実朝暗殺後の混乱と、京都との腹の探り合い、政子の尼将軍としての覚醒が描かれた本話。
体感時間は短く、面白いけど、色々な疑問点や、尺の問題などもいよいよ顕在化してきている気がする本作。
それでは以下から、自分が感じたことをざっくばらんに書いていきます。
46話のあらすじ
実朝が暗殺され、鎌倉殿の不在が続く鎌倉。
そんななか実衣は、自分の息子の時元を鎌倉殿にするべく三浦義村に相談。
しかし、義村は裏で義時と通じていました。
そして義村に乗せられた実衣は、時元に挙兵を促しますが、時元は兵を挙げるも義時の兵に包囲されて、あえなく自害。
鎌倉では大江広元を中心に実衣の処遇に対する詮議が始まります。
どうにか実衣をかばおうとする泰時に対し、追及の手を緩めない広元。
そして次々に証拠を突きつけられ、とうとう実衣は陰謀への関与を認めます。
それを聞いた義時は断固処罰を主張。
処罰をしたくない政子・泰時と対立するも、広元も身内だからこそ厳しく処罰するから御家人が付いてくると言い、なかなか結論が決まりません。
一方、京都から親王を迎える案について、朝廷は二人の親王どちらにするか検討中だと文で伝えてきました。
じらして義時を怒らせる作戦です。
もう断ってしまえという時房に対し、泰時はあまり上皇を刺激しないように言う通り待つべきといいますが、義時に「お前の声は耳にさわる」と言われ泰時は政所を追い出されます。
一方、外の世界を見たいと広元に相談する政子は、広元のアドバイスの元、施餓鬼という、貧しいものにお供え物を配る行事を行うことを決意。
追い出された泰時も伴い、民の前へ出ます。
民の厳しい暮らしや、尼御台である自分に対する憧れを聞き、気持ちを新たにする政子。
そんな政子とは対照的に、邸宅にて義時に後継ぎを自分が産んだ政村にするよう説くのえ。
「嫡男は泰時だ」と義時は相手にしませんが、のえも祖父の二階堂行政も全く諦めていません。
そして行政はのえに三浦義村に相談することを提案します。
鎌倉には朝廷から実朝の弔問の使いが来ますが、そこで「上皇の寵姫の地頭を解任しろ」という無理難題をふっかけてきます、そしてその土地の地頭は義時でした。
いよいよ親王をめぐる駆け引きが激しくなってきましたが、これ以上の鎌倉殿の不在は御家人の信用を失うという広元の言葉もあり、義時は時房に千の兵を率いらせ武力をちらつかせつつ、京都で交渉をすることを決断。
義時の狙いは、親王よりは格が落ちるものの、西のいいなりにならないですむという理由で摂関家から将軍を迎えるというものです。
それを政子に報告するも、「他の宿老も皆同じ意見なのですか?」と問いかける政子に「私の考えが鎌倉の考えです」と義時は傲慢な態度で返します。
京都では時房の蹴鞠外交もあり、義時の狙い通り、摂関家から将軍を迎えることが決まります。
そして若干2歳の三寅(藤原頼経、摂関家の九条家出身)が鎌倉に迎えられます。
義時は政子に、三寅が元服するまで自分が執権として政治を主導していくと言うものの、政子はそれでは御家人が付いてこない、自分を過信するなと戒めます。
そして政子はここにおいて三寅の代わりに政治の表に立つことを義時に宣言、自らの呼び方を尼将軍と決め、ここに尼将軍・政子が誕生します。
全てが自分を軸に回ってると思うなと義時を牽制する政子。
そして閉じ込められてる実衣の元に行き、尼将軍になったこと、そして実衣を放免に決定したことを伝えます。
光が射す中、姉妹は絆を再確認するのでした。
以上が本話のあらすじです。
それでは以下から、自分が感じたことを書いていきます。
それ義村の前で言うのかしら問題
「鎌倉は誰にも渡さん!」
この発言において義時の驕りが表現されているわけですが、そもそもの疑問が
三浦義村の前でそれは言わないだろうということ。
北条と協力関係とはいえ、三浦は立派なナンバー2で対抗勢力です。
こんな発言をしたら警戒もされるし、憎しみも三浦サイドに溜まっていくわけで、この発言には何の得もありませんね。
例えば義村と陰謀の話し合いをした後で、掛け軸とかの前で静かに
「鎌倉は誰にも渡さん・・・」
というなら重みもあり、重厚感ある巨魁な魅力も出ましょうが、この演出だと、視聴者に分かりやすくする意図なのかは分かりませんが、リアリティに欠けますし、義時が小物に見えちゃいますね。
それか晩年の秀吉みたいに、どこか耄碌してるという演出意図なのでしょうか。
このシーンは個人的に何だか疑問が残りました。
実衣の生存欲求の強さがリアルで良い
本話の実衣は、ある意味でどこも良いところが無いように描かれています。
自分で陰謀を計画し、息子はそれにより死亡、駆け付けた姉に責任転換をする、そして罪を認めて潔く死ぬつもりでいるものの、姉に死にたくないと言う・・・
これは見る人によって許せないとか理解出来ないと思う人は多そうですが、自分はとてもリアルだと感じました。
生存欲求や死への恐怖は人によって本当に千差万別です。
私自身は死んだら死んだで仕方ないのだから後悔無く生きようという感じですが、友人は学生時代から今までずっと、いつか死ぬと思うと怖くて仕方ないと言っています。
実衣も、時元を死に追いやった後悔はあれど、それでも死ぬのが恐い・・・
それは人間が生まれ持った本能や個性の差であり、実衣は生存欲求が強いのでしょう。
