私は夏になると、毎回1作RPGをクリアすると言うのを、なんとなく毎年繰り返しています。
そして今年プレイしたペルソナ5がまじで神ゲームだったこと、そのおかげでゲーム熱が高まり「Nintendo Switch」を購入したことなどもあり、秋になった今でも今年はゲーム熱が持続しています。(今はゼノブレイドをプレイ中)
そんなこんなで、最近YouTubeとかでもゲーム関係の情報をよく見たりしているのですが、どうやらプレステ5がとんでもないことになっているらしいのです。
ゲーマーの方には今更その話題かい!と思われるでしょうが、いわゆる「プレステ5値上げ問題」というやつです。
元々、約5万5千円とかなり高額だったプレステ5が、約6万円に値上がりになり、ネットではソニーに対しての怒りやヘイトで盛り上がっています。
値上げも問題なのですが、そもそもプレステ5は発売日から抽選が激戦で、欲しくても手に入らない人が多く(ソニーが北欧とかを重視してて、日本を軽視してるという話もある)、そんな中での値上げということに、今まで欲しくても手に入れられなかった人に対して何たる仕打ちだ!というのも怒りを加速している要因になっているみたいです。
私は、本格的なゲーマーではなくスーパーライトゲーマーなので、元々ハイエンド(最高級とか最先端)のゲーム機を買う気もソフトをプレイする気もないので、そもそもプレステ5には縁が無いわけですが、この件は色々と考えさせられます。
そもそも私の高校から大学時代はプレステ~プレステ2の黄金期でした。
任天堂は携帯機で存在感を示していましたが、据え置き機ではプレステが圧倒的で、誰もかれもプレステ2を持ってたのです。
FF7やドラクエ8をプレステ系ゲーム機でプレイした私にとって、まさかプレステがここまで凋落して任天堂が完全一強になるなんて想像だにしませんでした。
今やってる鎌倉殿に無理やり繋げちゃいますが、北条が長い間かけて、自分の土地を増やし盤石にした鎌倉幕府も後醍醐天皇と足利尊氏により一瞬にして滅びますし(滅ぶ前の北条の土地を見ても、あまりに多すぎて全く滅ぶとは思えない)
武家政権の完成形として全国ににらみを利かせていた江戸幕府も、薩長という今の鹿児島県と山口県という二つの県の力に屈しましたし、いかに強大な力を持っていてもいつか凋落する日が来るんだなあというのをしみじみ感じます。
そんなこんなでソニーと任天堂のことを調べていたら、ある法則というのがあるというのが分かりました。
プレステ2で
「俺、天下取ったんじゃね。じゃあ加速するしかないっしょ」
と考えたソニーは、プレステ3やPSPにおいてありえないぐらいのグラフィックなど高性能な機能を詰め込みます。
そうすると当然、値段は高くなります。
さてソニーが圧倒的なグラフィックを擁したゲーム機を高値で発表しようとしたその時、任天堂がハードの性能ではなく、発想によって実験的なゲーム機を発表します。
そしてそれは性能というよりはアイデアによる力が大きいため、値段が安い。
するとプレステサイドは任天堂に対抗するため、ハードを値下げせざるを得なくなり、売っても売っても赤字になる。
とまあ、大きく見ていくとこんな感じを繰り返した結果、プレステは凋落し任天堂は覇権を取ったわけです(Wii Uの失敗とか任天堂も色々あったけど)
さてこうやって見てみると、簡単に人間に置き換えることは出来ないことは承知であえて置き換えますが、外見やルックスにこだわったソニーと、発想や中身で勝負する任天堂という構図が見えてきます。
前にも言ったように私の青春時代はプレステ全盛期で、グラフィックの進化こそがゲームの進化だという意見が周りでも主流だった気がします。
そしてその当時の私は、あまのじゃくというわけではないですがグラフィックの進化に対して「どうでもいい派」という少数野党の地位を教室内で甘受していました。
その当時思っていたこととしては
「ゲームを写真や実写に近付けて何の意味があるんだ。」
「だったら俺は自分の足で旅行に行くわい」
「ゲームに求めてるのは、ゲームでしか出来ない体験であり、発想の面白さ」
「そもそもゲームのグラフィックは、現実の景色ではなく、ゲームでしか出来ないグラフィックにしてほしいわけだから、象徴的だったり抽象的なグラフィックの方が楽しい」
というようなことをほざいていたわけですが、賛同してくれた友人もいましたが大多数は、「本物みたいなグラフィックで異世界を冒険したいんじゃい」という感じでそっちが圧倒的与党でした。
しかしここに至って現代です。
あの天下のソニーが叩かれまくり、今や「Nintendo Switch」の一強状態です。
そんな「Nintendo Switch」がすごいのは、プレステ5ではなくプレステ4と比べても機能的には優れているとはいえないということです。
スイッチを支えるのは、据え置きとしても携帯機としても遊べるという、盲点を突いた独創的な発想やアイデアと、面白いソフト達です。
正直、コロナの閉塞感やガチガチの倫理観や道徳観、厳しいコンプラの中で、皆がガチガチに固まっている窮屈な世の中で、壁や床を好き放題塗る、言い方を選ばないとすると汚すゲームというのは、人間が持っている幼心も刺激する、とんでもない発想だと思いますし、売れるのも納得です。(スプラトゥーンはすごい)
そういう意味でにソニーと任天堂の差は、ゲームの本質とは何か、遊びや心が動くということは何かということを考えてきたかどうかの差だと思います。
そしてこんなに悲惨な時代ではあるものの、なんとなくぼんやりとしていて問題が隠されていた何年か前とは違い、ジェンダーの問題なども含めて、それぞれが色んな事を考えるようになってきたのかなあとも思うのです。
景気が良い時代はイケイケドンドンで物を考えなくなり、逆に悪くなるともしかしたら色んな事を考えるようになるという側面もあるのかなあとも感じます。
とはいえこれからソニーが逆転する可能性もまだまだあります。(ただしどこかで本気でゲームとは何かを考えないと無理かも)
人生や事象は波のように変化しますし、同じ状態がずっと続くこともありえません。
今後もゲームを楽しみながらも、その裏にあるドラマや魂を考えたり、感じていこうと思う今日この頃でした。