<書評>「虐げられた人びと」 貧苦、激情、矜持の三重奏

書評

「虐げられた人びと」は19世紀のロシアを代表する文豪、フョードル・ドストエフスキーの長編小説です。

本作品は、シベリア流刑の体験を基にした「死の家の記録」の後に、発表された本格的な長編小説であり、「罪と罰」に始まる五大長編に繋がる、後期ドストエフスキーのスタート的長編です。

私はこれまで一応、ドストエフスキー作品については五大長編やその他諸々、かなり目を通していますが、それらの中で本作が一番ストーリーがリニアで分かりやすく、エモーショナルだなと感じました。

本作は、小説家である主人公を中心に、幼少の頃、自分を引き取ってくれた小地主ニコライ・セルゲーイッチ夫婦と、その娘ナターシャの話と、ペテルブルグの喫茶店で目にした老人の死と、そこを訪ねてきた少女ネリーの話、二つを軸にして展開していきます。

ニコライ・セルゲーイッチは、ギャンブルで農奴の大半を失い、大地主の貴族であるワルコフスキー公爵の農地を管理しているのですが、公爵は非常に、底意地の悪い人間であり、当初上手いっていた関係はこじれ、訴訟までに発展してしまいます。

ところがここで厄介なのが、娘のナターシャが、顔と性格は良いが無能力な公爵の息子アリョーシャに恋をしてしまったことで、ナターシャは父の訴訟が不利になるのを理解しつつもアリョーシャの元に走ってしまいます。

主人公は、ナターシャの事が好きであり、アリョーシャが来るまでお互い、良い感じだったのですが、ナターシャはアリョーシャを選んだので既に序盤から負けムーブです笑

しかし主人公は自分を育ててくれたニコライやナターシャ、そして無能力のアリョーシャの為に汗を流すという、自分だったら絶対勘弁な状況で物語は進んでいきます。

本作において何より魅力的なのは、その活き活きとした人物描写です。

自分の感性のまま流されるままに素直に行動し、人の良さから、くよくよしつつも、結局はナターシャを傷つけるアリョーシャ←彼のセリフの言い回しはむかつきつつもクセになります

また悪役であるワルコフスキー公爵は、後期のドストエフスキー作品に出てくるようなデーモニッシュな人物であり、非常に魅力的です。

いわゆる「自分の利益だけ」「快楽だけ」を体現した人物ですが、怜悧に人間や社会を分析しているので、その主張には不思議な説得力があります。

特に背徳感や秘密こそ快楽の神髄だと語る部分は、現代人にも繋がるねじれた性癖の本質を内包しており、そこには後期作品で語られる、自分では抑えられない突拍子の無い行動への憧憬にも繋がる、とても興味深い描写だと思いました。

正直なところ、私は読んでいる時に

「ナターシャなんか、放っといてネリーに時間を割け」

と常に主人公にイライラしていたので笑 公爵が悪魔的に、主人公を寝取られ男的なニュアンスで嘲笑した時は「その通り」と思って、若干、公爵に共感してしまいました笑

とはいえ本作の本質は、虐げられた人々が、それでも立ち上がり、かつ自分の立場を悪くし侮辱に加担した娘を許せるかという点にあるので、主人公の真摯な行動は無駄では無かったのでしょう←若干投げやり笑

本作は、長セリフがとても多いのが特徴ですが、そのセリフが激情や涙、嘲笑などなど、非常にエモーショナルなので、それが物語を加速するエンジンになっているのも大きな魅力です。

またそれだけでなく、ある種の啓示的、女神的に描かれる少女ネリーなど、貧困や社会情勢、信仰や価値観など、後期の五大長編に繋がるような、様々な要素が色々な描写に現れているのも、本当に素晴らしいと思いました。

ドストエフスキー作品の中で、読みやすく、分かりやすい作品だと思うので、これからドストエフスキーに触れたい人には、是非おすすめの一作です。

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