皆が子供の頃、一度は想像したことがあるだろう。「人間花火」、すなわち打ち上げ花火の人間版の事だ。
夏の夜空に、ひゅーっという音と共に、花火が上がる、そしてその頂上でぽんっと華麗に弾ける人体。
我々がこの光景に恋焦がれる原体験は、あの国民的漫画「ドラゴンボール」にある。
宇宙の邪悪を煮詰めた様な、最凶の存在であるフリーザが、遠隔で片手を使い軽々とクリリンの体を宙に浮かせる。
そして彼が手を握りしめると、ボンッと弾け飛ぶクリリンの体。
これこそが人間花火の原初風景なのは間違いないだろう。
この後、孫悟空はガチギレのブチギレのマシマシ状態になるわけだけど、ふと私は考えてしまうのだ。
それは人間花火の優雅さに、より着目した場合の事。
ダークブルーの海に浮かぶ月。フリーザは屋形船に孫悟空を招待する。
港町の眠っている舟たち、よせては返す波におぼろげになる光。それを眺めながら、熱燗を傾ける、悟空とフリーザ。
その時、月に向かって一直線に、花火は上がる。ぽんっという音と共に、万華鏡のように煌めくクリリンの残骸。
果たしてこの状況で悟空はフリーザに怒り、後に「クリリンのことかー」と言えるだろうか。
例え「クリリンのことかー」と言ったとしても、その後、ゆっくりと席に座り、熱燗を傾け、「風流ですなあ」と言うのではないか、私はそんなことを思うのだ。
恐らく人間花火という現象は、残酷という彼岸を超え、一つの景色として世界に散り、埋め込まれる。
そう思うと人間花火には、まだあらゆる可能性が残されている。
例えばaikoだ。
花火にaikoを100人詰め込み、打ち上げる。花火の爆発の力を使い、宇宙空間を優雅に泳ぐaikoたち。
そんな彼女たち100人のaikoが、夏の星座にぶら下がり、星を引きずり下ろし、地球にメテオが降り注ぐ。
それと同時に、破壊と恩寵の象徴として、三角の目をした羽ある天使が舞い降りる。実に黙示録的な光景である。
人間が花火を作り上げるのではなく、人間自体が花火になり、上がる。
これは劇的なパラダイムの変化であり、革命だ。
それはエントロピーの増大による拡散の、永遠の停止。女神が見た美と煌めきの記憶。
「物」になり扱われる事で、我々はようやく、「物」に寄り添う事が出来る。「無機物」に「物」に「私」に「あなた」に「地球」に。
(おしまい)

