「日の名残り」は、1989年に刊行された、日本生まれのイギリスの作家・カズオ・イシグロさんの長編小説です。
作者のカズオ・イシグロさんは本作でブッカー賞を受賞し、2017年にはノーベル文学賞を受賞されている世界的な作家。
私のイシグロ作品とのファーストコンタクトは、かつてテレビドラマで放送されていた「わたしを離さないで」でした。毎週形式のコンテンツを見るのを失念しがちな愚か者の為、最後までは視聴出来なかったのですが(←まじでどうにかしたい)、序盤からの劇的な内容に「これ絶対原作面白い奴やで」と感動したのを覚えています。
それから早、数年・・
ようやく私は今回、カズオ・イシグロさんの小説を読了しました。
私が本屋で購入したのは、本書評の「日の名残り」と上記の「わたしを離さないで」の二作。
どちらから読もうか迷ったのですが、後者はあらすじを知っている為、何も前情報が無い「日の名残り」から読み始める事にしました。
さてそんな本作ですが、正直な話、序盤に関しては、「振り返り系・老後コンテンツかあ」みたいな印象で、現在の自身が穏やかな縁側気分では無かった為、あまり乗れませんでした。
しかし読み進めていくにつれて、「これはもしや非常に高度で心理的な物語なのでは」という思いがムクムクと湧き上がってきまして、そして最後のページに至り、本を閉じた段階で完全に理解します。
「うん、これはすごい本や」
恐らくですが、本作はその構造からも、再読の方がより楽しめるタイプの作品でしょう。事実、本書評の為に重要部分を再読しましたが、最初に読む時よりも格段に面白かったのでございます。
そんなわけで、以下から本作の書評に入って行きます。ネタバレが嫌な人は、あらすじまででストップしてね。
▼あらすじ
第二次大戦が終わり数年経ったイギリス。
執事のスティーブンスは、新しい主人ファラディの勧めで、国内への小旅行に出かける。
現在のお屋敷は、前の主人ダーリントン卿の死後、アメリカ人の富豪ファラディ氏が買い取ったのだが、屋敷では、深刻なスタッフ不足が発生していた。
そんな中かつてお屋敷で共に働いていたミス・ケントンから手紙が届く。そこには現在の悩みとともに、昔を懐かしむ言葉も書かれていた。
もしミス・ケントンがお屋敷勤めに復帰してくれれば、人手不足が解決する。
スティーブンスは、主な旅の目的を彼女に会う事に設定し、ファラディの勧めに従って、旅に出る事を決意する。
美しい田園風景を巡る旅路の中、スティーブンスは自らの執事としての人生や美学、そしてかつての主人であったダーリントンや、ミス・ケントンとの思い出を振り返っていく・・・
本作は老人の脳内と旅する小説です。
まず脳の定義についてですが、私自身は、それを複数の心理的層が折り重なっている構造体として捉えています。
そんなわけで、私は本作をスティーブンスの旅と回想を通し、その層の揺れに触れていく物語として読みました。
私が考えるスティーブンスの心理の層は、大きく3つに分かれています。
一つは表出する意識の層。これはプライドや自己正当化が絡み、他人用に整えられた欺瞞を孕む層であり、これが本作の地の文、つまりは語られる物語です。
二つ目はその奥に控えている前意識の層。ここではあらゆる問題や自己疑問、真実が正しく認識されています。
しかしこれを認めてしまうと、自分のこれまでの実人生が無意味だと判定せざるを得なくなってしまう。ゆえに自己正当化し理論武装し、一つ目の意識の層が作られるのです。
そして読み手は、行間や彼の台詞の裏を読む事により、奥の前意識にアクセスする事が要請される、本作はその様な構造を裏に持った物語なのではないでしょうか。
さて残る第三の層は、上記の更に奥に眠る「力」としての精神の海。無意識です。
これはスティーブンスの精神の方向性を導くもので、緩やかに自己欺瞞を認め溶解させる方向へと心理を浸潤させていきます。これはある種、作内の<旅の時間>の力とも連動していると言って良いと思います。
本作は、時間軸で言うと、6日間の旅の物語です。しかし本作を読めば、語られない後日、未達としての7日目が控えている事は想定出来ます。
言うなれば本作は、日の名残りを終え、その夜を越えた、7日目に至るまでの物語と言い換える事も可能です。
私はこの<7日間>という数字は、人間が旅に馴染む事が出来る時間的単位だと捉えています。
旅に馴染む、つまり旅人になるという事は、自己を離れ客観として世界を見る事です。つまり旅人とは、客観的視点に自己を置く観察者、探求者に他ならないのではないか、私はそのように旅や旅人を捉えています。
