<考察>レプリカたちの夜  人間?動物?機械?

考察

「レプリカたちの夜」は、一條次郎さんの長編小説で、新潮ミステリー大賞の受賞作です。

動物のレプリカを作る工場に勤める主人公の往本が、動き回るシロクマを目撃し、その調査を通じて不条理な物語が展開されていくのですが、これがとにかく、奇想天外で面白い!!

非常に多種多様な解釈が出来る作品ですが、今回も自分勝手な解釈で考察していきます♪

物語の重要部分に触れるので、それがイヤな人はここでストップしてね

重要人物たち

この作品の登場人物で、重要なのが以下の3人です。

一人目が、主役である往本です。

品質管理部に勤めていて、ある日工場内で、シロクマのレプリカを見たことから、工場長にその調査を依頼されます。

主人公らしい、研ぎ澄まされた感覚を持っていながらも、一番ニュートラルで常識的な人間なので、この不条理小説に向き合うための基準点になってくれます。

二人目が、うみみずさんです。

資材部に勤めている同僚の女の子で、人間中心論的な思想や哲学に嫌悪感を示し、動物も人間と変わらないし、むしろ優れているのではないかという理論を展開します。

読書家で、知識があり、茶目っ気がある魅力的なキャラです。



そして3人目が、粒山です。

被毛部で働いていて、髪の毛が薄く、往本と同い年なのですがだいぶ年上に見えます。

ある意味この小説内で最も印象的なキャラクターで、男性のあらゆる業や罪を体現していると言えます。

彼は、人間中心主義の観点から、うみみずと、ことあるごとに意見を対立させます。




意識は人間だけのものか

ここでは「意識」という観点から作品を掘り下げていきたいと思います。

動物にも意識はあるか

うみみずが毛嫌いするのが、人間中心主義の哲学や理論です。

特に、「人間だけにある意識・霊魂」という理論が大嫌いです。

デカルトは近代哲学の祖で、有名な「我思う、ゆえに我あり」という、人間の精神を、身体とは別物とした哲学者ですが、デカルトが「動物機械論」を述べたことを激しく攻撃します。



科学的に分からないくせに、直観という不確かな認識だけで、動物の意識を否定するのはおかしいという彼女の力強い理論は、聞いていて納得させられます。

確かに、彼女の言うように、動物にしか分からない意識が存在すると考えた方が、色んな事を説明出来る気がします。

現在の科学では、脳に司令塔の存在は確認されていません。

色んな物質の組み合わせで生命は出来ており、意識がどこに存在するかは分からないわけで、そうすると動物に意識が無いということは出来ないのではと思います。

同じ理由でクオリアという、人間特有の感覚で感じる独特の質感(音楽を聴いて夏っぽいて感じたりする感覚で、要は情緒みたいなものかしら)が、動物に無いとは言えないと、作中でうみみずが主張するのも、そりゃそうだよなあと納得してしまいます。

動物の方が優秀な可能性

うみみずに対し、粒山は、動物には意識が無いと思うと反論します。

うみみずの「宇宙人がきて、人間には宇宙人だけが感じれる、独特の感覚が無い」と言われたら、どう思うのかという問いかけに対しても、それはこころの量的な問題で、宇宙人の方が幅が広いだけで、動物は意識のレベルに到達していないのではないかと反論します。(彼は彼でなかなか面白い)

そして動物には文明が存在せず、欲望欲求のおもむくまま、野蛮に他の生き物を食らい、死ぬまでだらだらと暮らすだけではないかと言います。

これに対する、うみみずの反論が痛快です。

動物は、バカじゃないから文明はいらないのであり、そして欲望欲求のおもむくまま行動する野蛮な生き物とは、まさに人間の自己紹介じゃないかというわけです。

確かに、考え方によっては動物の世界は、法律など強制力を伴う罰則が無くても、うまく回ってるようにも見えますし、人間の欲望の方が、明らかに過剰で多種類で無駄であり、それに支配されてるようにも見えます。

この小説を読んでいくと、どんどん人間の方が、ダメなんじゃないかと思うようになってきます。




歪んだ性欲と感性

粒山は、女性の個性を尊重し、世界中のあらゆる女性を愛しているといいます。

重要人物のページで、彼が、「男性のあらゆる罪や業」を背負っているといいましたが、ここでは、その点に注目して、作品を掘り下げていきます。

劣化した感性

往本に対し、「桜や月を見てきれいだなあと思う美的感覚の重要さ」を語る粒山ですが、それに対し、うみみずは痛烈なパンチを浴びせます。

本当の美的感覚は、みんなが桜を見上げてるあいだに、木の根もとの雑草の鮮やかさに感動したり、胡麻団子の胡麻だれが織りなす模様に何かを感じたり、錆びついた空き缶にまだ誰も気づいてない美しさを見出したりと

誰もが見落としてるいるものを見つけ出す人のほうが、はるかに芸術的だと言います。

うみみずさん素敵!!と思わず口に出しそうになっちゃいます笑

つまりうみみずにしてみれば、粒山は世間が美しいとカテゴリーしているものに追随して、美しいと言ってるだけの、自分が感性があると思ってる、感性劣化野郎だと言ってるわけです。

女の子たち

粒山は、同時に大勢の女の子たちと付き合っています。

しかし、この女の子たちが名前といい、挙動といい非常にチグハグなのです。
この女の子たちは、一体何者なのでしょうか?

