我が家における餅の消費量はなかなかえぐい。
4人家族で、お雑煮において一人当たり餅を4つ位入れるのに加え、おやつタイムにお汁粉が出てくることもざらです。
さらに各々、小腹が空いたときとかに、勝手に餅を焼き、磯辺焼きにして食べたりもします。
そんなわけで、スーパーでお餅の徳用大パックを3つ買ったとしても、まさにあっという間に無くなってしまうのです。
そんなわけで我が家もとい、私とお餅の付き合いはかなり深いし長い。
他の家族は年末年始以外、そんなにお餅を食しませんが、私は夏でも、秋でもコンスタントにお餅を焼き、そして食すタイプの人間なので、どんな友人よりも、もしかしたらお餅との方がディープなお付き合いをしているかもしれません。
しかし、そんなお餅にも長年付き合っていて、許せないポイントがあります。
我が家では、個別包装のビニールに入った四角いタイプの切り餅を買います。
そしてそれを電子レンジやトースターで温めたり、焼いたりして調理するのですが、どっちのパターンでもめったに、中央の切れ目からぷくーっときれいに風船のように膨らみ、こんがりと焼けるのを見たことがないのです(確率で言うと10分の2位がこんがりパターン)
大抵が、角の部分が異様に膨らんで弾けたり、上部と下部が同時に膨れてプシューと空気が抜けたみたいになったりで、ほとんどが、がっかりビジュアル系のお餅君とのご対面と相成ります。
元々の切れ目をより包丁で強めに入れてみたり、色々と試してみたものの、大した効果は見出せずに抜本的解決策が無いまま、この年齢までずるずるとお餅との関係を続けてきてしまったのです。
しかし、年が明けたあくる日、のんびりとおやつの後のコーヒーをすすっているとき、ふとリビングの食卓テーブルに置かれている、個包装の四角い切り餅たちを見て重大なことに気付いてしまいました。
そうです。彼らは「整わされすぎている」のです。
彼らは元を正せば、それぞれ粒であるもち米です。それぞれの粒に無限の可能性があり、その時は世間は青い海原に囲まれたスぺクタルあふれる世界に見えていたはずです。
しかし、固められるのはまだしも、ぎゅうぎゅうにこれまでかと思えるさらにその先のレベルまで圧縮され、寸分違わぬサイズに切り分けられ、長方形の四角いレンガみたいにされてビニールに囲まれる。
これはかなり深刻で異常な事態でしょう。
私は母の実家で、子供のころ餅つきをやったことがありますが、粒々のもち米が、外の空気を浴びながら、杵と臼とコミュニケーションの中で、体を自由に動かしながらお餅になっていく様に、何かしら開放感みたいなものを感じたのを覚えています。
そして出来上がったお餅も、のびのびときな粉や醤油の衣服をまとい、山の新鮮な空気の中で得意げに白い湯気を放っていました。
しかし今目の前にあるのは、手足も伸ばせず、機械により肉体だけでなく意志や思想もぎゅうぎゅうに圧縮された、四角い白い固形物。
そこには非人間的な悲しみがあります。
こうなるとレンジやトースターで焼くときに、予想もつかないところから膨らんだり、破裂したりするのは道理です。
圧縮され、締め付けられた、どうにもならない魂の叫びがここに現れているのです。
私は今までの自分を恥じました。
ビジュアルばかりに気をとられ
「せっかく餅焼いてるんだから、ぷくーっと奇麗に膨れろよ」
というエゴ丸出しで自分のことしか考えていなかった自分を。
餅からすれば、これまで散々、つぶされて、押し殺されて生きてきたのに、いざ手足を伸ばせるときになっても、「型通りにやれ!」というのは本当につらいことに他なりません。
そう思うと、お雑煮の中で鶏肉やにんじんたちと仲良く交じり合いながらのびのびしている彼らを見ると、何だか心が温かくなってきて、「良かったね」と微笑みかけたくすらなります。
これからはお餅を焼く前に、両手で彼らの四角い体を優しく握りしめながら
「もう自由になっていいんだよ」
と語りかけながら焼くことにします。
今年も慈愛と優しさにあふれた1年にしよう、そんなことを思ったのでした。(私は年始から何を言っているのでしょうか)
<雑記>餅の気持ち
