<書評>「存在の耐えられない軽さ」 心・身体・軽さ・重さ・俗悪なもの

書評

「存在の耐えられない軽さ」は、チェコスロバキア出身で、後にフランスに亡命した作家、ミラン・クンデラさんの長編小説です。

クンデラさんは、1960年代後半の、チェコスロバキアの民主化・自由化の運動、「プラハの春」を文化面から支えた一人であり、プラハの春の運動がソヴィエト軍を中心とするワルシャワ条約機構軍により粉砕されると、彼の作品は発禁処分になり、その後、パリに亡命し、フランスで作家活動を続け、2023年に94歳でこの世を去りました。

実は、私が本作を購入したのはかなり前で、途中まで読んだのですが、積んでいた作品です。

その当時、私は劇的で物語が動く作品に心が向いており、なんとなく途中で読むのを止めて、今の今まで本棚で眠っていました。

しかしこの度、再度本作のページを開き、読み始めて驚愕。

思索的で作者の哲学がふんだんに散りばめられ、崇高と表現すればいいのか、何と表現していいのか分かりませんが、「到達が難しい何か」に確実に触れている、そのような内容に私は、読了後の数日間、心を完全に持っていかれてしまいました。

それでは以下、あらすじです。

▼あらすじ
プラハの春と、それ以降の凋落の時代のチェコスロバキアを舞台に、優秀な外科医で女性関係が奔放なトマーシュ、田舎娘で突如、トマーシュの恋人になったテレザ、自由を志向する画家のサビナ、サビナの愛人で学者のフランツ。

これら4名の恋愛や三角関係、人生の変化や転落を通し、人間の存在とは何かを問う思索的・哲学的小説。

一応、上記にあらすじを述べましたが、あまり意味はなく、本作は作者の言葉と、その接合である文章にこそ、その芯があり、自身の精神を揺さぶってくる警句のような言葉が、劇中において次々と繰り出されます。

かつて私はアーヴィングの「ホテル・ニューハンプシャー」を旅先の仙台で読み、そのえぐるような物語と人生の描写に、心がやられ、わけもわからず仙台の街を彷徨ったことがあるのですが、本作でも同じ様な状態、むしろそれよりも深刻な状態に陥ってしまいました。

簡単に言うと、ちょっと病んでしまったわけです。

本作は物語の冒頭で、ニーチェの永劫回帰の思想が語られ、何度も繰り返される人生の重さに対し、人間の一回だけの人生の軽さを指摘し、果たしてその軽さが良いものなのかを問いかけます。

以降は、身体を象徴するトマーシュ、心を象徴するテレザ、軽さを象徴するサビナ、重さを象徴するフランツの4者の価値観を、「身体・心」や、「軽さ・重さ」の様に二項の比較的な手法で、物語を掘り下げ、そこに作者自身の言葉が組み込まれるという構造で、基本的に進んでいきます。

それらの物語の展開や言葉たちは、思索的であり、人が無意識的な欺瞞により、巧みに避けようとしている本質を、空中にぽんと置くように軽々と突き付けてきます。

それはもちろん素晴らしいのですが、それが本質的であるがゆえに、自身の精神の深い部分をゆっくりとナイフで切られ、その傷が読み進めていくうちに、どんどん広がり、そこから精神を構成する何かが流れ出していき、自分の存在がどんどん軽く、希薄になっていくような感覚を、私は覚えました。

ゆえに読了後、しばらく心が不安定に空中を揺れており、完全に復活するまで、数日間かかりました。

もしかしたら仙台旅と同じで、本集め旅で新宿を彷徨っていた時に本作を読了した事も影響しているかもしれません。旅は抒情的になるので危険です笑

話を本作の内容に戻します。私が劇中の人物で一番共感したのはサビナで、画家として自由を志向し、束縛する重いものを忌避する感覚は、私自身とても理解出来るものでした。

一見、上記の感覚の聞こえはいいですが、公共や家族、常識的な幸せの形態を退け続け、軽さの方へ向かい続けることは、作中の言葉を借りて表現すると、裏切りの連続を常に続ける逃走を意味し、その逃避こそが終着点になる事を意味します。

私はこれらの言葉に対し、まるで自分の事を言われているような感覚に陥り、一端ここで本を閉じ、ゆっくり深呼吸し、精神の回復を待ちました笑

また本作の印象的なシーンの一つに、強制収容所においてスターリンの息子が、便所で糞をそのままにし、それを注意された事に怒り、聴聞会を開く事を求めたが受け入れられず、自ら電流が流れている有刺鉄線に飛び込んで死んだ事に対する、形而上学的な価値について、語られるシーンがあります。

糞を原因にした憤死。その死に対する作者の洞察と言葉に私は衝撃を受けました。自身の中でまだ完全に消化出来ているわけではないので、ここで詳しくは書きませんが、多分、今後何度もこの情景を思い出し、考えていくことになるのだと思います。

また本作の、後半部では、「俗悪なもの」という要素の洞察にかなりのページが割かれます。

全体主義的な政治体制やデモの大行列、これらを構成する元である「俗悪なもの」。

私は本作の「俗悪なもの」という言葉の中に含まれている意味を、「欺瞞・妥協・打算・無思考が生む、形式的な理想を希求したり甘受する心」という風に解釈しました。

街中で見る政党や役所、宗教団体のポスターや、コマーシャルが描く理想の家族団欒の図。

私はこれを見る度に、えずきのようなうんざりする気持ちに襲われるのですが、本作を読んで、その理由の芯の部分が、ようやく腑に落ちました。

ある団体や個人の、自己都合や欺瞞、妥協で描かれた、なぞるような理想。しかしこれは、ある思想を熱狂的に信奉する事や、推し活のような、ある種の積極的な生の活力になるようなものにも含まれている、そのように本書は言っているのだと思います。

何かに結合したい、集団を形成したいという能力の様なものが人類にはあり、それは俗悪なものとも密接に結びついている。ゆえに私たち自身は、それらから完全に逃げる事は出来ない、それが私が本作から得た「俗悪なもの」の解釈です。

ここまで書いてきて、分かるように、本作は、身体と心、軽さと重さ、俗悪なもの、これらに対し、どちらが善いのか、安易な結論や価値判断は出していません。

本作は高度な問いかけであり、存在の為の言葉の書なのだと思います。

今後は他のクンデラさんの作品も絶対に読み進めようと思いつつ、本作についても今後、再読し、色々な事を考え発見していきたい、そんなことを思います。

何だかよくわからないモノを目指し、ブログやってます
本の書評や考察・日々感じたこと・ショートストーリーを書いてるので、良かったら見て下さい♪

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