<考察>「アフターダーク」 闇への向き合い方、光を捉える感性

考察

「アフターダーク」は2004年に刊行された、村上春樹さんの11作目の長編小説です。

都市を眺める視点を物語の軸に置き、都市の一夜を過ごす人々を、時間軸に沿って描いていく本作。

個人や社会の、深い心理的描写やテーマ性が凝縮された作品であり、個人的には村上さんの作品の中で物凄いエネルギーが秘められている傑作だと考えています。

今、この作品を考察することにしたのは、現代の社会があまりに悲惨で、地獄を生きていると感じるからで、本作はそんな時代を生きる為の一つの指針になる作品だと思ったのです。

一方でテーマ性やメッセージは一貫していながらも、奥さんである陽子さんは「あなたがこれまで書いた中で一番難しい」と言ったらしく、非常に象徴的であり、深い構造を持っている作品でもあります。

そんな本作を、自分なりに考察して、この作品を流れる闇と光に迫っていきたいと思います。

以下、物語のネタバレを含むので、嫌な人はここでストップしてください。

本作の主人公格の一人であるマリには、エリという姉がおり、彼女は「これからしばらくのあいだ眠る」といったまま、以降ずっと眠り続けています。

本作では、この二人の対称性が作品を貫く軸になっており、その視点から見ると、マリが都市の闇をくぐり抜け、エリの眠りを解き、救う物語であるとも言えます。

マリは両親から、姉に比べてお前は器量が良くないから、せめて勉強くらい出来なくちゃどうしようもないと言われて育っており、それが一つのコンプレックスになっています。(子供を商品のように評価することは心を損なう最低な行為)

実際にエリは、お金持ちの女の子が行くミッション系の私立大学で、要領よく試験をパスしながら、雑誌のモデルをしたり、テレビ番組に出たり、CMに出たりしています。

そんなエリに対しマリは、複雑な気持を抱えています。

美しいきらきらしている姉と思う一方で

「うちのお姉さんには、トロンボーンとオーブントースターの違いだって、きっとよくわからないよ。グッチとプラダの違いなら一目でわかるみたいだけど」

という発言からも、エリの知識が乏しく、内面が軽薄であることを、内心で見下している様子が伺えます。(ある種の自己防衛機能の一種)

そんな傍目からは、実に華やかに見えるエリの方が、ずっと眠り続けてしまう。ここに本作のメッセージの核があります。

本作のエリの描写を見て感じるのは、「役割」「型」「従順」と言った言葉です。

顔も可愛く、愛想も良く、両親からも社会からも期待され、そして要領が良いので、それに応えることも出来てしまう。ゆえに彼女の性格や趣味は、自分が心が動くものというよりは、社会が押し付けている美少女像から逆算的に導き出されたもののように思えます。

占いやダイエットが好きなのも、彼女が望んだというより、可愛い女子としての型を嗜好に落とし込んでいるだけではないかと思うのです。

つまりそこにあるのは彼女の意志ではなく、社会や大人の要請や役割があるだけなのです。

人生でも何でも、自然に上手くいっている場合、考える必要が無いので、本質的なことを掘り下げる機会は無くなっていきます。ゆえにエリは、特に何も考えずにここまで来れてしまったのだと思います。

その点でマリは全然違います。

心無い両親から、姉と比べられ、常に比較の負の方を担ってきたマリ。しかしその早い段階での絶望が、彼女を色々な事を考え一歩ずつ自分の感性を育てるという資質を育みました。

そんなわけでマリとエリの性質は、姉妹でありながらまるで反対です。しかし本作はその全く違う二人がぎりぎり繋がっている絆を手繰り寄せ、再び近づこうとする物語なのです。

