背後から父と母の声が聞こえた気がする、しかし今はどうでもよかった。
Tシャツに短パンという情けない寝巻の恰好のまま、私は一目散に路地へ飛び出す。
いつも歩いている道路がとても長く感じる。誰かが悪意で道を引き伸ばしているのではないかと思うくらい進みが遅い。
普段から、肉体をおろそかにしている罰なのかすぐに息が切れ始める。足の力がどんどん抜けていく感覚だ。
力を両足に補充しようにも、メインのエネルギー源自体がかつかつなのだ。こんなことなら、夕飯の時にもっと肉を食らっていれば良かった。
足を必死に動かすが無理をしているため、その代償としてどこか違う部位がダメージを負っているのが分かる。
肺がひゅーひゅーして悲鳴を出し始めたころ、ようやく分かれ道に辿り着く。
ここから12丁目までまだまだある。
もたれる足を必死に動かし、そのたびに肉体の悲鳴の協奏曲が奏でられる。そしてその悲鳴の演奏が私の意識にさらなる重大な事実を思い出させる。
私も睡眠薬を飲んだのだ。
そしてそれを意識した次の瞬間に鈍い衝撃が頭を襲う。
なるほど肉体と脳の行動がねじれている場合、眠気とは痛みになるのか。
それにしてもこんなに走っている状態でも効く睡眠薬の力はすごい。
どこか他人事のようにそう感じた後、いまさら飲んだことへの後悔が襲ってくる。
しかし後悔したところで後の祭りだ。自分が選択した行動の結果が、単に現れているのであってこれは自分の責任であり必然だった。
頭の頭頂部から意識のレベルがどんどん下がってくるのが分かる。
すーっとしてくる爽やかさに肉体が抗っているため、臓物がそのちぐはくさにぶるぶる震えている。
その震えを無視するかのように、怜悧なまどろみは軽やかに意識の中心地に下りてくる。まるで透明になっていく感覚だ。
透明になれ
透明になれ
本能と体が、両方とも透明の世界へ手招きをしている。意識だけが辛うじて抵抗を続け四肢を動かしていた。
普段なら魅力的であり、そして私が心から望んでいた感覚である。しかし、それは現在最も不必要なものだった。
私は怜悧なまどろみの女神の顔を睨み付ける。
全てを用いて必死に逆らう、意識に色を付ける。
筆をめちゃくちゃに殴りつけるように抵抗する。黒でも茶色でもいい、とにかく汚くても、色を塗りたくるのだ。
汚い色の方が意識の覚醒を促し、四肢への躍動へと結びつくことに気付く。
私は、ぐちゃぐちゃな何かで、私のあらゆる全てを殴りつける。
透明になってはいけない。
意識の抵抗の激しさに、体の震えに続き頭がとんでもない悲鳴をあげはじめた。かつて経験したことのないような吐き気がする。
自分が食べた肉たちがドロドロのまま、体内を暴れまわっている。
夕飯を食べておいて良かった。
いいぞ、もっとやれ、体を揺さぶれ。
吐き気があるうちは、透明な意識に打ち勝てる。私の肉体と血よ、悲鳴をあげ、暴れまわり透明を阻止しろ。
朦朧とした状態で私は走った。体は軽いのか、重いのかもう分からなかった。
ただ一つ分かるのは自分の肉体が地面と結びついていることぐらいだ。
ぼんやりと滲んだ赤色が見えてくる。
影なのか、人なのか、多くの気配は確かにするが、もはや視界に明瞭な箇所がどこにもない。
私が目指してた場所だろうか?そもそも私は何を目指していたのだろうか。とにかく分かるのは、何かを探さなくてはいけないことだ。
意識を左に進める、体は動いてるようだ。
「どうしたの」
振り返ると、驚いた顔の少女がそこに立っていた。
不思議とすぐに探していたのが彼女だと分かる。
顔に少しすすが付いているが、奇麗というよりは愛嬌がある不思議な少女だ。
私は、何を言えばいいかわからない。ただ感覚として細胞が緊張を解くのだけ分かった。
少女が私を抱きしめる。
「ありがとう、心配して来てくれたんだね」
私の体が、少女の石鹸とすすが混じった匂いに抱きしめられる。私の吐瀉物の匂いがそれに混ざり合う。
腐食した肉が焦げた香ばしさと、腐ったヨーグルトが混ざったような匂いがする。
しかしそれは全てを包み込むような恩寵の匂いだった。
<完>