「ニューダンガンロンパV3 みんなのコロシアイ新学期」は2017年に発売された、アドベンチャーゲームの金字塔、ダンガンロンパシリーズのゲームタイトルにおける、ナンバリング三作目です。
私は本作についてさんざん「事件」だと言ってきました。それ位に、エンディングまでプレイし、ある種の衝撃を受けたわけで、今までの過去二作の考察も本作の考察をする為に、組んでいた部分もありました。
しかし本考察をする為、「内容覚えてるけど、最終章くらいはもう一度プレイしとくかな」とぽぽーんとプレイを開始したところ(擬音がまるで謎)、衝撃の事実が発覚した・・・
結論だけ言おう、本作は「事件」でなく、しっかり「作品」だったのである!
そんなわけで本考察のスタートは、まずそこのところの事情説明・釈明から行います。以下、本作のネタバレを含むので、嫌な人はここまででストップしてください。
釈明
私は本作の初回プレイ時、ラストに相当な衝撃を受けました。
まさかの全てを破壊した上で、プレイヤーの心をケアせずにブラックアウト!
それもエヴァの監督のようにそういう事をやりそうな人ならいざ知れず笑、1と2でエンタメ性溢れる作品を作り上げた作者の小高さん(以下、作者で統一します)が、心あるファンも含めて無理心中した事に衝撃を受け
「これは私が、プレイヤーの心をケアし、作者の叫びを掬い上げなくては!」
と私は本作の考察をアップする事を決意したのです。
しかし、本作にはなんとエピローグがあった・・・
そう、そのまさかである。私はエピローグがるある事に気付かず、丸々そこをプレイしていなかったのだ。
↓以下、言い訳
(だってえ、ホーム画面に戻った後、まさかその後の展開があるとは思わずないじゃないですかあ、きっと私みたいに、やべえ作品だったと鼻息荒く電源を切った人だっているはずですよお)←俺ガイルの一色いろは風
はい、見苦しい言い訳です。すいません、反省します。
さて、そんなわけで、エピローグを見て、私は深く脱力。
そう、本作はしっかり、心あるファンのメンタルにも考慮した上、作品として縫合していたのだ。
ここでV3をプレイした人は思うだろう。
「あの、取ってつけたようなラストでどこが作品になるんだい」と。しかし取ってつけたようなラストだとしても、それでもあのエピローグを付けた事は重大な意味、というより意志の現れなのです(詳しくは後述)。
さて、本作はしっかりと作品としてまとめあげられていた。これはダンガンロンパのファンには喜ばしい事だろう。しかし私にとっては事情が異なる。
「あれっ、じゃあ別に私が本作を考察しないでいいのでは?」
そう、本作はキャラに愛を持ち、作品の持つ思いを思考するプレイヤーなら、エピローグまで見れば、誰でも深部のメッセージを受け取れる仕様なのです。
それなのに、エピローグ見逃し馬鹿の私は、息まいて
「今回の考察は、V3という事件を通し、作者の心情に迫る特別仕様や、いつもとは違う作品自身の本質ではなく、作者自身に迫っていくでえ、なぜならV3は、無理心中プラス叫びというアートやからや!」
てな感じのテンションでいたのですが、本作は「作品」でした。
なので、考察をアップするか迷ったのですが、ゲーム業界やユーザーへの問題提起、創作論に対する本質的な切り込みも孕んでいる濃い作品であるし、書き上げてみると、自分なりの視点もかなり盛り込む事も出来たと感じたのでアップする事にしました。
それなりに面白いテキストになったと思うので、もしよければお付き合いください。
コスプレ、まがいものとしての
本作は、黒幕である白銀つむぎ(江ノ島53世?)が何度も言うように、作品自体がコスプレです。
コスプレというのは、オリジナルのキャラの衣装を着て、それになりきった気分になるものです。それ自体は楽しい趣味だし、いわゆる二次創作であることを自覚していれば何も問題はありません。
しかし例えば、リゼロのレムのコスプレをしている女の子が、私が本物のレムだと言い張ったとしても誰も相手にしないし、それは所詮三次元に変換された別物に過ぎません。
本作は、簡単に言うと、その現象そのものなのです。
これは、コスプレを、二次創作の別ジャンルである同人誌に変換するともっと分かりやすくなります。
同人誌とはオリジナル作品の展開の「if」を、ファンが妄想し描いた作品の事。
