「異邦人」は、アルジェリア生まれの作家アルベール・カミュの代表作です。
この作品により彼は中央文壇の寵児となりました。
通常の常識の観点では測れない、ムルソーという青年の人生を描いたこの作品は、社会の機械のような残酷さ、他者のために仮面をつける人々の虚飾、形式的なものの滑稽さ、など様々なことを浮かび上がらせます。
以下、物語の重要部分に触れるので、ネタバレが嫌な人はここまででストップしてね
ざっくりストーリー
第一部
物語は主人公であるムルソーの母の、お通夜のシーンからはじまります。
ムルソーは自分の感覚に重きを置き、それを元に行動する人間で、お通夜でも、わざとらしい悲しみの仕草や表情は一切出しません。
淡々と養老院での葬儀をこなすムルソーですが、あまりに感情が出ないので、養老院の一部の人に、少し不信を抱かれてしまいます。
お通夜のあと、自分の住む町にもどったムルソー。
ここでは元同僚で恋人のマリィ、隣人の老人サラマノ、女関係がだらしないと評判が悪いレエモンなど、ムルソーの周囲の人間関係が描かれます。
しばらく後の休日、レエモンの友達が近くに住む海水浴場の浜に、行楽の為に訪れるムルソーとマリィとレエモン。
しかしそこには、レエモンと揉めていた女性の兄であるアラビア人と、その仲間たちもいたのでした。
運悪くアラビア人と鉢合わせるムルソーたち。
そこで匕首で襲われたレエモンが、腕と口に傷を負ってしまいます。
近くの病院で治療した結果、命に別状はなかったものの、病院から帰ってきたレエモンは不機嫌です。気分転換に、少し風にあたるというレエモンにムルソーも付いていきます。
そこでまたしても、岩のかげの泉で寝転がっているアラビア人たちと遭遇します。
いまにも鉄砲を撃ちそうな様子のレエモンに危険を感じ、銃を預かるムルソー。
向かい合うムルソーたちとアラビア人・・・そこには静かな静寂が流れます。
しかし唐突にアラビア人が岩かげに逃げたので、緊迫の状況は終了します。
アラビア人が逃げたことで気分が回復したレエモン。
レエモンと一緒に家まで戻ったムルソーですが、あまりの浜の暑さに家の階段を昇ることすらおっくうになってしまい、一人浜を散歩することにします。
感情と気分に素直なムルソーの足は、自然と涼しい岩かげの泉のほうに向かいます。
するとそこにはまだあのアラビア人がいました。
引き返せばいいものを、あまりの暑さから体が自然に泉へ向かうムルソー。
相手も匕首を構えます。
ムルソーも銃に手をかけます。
そのとき相手の匕首の刃に光が反射し、それが額に当たり、さらに汗が眼に入ります。
そして暑さがピークをむかえ くらくらしたムルソーは銃を発砲します。
自ら撃った銃の轟音により、ようやく太陽と汗は振り払われたものの、その代償は重く、ムルソーはアラビア人の命を奪ってしまったのでした。
第二部
第二部はこの事件をめぐる裁判の様子が描かれます。
ムルソーの感覚に重きをおいた供述は、司法関係者の誰からも理解されません。
この時代の裁判は、事件だけでなくその人自身の人格も判断材料となります。
「養老院に入れたのはお金か足りないから」
「ママンを深く愛していたが健康な人は愛する人の死を願うこともある」
という瞬間の感情や感覚を飾らずに、剥き出しで放つムルソーの言葉は、裁判の様式や心証には全く適していませんでした。
裁判は、ムルソー自身のことを争っているのにも関わらず、ムルソーが居ないかの様にに進みます。
そして、判決は当然のように、魂をもっていないムルソーの計画的な犯行であるとされ、斬首刑が決定するのです。
刑務所の中で過ごす時間の中で、ムルソーは自身の人生や、死の絶対的な意味について思いを馳せます。
ここでムルソーの神を一顧だにしない態度が気になっていた司祭が面会に来ます。
そしてムルソーと宗教観や、神をめぐる意見を巡り、論戦が始まります。
しかし、驚くほどに全く議論が噛み合いません。
だんだんといらいらが募るムルソー・・・
そして司祭の言葉をきっかけに、人生ではじめて激昂し、自分の思いをぶちまけます。
思いを吐き出し心を落ち着けたムルソーは、その夜に刑務所で夏のすばらしい情景を見ます。
その景色を見て、自分は幸福だと感じたムルソーは、最後の望みとして、自分が孤独を感じないように、住民が処刑のさいに激しい憎悪で彼を迎えることを願うのでした。
ムルソーの価値観
あまりに淡々としているムルソーですが、様々なエピソードから、どういう人間かが徐々に浮かび上がってきます。
ムルソーの特徴は、まず自分の肉体的、感覚的なものから感じる心の動きに素直ということです。
