今、ペルソナ4の考察に取りかかっていますが、そこで「アニマ」と「アニムス」の問題について考えています。
この二つは、心理学の用語で「アニマ」は男性の内面における女性性。「アニムス」は女性の内面における男性性についてを指しています。
最近でこそ、「そんなの男らしくない」とか「女の子は貞淑にしなさい」とかは言われなくなりましたが、それでもまだ日本社会には、性別の固定概念が強力に根付いています。
私自身は男性ですが、昔から女の子の方が友達が多いタイプの人でした。
というより人生において大事な時に助けてくれたり、話していて感性が合うなあと思う人は女性の方が圧倒的に多く、どちらかというと同年代の男性の方が苦手な人が多かったです。
また妹が居たのも大きいかと思いますが、少女漫画を読むのも結構好きで、一時期妹が読み終わったリボンを毎週楽しみに読んだりしてました。
その意味で、私の内面には明確に女性的感性が住んでいるなあ、そんな風に思うのです。
よく女性が久しぶりに会う時に「とにかく相手を誉めること」を男は理解出来ないと言いますが、私はそういう形式的なお互いが気分が良く話せる儀礼は大事だと思うタイプなので、良い文化だなあと思いますし、本音と現状のバランスを保ちつつ会話を成り立たせる女性的感覚はとても好ましく思います。
その意味で言うと最近「なめ敵」を読んだこともあり、「性別」の壁もどんどん緩くなめらかにした方がいいなあと個人的に考えています。
確かに体の機能は明確に違うし、その機能から感じる感覚も大事にすべきだとは思いますが、個々人感じることは違うわけであり、あくまで体の機能は体の機能に過ぎず、そこから感じる感覚や考えは、男女ではなく、人それぞれ違うのだという感じになれればいいなと思います。
そもそも私たちは色んな服や食べ物を毎日、選び変えながら過ごしています。毎日ハンバーグを食べなきゃいけない義理はないし、同じ服を着続ける必要もありません。
だからこそ「性別」も、選び変えられるような対象として考えるようになれれば、非常になめらかな社会になるかなあと思うのです。
例えば、自分は昨日まで男だと思って生きてても、明日からは女、もし気が変わったら男として生きていっても、全然良いなあと思います。
私は十代の頃は、同じ信念を持ち続け、一回言ったことに責任を持つ人がかっこいいと思っていましたが、「なめ敵」を読んで、言う事が変わる・進化すること、つまり自分の考えを常に裏切っていくことの重要さを実感しました。
だからこそ、自分の選択は、二転三転どころか常に変転していいと思うのです。
ただし、ここで重要なのは、男性としての矜持を持つ人、女性としての矜持を持つ人も尊重するという姿勢です。
僕自身、生まれてからこれまで恋愛対象で好きになるのは女性だけです。
大事なのは、違う価値観の人の考えを知りたいと思い尊重することだと思います。
それさえ出来れば、人間は性別をなめらかにし、もっと自由に楽しく出来て「人間」として一つ上の感覚に行けるのかなあと思うのです。
そんなことをふと思った今日この頃なのでした。