葉は、黒人が理想的な共同生活を営むヴァレンタイン農場は、事実に屈し理想を捨てていたら、決して実現しなかった事など、当時の様々な社会状況や、意志の意義を含む希望の言葉であり、誰も見捨てず全員で運命を共にしようという覚悟の言葉です。
ここからは、この言葉の「事実」と「幻想」に着目し、それを元に本作の構造を捉え直してみます。
まずコーラが逃亡した先で起こる様々な非道な差別は、「地上」で起きた事、現実であり「事実」であり、人間の精神に置き換えると「意識・表層」のレイヤーです。
これらは人を物として糧として扱いたい、優秀な存在として君臨したい、という人類の本能に存在する普遍的な感情です。
しかしそれはとどのつまり、人間精神の一部に過ぎませんし、まさに表層的・反射的なものに過ぎません。
浅薄な人間や、邪悪な利己心はそれを選ぶかもしれませんが、本作では多くの人がコーラの逃亡に手を貸してくれます。またコーラだけでなく多くの黒人を地下鉄道は逃がしてきました。地下鉄道は広大で、多くの人の労力と願いが詰め込まれています。
それらの人々や地下鉄道こそが、人間の奥にある聖なる善性・理性、それらの源泉の象徴だと思うのです。つまるところ意義ある幻想。その「幻想」を実現しようとする希望の意志です。
それらの根本に流れるエネルギーは、自分とは違う他人を、違うままで尊重し、「物」ではなく「顔」を見て、自分のように慈しむ豊かさの事だと思います。
その意味で、肌の色や能力、自分と同じ属性を持つ存在を慈しむ事は、きっと真の豊かさではないのでしょう。それはどこかで人を区切り、排除の上に成り立つものであり、裏にあるのは自己愛で、それは「他」でなく「同」でしかありません。
そして全てが「同」というのは、つまらない「一」、全体主義であり豊かさとは真逆なものです。
しかしその「他」と「違い」を慈しむ事は難しい事なのでしょう。人間は臆病でイレギュラーな事に弱く、自己の利益を第一に考え、絶えず誰かの復讐におびえている生き物です。
しかしそれでも・・・それでも、人間の奥には「人類」という種を続けてきた歴史があり、それは他者への慈しみがなくては続きえなかったものとも思うのです。
それらの無意識を、善性を信じる人々の行動が、徐々に道を整備し、私たちは、世の中は、徐々に善性の方向に道は流れていっている、そのように思っています。
その精神の道を象徴しているのが、本作の地下鉄道でしょう。
表層のエゴでなく、無意識に在る善性の可能性。それらを育てる人々の思い・行動が線路を広げるとするなら、本や物語もまた地下鉄道を広げる一つのツールなのかもしれません。
そしてまた逃げる事・逃がす事も、不完全で固着している世界では、道を広げる・自由を達成する一つの可能性なのではないでしょうか。
自分を物として扱う人・場所からは、逃げ、自由へと歩き出す。それこそがルサンチマンと歪み・呪いからの脱却で、過渡期の世界を開放へと導く第一歩なのかもしれません。