エリは、マリとは反対の性質と書きましたが、実は心の底でマリの様な繊細で弾力的な感性を抱えています。それは逆説的ですが、エリが眠り続けている事が証明しています。

エリを眠らせてしまった元凶については後述しますが、簡単に言うと、社会の役割や要請、そしてそれを動かす日本男性の無意識の歪な性的な欲望です。

それらの事柄に、これ以上心が損なわれることを避ける為に、エリは眠りにつかざるを得ないところに追い込まれたのだと私は解釈しています。

これをもう少し詳しく考えていくと、エリには歪んだ欲望や意識を感知し、それに傷つく感性があるということです。

つまり心を守り、眠りについたということ自体が、エリの感性が完全に摩耗していない証拠であり、そこにエリが救われる理由や、姉妹の絆が失われていない一端があります。

感性が摩耗し切っている白川は、逆になかなか眠りにつくことが出来ないことから考えても、エリの感性や心は、まだ完全に損なわれてはいないのです。

またマリがエリを救う要因として、幼い頃に起きたエレベーターでの体験がありますが、このエピソードからも、エリは本質的に優しい感性を持っていることが分かります。

ファミレスで一人、本を読んでいるマリに声をかける男、高橋。

彼もまたマリと一緒に一晩の闇と共に、自分の深い部分と向き合っていくキャラクターの一人です。

売れないバンドをやっている高橋。彼の父親はマルチ商法による詐欺で刑務所に収監されていたことがあり、父が捕まっていた時、孤児院に預けられていました。

その経験により彼は、心に深い影のようなものを背負ってしまいます。「一度でも孤児になったものは、死ぬまで孤児なんだ」という彼のセリフはなかなかに辛いものです。

しかし彼はその影を背負いながらも、その闇について向き合い、何が自分の心を動かすのかを考えていく力、そしてそれを支える感性があります。

一人の人間を秩序の為に、記号化し分別、そして刑を執行するという裁判の一つの側面を、深海のタコに例えたり、自分の好きな音楽を、空を飛ぶことの次に楽しい、と言葉で現わす高橋。

後述する牛乳や乳製品に対する向き合い方も含め、彼には繊細で細やかな感性と、虐げられしものに向ける優しさがあります。

その意味で、無思考で闇に飲まれている白川とは、感性の弾力性も含め、対照的な存在として描かれているのが高橋です。

本作で、闇に飲まれている象徴のような存在。それが白川です。

収入も安定しており、家族もいて生活レベルもかなり高い白川。しかし彼の意識や無意識には歪んだ病巣が巣食っています。

白川は、物語中で職種は特定されませんが、コンピューターを使いシステムを整備する仕事(おそらくエンジニア的な職種)をしています。

深夜に、大量消費社会の歪んだ欲望を支える、デジタルシステムのエラーや、最終的な帳尻を合わせる最終処分場のような仕事を、18世紀のクラシック音楽を聴きながら、形式的に規則的に、そして何かを潰すようにこなしていく姿は、まさに闇の欲望を処理するマッドドクターさながらです。

私は本作の重要なテーマの一つに「記号化」というものがあると思いますが、システムエンジニアというのは、かなり乱暴に言うと記号を処理する仕事です。

そこもまた白川という歪んだ性欲の記号化に侵されている男の象徴になっています。(本作におけるシステムエンジニアの持つ象徴を読み解いているだけで、私個人は、システムエンジニアという職種に対し好き嫌いはありません)

印象的なのが、彼が鏡で自分の姿を見る時の描写です。

「何か別のものが出現してくるのではないかという期待」「論理を一時的に凍結し、時間の進行を少しでもくい止める」

この描写からは、虚無的で他人任せの変身願望と、外見など見えるものでしか価値をはかれ時間という諸行無常を受け入れられないという哀れな感性が垣間見えます。(筋トレもまたその価値観の延長)

白川がなぜこのようになったのかは本作では語られませんが、几帳面で規則的な所作から鑑みるに、社会が良いと思うステータスや型を無条件で何も考えずに実践し、欲望の氾濫する消費社会の中で、ひたすら記号として競争をしてきた成れの果てのように思えます。

結果として彼を待つのは、圧倒的な感性の麻痺と、自ら闇に呑まれていく緩やかな自己破壊です。

ここまでかなり辛辣に書いてきましたが、白川の抱えている闇は、ひどさの程度や物語ゆえの誇張はあれど、現在の日本の年男性が抱えている闇でもあり、他人事ではありません。

詳しくは次項で書きますが、本作を読み、白川という男を眺める事は、私たちが抱える病を直視するということでもある、そのように思います。

ベッドに眠っているエリを追い詰めるもの、そしてそもそも眠りを強いるほど彼女を疲労させたもの。

それこそが、日本男性が無意識に抱える性欲の歪みです。

その歪みは、現代社会の欲望が加速化させていますが、太古の昔から連綿と続いている日本精神の伝統でもあります。

エリのベッドルームにいる男がつけている「呪術性と機能性が等しく備わっている半透明なマスク」というのは、アミニズムの時代から続く、日本の男性精神を象徴している言葉なのだと私は思います。

日本は、アマテラスや卑弥呼が象徴するように、中心に神秘的な女性を立てるというような少女信仰が男性の中に培われている国です。

日本のアニメは、女子高生やそれよりも低い年齢の少女が、戦い活躍するものが多く、また多くの女性アーティストも、求められているのは巫女であり、そこには自身の思いではなく、曲や詩、またはプロデュースしている男性の、思いや欲望を再現する装置のような存在であるパターンが本当に多いです。(それの全てが悪いわけではない。色んなコンテンツがある多様性が大事)

