先日シン・ウルトラマンを見ました。
久しぶりの映画館での映画鑑賞ということでテンションが上がったのもありつつ、映画自体がとても奇妙な力を持っていたこともあるのか、しばらくシン・ウルトラマンのことが頭から離れなくなった私。
あまりにも思考が熱を持っているので、「こうなったらこの熱を雑記で書いて消化するしかない!!」と思い、シン・ウルトラマンの雑感を書くことにしました。
私自身この映画に関して言うと、良いところもあるけども、芳しくない点も多々あったという風に思っています。
しかし、この映画がとんでもない力を持つことは事実(実際こうやって記事を書いてるし)
なのでこの映画が大好きな方も、「一人のアホの意見だ」ぐらいで見てくれると幸いです。
とはいえ色々なことを書くと思うので、この映画が大好きでその気持ちに水を差されたくない人はここでストップした方がいいかもです。
あと私はウルトラマンシリーズに関しては全然知識が無い素人なので、1本の映画としての雑感になりますので、そこはご容赦下さい。
以下、ネタバレを含むのでそれが嫌な人もここでストップしてね。
大まかな流れ
まず最初に、映像とテロップが大量に流れて、日本に次々と出現する巨大不明生物と政府の戦いのこれまでの流れが説明されます。
ここで巨大不明生物を「禍威獣」と名付けたこと、それに対抗するために設立された禍威獣特設対策室、通称「禍特対(かとくたい)」のことが紹介されます。
すごい量の映像とテロップがテンポ良く流れるので、目で追うのが大変でした(でもこういうのワクワクするよね)
そのあとで、いよいよ電気を食べる禍威獣と禍特対の山中での対峙が描かれます。
そこの戦闘地域で逃げ遅れた子供を発見したのが本作の主役で公安から出向した神永新二(斎藤工さん)で、自ら現場に向かい子供の保護に向かいます。
そこに突然現れたの人型の巨人です。(赤い模様がないウルトラマン)
その巨人が「禍威獣」を倒すものの、その衝撃波に巻き込まれる神永、子供をかばい衝撃波をもろに受けます。
シーンが変わり、公安から禍特対に出向になった浅見弘子(長澤まさみさん)の初めての出勤を中心として禍特対メンバーの個性が描かれます。
防衛省より出向してきた、しっかりしつつも優しい田村班長(西島秀俊さん)や、文句が多いものの芯がしっかりしてる汎用生物学者の船縁(早見あかりさん)、オタク気質な非粒子物理学者の滝(有岡大貴さん)、そして神永と同じく公安から出向したガッツのある分析官・浅見。
神永を含めたこの5人がこの映画のメインメンバーです。
さて、そんなか山中に次の禍威獣が現れます。
そこで初めて神永がベーターカプセルという道具によりウルトラマンに変身するシーンが描かれます。
まさか神永が変身してるとは思わずに、禍威獣を倒した巨人のその振る舞いから、光の巨人が我々を守ってるのではないかと推測する禍特対のメンバー。
ここで物語はさらに展開します。
禍特対のメンバーの前に、いきなりザラブという人間サイズの禍威獣とは違う異星生命体が登場するのです。
そしてザラブは総理大臣とも会談し友好条約を結ぼうとします。
一方で世間ではインターネットの動画によりウルトラマンの正体が神永だと知れ渡り大混乱しています。
そして禍特対メンバーもその事実を知り、驚愕。
さて一見すると友好的に見えるザラブ、しかしその狙いは国家同士を争わせてホモ・サピエンスを殲滅させるというもので、ザラブはウルトラマンである神永を捕らえて、自身が偽物のウルトラマンに変身し横須賀基地を襲撃、日本を混乱に陥れます。
しかし、こういう事態を予期していた神永は、ベーターカプセルを同僚を通じて浅見に託していました。
そのことにより無事に浅見に救出された神永はウルトラマンに変身し、ザラブを倒します。
しかしここで一安心とはなりません。
今度はなんとザラブを倒した後に無断で欠勤していた浅見が、突如巨大化して街に現れます。
混乱する状態の中、さらなる異星生命体が登場。
背広の男の姿で現れたその生物はメフィラス(山本耕史さん)と名乗り、浅見の巨大化を自分が行ったことだと言い、浅見を元のサイズに戻します。
この巨大化はベーターシステムを活用した道具であるベーターボックスによるもので、人類の巨大化によって対敵性外星人から自衛する計画のプレゼンのためのデモンストレーションでした。
