主食と言われ、「食」という生活サイクルの一部門の真ん中にどっしりと構えている、「米」「パン」「麺」の3種。
誰しも色んな事に向き不向きがあるように、この3種の中においても向き不向きがあると思います。
自分は、昔からおかずと一緒ならいくらでもお米が食べられるものの、お米だけでは食べれないという体質の持ち主です(炊き立てのにおいがダメなのかしら)
なので困るのが旅館に泊まった時に、最後にごはんが出てくるパターンです。
色んな趣をこらした料理の末に、大御所のように構えたお櫃がどん!と出てきます。
そして旅館の仲居さんの手による、この輝いた一粒一粒を味わって召し上がれという、おもてなしの優しさの圧力が、全力で私に襲いかかってくるのです。
この3つの中で言うと、私に向いてるのはぶっちぎりで「麺」です。
ラーメンも好きだし、パスタもトマトソース、ジェノベーゼでも何でもOK!
うどんののどごしも最高だし、日本そばに至っては目に入れたって痛くないくらい愛しているといって過言でない気がします。
しかし、主食という意味で考えたときに、一転して「麺」は弱点をさらけだします。
そう、おかずと一緒に食べることを考慮されていないということです。
例えば生姜焼き定食を頼んで、もしお茶碗に麺が入れられていた時のことを想像しただけで恐ろしくて夜も眠れません。
焼き魚と麺を一緒に食べることは人生が3回くらいあってもないような気がします。
そうなのです、「麺」はやはりスープやあんがあってこそ生きるもので、ここに日本の食卓において主食に定着しない最大の弱点があるのです。
そうなると残りは「パン」ということになりますが、彼は実は3種の中で一番、あごの力や歯の力を必要とするので、毎日パンを噛むことを考えるだけで、自分の唾液の泉が枯れるような気がするし、あごに疲労を感じてしまいます(生きるのをやめてしまえ)
つまり上記の3つは一長一短であり、自分にとっての長所だけが詰め込まれたものは無いことが分かってしまいます。
自分に一番合った主食候補を探すぞ!とも思ったのですが、長くて偉大な人類の歴史において絞られてきたもの以外に、おいそれと素晴らしいものが見つかるはずもありません。
こうなったら考えを180度変えてみます。
主食という概念を捨て去るのです。
よくよく考えれば、人類が米や麦を定期的に摂取しはじめたのは、農耕文明が始まってからであり、狩猟採集生活の時代は、木の実や、動物の肉など、その土地で手に入れた物や、その日取れた物を気ままに食べていたのです。
それって栄養のバランス的にどうなのよ?と思うかもですが、毎日違う固さや、栄養の物を食べることにより歯もかなり丈夫で、かなり健康だったらしいのです。
てなことを考えると、おかずだけで生活する、脱主食生活というのも悪くない気がしてきました。
しかしここで、私は大変なことを思い出しました。
そうです「焼肉」という存在のことです。
あのタレがかかった香ばしい味の濃い肉たちを食するときに、絶対にお米は必須です。
白米かビビンバかは問わないにしろ、焼肉にとってお米はなくてはならない相棒といえるでしょう。
今、ビビンバと言って思い出しましたが、石焼ビビンバって何であんなに美味しいんでしょうか、そしてチャーハンも玉子とかと炒めてるだけなのにめちゃくちゃ美味いし、天津飯のバランス感覚たるや、他の追随を許さないような気がします。
あれ、そう思うと米って最高なのでは?
もしや私は米を主食という言葉で重々しく考えているから、ルーティンぽくて嫌になってるだけで、その日その日、一期一会の出会いと思えば毎日はスペシャルなのでは?
そう思った私は、本日の朝、主食だと思わず愛をもって米と向き合い、お米だけで食べてみることにしたのです。
そして・・・
やっぱり無理でしたー♪(半分くらいで納豆を投入しました)
未来になり、主食の栄養素が凝縮されつつ、サラサラしてのどごしのよい「アミョリエン」(名前は適当)みたいなものが出来るまで、私はご飯とおかずとみそ汁で正三角形を作り、食物に感謝し、バランスよい食事を心がけようと思います。