私が初めて見た大河ドラマは「利家とまつ」でした。
織田信長に仕えて、頭角を現した前田利家と良妻賢母で名高い、その妻のまつを描いた大河ドラマで、そのときに織田信長役を演じたのが反町隆史さんでした。
私はその堂々したたたずまいと迫力に衝撃を受け、それ以降、織田信長自体に興味が沸き、図書室で本を借りて織田信長の情報を収集し、自分のノートの空いたところに「織田信長」と何度も書くほどの熱中ぶりでした(今考えるとなかなかきもい)
しかし、成長して伝記よりも少し難しい、学術書テイストの信長の本を読むにしたがい
「あれ、織田信長ってそこまでではないのでは?」
という感情がむくむく沸き上がってきました。
それと同時に急浮上したのが豊臣秀吉!
農民の身から裸一貫で成り上がったパワーは並みではない、近代の仕組みを作ったのは秀吉だ!
と完全に豊臣派に鞍替えします。
しかし、豊臣熱がひと段落し、冷静になって色んな情報を精査してたところ、またしてもむくむくとある感情が浮かび上がってきます。
秀吉の晩年、精彩欠きすぎじゃね
これに関してはやはり擁護が難しく、秀吉熱も急速に冷めた時に、急浮上したのがあの男です。
征夷大将軍・徳川家康!
一つ一つの行動に意志があり、自分のことだけではなく未来と社会を見据えて動いている。
調べれば調べるほど、この男ただ者ではありません。
と、ここまでが私の織田→豊臣→徳川遍歴です。
しかし考えてみると、歴史が好きな人に戦国時代好きな人が多く、大河の題材に一番選ばれるのも納得です。
まず、全国の武将が覇を争った「天下一武道会」的要素が面白いですし、そこに武田信玄、上杉謙信、北条氏康という、超軍神級のスタープレイヤーがいるわけです。
そして、そのあとに控えるのが、天下布武を掲げた革命者・織田信長、猿の形をしたスーパーコンピューター・豊臣秀吉、武家政治の完成と未来を作った徳川家康とくるわけで。
まさにホップ、ステップ、ジャンプを地で行く面白時代でしょう。
これは世界史レベルでもなかなか珍しい気がします。
イギリスにもピットや大ピットという英雄級の首相や、フランスではリシュリューやナポレオン、ドイツにはビスマルクと、各国に有名な人物は沢山います。
しかしよくてホップ、ステップ止まりで、織田・豊臣・徳川の様にそれぞれの個性がここまで強いホップ、ステップ、ジャンプも珍しいと思います。
てなわけで、ざっと現時点の私から見たこの、日本のホップ、ステップ、ジャンプについて思うところを書いていきたいと思います。
さて、まずは織田信長です。
私が彼にキャッチコピーを付けるとすると
「常に面白いことを求めている成金単純男」
と名付けます。
まず時代を変えた革命者といいますが、楽市楽座は他の武将のパクリだし、長篠の戦い以前にも鉄砲を使った戦いはありました。
安土城のデザインとか、そういうフォルムの更新はすごいと思いますが、革命者とは言えない気がします。
そして信長は以外と戦に弱いです。
桶狭間の印象が強く、武神みたいなイメージですが、桶狭間はあれは100回に1回あるかないかのまぐれです。
ただし信長がすごいのは、こんな戦い二度としたらダメだということは分かってるので、それ以降兵を相手より多く集めることになったところです。
学ぶのは立派です。
ただし、沢山集めても結構負けてます。
信長自身も他の地域に比べて、自分の兵が弱いのは自覚しているので、お金を沢山稼いで兵の量で勝負します。
彼の旗の模様も、お金ですし、信長さんは基本的に商人の発想の持ち主です。
ですので、武田や上杉という自分より強い人には喧嘩を売らずにご機嫌を取ります。
自分より先輩の彼らは戦わずして、寿命で死んでくれるのを待つ。
こういう戦略です(これはかなり賢い)
損得勘定により動くので、信長は自分がピンチになったら助けを求めるのも抵抗がありません。
戦の調停を天皇にしてもらったり等、とにかくプライドとか関係なく対策を立てるタイプです。
しかしどこかに自分の中で譲れない一線があり、延暦寺を攻めれば、周りから攻め込まれる口実を与えることを分かりながらも
「普段は武士みたいな行動をしといて、困ったときだけ僧侶です。というのは道理が立たない、許せない」
というこだわりで突き進み、案の定、信玄に周りを囲まれてしまったりしてます。
正直、信長がここまで歴史に名を残せたのは運の要素がかなり強いと思います。
桶狭間ラッキー、信玄に囲まれたのに信玄が死んだラッキー、上杉が動き出したと思いきや死んだラッキー
この3つの奇跡的なホップ、ステップ、ジャンプが彼を大人物にしました。
しかし、その運のしっぺ返しかどうかはともかく、本能寺の変で彼は命を落とします。
色んな角度から考えても、このあとの秀吉や家康に比べて能力はやっぱりかなり劣っていたのではないかと私は思います。
信長自身の能力が低いというよりは、比べる相手が高いといったところでしょうか。
それでも信長のことが嫌いになれないのは、その面白いことに突き進む意志です。
あの時代に、天下のことを考えて実行に移した!