政府には、自分たちを上位概念として認めてもらえば、あとは何も干渉せずにシステムだけを提供するというメフィラス。
しかし真実は、地球に突如現れた禍威獣も、地球に放置されていた生体兵器をメフィラスがウルトラマンを誘き出すために目覚めさせたもので(人間の環境破壊も禍威獣を目覚めさせた理由の一つ)そしてザラブもメフィラスの駒でした。
そしてメフィラスの真の狙いは、人類に知恵でも武力でも、外星人にかなわないことを知らしめて、人類を独占管理することでした。
既に人類がベーターシステムによって変身出来ることは、他の異星人にも知れ渡っており、その能力は兵器に転用できる強力な有効資源なので、他の生命体が人類を手にする前に自らが管理したかったのです。
神永と居酒屋で飲み。共闘を持ちかけるメフィラスですが、これを神永は拒否。
しかしメフィラスは既に政府と密約を結んでおり、政府に受け渡すためにベーターボックスを隠していました。
ここでウルトラマンである神永は、政府に反旗を翻すことになるのを承知の上で禍特対のメンバーにベーターボックスを突き止めるために協力を仰ぎます。
一度、ベーターボックスで変身したことのある浅見の体の臭いから、ベーターボックスを突き止めることに成功した神永は、ウルトラマンに変身し政府の受領式典でベーターボックスを奪い、ここで巨大化したメフィラスと戦いを繰り広げます。
しかしウルトラマンの背後に、別のウルトラマンが現れるのを見たメフィラスは、いきなりこれ以上争うことはしないと突如戦いを打ち切り、ベーターボックスと共に姿を消します。
唐突に訪れた様に思える平和。
しかしここで物語はさらに展開します。
森の中で、スーツ姿の神永の死体と対峙する神永。
そこにゾーフィというメフィラスとの戦いの最中に現れた神永の変身姿とは別のウルトラマンが現れます。
ここでのゾーフィと神永との会話により、色々な事実が明らかになります。
まず人間としての神永は子供を守り衝撃波を受けた時に死んだこと。
その子供を守った精神に興味を持ち、ウルトラマンと神永が合体した状態が今の状態であること。
ゾーフィとリピア(神永と合体したウルトラマンの本来の名前)が光の星から来た事。
そして光の星が、人類を自分たちと同じ進化形態を辿る可能性がある存在と判断し、兵器として他の異星の生物に利用される前に、ゼットンという地球を含めた太陽系全体を消滅させることが出来る破壊兵器により絶滅させるつもりであること。
しかしここでもウルトラマンはゾーフィや光の星の立場には立たず人類の側に立ち、ゼットンと戦うことを決意します。
この話を聞いた禍特対のメンバーは必死にゼットンに対する攻略法を探すものの、太陽系そのものを消滅出来るその力に対策は見つかりません。
この絶望的な状況に、滝は匙を投げ、投げやりな態度でウルトラマンに何とかしてもらうしかないと席を立ってしまいます。
とにかくゼットンを何とかしようと、宇宙空間でゼットンに対峙するウルトラマンですが、全く敵わずに負傷。
しかしウルトラマンは諦めていませんでした。
ベータシステムを地球の数式に記述したメモを滝に渡し人類の英知に希望を託します。
そのメモを元に、世界中の研究者と話し合う滝。
そしてその成果は身を結び、ウルトラマンがゼットンを殴り飛ばして、ゼットンを違う次元に飛ばす方法を編み出します。
しかしそれはウルトラマンも違う次元に飛ばされる方法でした。
ウルトラマンを犠牲にする方法はダメだとNOを出す田村班長、しかしウルトラマンは人類を救うために宇宙空間に飛び立ちます。
そして、人類の編み出した知恵を元に、ゼットンを違う次元に飛ばすことに成功するわけです。
その直後、混濁した空間の中に、ゾーフイが現れます。
そこでゾーフイとウルトラマンの会話が交わされます。
ゾーフイからはゼットンが破れたため、人類を見守ることになったことが語られ。
そしてウルトラマンの口からは、人類に対する期待と、まだ分からない人類を知りたい旨が語られます。
ウルトラマンと人類を認めたゾーフイ。
しかしウルトラマンの望みの通りに、神永とウルトラマンを分離した場合、ウルトラマンはマルチバース(違う宇宙)に消えてしまうことになります。
そのことをウルトラマンに忠告するゾーフイ。
しかしウルトラマンの決意は固い。