旧約聖書の天地創造は7日間ですが、それはその当時前提とした暦が理由であるの同時に、それに連ならる古代からの、我々の中に眠る精神の循環の時間を反映したものではなかろうか、そんな事を思います。
それを踏まえると、本作はスティーブンスの糊塗された意識を、無意識の力が溶かし、前意識を認めるまでの7日目に至る物語、その様に見る事が出来ます。
劇中において、読者は彼の配慮の欠いた言動、硬直的な思考に本格的にいらいらさせられます。
特にミス・ケントンへの言動や態度は酷すぎて、本気で腹が立つレベルですが(笑)、彼が人生の失敗を認め最後に流す涙、そのカタルシス・浄化により、その感情は昇華されえるのです。
アメリカの作家、フォークナーの傑作に「響きと怒り」という作品があります。
これは没落する貴族階級の悲哀や感情の揺れを、空間的、時空的に横断する様な残響を通し描いた傑作なのですが、本作もまたスティーブンスの自己保身と欺瞞の奥に響いている哀しみと後悔が、物語中に常にこだましています。ゆえにこそ、最後のカタルシスが読者に深く刺さるのではないでしょうか。
そんなスティーブンスの回想を構成する重要な要素、これもまた大きく分けて3つです。
第一が、執事とは何か、そして品格とは何か。第二がダーリントン卿の政治的行動。第三がミス・ケントンとの関係性。
この3つは、それぞれ別の領分に属するものですが、その一方で密接に絡み合っており、その全てが彼の生き方・考え方・人生を構成しています。
ここからは、その中でも一番、熱が入り描かれている「執事論」と「品格」について着目していきます。
正直な話、本作はスティーブンスの執事論・品格論として読むことが出来る位、彼は事につけて品格について語ります。
その内容は6日間の間で徐々に論旨を変えるものの、大きく言うと彼は偉大な執事の条件を「職業的意識を貫き、忍耐する力」が重要だとし、個別の人間性に逃げこむ事を悪としています。
そして偉大な執事の前提や根本である、品格については、「公衆の面前で衣服を脱がないこと」を重要だとしています。これは比喩であり、要は他人に容易に本心を見せずスマートに振る舞う事が重要だと言っているわけです。
上記二つをまとめると、自我や自分の思考を出さずに、執事服を着てスマートに動く人間を、かれは偉大な品格のある執事としている、という事になります。
これは一見するとそれらしくは聞こえますが、所謂、人間を家具として見る思想そのものです。
職掌的に、確かに執事や召使は、秘書でありつつも、家事代行者でもあり、家具性がそこに眠っているのは事実です。
その意味で、自我を消し家具に徹するというのは、確かに優秀ではあるかもしれません。しかしそれは家具としての<性能面について>であり、それは執事職の誇りを構成する一要素に過ぎず、それだけでは偉大さにも品格にも到達しえません。それはただの良く出来た家具でしかないからです。
それをスティーブンス自身も自覚しているのでしょう。ゆえにこそ彼は、執事の偉大さの要素を理論的に転倒します。
つまり偉大さを、執事自身でなく、雇い主の人間性や業績、いかに人類の進歩に寄与する活動をしたかという得の高さに求めるのです。彼はそこに誇りと自己実現を、<間接的に>見るわけです。
つまるところ、彼は英雄に使われているなら、その家具も偉大だ。その様に言っているのに過ぎません。
上記の思考は、個と自由の現代に生きている我々からすると、理解に苦しむ思考です。しかしこれは中世に展開した封建制を元に考えるならスタンダードな思考でもあります。
農業や荘園を中心にし、その支配者が囲い込んだ民を指導する制度。そして荘園の中心地は支配者のお屋敷。
その荘園の主の上に、上部の存在がいるわけですが、軍役などで協力さえすえば、荘園支配にはあまり関与はしてこず、むしろその土地支配の正当性を保証してくれます。日本でいう御恩と奉公の論理です。
面白いのは鎌倉幕府にしろ、室町幕府にしろ、将軍の事を「お館様」と呼んだり、屋敷名から「鎌倉殿」や「室町殿」と言う屋敷的名称で呼ばれる事です。
つまるところ、封建制とは、政治やその団体を一つの家族、そして一つの家として見る思想を前提としています。
そしてスティーブンスの論理は、この封建制的な前世代の思考や美学を、色濃く残した時代遅れの産物に過ぎません。まるでそれを執拗にあぶり出すかのように、作者は本作のあらゆる場面で、時代遅れの哀しみや愚かさを裏に配置しています。
