私の地元には、美味しい定食屋がある。
どちらかというと、雰囲気はお洒落な小ざっぱりとした料亭みたいな感じなのだが、ほとんどの定食が1000円以内で食べれて、なおかつ美味しい。
今日もそこで、アジフライ定食を食べ、そのジューシーな味わいで幸福感をチャージしたわけだが、カウンターで昼から飲んでいた常連のおじさま方の会話が、実に無粋であった。
彼らは大声で
「あの定食屋のとんかつは星3つだ」
とか
「あそこのとんかつは揚げ方は90点だが、下味が80点」
など、まるで人間食べログばりにとんかつに評価を下していた。
私がその会話に苛立ちを覚えたのは、その定食屋にもとんかつ定食がメニューにあることが大きい。
なのにも関わらず他店のとんかつ食べログ話を延々と繰り広げる、じじいどものデリカシーの無さに、かなり辟易してしまったのだ←おじさまという呼称配慮、早々に撤廃笑
まあ新年早々、評価主義でしかマウントを取れない無粋人間(もはや散々)に時間を割くのは止めて、定食の話に移りたい。
そのお店のメニューの中に「ナポリタン定食」というものがある。
私は別にこのお店だけじゃないにしろ、こういう定食メニューを見ると、脳がざわざわする。
「果たしてナポリタン定食とはどういう構成の定食なのだろうか?」
という疑問がむくむくと沸きあがってくるのだ。
それならそのメニューを頼めばいいじゃないかと思うだろうが、私は確実にこのタイプのメニューは頼まない。
なぜならば、もしナポリタンに白飯という組み合わせで、食の舞台に上手から派手に登場された場合、私はその演目を最後まで観劇、もとい食べ切る自信がないからだ。
これはお好み焼き定食にも同じ事が言え、私は関西ラブだが、それでもお好み焼きとご飯は合わないと思っている。
そんなわけで私はナポリタン定食とかお好み焼き定食とかを頼むことはないわけだけれど、不思議なのはそれでも「定食」という文字が付くだけで、何だかとても美味しそうに思えることだ。
その意味で「定食」という文字のポテンシャルは中々に、測り知れないものがあるように思う。
そんな「定食」の底の知れなさを担保しているのは、概念やルールが曖昧であるという部分もかなり大きい。
大抵、定食のスタンダートといえば、ご飯に味噌汁、メインに小鉢という感じだろうが、別にこれが定食の正解というわけでもないし、憲法のどこにも定食かくあるべしなど、書かれてはいない。
その意味で、お好み焼きとたこ焼きを器に盛り合わせて「道頓堀定食」としてもいいし、明太子ともつ鍋で「博多お楽しみ定食」としてもいいわけだ←実際にありそう
そうなると定食には無限の可能性と組み合わせが広がる。
例えば、「青春18定食」ならば、件の切符で行けるところのご当地料理をランダムで提供してもいいし、「初めての手料理定食」の初々しさを担保するのは、まあ肉じゃがだろう。
はたまた「70年代定食」とか「80年代定食」とかで、その当時の食のトレンドを知るとかもいいし、「江戸時代商人定食」などで過去の時代の都市人の食べ物を追体験するのも楽しいかもしれない。
そうなるといよいよ登場するのが「義理定食」だ。
これは一見すると普通の親子丼とお吸い物の定食だ。しかし義理というワードが付くだけで、卵と鳥のDNA鑑定をしたい願望にかられてくる。
「エゴサ定食」に関して言えば、もちろん白飯の上に鳥マークの模様に、青いふりかけがかかっている。そしてもちろんその青いふりかけは、食べ過ぎると人体と精神に害を及ぼすサプリ入りだ。
さらに「老荘定食」ともなれば、当り前のように空っぽの器が並ぶのみだ。定食などは全て蝶が見た夢の如く、現実には存在しない。
ここまで来ると、次に「定食」は「主観の対象の変更」すら要求してくるだろう。
サバンナで放置されているシマウマの屍肉。
これはハイエナにとっての「大出血大盛サービス定食」だ。コックであるライオンを召使のように追い払い、ゆっくりとコスパ最高の食事を味わう彼らの顔は勝者のそれである。
そして現代社会を支えているPCやキーボードもまた、無機物捕食生物ケアメニテスにとってみれば、見ただけで垂涎ものの「滋養たっぷりハイエンド定食」だ。もちろんマウスやUSBは小鉢やデザートに該当する。
ここまで書いてみて勘の良い皆さまなら、もうお分かりだろう。
そう
我々自体も「誰かの定食」かもしれないのだ。
定食には無限の可能性がある。ゆえにこそ破滅にも混沌にも近い存在であるのだろう。
定食は美味しい、しかしだからこそ諸刃の剣でもあるのだ・・・