<古典探訪> 谷崎潤一郎「春琴抄」 美の極致に浸る体験

考察

新年明けましておめでとうございます。

今年も色んな本を読んだり、色んな事に挑戦していきたいと思っておりますので、温かく見守って下さると幸いです。

新年1回目の考察は、谷崎潤一郎さんの小説「春琴抄」です。

簡潔な文体からあぶりだされる艶めかしい美の極致のような本作を、自分なりに考察していきます。

ネタバレが嫌な人はここでストップしてください。

ざっくりストーリー

物語は「鵙屋春琴伝」という、三味線奏者の春琴という人物の伝記をベースに、「私」がその書物に沿い物語を進めていくという形を取ります。

大阪の薬種商鵙屋の次女、春琴は幼少の頃に眼病により失明します。

三味線を習っていた春琴を追うように、身の回りの世話をしていた丁稚の佐助もまた三味線を始め、同じ師匠の下に通い始めます。

師匠の死を機に春琴は独立し、佐助は春琴の弟子として同行し奉公を続けます。

傲慢でわがままな春琴と、ひたすら忠実に仕える佐助。

この二人の人生を通して、美とは、幸福とは何かを読んだ人に強烈に問い直す作品です。

美意識とプライド

さてこの物語の主人公格の一人、春琴はとにかくわがままです。

自分の美貌を認識しており、高飛車で言葉も峻烈。

トイレに行くときは、自分の手を使わず佐助に拭かせ、暑い暑いといっては佐助にあおがせたり、まさに「傍若無人を地で行く生き方ここにあり!」って感じです。

師匠になり独り立ちしても、自分だけは大名のような暮らしをし、奉公人には節約を強いて貧しい暮らしをさせるという、悪代官極まれりみたいな女、それが春琴です。




しかし彼女は一方で、徹底した美意識の人でもあります。

寝る時の寝具に関して、傍から見ても面倒くさい注文をつける春琴。

しかし、その代わりと言ってはなんですが、寝姿は全くと言っていいほど乱れません。


その他にも、鳥の鳴き声を愛し、最も美しい鳴き声の鶯に「天鼓」と名付けて飼うなど、彼女の美意識は研ぎ澄まされ、生活の中に洗練されたもの以外入り込むことを許しません。

彼女の人格はさておき、その三味線の音が本物なのは、感覚を研ぎ澄まし、美への意識を常に張っているという点が影響しているのではと思います。

「私」の言うように、大阪という封建的な特色が強い土地で、身分によるプライドや矜持を高くもつ彼女が、幼少時に視覚を失い、それが弱みをみせてはならないという心に繋がり、より一層、美をまとうことへのこだわりや傲慢な性格を加速させた面もあるでしょう。

しかし、この美において、彼女より深いところに辿り着くのが奉公人の佐助というのも、この小説が面白いところだと思います。くわしくは後述します。

SM的快楽と美

春琴の佐助や弟子たちへの三味線の授業における仕打ちは厳しさを通り越して嗜虐的とすら表現されます。

芸事の訓練は厳しいとはいえ、春琴はやりすぎです。

谷崎さんの小説には、いわゆるSM的な要素がけっこう出てくる印象があります。

自分の性癖を隠さず晒す文章は、本気だからこそリアリティがあり、上辺の行儀の良い道徳で書いてあるものより説得力があります。

そして、それも谷崎作品の魅力の一部を形成していると個人的に思います。



話を考察に戻しますが、自分は美と快楽はかなり近いところにあると考えています。

世の中の情景や、ふとした仕草などから美の要素を見つけ出すことと、自分の感覚に向き合い欲望を探し出すことは、センサーの鋭敏さという点でとても似ていると思うのです。

この春琴と佐助のケースでは、ある意味、春琴を助長させたのは佐助の態度であったと言えると思います。

つまり「責めるもの」と「責められるもの」のあうんの呼吸があるからこそ、SM的快楽は成り立つのであり、そう考えると佐助が果たして虐げられているのかどうかも怪しくなってきます。

また目が見えなくなった春琴にとって、この厳しすぎる交流が一番のコミュニケーションツールだったのではないか?ということも考えられ、本当の部分を他の人からは、完全には理解出来ない交流があったのでは、とも思うのです。