私が本作で一番驚き、ある種笑ってしまったのが、スティーブンスが語る世界の構造理論、お屋敷・車輪理論です。
彼は前世代である父の世代は、世界を、王室・公爵家→古い家系の家々→新興階級というように、「はしご」として捉えていたとします。
それに対し、現在は、お屋敷の決定こそが中心に位置し、そこで決められた事の力が波及する事により「車輪」が回り、それにより世界が転回していくと言うのです。まさに驚天動地の理論(笑)。
彼の中で国際会議や議会、あらゆる協議体は、ただのセレモニーに過ぎない、そういう風に捉えているわけです。
さて、改めて言う必要もないですが、上記の「車輪理論」が現す政治体制は封建制どころか、最早、ただの私的な家による密室政治です。これはもはや時代的退行とかそういうレベルの話ではなく、醜悪なシステムとしか言い表せません。
家具のプライドを元に組み上げた奇天烈な彼の思想は、悪気がないにせよ、非常に陳腐なのです。
それでもまだ、主であるダーリントン卿が真人間ならいいでしょう。
しかし作者は、ここで描写の手を緩めません(笑)
ダーリントンは周囲の人間に簡単に影響され、ユダヤ人である事を理由に、長年仕えてきた召使たちを簡単にクビにする様な、浅はかな思考回路の持ち主。
そして挙句の果てには、敗戦国のドイツへの騎士的(?)同情心を、ヒットラーに利用され、イギリス内での有力な駒と化し、彼自身の言葉でイギリスの民主主義を時代遅れだとし、ドイツ・イタリアの枢軸国の強権的な政治を賛美します。
彼の中で、人民は政治学も経済学も考えられない愚かな存在であり、それを導くのが貴族の役割だ、その様な前提が彼の思考を支配しています。つまるところ、彼は愚かな反動主義者に過ぎません。
とはえいダーリントンが完全な悪意の人というわけではなく、一部の知識ある人間の導きが最善だと本気で信じているのです。しかしそれは劇中で出会う村人、ミスター・スミスが言うように、一握りの主人と奴隷を生む「選民思想」に他なりません。
個人的に作者の描写が徹底しているな、と感じたのは「ラインラントに進駐したヒットラーをなぜ信じれるのか」というダーリントンの親友の息子、カーディナルの言葉です。
ラインラント進駐は、ヒットラーの明白な侵略行為で、その悪意が露骨に露呈した、ある種の分水峰のような事件である、そのように私は捉えています。
つまり、正気であれば誰にでも分かる事さえ、正確に咀嚼出来ないダーリントンは、思考が鈍く、状況を冷静に見る事も軌道修正も出来ない愚か者である。そう言う方向性で作者は描いているわけです。
さて、そうなるとその主人に人生を仮託しているスティーブンスの執事人生のハイライトも悲惨なものにならざるを得ませんし、はたまたそのシーンの描き方も実に残酷です。
「主人がヒットラーに利用されている事を知らされながら、あくまで執事職の服を着て、現在の事態を知ろう・考えようともせず、ミス・ケントンの思いを無視し、職務を機械的に邁進。結果、会議の間、執事として部屋の外で待機させられる・・・」
これが彼の執事人生最高のハイライトなのです。
いわゆる「野比、廊下に立っとれーい」が執事人生のハイライト(笑)、これはいくら理論武装でその使命の尊さを説いたとて、哀れ以外の何者でもありません。
そしてこのハイライトの帰結は、ドイツの協力者の汚名を恥じ、戦後の屋敷内におけるダーリントン卿の自殺です。この時点で偉大な主人に仮託していたスティーブンスの美学は、本人が意識的に誤魔化そうと粉々に砕け散っています。そして現在の新しい主人のファラディは、悪気はなくとも彼を、過去の骨董品として扱っている。
これはスティーブンス自身が自分を家具として、服として扱ってきた上に、それを使う英雄の死により、その価値や崇高性も失われたわけで、仕方のない事です。
英雄の家具は英雄がその価値を失った場合、家具の価値も下落します。これが、彼が組み立てた論理の当然の帰結です。
私は、本作において、スティーブンスを通し20世紀のイギリスの斜陽を描いているのは間違いないと考えています。登場する重要人物もアメリカ人やフランス人、話題の中心はドイツであり、そもそもが世界史的な戦争や事件が物語の中心にあります。
しかしスティーブンスやダーリントンが20世紀のスタンダートなイギリスだと捉えるのは正確ではない、その様にも思うのです。