この時代のほとんどの戦国武将は、自分の領地をいかに経営するか、拡大するかという豪族的発想に留まっている人がほとんどの中、面白いことを求め、突き進んだ信長はそれだけで尊敬に値します。
また秀吉も家康もやはり信長が居なかったら出てこなかったでしょうから、そこにも信長の価値があると思います。
続いて豊臣秀吉です。
彼を名付けるなら
「日本史に現れた、本物の天才」
だと思います。
おそらく3人の中で地頭が一番良くて能力が高いのは彼でしょう。
まず戦にしても何にしても、いかに自分の利益を最大にするかを、発想で解決します。
水攻めや、食糧の買い占めでの戦いは、相手を倒しつつ、自分の兵を全く損ないません。
小牧・長久手で家康にまさかの敗北を食らった時も、家康の戦う名目である盟友の織田信雄と和睦し、戦う理由自体を消滅させます。
そして天皇に仕える関白になることで、武士たちの争いを調停するという名目で、スムーズに天下統一を進めたりなど、正直その発想力はずばぬけています。
また世の中の統治に関しても、太閤検地により全国を同じ単位で石高を測れるようにし、それをもとに恩賞などの名目で、武士たちを土地からひっぱがすことに成功します(自民党には絶対出来ない)
刀狩りも画期的で、これはいわゆる個人から武器を奪う、治安維持対策で、これは法や警察による治安維持という現代にもつながる政策です。
人によっては近世は秀吉から始まったという人がいるくらいです。
そんな秀吉ですが、晩年は朝鮮出兵という愚行や、秀次一族の大量処刑など、数えきれない愚行を行います。
なぜこんなことになったのか、色々理由はあると思いますが、私は
秀吉は能力を自分を上に上げる方向に使い、上を見上げすぎた結果、自分の能力に身を焼かれた
のだと考えています。
身分が低かったことへの反骨精神は彼を天下人にしましたが、彼の目線は自分と上の方を向いており、前に炎があるのに気づかなかったのでしょう。
そう考えると、常に学び、人々と前や未来のことを見つめていた家康と非常に対照的だと思います。
そしてここで最後の家康です。
彼のキャッチフレーズは
「能力と分析を未来を創るために使った英雄」
といったところでしょうか
少し褒めすぎな気もしますが、それでも家康の未来を見通す目に関しては認めざるを得ません。
慎重に塾考を重ね、間違いない決断を下す・・・
そんなイメージの家康ですが、最初からそうではありません。
いくつもの失敗が彼を育てていきます。
三方ヶ原で武田信玄にけちょんけちょんに踏みつぶされたり、息子と最初の妻をお家騒動で失ったりと、様々なことから彼は学んでいきます。
家康は非常に読書家で、鎌倉時代を描いた書「吾妻鏡」を読み込んでいたと言われています。
失敗してつまずきながらも努力していく読書家、これが家康を後に大政治家へと変身させる礎になったのだと思います。
家康の名を天下にとどろかせたのが小牧・長久手の戦いです。
そのころの秀吉は光秀を討ち、柴田勝家を倒し勢いに乗っていました。
このまま家康を倒して、関東になだれ込み、征夷大将軍をもらう!