ゾーフイは望み通り、ウルトラマンと神永を分離。
ウルトラマンはマルチバース(違う宇宙)のどこかに消え、そして神永は無事に禍特対の元に帰ったのでした。
(映画を見た記憶を元に書いているので間違いがある可能性があります。すいません)
三層構造とテンポ
この映画のテンポは変だ。
序盤からそんなことをずっと思っており、かつこんなにも途中で自分の中の評価が二転三転した映画は珍しいです。
まずそもそも敵がザラブ、メフィラス、ゾーフイ(ゼットン)という三層構造になっていて、大ボスを倒したと思ったら、次の大ボスがいて、それを倒したと思ったら次の大ボスがいるというミルフィーユみたいな展開。
さらに禍威獣は常に人類を侵略しにくるわけでなく、襲撃と襲撃との間に時間が置かれるため、日常パートのゆるいコントみたいなシーンが間に挟まることになり、奇妙なテンポが映画を支配します。
私は個人的に変な映画が好きなので、もしこのままミルフィーユを重ねて、変なリズムのゴシックムービーみたいに終わったらすごいなあと思っていました。
しかし最後のゼットン戦とゾーフイとの流れは王道の終わり方であり、そういう映画を提示したいのであれば構造に対する見方も変わります。
まずザラブ、メフィラス、ゾーフイの三者が人類を侵略する理由が似たり寄ったりで、全然ホップステップジャンプが出来ていない気がします。
展開として今倒した敵よりも、さらに上位の存在が出てきたときには、驚くべき隠された理由や謎が積み重ねられることにより物語のワクワク感が増すもの。
しかし本作では、この三者の人類と対峙する理由が似たり寄ったりなので「ただ次々に出てきただけ」という感じになっています。
さらに、三者が出てくる流れもスムーズとは言い難く、脚本上に無理やり積み込んだデコボコジェンガみたいになっちゃってるのです。
狙ってデコボコジェンガ映画にするならそれはそれでいいのですが、このメッセージと終わり方にする場合、単純に粗が目立つだけの作りに見えちゃいます。
日常会話
本作の禍特対の日常会話もかなり変です。
ところどころ棒読みのように聞こえ、またあるところではとても感情が乗っているようにも聞こえる。
前作のシン・ゴジラではセリフが官僚語という羅列用語として統一されている感じがあり、それはそれで発明だなと思い、かつそこには無機質な行政というリアリティが乗っていました。
しかし本作の世界観はどっちかというとリアリティとヘンテコSFの中間という感じなので、日常会話に対しところどころに違和感を感じました。
このテンポで、それをこのタイプの人は言わないだろうと思うシーンがしばしばあった様に思います。
逆にふっと笑ってしまうシーンも多かったのですが(後述)全体的にセリフがキャラに対し浮いてるかなあと思ったのです。(浮かせるならもっとぶっ飛んでほしかった)
そしてもう一つ思ったのが、基本的に言葉で説明をし過ぎているということです。
というよりこちらを笑わせてくれるシーンは別にして(これは成功してると思う)大事な事や思いはほとんどがセリフにより補われています。
私は映画の良さというのは、景色や表情により言葉では掬い取れないものを表すことにあると思っていますが、そういう描写がもう少しあるとよかったなあと思います。
ヴィジュアルのワクワク感
私はCGの技術にそれほど詳しくはないし、良く分からないのですが、巨大化する浅見や、宇宙に展開するゼットン、ウルトラマンのバトルシーンは視覚的にとてもワクワクして楽しめました。
こういうヴィジュアル的なワクワク感は子供の時見たら、一生忘れないもので、ここからウルトラマンシリーズにはまる子供もいると思います。
ただし禍威獣に関してはもっと色んなタイプのビジュアルや戦い方が見たかったなあとも思いました。
とはいえテレビシリーズではなく、映画という時間の制限もありますし、これは贅沢な悩みかもしれません。
笑いを喚起する描写
本作ではところどころ、ふっとさせられてしまう描写があり、個人的にとても楽しめました。
特に公園で笑顔でブランコに乗ってるメフィラスのシーンが最高でした。(山本さんの笑顔が素晴らしい)
また居酒屋でのメフィラスとの話し合いからの割り勘など、個人的に印象に残ってるシーンがかなりあります。