つまり太古から現代まで日本というのは、祈りや欲望を少女にのせてきた国柄なのです。

現代ではそこに、ネット環境や消費社会により、欲望が加速度的に結びつき、カオス化しています。

スマホを開けば、可愛い女の子の裸や、ハードなエロが無限に広がっている。そこにあるのは商品化し外見を記号のように選ぶ性欲のマーケットです。

エリは顔も良く、また周りの役割を受け入れる要領の良さもあり、自身の趣向も含め、綺麗な女の子の類型的なパターンを生きています。

しかしCMモデルにしても何にしても、根底には男性の性欲があります。物を買わせる消費を喚起する為に、少女の水着が使われるわけです。

そんな社会で生きて、かつそういうコンテンツと共に育ち、そのような伝統の上にのっている日本男性には、無意識に、少女を過度に祭り上げる少女信仰が根付いています。

その信仰はそもそも女性個人の人間性を無視していますし、清浄な少女みたいなものは脳内で作られた虚像に過ぎないわけです。(自分が排泄をするように相手も排泄をするし、たまには暴飲暴食だってする)

その少女信仰みたいなものが、過度な尊敬である場合はまだいいですが、そこに男尊女卑の思想歪んだ欲望が入り込んだ場合、悲惨なことになります。それこそが女の子を、欲望の為の商品として記号化することに繋がっていくのです。

その子が持っている本当の内面性はおざなりに、外見や体型で分類、そして分かりやすいキャラ化を施し、商品として並べる。記号化は、大量消費社会やネット社会と非常に親和性が高いのです。

本作で白川が中国の女の子を殴らざるを得なかったのは、その子は白川にとってはあくまで性欲の発散の道具であり、記号であればいいだけなのに、何かノイズになるようなことを発言したり、何かのプレイを拒否したりしたからでしょう。

自分を気持ちよくしてくれるだけの存在が反抗してきた、ゆえに殴らざるを得なかった。

白川は本当にクズで悲しい哀れな存在なのです。

エリのパターンも本質的にはこれと同じで、周りの大人の発言や要望、無意識下のいやらしい視線を感じながらもエリは、逆にそれを器用にこなしてきてしまったのではないかと思います。

しかしその澱みたいなものは溜まっていき、そしてそれに耐え切れず眠らざるを得なかった。

その意味でエリを眠らせることになったのは、女性を記号化しようとする、日本男性が無意識に持つ性欲や、無責任な期待や願望が犯人なのではないかと思います。

これは加害者は男性だけとは限らず、その欲望を何も考えず、受け入れ、その社会のルールを押し付ける女性も、加害者になりえます。(結婚していない娘をいきおくれとかいう母親がこの例)

ここまで私は本作が象徴する呪いという観点から述べてきましたが、それはあくまで物事の一面です。

私自身、少女が活躍するアニメが放つ光や救いは沢山あり、それをコンプライアンスで全て叩き潰す風潮は、自由と多様性を奪う行為だと思っています。

また私は根本的に好奇心・快楽主義者でもあるので、性欲やそれらのコンテンツ自体を否定する気持ちは一切ありません。(今や日本が誇る立派な文化の一つ)

ただし一方で、女性を物や商品のように扱っている面がある事に、無自覚になることは避けないと、感性が摩耗した悲惨な人間になるとも思います。

大事なのは、欲望と理性、空想と現実を分けてバランスを取り、相手の気持ちを考える想像力にあります。

世の中は楽しいからこそ、難しいし、気持ちいいことは素晴らしいけども、相手も気持ちいい状態でいてもらうことも大事、そんなことを思うのです。

高橋が司法や裁判制度のことを「深い海の底に住む巨大なタコ」という表現をします。本作の中でもかなり印象に残るシーンです。

私は人間には、根源的に人を裁きたいという欲求があると考えています。

裁く側に回ることにより、自分を安全圏に置き、安心感と優越感を確認出来る。

よくニュース番組は本質的にはエンタメ番組だと言われますが、これは太古の、裁きの儀式の時代から続く伝統だとも思うのです。

アイドルに順位を付けたり、クラスのメンバーを恋人としてアリかナシが順位を付けたりする行為も、裁きたいという欲求が根本にあると思います。

そこに安全に暮らす為に、秩序を維持しなくてはいけないという、生存本能の要請が加わっているのが、裁判制度の一つの側面だと思うのです。

そして裁きたい欲望と秩序維持の二つに、密接に関わっているのが記号化です。

裁判は事件の経緯は審理されますが、そこでは行政が判断しやすくするため、容疑者、被害者、加害者、動機など、ゲームのような記号化がなされます。

事件の背後には、そこに至った理由、思い、清濁併せもつ人間性などがあり、当人たちにしか分からない複雑な関係性があるはずですが、秩序を維持するために、犯罪者は犯罪者、有罪は有罪、決定したならば刑務所で隔離、そのような整頓された分かりやすさが求められます。