その戦略を自信をもって描いていたと思います。
しかし、ここでその戦略がくじかれます。
戦場の忍などの情報を駆使し、完璧な兵運びをした家康に一撃を食らわされるのです。
この一撃は全体の趨勢に決定的な影響を及ぼすほどではありませんが、秀吉にとって出鼻をくじかれた思いがしたことでしょう。
今まで織田勢にいる武将に過ぎない評価だった家康の名を全国に広げたのがこの戦いです。
しかも家康は自分が勝ったことを書で京都にばらまきます。
朝廷は前例主義なので、征夷大将軍を与えるのには、関東を抑えていることが重要だという認識があり、これでは秀吉を将軍に任官出来ません。
この時点で秀吉の将軍になる戦略が狂い、これも秀吉にかなりのダメージを与えることになりました。
この小さな家康の勝利が彼を天下人にする第一歩だったわけです。
その後、家康は秀吉の部下になり、五大老という地位まで登ります。
ここで人生が終わると思いきや、なんと秀吉が死ぬのです。
一般のイメージからすると、ここですんなり実権が徳川に行き、関ヶ原でさくっと江戸幕府!
みたいなイメージでしょうが、ことはそんな簡単ではありません。
秀吉が作った五大老五奉行制はさすがというか非常によく出来たシステムで、秀吉の死後も抜きん出た存在を防止する、簡単な内閣制度みたいな感じで機能していました。
それを一つ一つ崩していき、システムを壊していくやり方は老獪でとても戦略的です。
そもそも朝鮮出兵のときから、現地の武将の不満を聞いてあげたりと家康はあらゆるところに自分の利になる要素を植え込んでいました。
石田三成の暴発は、さすがに家康が仕組んだものではないと思いますが、関ヶ原の戦いは、今で言うと大政治家の幹事長対前総理の秘書官の戦いみたいなもんで、最初から三成に勝ち目なんて無かったと思います(家康の関ヶ原の戦略は大分難あり笑)
さて無事に江戸幕府を開いたあとも家康は次々と未来への戦略を実行します。
まずすぐに将軍を秀忠に譲り、江戸を秀忠に、自分は駿府で関西ににらみをきかせる二頭体制を敷きます。
関ヶ原の戦いは勝ったものの、かなり課題を残す戦いだったため、豊臣恩顧の大名が関西に固まってしまったからです。
また吾妻鏡を呼んでいた家康は、二代目の重要さを熟知してたと思われ、秀忠育成の思惑もあったと思われます(結果、秀忠は最高の二代目になったと思います)
そして大名たちに城づくりなどの公共事業を手伝わさせ財力を削り、徐々に徳川1強体制を強固なものにしていきます。
また徳川の政治体制も、地方の有力武将に幕政参加を認めず、地方にはある程度の自治をさせ、幕府の政治に参加する武士は、石高が少ないサラリーマン武士で組織することにより、まとまりのある安定した官僚組織を構築しました。
さらに、鎌倉時代の反省からか、家康はとにかく子供を沢山作り、本家に後継ぎがいなくなった時の為に、御三家を作り、将軍を絶やさないように対策を立てました。
読書家の勉強が色んな点に生きているのが分かります。
また江戸時代は鎖国や身分の縛りがかなり厳しく窮屈な時代だったという認識がありますが、最近では家康の時代は貿易が盛んに行われ(鎖国は家光から)、江戸初期の徳川の領地の農民はかなり年貢が低く、身分の変化もかなり自由があったと言われています。
江戸時代の安定したシステムから、元禄文化や、歌舞伎、近世初期の小説と言われる仮名草子など今につながる文化が生まれたわけで、ある意味、家康は現在の日本の礎を作ったともいえます。
明治維新も江戸の高い識字率や学びの姿勢が結実したものであると考えれば、家康の功績はあまりあるものだと思います。
しかも家康は江戸幕府が滅びる時は、西国の雄藩が天皇を担いだ時だと言ったと言われています。
実際にその通りに滅びており、家康の未来を見通す能力のすごさが分かります。
失敗から学んだり、読書の勉強により自分の知識を蓄え、それを民や未来の為に使う、それが自分の持つ家康のイメージです。
以上、簡単に3人について書きましたが、あくまでこれは私の主観的な感想なので、私は信長が一番すごいと思うとか、秀吉が最高だぜ!という意見も全然いいと思います。
歴史はあくまで過去のことをどう解釈するかであり、人ぞれぞれの何百通りの日本史に対する考え方があっていいし、いろんな意見があった方が楽しい♪
そんなことを思い、かなり自由に自分の思いを書きました。
また何かありましたら歴史のことを書きたいと思います。