そう、つまるところ、本作はナンバリングだと言い張っている、出来の悪い同人誌作品でしかないのです。そのように作者は規定して、V3を作りあげている、私はそう思います。
そもそもとして「ナンバリング」という概念に孕む問題・罪と罰は、次の項目に譲るとして、本作の黒幕側がオリジナルのダンガンロンパの精神や粋(いき)を理解しておらず、ゲーム自体が劣化しているのは序盤の演出から明らかでした。
1や2では、殺人の要因となるきっかけは仕込むけど、殺人自体は自発的に行わせるのが、一つの様式美だったはずなのに、今回の黒幕はデッドラインを設け、そこを越えたら皆殺しにするという、あまりにお粗末なやり方をしています。
さらに1の象徴的なムービーだった宇宙ロケットの処刑も、見事に失敗しており、百田は病により死んでいます。
結局の所、本作はつまるところ、ダンガンロンパのコスプレ、性質の悪い二次創作作品に過ぎない、その様に作者自体も演出しているわけです。
ナンバリング問題
ここでは本作のタイトルである「V3」。その真の読み方としての53作目という事について考えていきます。
さて、作品というのは基本的に、二作、三作と続編を続けていく事で、純度は下がっていきます。
もちろん2以降面白くなる作品も沢山ありますし、ナンバリングを重ねて進化し、より面白くなる作品もある事は否定しません。
しかしそれらの作品でも、1が持つ本質や純度というのは唯一無二であり、以降のナンバリングはその純度を引き延ばすか、薄めるか、少しずらしてブラッシュアップするか、大喜利化(アイデアの変換)をして、要素だけ借り、違う面白いものを作るのかのどれかであり、総じて1が持つ純度が下がるのは避けられません。
その意味でダンガンロンパにおいては核である黒幕にそれが顕著に表れています。
江ノ島盾子→江ノ島AI→コスプレ白銀
もはや本作においては、ただのコスプレであり、江ノ島盾子の持っていたカリスマ性は完全に形骸化しています。
しかしこれは実の所、2の段階から現れていた現象であり、作者はあえてそれを自覚的に利用しテキストを書いていたように思います。その意味で純度が落ちた江ノ島AIであることが2ではしっかり活き、ゆえに2は大幅にエンタメ度とエモさがアップした傑作でした。
その意味で言うと、本作のコスプレ黒幕が浅薄なまがいものである事も、作者は作品にしっかり利用していると言えます。彼女の存在自体が、どのエンタメ系の会社にもいるであろう心無い銭ゲバプロデューサーを象徴しており、それはある種の告発だからです。
さて、ここで劇中で、本作がダンガンロンパの53作目である事を黒幕がばらすシーンについて考えてみます。
4以降の架空のナンバリングのロゴが次々と並び、それはエヴァやシンウルトラマン、有名テレビ番組などの様々なオマージュであり、まさにナンバリングの大喜利化。
このシーンは、利益しか考えられない無能な白銀プロデューサーが、つまらない企画を延々とパワポでプレゼンしているかのように私には見えました。ただダンガンロンパを続けるだけを目的化した陳腐なアイデアの数々である事が、ロゴとその羅列に現れています。
お粗末なコスプレのコロシアイ新学期、そして積み重なった陳腐な過去作。
ここまでくれば、V3。すなわち53作目である事に作者が込めた意味は明白です。
ゴミ。
そう作者は、本作を(白銀が作り上げた偽ダンロン世界の事)何の価値もないゴミである。そのように言っているのです。
これは実に衝撃的なテロであり、自爆行為に見えますが、エピローグまで見れば、心あるファンへの配慮もあるし、キャラへの愛も感じられます。またなぜここまでやらなくてはならなかったかというのも、作品全体を見れば浮かび上がってくるわけであり、それは後の項目で語ります。
蝕む無意識の宿痾、それを作品化する理性
本作の作者さんはインタビューでも応えている通り、キャラクターに愛着をもちテキストを練り上げていくタイプです。
そのキャラクターをデスゲームとはいえ、次々と葬っていかなくてはならない。これが恐らく、意識的にも無意識的にも、作者のメンタルを追い込んでいったのではないか、私はそう考えています。
そもそもとしてデスゲーム形式の作品でナンバリングを続けていくのには、どう考えても限度があります。一体いくつの死体を、ゲームルーティーンとして積み重ねなくてはいけないのかという話です。