私は、裁判所や司法は社会において必要だと思う一方で、物事の根本的な部分は当の本人たちしか掬い取れないとも考えています。

個人の顔が見えている範囲でしか人間は理解出来ず、それですら限りがある。ゆえに記号化が必要なわけですが、そこには本質的にグロテスクで恐ろしいものが潜んでいます。

秩序の為、そして太古の時代から続く人を裁きたいという根源的な欲求。

その為に個性や人格を容疑者、犯罪者という言葉で奪い、記号化していき、そして判決が出たら、コンクリートの向こうという自分の心には関係ない深海に遠ざける。

この構造と、高橋の言葉から私が連想する光景は、何本もの欲望の足を持つタコが人間をさらい、そしてバラバラにして深海に連れ込むというおぞましい映像です。

機械的なルール、コンクリートの壁、行政的運用のイメージから、裁判はスタイリッシュで形式的な印象があります。しかしその本質の一面には、グロテスクであり非人間的なものが潜んでいる、そんなことを思うのです。

その意味で、欲求と秩序の最終処分場が裁判所だとすると、消費と欲望の根底を支えるシステムの最終処分を仕事にしている白川というのは、本作において共通性を抱えているのではではないか、そんなことを思います。

前項までの「性欲」と「裁き」という記号化。そしてそれらの記号的な物の他にも、無数の要素を抱え込んでいるのが「都市」です。

田舎に比べて圧倒的に人口が多い「都市」。

田舎には田舎の共同体における問題点も色々ありますが、狭い世界ゆえに個人の顔が見えるという良い点もあります。

しかし都市の場合、その広さと人口から、ほとんどの人が家族以外は「他人」というカテゴリーに分けて、ある意味で物のように、記号として認識しながら生活していますし、それは仕方がないことです。

そこに大量消費や欲望が結びつくことにより、都市の歪みは加速化していき、闇は深くなります。

コンビニに行けば、何種類ものチョコが並び、スマホを開けば女の子の裸が並ぶ、欲望というのは記号化すればするほど、大量に摂取出来ます。そして量が増えれば増えるほど、より強い刺激を求めるようになっていくのが人間です。

そんなわけで都市では、手軽に欲望にアクセス出来ますが、同時にその価値観の中に自分も乗せられているので、知らないうちに自分も搾取されています。

人々が欲望の為に人を記号化する行為は、その人の気持ちを蔑ろにするので誰かを傷つけるし、それが周り周って、自分も傷つけられます。

また記号的な欲望を供給する社会は、「利益を出す」という欲望が強力なエンジンになっているので、人体や精神に有害な物も、利益が出せるなら簡単にお店に並びますし、手に入れることが出来てしまいます。

コンビニに、色んな商品が並ぶ中、本作の重要な要素の一つである乳製品のチーズや、白川の罪の象徴である中国の女の子の携帯電話が並ぶのは、そのような邪悪が日常に自然と入り込んでいる象徴だと思います。

もちろん都市の中にも邪悪な欲望を抱えた人だけでなく、純粋な夢を持つ若者や、カオルのように夜の世界で上手くバランスを取っている人、コオロギのような何かから逃げている人、何かに傷つき都市に癒しを求めている人など、様々な人間がいます。

そんな感情や事情を抱えている人を、都市は幾何学的に飲み込んでいるので、それが都市をより複雑な構造にしています。

そんな複雑怪奇でカオスな都市の欲望が一番加速するのは、都市が闇に染まる夜の時間帯です。その一夜を「視点」を軸に描くことで、様々な物事を浮かび上がらせようとしているのが本作の狙いの一つだと思います。

自分が都市に生きる人間として、欲望を制御し、記号や商品でない、感性を持つ個人として生きるにしても、まずはその欲望や自身が抱える悲しみなど、自分の深い部分と向き合わないといけません。

本作では、自分自身の深い部分と向き合う事と、夜の闇の時間を過ごすという事をリンクさせています。

複雑な思いの中で、それでもエリを助けたいという気持ちを確認するマリ、マリと会話を重ねつつ自分の気持ちの方向性を眺める高橋、二人は自分なりのペースで夜の闇と向き合っています。