なぜならイギリスはドイツに宥和的だったチェンバレンの後に、その方針を批判したチャーチルが首相を継ぎ、第二次大戦を、民主主義を維持したまま戦勝国の立場に導いているからです。
言うなればスティーブンスやダーリントンが象徴するイギリスは、本国内でも非主流派で、時代遅れで、既に忘れ去られているものに過ぎません。
つまるところ、本作はイギリスの中で滅びゆく、封建制的なものの残照の物語なのです。
私は現在、カズオ・イシグロさんの作品は本作と「わたしを離さないで」の二作しか読んでいませんが、その両作共に、不要とされた、忘れ去られた人間への視点・郷愁があるように感じます。
しかし誤解を恐れずに言うなら、それは<愛>ではありません。なぜなら劇中の描写から見える作者の思想は、彼らへの共感という位置には無いからです。むしろ本作において、作者はどちらかというとスティーブンスに対し糾弾する立場にいる様にさえ思えます。
しかし、それでも・・それでなお、作者は忘れ去られた人に<興味>があり、慈しんいる、その様に私は思います。
本作のラスト、夜へと入れ替わる、日の名残りの景色を眺めながらスティーブンスは泣きます。
自分は何も選んでこなかった。少なくともダーリントン卿は自分で判断し失敗した。自分はその失敗すらしていない、そんな自分に品格などありはしない。
この自己による全否定の言葉こそ、本作の昇華です。今までの揺らぎや自己肯定と欺瞞の物語は、ここに辿り着く為の道のりだったとすら言えます。
本心を隠し、仮面を付けているだけの人間を人は愛する事は出来ません。しかしこのシーンで初めてスティーブンスは、対話相手を媒介し、直接読者に対し本心を語りかけているのです。
ここまで彼の脳内と共に物語を追ってきた読者は、その思いを染みるように受け取ります。これはある種、聖なる、真の交流でしょう。
さて、結局のところ、スティーブンスの本質的な罪は、自分で考えず、その思考を誰かに委ねた事に尽きます。それは執事職の職掌と絡め、どんな美学でコーティングしたとて肯定されえません。当り前ですが世の中には自分で考え、政治的主張を持つ執事は大勢います。
銀河英雄伝説というアニメで主役格であるヤン・ウェンリーは言います。
独裁制の罪は、人民が政治の責任を独裁者や他人に転化出来ることだと。そしてその罪は、独裁者のどんな善政をもっても贖えないと。
これは民主政擁護の言葉ですが、人生においても私は同じ事が言えると思うのです。つまるとところ、真の品格とは、自分で考え行動し、その責任を背負う人間にこそ宿るものではないでしょうか。
ゆえに執事服を脱ぎ本心で人と交流をした時にこそ、スティーブンスの本当の人生と品格への歩みが始まるわけです。
とはいえ、とはいえです。それでも人はそう簡単に人生を変えられるわけではありません(笑)。
涙して自身を否定した後でさえ、読者に対しスティーブンスは、誰かに判断を託す生き方の有用性を敗残兵の言い訳のように語り、自己を取り繕います。彼は最後まで、完全には服を脱ぎきることは出来ないわけです。
しかしそれでも、彼は最後にジョークへと意識を向けます。ジョークとはおかしさ、不可思議さを自分自身で組み立て、思考する事が要求されます。
更に言うなら、人を笑わせるという事は、ささやかでありながら最も高度な交流の一つであり、それはお互いの心が開いていないとありえない、服を脱いでいないと根本的には成立しえないものです。
その意味でスティーブンスは徐々に変わろうとはしているのです。既に日は落ち、老年にさしかかっていても彼の新しい人生はここから始まりうるのでしょう。
きっと本作では描かれない7日目の太陽は、今までとは違う光をたたえているはずです。
本作は、前時代をひきずる時代遅れの人間が、その欺瞞を認めるまでの旅の物語です。作者はその愚かさと哀れさを描き、最後にその矛盾を涙で破裂させ、昇華させます。そして破裂や昇華の後には、緩やかな再生がある。
これら全体の構造を考えると、本作は、時代遅れの忘れ去られた人に対する、郷愁と慈しみの、<視点>の物語だ、そう言っていいのではないでしょうか。
その視点には、否定・愛・愚かさ・哀しさ・一途さ、あらゆる要素が複合的に組み込まれています。
きっと、作者は忘れ去られた、時代遅れとされた人々が、それでも懸命に生きてきた人生と、そこに宿る意識の<何か>に興味があるのでしょう。
そしてそれは本作を読み終えると、確かに我々の脳内に、精神に、確実に残る<何か>なのだ、そんな事を思います。