母親のお通夜であろうとミルクコーヒーは飲むし、いかに人にとって重要な話でも、眠くなればあくびをします。
しかし重要なのは、感受性が無い人間(機械的なロボット人間)ではないということです。
ムルソーのパリの街の表現で
「汚い街だ、鳩と暗い中庭、みんな白い肌をしている」
という表現があるのですが、ムルソーが語る情景の描写は、はっ!とさせられる切り口で、絵のように脳内でしっかり浮かび上がります。
自分の感覚を大事にして、素直に感じるからこそ、その光景自体を切り取ることが出来るのだと思います。
そしてもう一つの特徴は一切の虚飾は認めないということです。
彼は道徳的なもの、観念的なもの、形而上学的なものを認めません。
みんなが社会で生きる上での仮面みたいなものを、ムルソーは全くまとっていません。
サラマノ老人が犬の思い出話を語るときも、彼はあくびをした後。
「まだいてもいい、犬の話にあきただけだ」と言い放つのです。
普通の人間なら犬が消えて悲しい思いをしてる人を前に、「犬の話に飽きた」とは逆立ちしても言わないと思います。
マリィとの結婚の話でも、マリィが望むなら結婚してもいいと言うものの、愛してるかと聞かれると、「おそらくは愛していないだろう」と言い、さらにマリィが、他の女の人がムルソーに結婚してほしいと言ったらどうするかと尋ねると、「もちろんするさ」と言い放ちます。
彼は自分の感覚に心に素直で、そこには便宜上の虚飾というものは一切ありません。
そしてさらに重要なのは、そんな彼のことを周りの人は好感を持っているということです。
マリィはムルソーを変わっていると言いながら愛しているし レエモンも女衒だとか言われている自分の話を聞いてくれるムルソーを友人だと思ってます。
サラマノ老人も、あくびをしながらも話を聞いてくれて、「まだいてもいいよ」と言う彼のことを好ましく思っています。
彼は虚飾を排している人間であるものの、他の人に対して不寛容な人間ではないのです。
自分の感覚を大事にしながらも、他人に時間を使う余裕があり、その人自身を丸ごと受け入れる余裕がある人間、それがムルソーです。
悲劇は必然か?
ムルソーがアラビア人を撃ち殺すシーンは、汗や刃に反射した光などが描かれ、その筆致の緊迫感・臨場感はこの本の見せ場の一つです。
この場面を読んで、自分はこの事件は導かれるようにして起きたのでは?
と感じてしまいました。
この事件が起こる条件として、あらゆる不幸の積み重ねがありました。
アラビア人たちと何度も会ったこと、浜辺がすごく暑かったこと、レエモンから銃を預かったこと、匕首の刃の光、汗が眼に入ったこと・・
上記の出来事は、一つ一つは些細なことですし、いかようにも避けられたのではないかと思います。
しかし逆に、逃れられない何かしらの運命が、この場面を用意したのではないかという思いも心をよぎるのです。
彼の理性の薄弱さ、感覚で生きる人生の限界を示した事件だったのか、それとも逆らえぬ運命の歯車の一場面だったのか、解釈はいろいろ出来ます。
人生の瞬間性と運命について等、様々な事柄に思いを馳せ、無限の時間を巡るような感覚で読んでみると、本作はさらに深く楽しめるのかもしれません。
裁判という滑稽な劇場
さて第二部では裁判の描写が続きますが、裁判とムルソーが全くといっていいほど噛み合いません。
裁判とは、弁護士がいかに被告人を無罪に近付けるか、逆に検事はいかに相手を有罪とするかという、ある種の心理ゲームみたいな側面があります。
要は形式を切り貼りして比べあう、道徳・形式コンテストみたいなものです。
ムルソーはそういう虚飾とは無縁の人間です。
ムルソーからするとこの事件は、いろんなことが重なり、暑さからピストルを撃ってしまったという単純な事件なのです。
しかし弁護士にも、検事にしてもそこに過度なストーリーを脚色しようとします。
ムルソーが口を挟もうとすると、味方のはずの弁護士にも黙っていてくれと言われてしまいます。
弁護士や判事が、事務的な手続きの面に入ったときに、ようやくムルソーは少しだけ彼らと打ち解けることが出来ましたが、それはその手続きが実際に必要で、実務的な嘘の無いものだからです。
裁判中にムルソーが関心を持つものは、検事の自分を有罪にしようとする熱意や長広舌、しぐさなど、いわゆる虚偽ではないもののみで、心理的で意味のないストーリーを聞いてるといらいらしてしまいます。
ここまで本を読んで、ムルソーの心情を知っている身からすると、いかに裁判が架空で空虚な話をしているのかが分かります。