これは個人的な見解ですが、この子たちは、アニメキャラ美少女キャラの象徴だと思います。

全くモテる要素のない粒山に、なぜか盲目的に従っている彼女たち。

これは粒山があらゆる美少女コンテンツに手を出し、それに溺れているだけなのを揶揄しているように見えます。

粒山は、女の子の個性ではなく、表面だけを商品のように見て、愛しているだけなのです。

ナシエさん

粒山にはナシエさんという奥さんがいますが、色あせた浴衣を着ていて、非常にみずぼらしい恰好をしており、髪はほつれていて、疲れた表情をしています。

どう考えても粒山が奥さんを大事にしているとは思えません。

ナシエさんは、現実の女性としての妻の象徴にも、過去に愛されたアニメキャラの末路のようにも取れます。

現実の妻として見た場合、まだ容姿が飽きられてなかった・性欲の対象だった時だけ、愛されていていたものの、今は愛想を尽かされて、現在の夫はアニメや趣味やらに夢中で、お金さえ入れてもらっていない貧しい妻に見えます。

またアニメキャラだとすると、その時は夢中になって同人誌などにお金をつぎ込んだものの、いまは新しいキャラに夢中で、完全に忘れ去られているキャラクターのようにも見えます。

C=22

物語の終盤で粒山を何回も殺すことになる、C=22というキャラクターがいます。

清楚なワンピースで現れたり、ちびでものっぽでもなく、どこか人目を引きつけずにおかないものがあったりすると表現される、非常に不思議な印象のキャラクターとして描かれます。

「前にも会ったことがあるような気もするし、逆にこれほど欠点のない容姿をした人間には一度も会ったことが無い」という感覚を与えたり、非常に捉えどころがありません。


さてここからC=22とは何かについて考えていきたいと思います。

C=22の22はにーにー、と読めます。にーにーは、お兄ちゃんを崩した呼び名です。

それにCを「ちゃん」の頭文字として、「ちゃん」をつけると、にーにーちゃん・・・・・・

私はずばりC=22は、美少女コンテンツ全体の象徴ではないかと考えています。


日本のアニメは今も昔も、妹キャラがメインストリームを占めます。

C=22が、粒山に、袋だたきにされて、嬲り者にされて、もてあそばれて、慰みものにされたというのは、性欲の対象として、コンテンツ内や男性の脳内で、いじくりまわされてることを指しているのだと思います。

日本男性の抱える病

後半の洞窟の場面で、C=22は何度も粒山を殺すものの、何度でも粒山は復活します。

小説内では、まるでC=22の方が、無限の繰り返しに辱められているようだという表現が出てきます。

粒山が、日本男性の概念だとすると、これは恐ろしい話です。

いくら倒しても、次の男性の性欲が女の子を襲うわけで、性欲は尽きず無限にキャラは凌辱されるわけです。

奥さんが語る、粒山の過去の非道な振る舞いが、文久205年なのは、歪んだ性欲が、日本にとって昔から続く呪いであることを言ってるのかなと思います。(ちょっと深読みが過ぎるかもですが)

個人的にアニメや、美少女キャラにはまるのが悪いこととは思いませんし、それに救われることもあるでしょう。

しかし、現実の女性さえも、キャラや商品としてしか見れないようになるのは問題だと思います。

また現実の女性は、人間なので、においもありますし、不機嫌なときだってあるわけで、そこを認めて一人の人間として接しないと、好きになってもらえるはずがありません。

それをやる前から、過度の理想化、過度の恐怖で、性欲を美少女コンテンツに向ける・・・

いまの男性たちの病が、ここには象徴として描かれていると感じます。




管理しやすいモノ

小説内の描写から、シベリア軍が何らかの形で関与している示唆や、専務の名前がストルガツキイだったりと、レプリカ工場がシベリアにあるのではないかということが推察されます。

シロクマを出したかったから設定をシベリアにしただけなのかもしれませんが、そこには意図があるのではないかとも思うのです。

ロシア社会は形の上では自由化していますが、昔は共産主義でしたし、今でも非常に全体主義的傾向が強い国です。

監視と管理が非常に厳しく、選挙の時に警官から戸別訪問されることもあるとかです。

話は少し変わりますが、管理する側から見たときに、管理しやすい人とはどんな人でしょうか?