一方で、ラブホテルで女の子を殴り、それを機械的・潔癖的に自分の意識からも無かったことにする白川は、無思考で闇と向き合わないどころか、積極的に闇の再生産に手を貸しています。

本作は都市に住む人たちの、夜の闇を、ある種の神とも取れる視点から見守り、比較し、そしてそこから何が大切かを学ぶ、比較人類学的な小説とも言えるのです。

次項では本作の視点について語ります。

本作は都市の上空から始まり、そこから都市を眺める視点である「私たち」が、フォーカスをファミレスに合わせ、その中にいるマリを眺め始めるところからスタートします。

つまり本作の主人公は、人物ではなく、それらを見通す視点ということになります。

それは非常に神的なものとも言えると思いますが、もう少し解像度を上げて考えるならば、この視点が見ることの出来る場面は、作者が描いた場面だけであり、固定されているとも言えます。

その意味で言うなら本作における神は、作者である村上さんであり、視点はあくまで村上さんが用意した場面を見る副次的な存在です。

都市の闇を眺めることは出来るが、場面は限定されている。

これはある存在と、とても共通点があります。それは我々「読者」です。

どのタイミングでどんなスピードで読むかは自由だけど、あくまで作者が書いた物しか読めない存在。

本作において、都市の視点と読者は重なっている存在とされており、それゆえに読者は、本当に自分がそこに居て、見ているような没入感を獲得しています。

実は村上さんの作品において、こういうタイプは珍しく、他作品では人物の主人公を置いている作品がほとんどです。

しかし本作では、都市を眺める視点を主人公にして、読者とリンクさせている。

私はこれは読者に向けた、ある種の挑戦状だと思っています。

つまり我々がマリや高橋を通し、都市の一夜を眺めることで、そこから何を感じ取れるかが試されているということです。

読者である我々自身にも、それぞれ抱える闇があります。それがマリに親和性が近いかもしれませんし、高橋かもしれません。

エリに迫る邪悪な仮面の存在の描写。それは白川的な、日本男性が抱える歪んだ性欲の象徴だと述べましたが、我々がそれを眺める時、それらの要素が自分にもあるのではないか、そういうことが突きつけられるわけです。

本作で白川と対置的な存在として描かれる高橋に対し、マリが「とくに心も引かれてない人とホテルに入ったりするの」と問いかけるシーンは、感性が摩耗していない高橋にすら、性欲の歪みの種があることを現わしているように思います。

本作は視点という存在を主役に据え、読者との距離を近くにし、そこにある欲望や様々な感情を体感させることで「そこからお前は何を感じ取り、どういう方向性を目指すんだ」と読者に対し銃口を突きつけている、確実にそういう側面がある作品です。

しかし一方で、誰かを見る、何かを見るということは、同時に誰かから、何かから見られることでもあります。

ゆえに作者である村上さんも、読者に見られています。本作でどういうメッセージや物語を紡ぐのか、読者は自然と村上さん自身の内面を眺めようとします。

その意味で本作は、銃口を突きつけている側面もありつつ、それは双方向的であり、「私たち」という言葉には、読者たちと一緒にこの夜を眺めて行こうという作者自身や、包み込む意志も含まれています。

本作の主人公である「私たち」という視点には、そのような様々な意味や意志が込められているのだと思うのです。

ラブホテルで白川に殴られる中国の女の子、そして周囲から期待されず日本社会に上手く溶け込めないマリ。

この二人は本作において、ある種の精神を共有した存在として描かれています。

この二人の状況や過酷さは、一見全く違うように思えますが、深いレベルでの紐帯みたいなものが存在します。

過去の歴史的経緯もあり、日本ではかなり前から中国への印象が良くありません。その国の政治体制とそこに生きる個人は別のはずですが、それをいっしょくたにして中国の人を見下している中年の男女を特にネットで良く見かけます。

そもそも白川が中国の子をラブホテルで殴るという構図が、ネトウヨ的なものが中国を侮蔑する構図ととても似ています。

一方でマリは、日本の学校になじめず、地元の中国の子たちの学校において、ようやく居場所を見つけることが出来ました。

日本は「周りと同じ様に」「皆と一緒に」というような同調圧力がとても強い国ですが、同調圧力というのは、ひも解くと、個性を消して記号的にふるまえという思想の発露です。

私は本作には都市の闇の奥に存在する、人を物として扱う「記号化」がテーマとして隠れていると考えていますが、教育現場も含めて日本というのは、日本人という型の記号に縛られているのです。