つまるところ、自分が生み出したキャラクターを殺し合わせるというシステムの作品を、ずっと同じフォーマットで続けていくのは難儀であり、それが作者が続けたいならまだしも、自分の意志とは違う外部の要因(ユーザーからの要望、上層部からの命令など)が圧力となっていたら、メンタルはやられる。私はそう思います。
ましてキャラを大事にしているならなおさらです。
そしてそんな状態の時に、たまたまエゴサなんてしたら最悪です。
心無いファンの「誰誰を殺して欲しい」「誰ちゃんのおしおきシーンがみたい」「殺す順番のセンスがない」などの言葉が飛び込んできたとしましょう。
そうなった時に、「ふざけんな、だったらデスゲームという形式、ダンロンのフォーマット自体を解体して死と向き合う難しさ、罪を突き付けたるわ」と考えてしまうのは理解出来ます。
また、あまりに無自覚にただコロシアイを消費のように楽しむ一部のファンの姿を見て、デスゲームの問題点をここらで一度言わなくてはまずいのでは? と考えたのも、一因にあるのではとも思います。
とはいえ、それとは別にダンガンロンパからしっかり純度の高いメッセージを受け取り、作品を慈しんでいたファンもいるわけです。私はエピローグを見てない段階では、その人達も全て切り捨てたと思っていたのですが、それはエピローグでちゃんとフォローされていました(すいません)。
あのエピローグに関しては、確かに本編の叫びや主張をかなり無効化していますし、もしエッジを重視するなら、私が当初認識していたエピローグなしのブラックアウトの方が整合性は高かったのは間違いありません。
しかしそれをした場合、1や2の内容やキャラの物語から、感動や大事な物を受け取ったファン全てを切り捨てる事になり、ダンガンロンパは復活が難儀な状態に追い込まれざるを得なかったでしょう。
その意味で、取ってつけたようだとしても、作品から何を受け取るかが重要という事、V3というフィクションに打ち勝った事も現実を変える可能性がある事を、しっかりキャラに言わせるエピローグで物語を締めた事を、私は評価したいと思うのです。
つまるところ、心ないファンも心あるファンもいる事を分かった上で、自身の主張や叫び、怒りを全力で投入し、最後には作品として縫合した、本作はそういう作品なのだと思います。
希望と絶望、二元論の蹂躙と、創作作品の退行的解体
本作はプレイヤーに対し、キャラ同士の殺し合いを楽しむ残酷さを突き付け、糾弾します。
しかしそもそもとして、ダンガンロンパという作品がスタートした段階で、その土台にはデスゲームが組み込まれていました。
それの倫理性の問題を、キャラ同士の絆や物語、メッセージ性でカバーしエンタメとして組み上げた作品だったからからこそ、ダンガンロンパはここまで支持されたわけです。
つまり本作のメタ的な「君たちは残酷なんだ」という告発は、明らかに前作や前々作からの後退を意味します。
さらに過去作である1と2は、「デスゲーム」と「才能」という点に着目し、それらの罪の克服をキャラクター達に担わせる事により、現代社会の競争で勝ち残れない人、才能や突出した何かがない人は無価値だ、と思わせる世上の価値観に反抗した作品でした。
苗木誠の持つ希望の力は、前進する意志だし、日向創は何の才能もない予備学科の生徒です。つまりダンガンロンパは毎回、大事なのは才能や蹴落とす能力でなく、皆で前を向く「意志」であり、それは誰にでも持てるものだ、そう言っていたわけです。
本作は、希望と絶望の二元論を、前作までの罪であるかのように、あてこすり、こきおろしていますが、実の所、過去作の希望というのは、個々の意志の事であり、それは二元論に組み入れられるものではないのです。
エピローグのテキストを見る限り、作者自身もそれを充分に分かっていたとも思います。
それでも何らメッセージを理解せず、上辺だけの希望・絶望の浅瀬でちゃぷちゃぷしてキャラの生き死にを楽しむファンや、本作をそのように捉えているビジネスしか興味のないプロデューサーや業界の風潮への怒りもあり、このようなメタ解体を選ぶしなかなったのではないかと思うのです。
一応、本作の問題提起を更に突き詰めてみます。
そうすると行きつくのは「人の生き死にで楽しむのは残酷な事だ」という事になり、これは一見すると核心を突いた問題提起に見えますが、実はそんなことはありません。
