私はつけ麺において、残りの汁をスープ割を使わず原液で行くタイプだ。
かつてはお腹よわよわ、軟弱胃腸委員会代表代行だったわけだが、ヨーグルトと平和を愛する腸活戦士と化した、私のお腹はグレードアップ。二郎系や家系をはしごしてもお腹を壊すことはなくなり、原液つけ汁も余裕で吸収する。
そんなわけで、先日も述べた通りクーラーが壊れたこともあって、私は東京や神奈川の有名ラーメン店巡りを先日まで隙を見つけちょこちょこやっていた。
さて私のラーメンの好みは、とにかく濃い事。インパクトがある味である事。この二点に尽きる。
大宮に行く時には、お気に入りの煮干しラーメンの店で、セメントのようなドロドロスープと麺をすすり、自転車で九州を回った時には、とにかく獣臭が強いとんこつラーメン店を回り、もはやその豚の骨の力でペダルを漕いでいたまである。
その意味で、私が許せないのは、とんこつラーメンでありながら、獣臭が全くせずに、もはやただのポタージュラーメンと化しているようなラーメンだ。
ポタージュが食べたいなら、家でじっくりコトコト、パンをこんがりしてろ!
ついついそんなことを思ってしまう私は、原罪を背負う、哀れな子羊だ。豚骨好きだからといって子豚ではない←は?
さて、そんな中さらに罪を重ねるようだが、私は家系においても、いわゆる「すっきりしていて飲み干せるようなスープ」というものに対し、かなりの苦手意識を持っている。
これは個人的好みであり申し訳ないが←冒頭から全部個人的好み
私は家系に対し、すっきりとかそんなものは断じて求めていない。
私が家系で一番好きなのは、神田駅にあるわいずさんというラーメン屋さんなのだが、このラーメンは本当に骨のパワーが強く、一発目にがつんと来るので、まじでテンションが爆上がりする。
一方で、私は神奈川にあるかなり評価が高く、いわゆるスープを飲み干せるバランス型の一杯的な店にいったのだが、そのあっさりさに顔がぽかんとし、目がぽてんとしてしまった。
これはそのお店が悪いわけでは断じてない。
そもそも味としてはしっかり美味しかったし、口コミもまたバランス型だとしっかり書いてあった。
しかし私の口はそのあっさりスープを飲んだ瞬間に、ワタシコレヲモトメテナイという脳内電気信号が体の隅々にまで発信され、あらゆる四肢や毛穴がぽてんとしてしまったのである。
さて家系のパターンはまだいいものの、問題は二郎系だ。
私は家系以上に二郎系に対し薄味を断じて求めていない。
というより二郎系に行く時は、一発目のパンチでいかに殴ってくれるかを求めに行く、味のパンチドランカーの心づもりである。
そんなテンションで列に並び、ようやくもやしが山のように盛られたパワフルな丼のスープを一口すすり、味が薄かった時。
「なぜだあああ」
と叫びたくなるほどの怒りが私の体の中を駆け巡る。
例え薄くなかったとしても、そこまで濃くない、一発目のパンチがあまりこないというパターンでも若干の怒りを覚えてしまう私。
特に二郎系は、一発目のパンチや旨さがその後の箸の運びを引っ張っていくのであって、味が薄かった場合、そこに並ぶのはただのもやしの群れと、太いぐでんとした麺と、肉の塊である。
そう二郎系は口に合わなかった時に一気にただの地獄と化すというかなりリスキーなギャンブルなのだ(その代わり美味しかった時、唯一無二のカスタルシス定期)
そんなわけで、私のラーメンの趣向はいかにスープが濃いかに主軸が置かれているわけで、自分でも絶対にミシュランの審査員に名乗り出てはいけない馬鹿舌であるという自覚はある←そもそもお前がミシュランという言葉を発するな
この趣向の厳しいところは、なかなか塩や醤油、特に淡麗系のラーメンに触手が伸びないことだ。
家で動画とか口コミを見ている時は、食べたいと思っても、その駅に行くと、二郎系や家系を探してしまうのだ。
さてそんなわけだから、「天下一品は一周回ってあっさりだよね」とのたまう意見に対して、全く理解出来ないし、何周回ってもこってりに限ることこの上ない。
しかし天下一品というのは、実に面白い。
こうも分かりやすく、こってりとあっさりの対比を商品で見せているラーメンチェーンはあまりないのでなかろうか。
そんなことを考えていると、究極のあっさりと、究極のこってりとは何か。そんなことに思いを馳せる←また余計なことを
さて普通に考えれば究極のあっさりは水である。
今つけ麺では昆布水に麺を浸すのがブームな印象だが、究極は何も味のついていない、新鮮な湧き水であろう。
確かに水が新鮮で麺が上手ければまあ食えるかもしれない。
しかしそれは断じて成人男子が満足出来る味ではなく、それを旨いとのたまうアルプス野郎がいたら、私はそいつの口に焼肉のタレを流し込み続ける。君が舌がしびれるまで私はそれを断じてやめない!