ムルソーが、事件は太陽のせいだと言った時、廷内から笑いが起きますが、こちらからすると裁判のほうがより滑稽に見えるのです。
メカニックなもの
ムルソーが刑務所での中での暮らしや、処刑や断頭台について語るときによく出てくるのが、メカニックなものという表現です。
刑務所がいかに隙もなく管理されているかということ、裁判の判決の執行の冷徹さ、逃れることのできない断頭台についてなど、様々な場所でメカニックという表現が使われます。
ムルソーが愛するものは、太陽や海、暁のときに差し込む光など、ありのままを体感で感じ取れる、自然なものです。
しかし刑務所の壁は人為的に、人が人を囲むために作られたものなのです。
刑務所の外にいたときでさえ、ムルソーは人間関係を上手に運ぶ為だけの虚飾については、全く一顧だにしませんでした。
刑務所の壁もまた、機械的な形式の一つです。
また彼が、冷酷な施行と、判決の不均衡について述べる差異もとても面白いです。
「判決には全く別の可能性があり、下着をとりかえる人(不完全な人間)が判決文を書き、よくわからないフランス人民というあいまいな観念のもと下されるのにも関わらず、宣告されると確実で真面目なものになり、一直線に冷酷に進む」
という観点は、ユニークでありながら真を突いていると思います。
人間のためのものなのに、どこからか機械のようになってしまう、官僚や会社、学校等のあらゆる組織にも言えることかもしれません。
そして極めつけは断頭台に対する表現です。
「不都合な点は逃げるチャンスがないことで処理済みであって、協約のようなものである。」
「人はいつもその物を知らないと誇張するが、じつはすべてがごく簡単なものなのだ。
そして断頭台に登っていく、空へ昇るというような物語のような想像力にしがみついても
結局はメカニックなものが一切を粉砕し、非常な正確さでつつましく殺されてしまう。」
上記は、自分なりの要約ですが、このような彼の表現から感じるのは、形式というものの冷酷さ、肉体や感覚は存在せず、理念や社交辞令などの偽物が生み出した物の冷たさです。
メカニックなものとは、すなわち硬直化し、人間性を失った無慈悲な形式の総称でしょう。
世の中の多くの人がこの仕組みの中で生活しています。
ムルソーと司祭
この小説の最後の山場は、司祭とムルソーの対話シーンでしょう。
神を一顧だにしないムルソーの態度や考え方に対し、司祭は納得が出来ません。
神が助けてくれると司祭が心の救済を説いても
「そういうのを信じる人の権利は否定しないが、自分は扶けてもらいたくなかったし、興味がない」
と言い切ります。
司祭が、我々はすべて死刑囚であると、人類を大きく括ろうとしたときには
「それは私と同じではないし、慰め足りえない」
と甘い虚飾をまったく許しません。
これは神の裁きだと司祭が言っても、ムルソーは人間の裁きだと言い放ちます。
司祭が、遠い将来に必ず来る死に対し、どう対処すべきかと尋ねても
「私の様に正確にそれに近づいていけるだろう」
と現実社会で近付く死を淡々と見つめ、死後の世界への逃避を許さない、ムルソーの考え方は徹底しています。
ムルソーにとって、もう一つの世界の生活とは、お金持ちになったり、早く泳げたりを空想するレベルの意味の無い物に過ぎず、来世もこの意味のない空想と同じレベルなのです。
司祭はあまりの思いの強さに衝撃を受けます。
「一体あなたはそんなにこの世を愛しているのですか?」
という司祭の言葉は死後の世界にこそ救いを求める心情の吐露でしょうが、対比でみるとムルソーのほうが現世を肯定してる側になるというのがまた興味深いです。
延々と続く、神やら来世への対話に、だんだんいらいらしてきたムルソーは司祭の
「私はあなたとともにいます。
あなたの心は盲いているから、それがわからないのです。私はあなたのために祈りましょう」
と言う言葉で、とうとう激昂します。
「君の考えは女の髪の毛1本の重さにも値しない!君は死人のような生き方をしているから、自分が生きてることにさえ自信がない!私は両手は空っぽのようだが、すべてについて君より強く自信を持っている・・・」
ここに来世や心や道徳を唱えてきた司祭と、そこにある自らが感じるものを大事にしてきたムルソーとの決別があります。
司祭の宗教観は救いになる側面もある一方、現世への諦観をまとっているようにも見えます。
一方でムルソーは道徳や心、観念的なものは排除する一方で、存在している現世を大事にしているとも言えます。
どちらが正しいとかではなく、どの分量をどれだけ選び取るかという問題なのでは?