なぜなら、あらゆる作品には人の死が含まれていて、それを前提としてエンタメ作品・創作作品は成り立っているからです(もちろん日常系などで人の死なない作品もあります)。
そもそも現実世界に死や殺人がある以上、それが物語に転化される事は当たり前で、何ら責められる事ではないですし、人間の快楽にはそもそも不謹慎さが一定含まれるものです。
その意味で創作作品を一つの構造体として考えた時に、必ず不謹慎な箇所は必要なのです。それは人間自体が健全と不謹慎のバランスで生きてる関係上、避けれない事ですし、特段避けるべき事ではありません。もしそれを検閲でもしようものなら、創作作品は世の中からなくなるでしょう。
その上で言うなら、作品内で重要なのは、人の死をどう描き、そこからどんな思いを生み出すかという事が大事なのです。
ダンガンロンパの1と2では、殺人をエンタメ化しつつも、作者なりのメッセージを打ち出していたわけなので、本作の問題提起は、ある種の先祖返りであり退行なのです。
さてここまで色々述べてきたわけですが、実の所、作者はこれらの事を充分に理解していたと思います。その上でこういう内容にせざるをえなかったのです。そう思う理由を次の項目で語ります。
一時切断する為のやむなき手段
それではいよいよここで、なぜ本作の内容をこのようなものにせざるを得なかったのかについて述べます。それはダンガンロンパを一時切断する為です。
そんなもの単純にナンバリングを自らの意志で出さなければいいじゃないかと考える人もいるでしょうが、流れに任せ、普通にしていたらそれは不可能です。なぜなら世間が、会社が、常にダンガンロンパの次回作を求め続けるからです。
これは欲望の流れと性質上、仕方のない事で、私自身もペルソナ6を心待ちにしているし、ドラクエ12が出れば必ず遊びます。それくらいナンバリングの魅力というのはゲームユーザーの心の中に根付いています。
そしてこの現象は、私が見る所によると、あらゆる有名なゲームデザイナーですら完全に逃れている人はいないように思います。
例えばペルソナシリーズの橋野桂さんはメタファー:リファンタジオという新規IPを成功させましたが、ペルソナのシステムからの完全離脱は選択しませんでした。そして、それとは別に、やはりファンはペルソナ6を心待ちにしています。
またメーカーで言えばフロム・ソフトウェアは、新規IPを作り続けていますが、それらのほとんどが自社の強みである、ソウルライクな死にゲーです。また、もはや国民的ゲームデザイナーである堀井雄二さんはドラクエを今でも作り続けてくれています(ありがたい)。
上記の事情を見た上で思うのは、人によるとは思いますが、多くのゲームデザイナーさん(というかクリエイター)にとって、本来であれば、〇〇さんの次回作が見たいとなるような状況こそが、望む理想なのではないのかという事です。
私自身、作者に興味があるのでゲームデザイナーさんで作品を選んだりもしますが、とはいえ多くのファンが人物ではなく、ナンバリングとして作品を欲望します。
この性質は、コンテンツの中でもゲームが特に強い、私はそう思います。
理由としてはユーザーの身体性も絡み、かつ数十時間の時間を共に経験するという濃密な体験が、「あの感動を再び」と細胞レベルでナンバリングを希求するのではないか、そう考えています。
他コンテンツである映画の監督でいえばクリストファー・ノーラン監督などは、様々なジャンルの作品を提供し、次回作を楽しみに待たれる一人でしょう。
しかし彼ですら、インセプション的な理論的で難解な作品こそをファンはどこかしら型として求ています。つまるところ、あらゆるジャンルにおいてヒット作品を生み出した作者は、ナンバリング圧力やそれに似た物にさらされるわけです。
さてそうなると会社は、利益の為に自然とナンバリングタイトルを作れと言い続ける事になります。
そもそも予算を通すのも、固定ファンが試算出来て楽ですし、キャスティングを豪華にしたから売上プラスが見込める、とか適当にのたまえば会議はラクラクで通過出来るでしょう。
更にもし、会社の上層部に上記の思考しか持たない、心無い銭ゲバ人間しかいなかったら最悪です。しかし例え会社が良心的であったとしても、ナンバリングへの圧力がユーザーからある限り、会社が抗うのは難しいでしょう。
さてこのような現実を考えた上で、当時のダンガンロンパがおかれた状況を見ていきます。たしかアニメの3と、同時並行、もしくは少し遅れでV3の制作は進行していた、そのような感じだったと思います。