さらに言えば以前よりは大分改善されたとはいえ、日本社会では女性らしく、妻らしく、母親らしくなど、女性に様々な型を求めています。

その裏にあるのは男性側の願望であり、やはり未だに社会は、男の論理や、その裏にある性欲で流れている側面が大きいです。

マリと中国の女の子には、共同体から虐げられた者、そして女性が抱える不自由さという二つの連帯を持つ、共通した精神の象徴として描かれていると思うのです。

マリは、倒れている中国の子を助けることに力を貸しましたが、実はそれは一方通行ではありません。マリが学校になじめなかった時に、受け入れてくれたのは中国人の学校の子たちだからです。

私は虐げられた経験や、何かになじめなかった経験というのは、その分、人に優しくなり相手のことを考えるようになるという素晴らしい側面があると考えています。

その意味で、この二人の共通性や連帯は、虐げられたという悲しみだけではなく、手を取り助け合う精神、虐げられた者への慈しみという光の側面があるように思うのです。

高橋の好物である牛乳、そして白川も奥さんからローファットの牛乳を買ってこいと言われ、また白川が中国の子の携帯を置くのはコンビニのチーズの横。

本作ではいくつかの印象的なシーンにおいて乳製品が出てきます。

乳製品、特に牛乳というものには、太古の昔から、人間の営みや宗教と非常に関連が深いものです。

聖書では、理想の土地のことを「乳と蜜の流れる地」として語っており、乳製品の大元である牛の乳には、大地の恵みという象徴のようなものが連想されます。

その意味で、本作において各キャラクターの乳製品に対する態度が、その人物がどういう感性を持っているのか、大地と繋がりのある感覚を持っているのかを測る基準になります。

高橋にとって牛乳というのは、りんごと並んで大事な食べ物です。

りんごもアダムとイヴ、そして知恵と愛という、人間性の祝福の象徴でもあるわけで、それに加え大地の恵みである牛乳を大事にしている高橋は、しっかりと大地に根付いた確かな感性を持っている存在として描かれています。

一方で白川は奥さんに頼まれたローファットの牛乳を買います。

ローファットの牛乳というのは乳脂肪分を除去し、低めにした牛乳で、ダイエットなどの目的に購入されることが多いです。

私は本作におけるローファット牛乳には、自分勝手な都合により改変した、自然への冒涜という象徴が含まれているように感じました。

生きる為の大地の恵みの栄養分を人間都合でカットする行為に、欲望の最大化や、利益の為のコストカットの為だったら、何かを改変してもいいというような、消費社会の傲慢さが重なっているような気がするのです。

白川が中国の女の子を殴った証拠である携帯電話が、チーズの横に置かれるのも、チーズというのは牛の乳が固まったものであり、それは感性が凝り固まり、もはや柔軟な精神を失っている白川の状態そのものを指しているように思います。(私自身チーズは好きだし、ローファット牛乳に思うところはありません、あくまで作品内での象徴としての話です)

高橋は裁判制度を、深海のタコに例えていますが、そういう柔軟な発想が出てくるのは、高橋が大地や深海のような、自然の恵みを体感できる感性を持っているからです。

感性が摩耗し、闇を拡散する白川を自然や大地は許さないのでしょう。

携帯電話から発せられる「逃げ切れない。どこまで逃げてもね」「あんたは忘れるかもしれない。わたしたちは忘れない」というメッセージは中国マフィアというよりは、その奥にある自然や超然した何かと、虐げられてきた者たちの怨嗟の声が混ざったような声なのではと、私は感じました。

私たち人類は地球の土から生まれ、その土から育てられた食べ物を食べて生きています。それはどんな都会の高層ビル住んでいる人も例外なく一緒です。

ゆえにその大地への恵みを感じる感性や、繋がりを考えることが出来ない人間には、本当の意味での幸せは訪れないのでは、そんなことを思います。

本作において、鏡を覗いていた登場人物が、鏡の前を去った後も、その姿が鏡の中に残り続けるという描写があります。

また終盤付近の、明け方に街が朝の光に包まれる中、ビルの間にはさまれた多くの街路に、影が残り続ける描写も印象的です。

私は鏡の中に残る姿は、その人の心の残滓のようなものがそこに残っていることを現わしていると思います。

村上春樹さんの作品は、集合的無意識の世界と、現実の世界とが溶け合った世界を行き来し、自分の精神と深く向き合うことで解決策を導き出していく作品が多いです。

本作においては、他作品よりは集合的無意志の要素は薄いですが、鏡の中に残る人物、エリの眠る部屋にテレビを通し繋がる白川の無意識など、人間の意識や無意識、精神世界が溶け合う描写はやはり本作でも魅力として機能しています。