さてさて、次に逆に濃い方の究極は、煮込んで融解した豚骨や鳥ガラの汁を直接骨からすすることだろう。
これはこれでなんとなく寿命が縮む死の匂いがするが、それでもアルプス野郎よりはマシだ。私はアルプスと呼ばれるくらいなら骨から汁をすする。
その意味でやはりあっさりスープと、濃いスープでは濃い方の圧勝であり、ここからは濃いスープにだけ主眼を置き、ラーメンスープの事を考えていきたい。
究極の濃さの更にその向こう側を考える時、動物の骨だけに限るのでは海洋生物に申し訳が立たない。
煮干しや、とんこつ魚介など、ラーメンには海洋パワーは欠かせないのだ。
その意味で魚介系の究極は、ありったけのエゾバフンウニを詰め込み、煮込みペースト状にしたものに麺をぶちこむタイプの、脳髄爆発系つけ麺である。
ついでにそのつけ麺をすすった人は百発百中で痛風になるのだが、それくらい究極の濃さの前には安い犠牲だろう。
さて骨という観点で言うなら、究極を求めれば考古学の知見も借りねばなるまい。
日本にかつて生息したナウマンゾウの骨から作る「ナウコツラーメン」。
きっと骨を提供するのを日本考古学界最高大総裁は逡巡するだろうが、人類の濃さへの高みの歩みの為なら、最終的にナウ骨を沢山提供してくれると私は信じている。
ナウコツラーメンの芳醇な時を超えた濃さが理解を得たら、世界から様々な恐竜の骨の提供も期待出来ると思う。
その意味で「ティラ骨王者ラーメン」や空を駆けてしまうほどの濃さ「プテ骨ラーメン」も全然夢ではないのである。
さてここまではあくまで骨や魚介など素材に着目して、濃さを追い求めてきたわけだが、ここらで発想を転換し、人類側の進化の可能性を考えてみてもいいかもしれない。
我々は地球の大地から生まれた存在だ。そんな我々はいつか岩や土、無機物をエネルギーに変える事も出来るようになるはずだし、その可能性に一歩踏み出さなくてはならない。
ここに鉱物系ラーメンの扉が開かれる。
赤メノウと柘榴石のダブルスープラーメン。
ターコイズが麺によく絡むパステル系つけ麺。
ラピスラズリのスープに、黄金をまぶした麺、その上に水晶の切り落としを乗せたインバウンド向けラーメン。
これらの絢爛豪華なラーメンがSNSでバズる日も近いかもしれない。
さてさてもちろんだが人間は体だけで出来ていない、我思う故に我あり、精神こそが人間が人間たるゆえんである。
もし人間精神の一部である思念や感情を具現化出来たとしたなら、その時こそパンドラの扉が開く時だ。
ダブル不倫スープ、ドロドロつけ麺
→文字通り不倫中の夫婦から抽出したどろどろの感情結晶を三か月間煮込んで作った濃厚スープ。必ず腹は下すが癖になる味らしい。
たくまし鶏の托卵まぶしラーメン
→たくましさ溢れる精神結晶を10年以上煮込み、そこに托卵女子の罪悪感を知らない純粋な卵のようなゆで味玉結晶をたっぷり乗せた唯一無二のラーメン。一言では言い表せない複雑な味が特徴。
さてここまで述べてきたように、濃いスープの道の奥は深く、非常に複雑だ。
濃い味は確かに美味しい。しかしそこには代償も伴うし、美味しさの中には、正義だけなく悪も含むし、だからこそ美味しいともいえる。
その美味しさが喚起する感情は楽しいだけではないし、苦しいこと、怒り、憎しみ、呆れ、嫉妬、様々な感情があり、それがまた美味しさ、濃いスープへと還元されていく。
究極の濃いスープ。
その道はまだ始まったばかりなのだ。
(おしまい)