アニメの3に関しては、サブタイトルに「The End of 希望ヶ峰学園」とあるように、ラストは形式として綺麗にダンガンロンパの物語を畳んでいたように思います。
ここからは推測でしかありません。
もし作者が3で終わろうとした、もしくは綺麗に畳めたと思っていた時に、プロデューサーから次のゲームもダンガンロンパのナンバリングを同時並行で作ってくれと言われたとしたら、どう思うでしょう。
「俺はずっとダンガンロンパだけを作り続けなくてはいけないのか・・・」
そのような絶望が脳裏をよぎったとしても不思議ではありません。
私は似たような事例として、ガンダムのヒット後、様々な意欲的作品にチャンレンジした後、商業的に上手くいかず(内容的には傑作ばかり)、ある日、ガンダムの次回作を作れと言われた冨野監督を思い出します。
結果、ガンダムナンバリングの二作目、機動戦士Ζガンダムは、冒頭から神経的に病んだ混沌とした作品になり(個人的にはガンダムで一番好き)、ラストまでその退廃的な空気のままに突き進んでいきました。
ダンガンロンパの1と2を見る限り、作者はテキストをしっかり推敲して練るタイプの人で、様々なアイデアを試したい作家だと思います。であるならダンガンロンパ以外のアイデアも試したいし、自分のキャラをひたすら殺し続けるデスゲームに縛られ続けるのは地獄でしかなかったでしょう。
つまるところ、作者はダンガンロンパを一度やめて、違うタイプの作品を作る為には、V3をこのような内容。つまり強制切断的な作品にせざるを得なかったのだと思います。
全てをメタとし解体する手法が斬新でもなく別段新しくない事は、作者自身も分かっていたでしょう。しかし一度ダンガンロンパを切断するには、こうするしか方法が無かった。なぜならしっかりしたナンバリングを作れば、世間は「5」を求め「6」を求め、プロデューサーや上層部は作者にダンガンロンパしか求めなくなるからです。
ゆえに作者は、ダンガンロンパの世界を一度メタ的に解体し、そこにゲーム業界やユーザーに対する叫びや怒り、問題提起を内包したのだと思います。
そして内容では思う存分暴れた後、理性的にエピローグで、作品として心あるファンをケアし、復活の可能性も残した。
そう思うと、本作はその当時、作者が取れる上で、最大限理性的で大人な仕事だったのではないか、そのように思うのです。
守られたものについて
V3はその意味で、ダンガンロンパを一時切断する為のまがいもの・コスプレとして設計されています。
ゆえに本質的に、本作はダンガンロンパの正式ナンバリング作品ではありません。劇中で流れる大喜利ロゴが象徴する模造品の一種です。
ゆえに白銀つむぎももちろん、江ノ島盾子ではなく、心無きコスプレイヤー。
もう少し深掘りするなら、彼女の正体は、アイデアや志・精神性を持たない銭ゲバプロデューサー、もしくはドーパミン中毒のプロデューサーのどちらかに過ぎません。
そして、ゆえにこそダンガンロンパの1と2が好きな人の気持ちは守られます。なぜならV3は正式なナンバリングでなく、大喜利的コスプレ的まがいもので、何ら1と2を損なうものではないのだから。
エピローグでは、しっかりセリフとして、今までのダンガンロンパ世界もまた実在する可能性、及びそこから受け取ったものこそが重要であると言及しており、心あるファンの精神をケアしています。
しかし作者はエピローグでもう一つ大事なものも守っています。それはダンガンロンパV3のキャラクターです。
第6章においては、彼らもまた、偽物の祭りにドーパミン中毒のまま参加した浅薄な人間であるような描写がされており、私は「おいおいキャラの責任も追及すんのかい」と衝撃を受けたのですが、エピローグでは概ね、それと反対の解釈、つまりその記憶もまた捏造ではないかという可能性がもたらされました。
これは作者がキャラクター愛が強いクリエイターである事が作用したのだと思いますし、作品本編のバランスとの整合性は傾きますが、ここでキャラを切り捨てなかった事は大きいです。
つまるところV3のキャラは、偽物の構造的罪、そしてそれらが提示した問題提起に立ち向かい、まがりなりにも、それに打ち勝ったポジションを与えられたわけで、ここにV3を作品として好きであってもいい正当性が与えられるからです。
