私は透明になりたい。
窓から差し込んでくる陽光が私を通過し、空間に広がる。
私の心はその空間に溶け込んでおり、その穏やかなぬくもりで包まれ、そしてお互いに包み込む。
いつからだろう肉体が邪魔だと思いはじめたのは・・・
物を食べ、そして出す・・・このサイクルの不浄さになぜ誰も疑問を持たないのか?
私が子供のころにみた童話や、両親に見せてもらった美しい絵画の世界に排泄の場面は出てこない。
あの世界は本当にきれいで、皮膚や垢など朽ちていくものとは違う完結した世界だった。その清潔さや透明さに人間は全く及ばない。
もちろん科学の進化は、人間の生活を豊かにしたとは思う。しかし、人間自身を豊かにしたとは到底言えない。
それどころか、肉体自体のアップデートは全くされていないとすら思う。
そもそも、「肉の体」と書いて人体を表すセンスそれ自体が、野蛮性を内に秘めた人類の粗暴さを表している。
そういう意味では哲学の本に出てくる「存在」や「質量」などの言葉の方が美しい。
とはいえいくら言葉をいじくったところで、不浄のベルトコンベアーである人体が変化するわけもない。
例え化粧を施しいくら外見を整えたとして、一枚服を脱げばそこに横たわるのは、不完全な左右対称のまぬけで滑稽な人体だ。
見た目の美しさだけでいうなら、クラゲの方がよほど高尚な美を持っている。
もちろん私だって「生命の力強さ」という言葉自体の躍動感を感じることはある。
しかしそれの具体例としての「力」「筋肉」「汗」「肉体」は私にとっては無用の産物なのだ。
海や光と調和し、それに溶けてしまうような美にこそ私は憧れを抱くのであった。