かえる文学では、小説の考察を大体、週に1回アップしています。
そして最近ふと、「考察」というモノについて考えてみたのです。
まず思い出すのが小学生の頃の思い出です。
私は、小学生の頃から、読書が好きで、授業の読書感想文を書くのも楽しめるタイプでした。
一方、当時一番仲の良かった○○君は(個人名は差し控えます)文よりも武!晴れでも雨でも畑を耕すタイプで、休み時間は常に校庭を駆けまわり、本を開いてることすら見たことがありませんでした。
ある時、そんな○○君の読書感想文を見たのですが、本の内容とはまるで関係が無いように思える、摩訶不思議なアドベンチャーがそこには展開されていたのです。
私は、その内容が不思議と嫌いではなかったのですが、一方ではこれは先生から、何かしらの訂正を受けるだろうなあと思ったのも事実でした。
さて数日後、先生の手から読書感想文が返却されました。
自分の感想文の先生の感想と花丸マークを見たあと、その友人の元に行くと、なんとその友人の感想文にも花丸がついており
「先生にも楽しい気持ちが伝わってきたよ♪」
という先生の感想が目に飛び込んできました。
想像と違う展開に衝撃を受けた私は、授業後にそっと先生の元に向かい、こう問いかけました
「○○君の感想、変だったけど、なんで花丸なんですか?」
すると先生はにこやかに答えます。
「本ていうのは、読んだ人それぞれが違う世界を広げていい、自由なものなんだよ。だから正解とかはないんだよ。かえるくん(私)の感想もとても素敵だったよ!」
その時は、そんなもんなのかなあと思って聞いていた言葉ですが、高校、大学と時間が経つにつれ、この言葉は重みを増していき、今となっては私の読書に対する一つの指針みたいになっています。
さて、ここで考察についてです。
考察という文字を分解すると、考えるという「考」の文字、そして察するという「察」の字に分けられます。
文字通りに意味を考えるなら、自分の頭や感覚、脳内にある材料で考えて、何かを察することが、考察という言葉の意味だと思います。
そこで察るのは、「作者が伝えたい思い」かもしれないし、「現代の社会問題」かもしれません。
もしくは、「読んだ自分自身が抱えてる思い」や「新しい感覚を得た自分」というのもあるかもしれないし、さらに言えば「何か今めちゃくちゃ寿司のこはだが食べたい気分」とか「ふと自分の手相であみだくじを作ってみたいなあ」ということを本から感じたり察することがあっても、それは間違いじゃないし、それも考察だと思うのです。
多くの人が真面目なのが、わが国の良いところでもあるのですが、読書友達からよく聞くのが
「考察とかしてみたいけど、正解かどうか自信がないし」
「文学史の名作を私ごときが手を出していいのかなあ」
みたいなことです。
しかし私はそんな言葉を聞くたびに、あなたが考えて、思ったことに制限は無いし、むしろ自由で楽しいものなのだから、好きに書き散らして良いし、それを否定する権利は誰にもない!そのようなことを思うのです。
例えば、トンチンカンなことを思い、トンチンカンのまま書いて、世に出したとしたら、そのトンチンカンは世に出た瞬間にあなただけの意見になり、その瞬間にトンチンカンではなくなるだろうと思うのです(ちょっと何言ってるか分からない)
もし今、宇宙から、千手観音みたいに全身に触覚が付いた、ショッカクノン星人(仮)が来て「フランダースの犬」のラストの部分を読んで、涙ではなく、大爆笑したとしても、それは間違いではないでしょう。
むしろ、その爆笑には新しい文化や新しい価値観のヒントが隠れており、世の中にまた一つ新しい種類のワクワクを足してくれる材料になることは間違いない気がします。
そもそも小説を書くこと自体が、外で見たものや体験を元に、自分の頭で物語を組み立てるものだと言うことも出来ます。
すると小説という体験から、自分の頭で考察を書くことも、ある種の創作活動とも言える気がするのです。
私は、いついろんな惑星から星人が来ても大丈夫なように、肋骨を180度に開いて、色んな事を考えて、明後日の方向にアンテナを飛ばし、自由に文を書いていければいいなあ、そんなことを思ったのでした♪