と私自身は思いました。
ムルソーの哲学
観念的なもの、形而上的なもの、形式的なものを排除して生きるムルソー。
前項で、ムルソーは現世を肯定しているように見えると言いましたが、一方で根底のところではニーチェ的な現世に対する厭世観が見え隠れします。
序盤で職場のパリの出張所に行くかと提案され、断ったときには
「ここでの生活に少しも不愉快はなく、学生のころは野心を抱いたが、学業を放棄せねばばらなくなったときに、そういうものは一切無意味だということを悟った」
という旨のことを言っており、言い換えれば、昔は野心や希望を持っていたということです。
やはり何らかの社会に対する挫折がムルソーに影響を与えたのは間違いなさそうです。
特赦請願について考えるところでも
「人生は生きるに値しないということは誰でもが知っている。」
と当たり前の前提として述べており、ムルソーの根本にはこの無常観が下敷きになっています。
しかしムルソーの面白いところはこの無常観に対し、ニーチェのようにそれを乗り越えて超人を目指すわけでも、逆に悲観するでもなく淡々と受け入れているところです。
それを受け入れ、そこから自分が心地よくなるように人生を組み立てているのです。
ありのままを見て、そこに楽しみを見出すのがムルソー流で、それが善いか悪いかとかではなく、それがムルソーの人生だったのです。
刑務所のなかでの過ごし方について語った
「たった一日だけしか生活しなかった人間でも、優に百年は刑務所でいきてゆかれる」
という、心や景色の記憶の悠大さを語る言葉や
「人間が全く不幸になることはない(母の言葉)」
という生きるための光の側面を表した言葉。
またそれらとは逆な意味とも取れる「死刑執行が人間にとって真に興味ある唯一のことだ」という考えも、あらゆる人間が死ぬという事実を見据え、だからこそ惹かれ、思いを馳せてしまうという本質を射抜いた、現実から眼をそむけないムルソーらしい考え方です。
ムルソーは司祭への言葉の中で、他人の死や、母の愛や、選びとる生や宿命には意味がなく、ただ一つの宿命である私自身を選ぶことにしか意味はないと言い、そして死という暗い息吹が、それを選び取った人たちを無慈悲に奪っていくことを述べます。
これは残酷ですが、他人への愛などの様々な感情は、偽物ではないにしても、結局は愛を感じるのは自分でしかなく、そこにある本物はいつか死ぬ自分だけであるという、ムルソー自身がたどり着いた一つの到達点だと思います。
刑務所から見える星々に満ちた夜に、世界のやさしい無関心を感じ、自分に近い兄弟のように感じたというのも、それぞれが自分の死だけを抱えた存在で、無関心でありながら、お互いを選んで生きていくという無関心と死の優しい調和という哲学に、ムルソーが辿り着き、星たちにそれを重ねたからなのだと思います。
最後の場面で、憎悪の叫びをあげて私を迎えいれてほしいと願うムルソーは、孤独が嫌だという自分の感覚的な思いもありつつ、自分のことを役割としての装置として受け入れ、民衆や世界のための部品として死んでいくことへの思いの、両方を抱えていたのかなあと思いました。
自分はムルソーが辿り着いた場所や考え方を、全部肯定しようとは思わないものの、社会の眺め方など随所に共感できる部分もあり、また多くの新しい視点を与えてくれました。
考え方や信念はいくらでもあり、正解とかではなくて、考えて選んでいくものなのだと思います。
この物語が心に与えるものは重くて、まだ自分でも全てを処理は出来ません。
しかし自分も引き続き、迷ったり、試行錯誤を重ねながら、絶えず新しい視点や疑問を持ち、大地の感覚を忘れずに物事を考え続けていきたい。
そんなことを思わせてくれる作品でした。