こうやって書くと、そんなことはフィクションの世界でしか起こらないと思うかもですが、歴史上で人が沢山死んだ場所に行ったり、自殺スポットに行った時、そこで何かを感じてしまった経験がある人は、結構居るんじゃないかと思います。

私はそれらもまた、そこに鬱屈した負のエネルギーを知覚しているものだと考えています。

鏡の中の姿、集合的無意識、それらの事を考える時、現実世界は、人間の精神と密接に結びつき、その空気やエネルギーに影響されているのではと私は思うのです。

ビルの間の影が長引くのは、情報化社会で、利益と欲望の為の処理をし続ける建物の殺伐さ、そこに携わる人間の闇が密接に影響しているのでしょう。

その意味で私は、都市にいる沢山の人間の心やその残滓が歪んでいる場合、それらが累積して、空間自体を歪ませ、結果、都市の闇が深くなるのではと思うのです。

一見幸せそうに見えるものの、欲望や闇に呑まれている白川は、眠ることが出来ません。

それは深い歪んだ闇に囚われているからで、それは消そうと思っても、彼の一部であるので消えませんし、大地や自然の感性から断絶している白川に、真の健やかな眠りは訪れません。

一方でラブホテルでぐっすりと眠るマリ、倉庫のような地下室で音楽を奏でる高橋には、健やかな眠りと朝の光がしっかり訪れます。

私はふと、眠れないまま、歪んだ世界の中で、無垢や欲望の対象であるエリのベッドを眺め続ける白川の姿を想像した時、その哀れさと惨めさに悲しくなります。

それは無思考ゆえに欲望のゾンビになった人の、なれの果ての姿です。

姉妹でも全く性格が違うマリとエリ。彼女たちには幼い頃にエレベーターに閉じ込められた時の思い出があります。

このわずかだけども、繋がった瞬間が、姉妹の絆を繋ぎとめています。

容姿も要領も良く、それゆえ社会の無意識の規範や、役割通りの美しい少女という型を生きていたエリ。

しかしその内部には純粋な性質が確かに存在し、エレベーターの暗闇で、自分の恐怖を押し殺しつつ、姉としてマリを守り、ぬくもりで包んでくれました。

その暗闇の中でくれたぬくもりが巡って、エリを目覚めさせるマリのぬくもりに繋がります。手を差し伸べた人は、いつか手を差し伸べられるわけです。

村上さんの作品は、過去のある時期に、強力な絆や密度でシンクロした人たちが出てきて、それが失われた後にどう生きるかというテーマを扱った物が多くあります。それはある種、非常に特殊な体験です。

しかし本作のマリとエリはそれとは違い、通じ合った瞬間は過去のわずかな時間で、それは特別に強烈なものではありません。

しかしそれでも、過去に確かに繋がっていた経験があり、それだけで人は絆を取り戻せる可能性がある。本作のマリとエリは、そのような事を表現しているのではないかそんなことを思います。

有体に言えばマリとエリは、世間でなんとなく関係が上手くいっていない親子や姉妹と同じであり、その状況は特殊ではなく、普通なのです。

だからこそ本作の物語は、家族と上手くいかずに苦しむ、普通の人たちに距離が近く、コミットしやすいようになっており、心が通じた瞬間を改めて見つめ直せば、関係が改善する可能性があることを示している、そんなことを思うのです。

マリが自分の気持ちと向き合い、夜明けへ辿り着くのを手助けしてくれるのが、ラブホテルで働くカオルさんや、コオロギ、そして中国の女の子など、夜の世界で生きる人々です。

彼女たちは、世間の狭い常識では、アウトサイダーであったりワイルドであると分類される人々ですが、そこには経験に裏打ちされるタフさ、そして様々な経験を重ねたゆえの優しさや、繊細な神経があります。

女子プロレスからラブホテルのマネージャーへ転身したカオルさん。そして、何かから逃げ続けているコオロギ、彼女たちとの対話は、マリが自分と向き合う為の重要な要素になっています。

特にコオロギとの会話は、コオロギの方から自分の傷をさらけ出したこともあり、マリに心を開かせ、お互いがお互いの何かを癒すという、非常に胸を打つシーンです。

中国の女の子を助けたことも、マリにはポジティブな変化を与えていると私は思います。助けた側が逆に精神的に助けられているという側面は、あらゆる場面にあると思うのです。