まずは上にもあげた、感性が劣化した人です。

この人たちは、自分で価値を発見することがないので、メディアや世間の風潮をそのまま自分の価値観にしてしまいます。

いわば洗脳しやすいということです。

二つ目は、均質化され、パターン化された快楽コンテンツで満足出来る人というのも管理しやすいでしょう。

大変な仕事をしながらも、帰って美少女アニメだけ見てればいいのであれば、国は非常に楽だと思います。

哲学とか政治学とかの本を読んで、政治に意見を持つ人は、国から見れば非常に面倒くさいでしょう。

二つをまとめると、欲望のまま流されて、自分の頭でものを考えない人が、一番管理しやすいのではないかと思います。

そしてそれは工場でつくられる製品と何ら変わらないということがこの小説にはメッセージとして含まれているとも思います。

うみみずが、「無駄のない、効率の良い、スマートな社会実現の為に、政府が法律を制定し、愛玩動物の犬や猫を大量に駆除したこと」について説明してますが、この小説内の世界では、効率化・管理化が病的に進んでいることが示唆されます。

しかし現実社会も、人間が何も考えないまま進めば、超管理型の効率社会がくる可能性は高いのではと思えます。




シロクマとは

この小説は、工場にあらわれるシロクマの正体を探ることを中心に進んでいきます。


このシロクマとは、何なのでしょうか?

当初は、製品のシロクマのレプリカが動いたと思われていましたが、物語が進むにつれて、レプリカなのはむしろ人間なのが明らかになってきます。

さんざ、うみみずが動物の方が優秀じゃないかと語っていますし、物語中盤では、いなくなった部長の席にシロクマがつきます。



クマは民族や国よって、神や神の使いとしているところもあります。

シロクマはレプリカ製造工場においてのトップ、つまりこの工場世界の人間を、作った神として描かれているのではないかと思います。

アールという鳴き声は、在る・存在を表してるのかなと思いました。

人間が、神に似せて作られた優秀な存在だとする宗教や哲学に対して、正反対の概念をぶつけてるようにも見えます。




刺激と反射

物語内で出てくるワードで刺激と反射という言葉があります。

「自分で決めるよりも0・5秒先に、行動スイッチとなる脳内の電気パルスが発生している」という話が、往本が昔読んだ本の中身として紹介されますが、これを突き詰めていくと、意識は無くて、刺激と、それに対する反応だけで人間が生きているということになります。

最後の洞窟で、人間の乾いたレプリカが、水をかけると動くのも、人体も水という刺激の循環で成り立っているだけなのではないかと、言いたいのではないかとも受け取れます。

物語の終盤で、生物も無生物も、結局は物質の組み合わせで生まれたのであって祖先は同じだという理論が述べられます。

もしかすると、刺激と反射、そして人間の意識は、ただ単に物質の組み合わせの中で生じている現象に過ぎないというのではないかという気がします。


そしてこの考えを進めていくと、無生物にもアニメキャラにも意識が無いとはいえないことになります。

話のスケールがさらに深く・壮大に見えてきます。





傲慢な人間中心主義

物語終盤の、黒い太陽の世界、そして地下のレプリカだらけの洞窟は、人間中心主義のエゴイズムの邪悪な精神世界を描いた物に見えます。

ナシエは歪んだ性欲の犠牲者で、呪いを抱えていますし、その中でのC=22の粒山の虐殺劇(玩弄されてるのはC=22にも見える)、またレプリカのまま放置されてる動物たち、ぷりんぷりん音頭で消えていく人たちなど、全てが歪んだ欲望と関連しているように見えます。

人間が中心と捉えるか、世界の中に人間がいると捉えるかで欲望の在り方は大きく変わっていきます。

自然の中での調和を基調として考えれば、おのずと欲望はセーブされていきますが、人間中心主義を推し進めていくと、自然を破壊し、最終的に自分すら溶かしていくことになってしまう気がします。




狂気とユーモア

さて、さんざん主観的に好きなことを書いてきましたが、この小説のすごいところは、ユーモアがふんだんに入っていて、不条理物語として面白く、かつ、お説教になっていないことです。

上に書いた考察も、そういう風に取れるというだけで、小説内で具体的な明示みたいのはありません。

上に書いたのは、あくまで私がこの小説から感じ取ったことに過ぎません。

この小説の終盤で主人公が、「記憶がない、ということすら記憶になかったとしたら?」という言葉を述べます。

究極的に、世界がもし1秒前に作られたとしたら、記憶それ自体が嘘ということになりますし、それを確かめる手立てもありません。

世界もこの小説も、解釈はいかようにも出来るし、そしてやはり分からないということです。

いうなればこの小説は分からないことすら分からないことを気づかせてくれる小説と言えるかと思います。

不条理な世界を狂気とユーモアで包んで、問題提起をはらみながらも面白い物語になっている・・・・・

私は色々考えるのが好きな、面倒くさいタイプの人間なので、かなり長文で考察をしましたが笑、単純に面白く読む!という読み方でも全然良いし、とても楽しめる小説なのです。

この考察を読んで少しでも興味がわいたという人がいたら、是非、本書を手に取って欲しいです。

何だかよくわからないモノを目指し、ブログやってます
本の書評や考察・日々感じたこと・ショートストーリーを書いてるので、良かったら見て下さい♪

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