自然にふっと笑えるシーンを作るのは難しいことだと思うので、それを作ることに成功してるのが本作の魅力の一つだと思います。
女の子アスカタイプ問題
庵野監督作品に出てくる女子キャラクターには特徴があります。
まず正統派の美人、そして自分に自信があり傲慢、そして謎に外国語を喋る笑
これはエヴァンゲリオンのアスカが元々の源流で(綾波レイは個人的に母の象徴として理解してます)、というより庵野さんの女性の理想がこういうタイプなのでしょう。
シン・ゴジラの石原さとみさんもしっかりアスカでしたし、本作の長澤まさみさんもしっかりアスカしてました笑(やっぱり外国語喋ってたね)
面白いのは男の方の配役は、斎藤工さんや、池松壮亮さんの様な通好みの演技派を使うのに、女の子のヒロインは石原さとみさん、長澤まさみさん、浜辺美波さんというド直球の正統派美女を使うところです。
エヴァンゲリオンは庵野さんの私小説的な物語でしたが、基本的に特撮のシン・シリーズもどこか特徴的な主人公とイケイケの正統派美女という構図は崩れていないです。
これは監督の趣味嗜好で、それは自由だと思うのですが、女の子の魅力を感じるポイントは人それぞれだなあと思いました。(私とは違うなあと思った笑)
におい問題
物語の途中で浅見が唐突に
「今日はシャワー浴びれると思ったのに」
というセリフが入り、いきなりフェチ的な要素を入れてきたなあとびっくりしたのですが、そのあとの展開はさらにすごいものでした。
なんとメフィラスが隠したベーターボックスの在り処を突き止めるために、神永が浅見の体のにおいを嗅ぐというものです。
私は個人的に性欲や性に対する描写は、人間の根本を形成してる一つだと思うのでフェチ的な描写を全て否定する気はありません(古典文学で美しいフェチ描写をしてるもの多々あります)
しかし、この描写はあまりに物語の流れから浮いてますし、そもそもが不自然でしょう。
自然な流れで、人間に性の妖しさを喚起させる描写であれば、その映画はさらに深い魅力を持つことが出来ると思いますが、本作の描写はあまりにも不自然で、ただにおいという個人的性癖を入れたいだけという気がしてしまいます。
庵野さんの作品はエヴァンゲリオンしかりフェチズムがところどころに現れており、エヴァンゲリオンではそれが成功してる側面もありました。
しかし本作では完全に失敗だったように思います。
フェチ的描写に比較的抵抗が無い私にして、「うーん」と思ったのですから、そういう描写が嫌な人にとってはなおさらだったでしょう。
「パラサイト 半地下の家族」が貧困を「におい」で表現したのを私は、とてもすごいと思い衝撃を受けたのですが、本作に関しては無理やり性癖を入れた位にしか思えませんでした。
人物の掘り下げ問題
前作、シン・ゴジラはリアリティと社会という軸を元に展開していたため、とても楽しめた私。
しかし本作は日常のパートも多く、そこでは人間個人を描くことの比重が増します。
映画という時間制限もあるなかで、なおかつ国際的な事情や政治情勢も描写しなくてはいけなかったということもあるとは思うのです。
しかし本作の人物描写はかなり課題があるように感じました。
まず主役の神永ですが、物語の構造上、人間の彼は最初に死に、それ以降はウルトラマンの人格として描かれるからしょうがないにしても、いまいちどういう人間か分かりません。
さらにみんな薄々分かっていたとはいえ、終盤に人間の神永は子供を守ったときに死んでいたと分かり、そこで初めて形式的にも実状的にもウルトラマンが主人格と観客は認識するので、序盤から中盤にかけて丸々、主人公にいまいち気持ちが乗らないのです。
またウルトラマンの人格を語るにしても、なぜウルトラマンが人間にそれほど肩入れするのかという理由が、神永が子供を守ったこと位しか見当たらなく、そこにも乗れません。
そして浅見です。
エヴァンゲリオンのアスカは、傲慢だけど魅力的で、実は弱いところを持っている女子というキャラクターを体現できていたように思うのですが、浅見は一貫性がない感じがしました。
そもそもウルトラマンというシリーズに連なる作品と、自分が作ったエヴァンゲリオンでは出来る自由度も違うとは思うのです。
しかし、浅見に関しては、「高飛車→ウルトラマンを信じる女性」という切り替わりが不自然だと思いました。