何かの影や過去を抱えながらも、色々な事を感じ、考え、もがきながら生きている彼女たち。

その意味で彼女たちはアウトサイダーかもしれませんが、闇に呑まれてはいないのです。

むしろ高層ビルの中で働き、多額の収入を持つ白川の方が、感性が死んでいることを考えると、現代社会でアウトサイダーであることは、むしろ常識にとらわれず、自分で選択をした人間、もしくは闇を見つめることから逃げなかった人間と言えるのかもしれません。

そのような人々が、マリの手助けをしたことが、エリの目覚めの予兆というラストに繋がる結果を生んだのだと思うのです。

都市を眺める視点から、それぞれの人々が過ごす一夜を通し、闇とは何かを考え、向き合う本作。

マリや高橋は、自分で考え行動し、夜を通り抜け、健やかな眠りを経た後、自分の気持ちの道しるべを獲得しました。

各々が自身の深い部分に向き合い、考える事で光の方向性へ足を踏み出した、そんなことが言えると思います。

自身の深い部分と向き合う事と、都市の闇夜を過ごすこと。本作ではこの二つの事象をリンクしたものとして見せています。

マリや高橋は、自身と向き合いつつ、一方でタフで優しい感性を持つ、カオルさんやコオロギなどの話を聞き、手助けを得ます。その意味でマリや高橋はそれぞれ闇を抱えつつも、心を閉じてはいないのです。

自身の深い部分と向き合い、そして他者と話し、様々な視点や感覚を吟味し、光の方向性を獲得していくこと。

私はこれこそが感性を磨くことだと思います。

デビュー作の「風の歌を聴け」の時から、想像力を磨き、世界を捉える感性こそ重要だというのは、村上さんが一貫して主張してきた事のように思います。

白川のように、型としての家族や生活を無思考で実現し、欲望システムの処理場として働きつつ、歪んだ欲望を再生産し続ける生き方は、感性を摩耗し、自分を損ないますし、その延長で社会そのものを損なってしまいます。

村上さんの作品は、阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件以降の作品は、社会性を帯びていき、内容も非常に分かりやすくなり、読者に対し何かを届けようという意識が強くなっていきます。

そんな村上さんが一貫して、社会の敵として描いているのが、集合的無意識の中にある人間の邪悪さです。

社会に理不尽や歪みが蓄積していくと、いかに上辺を整えていても、集合的無意識そのものが歪んでいき、それが人間社会を不幸にしていく。

海辺のカフカにしても、ねじまき鳥クロニクルにしても、ラストの敵はその人物の背後にある集合的無意識の悪でした。

私は村上さんの中で、震災や邪悪な事件は、人間の集合的無意識が引き起こしている側面があるのでは、という考えがあるような気がします。

私個人も、人間は地球で生まれ、地球で出来た食べ物でエネルギーを得て、地球で生命を終える以上、人間の精神の光にしても闇にしても、地球やその空間に、密接に影響を与えている事は充分ありうると思うのです。

本作のラストは、エリが目覚める予兆で終わりますが、一番最後の文章は「次の闇が訪れるまでに、まだ時間はある」という言葉です。

この言葉は、エリがこの後目覚め、都市に光が射すのか、それとも予兆のまま終わり、光が射さないまま、より深い闇を迎えるのかは、私たち読者も含めた、人々の行動や思考によって決まる、そのような意味を含んでいるように私は感じました。

人間は複雑な思考や感情を持つ生き物です。

そこに欲望や薄暗い気持ちがあることは当たり前ですし、むしろ多様性の為には必要なことだと思います。

しかしその闇に対し、マリや高橋のように向き合い、その先の何かを考え続けるのか、白川のように無思考でその欲望の歯車の中に生きるのかで、その後の方向性は大きく変わってくるように思います。

闇を見つめ、しっかりと感じることでそれを癒し、瑞々しい光を目指すのか、その闇を歪ませ、社会に悲劇を顕現させるのかは、我々個人の心の持ちように関わってくる。

そのメッセージを、都市の闇を過ごす人間に焦点を当てることで、浮かび上がらせたのが本作だと思います。

現代はまるで地獄の釜が開いたような、本当に悲惨な時代です。毎日のニュースを見ているだけで精神は疲弊し、目や耳を塞ぎたくなってきます。

しかしそんな時こそ、自分の感性を磨き、その闇の中から光を探す思考や、行動が大事なのだと思います。

本作に登場する様々な人物は、繊細であり、様々な事情を抱えながらも、それぞれに異なる非常に豊かな感性を持っています。

それらの感性の中に、この地獄のような社会と向き合う指針や光がある、そんなことを思うのです。

悲惨な世界に心を折られそうな私を、闇の中で包み込み、かつ鼓舞してくれた本作に感謝して、本考察を終えます。

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