視覚、触覚、聴覚

私たちが日常で主に使っているのは視覚です。

もちろん他の感覚が無くては生活が出来ませんし、複合的な要素はあるものの、大きく頼ってるのは視覚といえるでしょう。

美術館や映画、景勝地の景色も主に視覚をメインに楽しむもので、スマホや電子機器も含めて現代人は特に視覚頼みになり、五感は摩耗しているのではと思います。

しかしこの物語では、三味線や鶯の鳴き声、肌の感覚など、聴覚や触覚による美へのアプローチに重きが置かれます。

結局、美を感じ取るのは、自分の精神が感じ取るのですから、内面に絵を描く材料が無ければ精神的境地に辿り着けないのは道理です。

つまりこの視覚だけでなく、触覚、聴覚を研ぎ澄ます姿勢こそ、もう一つ先へ行く鍵になるのではと思うのです。

この小説は美へたどり着く道において、視覚じゃない他の感覚の描写にも力を注いでいる、そんなことを感じました。

内なる観念の美

傲慢な態度でありながら、三味線の腕は本物の春琴。

しかしその態度や立ち振る舞いは、悲劇を自然と近づけていきます。

そしてとうとう、侵入者に熱湯を頭からかけられ、その美貌は失われてしまいました。

「私」はこの侵入者について、「春琴だけではなく、側で世話をする佐助も傷つけるというねらいがあったのでは」と言っています。

つまり、美しい春琴を側で世話をする佐助への嫉妬から、佐助の美の対象である彼女を汚してしまうことがねらいだったのではということです。

しかし、佐助はここにおいて衝撃の手段に出ます。

自分の眼に針を差して失明するのです。


さらにすさまじいのが、それを春琴に打ち明けた時の、「佐助、それはほんとうか」という言葉のあとに訪れた沈黙の時間が、佐助の人生の最高の瞬間だったと佐助自身が述懐していることです。



「盲人のみが持つ第六感の働きから春琴の感謝や、胸の中を会得出来た」

「内界の眼が開けて師匠の住む世界に住むことが出来るようになった」

「春琴の色白の顔が来迎仏の如く浮かんだ」

等と表現される至極の感覚。



この時の佐助の心情としては、幼いころから暗闇で生きてきた春琴と一つになれたという気持ちや、自分の究極の奉仕への陶酔感、さらに目の前の春琴の存在の感触など様々なものが溶けあって、精神的な高揚の極致にいたのだろうと思います。

そしてさらに言うなら、自分の中にある美への祭壇の第一歩を踏み出したという感覚が無意識にあったのではないかと思うのです。

ここに至って、その後の佐助の生きる道の方向性は一本道で記されたのだと思います。

おそらく自分の観念の中で美のベールをまとった春琴は、佐助の中でどんどん輝きを増していったのではないかと思うのです。

ここにおいて、佐助の美の奉仕への対象は完成したと言えるでしょう。

つまり侵入者のもくろみは外れたどころか逆の結果をもたらしたことになると言えそうです。

入れ替わる主従

顔に火傷を負ったあとの春琴は、やはり事件前とは違い、弱っていたことが見受けられます。

あんなに嫌がった佐助との結婚に関しても、いいのかもしれないと考えている可能性も描写されています。

しかしここにおいて、佐助は事件前からの現状・心情の変更を受け付けません。

それどころか、より自分を卑下し奉公に打ち込み、薄給の中で生活します。

佐助の中で許されるのは、傲慢で美をまとっている春琴であり、弱って優しくなった春琴など許されないのです。

そうです、ここにおいて美における主従は入れ替わっているのです。

佐助にとって現実の春琴の意志よりも、自分の観念の中の春琴の美に重きを置いているわけで、見方によると佐助の観念の為に、春琴が存在させられているようにも見えます。


幼いころに視覚を失った春琴は、自分が成長し完成された大人の美貌を自身で見てはいません。

一方、佐助は近くでその美をしっかり見ています。

こう考えると、佐助に見られるために春琴が存在していたのではないかとすら思えます。


佐助はここに至り、春琴が到達しえぬ美に到達したのだと思います。




最後に

この小説は、美という観念に関して徹底的に奉仕した男の、一つの幸せの到達点を描いた物語だと思います。

これを極端だとか、理解出来ないと思う人もいるでしょうが、個人的には、狂気とも思える徹底した美への奉仕の物語は、血液に冷たい破片を流し込まれたようなゾクゾクした感覚を味わうことが出来て、とても刺激的でした。

文学の良さの一つは、自分の狭い価値観を揺り動かしたり、違う角度の発想を差し込んでくれることにあると思っているのですが、この作品はまさにそんな体験をさせてくれる、鋭利な文学作品です。

そんな体験を与えてくれた本書に感謝して、本考察を終えたいと思います。

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