つまり「V3は偽物のダンガンロンパだけど、キャラはその構造に打ち勝った」という構図としてダンガンロンパV3という作品は閉じられたわけです。
これはダンガンロンパV3という作品を、そのキャラを好きな人も守ったという事に他なりません。
これはパッケージのデザインにも現れていて、本作のキャラクターはパッケージにて円状の鎖で囲まれた空間の中に閉じ込められています。エピローグはその円や鎖を破壊し、その外へ出ていくキャラクターの姿が描かれるわけです。
本編内で、デスゲームの罪やユーザーの心無い声、商業主義的な存在を否定しつつ、エピローグでは本作をダンガンロンパのまがいものとして隔離する。
さらにその上で、V3のキャラも守り、本作のファンのケアもする。これが本作で作者が行った事です。
一方で、確かに本作のエピローグは、本編の内容を薄め、真実をけむに巻くという側面はありますし、取ってつけた感があるのは事実です。
しかしそれでも作者は、叫びや怒りを主張した上で、最大限大人な対応をしたのだ、そのように思います。
実の所、エピローグがある事を知らず、全てをぶったぎったままブラックアウトして終了したのだと勘違いしていた時は、事件だしアートだとは思いつつも、内心で「酷いし大人げない事をするなあ」と思い、面白いとは思いつつも作者を肯定は出来ないと個人的に考えていました。
しかしエピローグを見て、その大人な落としどころを知り、私は個人的に作者にかなり好感を持ちました。
作者は、本作の後、仲間と会社を立ちあげ独立したわけですが、元々在籍していたスパイク・チュンソフトとも良好な関係を築いているとの事で、ここらへんも実にスマートです。
次項では、既に制作が発表されている2×2はどうなるのか、そして本作の問題提起の重みについてを、改めて書きます。
2×2はどうなるのか?
前項で、作者はナンバリング圧力の中で、叫び怒りつつも理性的に出来る事をしたと言いましたが、一方で彼が糾弾した「デスゲームへの快楽への是非」という問いは消えていません。
エピローグで作品としてケアしたとしても、一度本編内で記した叫びや思想は、ユーザーにも作者自身にも、ある種の傷、あるいは真理へ向かう為の足跡として確実に刻み込まれています。
ゆえに自身が問いかけた以上は、ダンガンロンパの続きを作るなら、それの答えとまでは言いませんが、作者はその問いから逃げる事は許されないでしょう。
ゆえに2×2は「デスゲームを内包するダンガンロンパという作品としての本質」を、より問われる事になるのは明白です。
その内容のヒントや指針になるのは、V3を経て独立して以降の作者の作品群でしょう。
私は独立してすぐの作品たちはプレイしたり拝聴したりは出来てませんが、超探偵事件簿レインコードはプレイ済みです。
私は超探偵というワードを聞いた時、「なるほど探偵とはかくあるべきを本質的に掘り下げるんだな。ならばイド:インヴェイデッド(舞城王太郎さん脚本のアニメ)みたいな感動が待ってるかも」とかなり期待しました。
そんなレインコードの感想としては、エンタメ作品としては本当に素晴らしい完成度を誇っていたのですが、探偵という職業・概念に対する掘り下げ、本質的な問いかけに関しては、私は不十分だと感じました。
もしレインコードが、本質的な思索に満ちた作品であるなら、2×2の予想も立てやすかったのですが、現状ではどういうテイストの作品が来るのかは未知数です。
可能性の一つ目は、1や2、もしくはレインコードのようにエンタメとメッセージ性を兼ね備えたバランスの良い作品を作るというもの。
そしてもう一つは、V3の問いかけに応える形としての、本質的掘り下げを徹底させた(開き直って、ぶったぎるという事ではない)作品を作るという道です。
私自身、前者でも満足ではあるのですが、もし後者を選び、V3のデスゲームの前提をむしかえしての否定を、新しい哲学で乗り越えた時、その時ダンガンロンパは、更なる高みに到達する、そう考えています。
2×2、つまりは4。
それはV3の地点を、駆ける(×)事により飛び越える事です。
私は作者が既に2の段階で江ノ島盾子の純度の低下に自覚的だったと考えているので、2×2の新ルートの黒幕は江ノ島AIではないのではないか、そうも考えています。
とにもかくにも、約十年ぶりのダンガンロンパなので、楽しみに待つとしましょう♪
その前に、最終防衛学園をプレイしようかしら。