といより神永との心の交流みたいな描写があまり無かったということが問題なのかもしれません。
また滝くんというオタク気質な子が、終盤に匙を投げちゃうところも、それまで彼の個性がセリフにあまり出てないぶん、唐突だなあと思いました。
彼は最後に人間の英知でウルトラマンを助けるという重要な役割を担うのですから、もう少し丁寧に掘り下げても良いのではとも思うのです。(それでなくてもこのシーンはゼットンを倒すために出てきたご都合主義的に見えちゃいます)
このオタクである青年がウルトラマンを助けるという構図は、ウルトラマンが大好きだった庵野さん自身が乗っかってこだわりたかった箇所だと思うのですが、庵野さん自身の思いが、死んだ神永とウルトラマン、そして滝に分裂してるのもあるのでしょうか、そこの整理が上手くいかなかったのではなかろうかという気もします。
哲学
さてここでこの映画の最大の問題点だと思うことを個人的に書きたいと思います。
それは「人類や人生に対する哲学や思いが見えてこないこと」
だと思います。
この映画では基本的に民間人の描写は無く、出てくるのは政府や禍特対のメンバーだけです。
そして大部分は愚かな政府や官僚の描写なので、そもそも人間が守るに足るというウルトラマンの思いに対する説得力がまるでないのです。
ウルトラマンが人間に肩入れする理由に関して言えば、神永が子供を守ったことのただ一点のみしか見当たりません。
しかし終盤にゾーフイが出てきたとき、私は期待しました。
ここにおいて「カラマーゾフの兄弟」における大審問官編や、「魔の山」のセテムブリーニとナフタの会話のような深い生命哲学を戦わせる議論が行われるのではないかと。
しかし、本作のゾーフイが語ることといったら、「兵器利用される危険な人類を滅ぼすことにした」という通告のみです。
ウルトラマンシリーズに詳しくない私ですが、一体全体それのどこが「光の星」なんだい!と思います。
さらにゼットンを倒したあとの、最後のウルトラマンとの対話ですら、決定が変わったこと、神永と分離したらどうなるかというくらいしか語りません。
一方でウルトラマンの方はこのシーンで
「人間が分からないから知りたい」
ということを語ります。
なるほど、未知の可能性を信じ、知りたい、それ自体は素敵だと思います。
しかしそれを結論だけポーンと言われても、説得力がなく「うーん」と唸ってしまいます。
別に難しい哲学的議論をしてほしいわけではありません。
例を挙げるとするなら、私は「仮面ライダークウガ」という作品が大好きなのですが、この作品は誰にでも分かる言葉や態度、表情により、人間の業や優しさ、正義を描いた作品でした。
そして、この作品及び主人公の五代雄介には賛否がありこそすれ、正義や人生に対する熱い魂を感じました。
しかしこの作品に関しては、その部分がすっぽり抜け落ちているような気がしてしまったのです。
もし監督自身の心情が、ウルトラマンは子供を守って死んでいった精神(自分の中にある過去に死んでしまった純粋な精神と読み替えても可)にしか存在しないし、今のところ、そこにしか希望を見出せないというのなら、そういう一貫性のある描写をしてほしかったです。(それはそれで一つの思いだ)
しかし、本作はみんながなんとなく納得出来るようなふわっとした理由に着地はしたものの、そこに熱い何かを感じる作りにはなっていなかった、そんな風に思います。
最後に
ここまでけっこう厳しめな意見を色々書いてきましたが、神永が
「人間とウルトラマンとの間の存在だから分かることがある」というセリフや
滝のヴァーチャル会議を見た田村班長の
「本当にすごいことは滑稽なのかもしれないな」
みたいな個人的に好きな心に残るセリフもあり、楽しめた部分も沢山ある映画でした。
何よりもこんなに時間をかけて記事を書かされてる時点で、相当なエネルギーを持った作品ということです。(最近の映画ではこんな作品はない)
それというのも、監督自身がウルトラマンが大好きだという気持ちが滲みでているからだと思います。
そのエネルギーがこの作品に独特な吸引力とかパワーを与えていることは間違いないです。
上記の記事は、私の個人的な感想の好き勝手な発露であり、沢山ある一つの見方に過ぎません。
とにもかくにも、この映画を見た方の色んな意見を聞きたい!
そんなことを思える作品でした。