その意味でここまで見てきた実衣の軽快な嫌味の無いキャラクターも含めて、とてもリアリティがあり、そして個人的に実衣は不思議な魅力がある嫌いになれないキャラクターだなあと本シーンを見て感じました。
実衣の詮議のシーンが素晴らしい
広元を中心に据えた詮議のシーン。
広元の貫禄がとても出てて最高です。
そして義時が出てきて以降のセリフの応酬が本当に素晴らしい。
首をはねろという義時、陰謀を企んだ他の家を厳罰に処していることから、政治の理を説いています。
それを必死で止める政子は、とにかく妹を守りたい。
広元は鎌倉政治の要として、身内にも厳しく処罰する道理を政子に説きます。
時房は、首をはねろと言うのは本気ではなく、それぐらい大事だというバランスの取れた捉え方をしています。
それに対し泰時は、義時の修羅を理解し時房に、父は本気だと切迫した表情で伝える。
そして康信は女子の首をはねるということは先例が無いと言う。
以降も会話は続くわけですが、これはそれぞれの性格や思想、政治理念が滲み出て、さらに芸術的に合わさっていて、本当に最高のシーンだと思います。
誰も正解ではないし、誰も間違いとは言い切れない、それを議論して総的な納得点を探すのが政治です。
このシーンは個人的に本話で最もすごいシーンだと感動しました。
施餓鬼のシーンをどう見るか問題
政子が直接、民と触れ合う施餓鬼のシーン。
このシーン自体は本作の政子にとってふさわしく、そこに泰時を伴うことも、本作の理想サイドのチームなので、良いと思います。(現実チームが義時と広元)
しかし、民から「尼御台が憧れなんです!」と感情を込めて言われるシーンは、個人的にやりすぎだなあと感じました。
本作は分かりやすくするためにセリフで全て言っちゃうシーンがけっこうありますが(そんなシーンばかりではないけども)
ここもあまりにセリフで言い過ぎて、政子を聖人化するための舞台のように感じてしまいました。
本作の政子はここまでの挙動や行動で充分、視聴者にも人間性は伝わっているのだから、本シーンは直接、民と触れ合う政子の自然で素朴な表情を見て
「尼御台は本当に素敵よね」
と民が言うのを泰時が聞くぐらいが丁度いいのかなあ、と個人的に感じました。
それを時房の前で言うかしら問題
同じようなことなので省こうかと思ったのですが、一応書いときます。
政子に他の宿老の意見を尋ねられた時の
「私の考えが鎌倉の考えです」
という言葉。
これも時房の前で普通は言わないでしょう。
時房が顔をしかめていたので、演出として義時の驕りを強調する意図があるのだと思います。
しかし、頼朝や源氏は兄弟間での権力闘争に苦しめられてきたわけで、いくら弟とはいえ不用意な発言はしないと思うのです。
それにやはりこれでは小物か耄碌しているようにも見える。
ただ一方で驕り演出としては分かりやすいとも思います。
のえと義時の会話は相変わらず素晴らしきかな
邸宅での食事中に後継ぎを政村にしてほしいと切り出すのえ。
相変わらず、直球なのがいいです。
そして義時も、嫡男は泰時だという考えが全く揺るがないところが、とてもいいですよね。
本作の義時は「お前は私の事を良く思ってないのは知っているが、私はお前を認めている」と泰時に直接言っていました。
これはかなり大きいセリフです。
正直、いくら反目しててもこのセリフがあれば泰時との絆も切れることはありません。
その意味でこのセリフを言える時点で義時は父親としてある程度の役割を果たしてると思います。
そんな絆が邪魔なのえは、先妻の血筋にいちゃもんを付ける。
うん、のえは最初から最後まで、「浅い邪悪」として描かれていていいですね、もしかしたら義時はその浅い何かにつまずくかもですが・・・
果たしてこの夫婦はどうなることやら。
政子の理論と、それ自分で言うかしら問題、威厳なき廊下
三寅が成長するまで自分が執権として政治を主導する義時に対し
自分を過信しすぎるな、三寅はまだ子供で御家人が従うはずはないから、自分が鎌倉殿の代わりをする
そう宣言する政子、いいですね。
ここにきてしっかり政治の現実を踏まえて、政治理論を整えてきました。
しかしその後の
「呼び方は、尼将軍にいたしましょう」
私はこのセリフを聞いて衝撃を受けました。
自分で尼将軍って言うんかーい!!
確かにこれはドラマであり、そんなこと言ったら政子って名前自体が呼ばれたり、言ったりしてないじゃないかという指摘もあるでしょう。
しかし、それでも・・・
自分で言うんかーい!
うーん、いくらドラマでも政子自身が自分で尼将軍と言ったというのはあまりに、現実感を損なうと個人的に思います。
そこまで分かりやすくしなくても視聴者はついてくると思うけどなあ。
やっぱり尼将軍というのは、政子の凛々しき佇まいを見て御家人が、まるで尼将軍のようだというのが重厚感や政子の高潔さが出て良いと思うのです。
しかし自分で言うのはやはり軽いです。
なので個人的にこのシーンは違和感がありました。
そして後ろに御家人たちを率いた政子と義時の会話・・・
「全てを自分が軸に回ってると思うのはよしなさい」
うん、言いたいことは分かる。
しかし御家人の前で言ってあげるなでございます。
いくら威厳を保とうと威張っていても、御家人の前でお姉ちゃんにそんなこと言われる人に誰も付いてこないのでは(涙)
その意味で、本話の後半は分かりやすさを重視して、人物の威厳を損なったり、その人物の魅力や現実感を乏しくするシーンが多かったように感じました。
光さす舞台、しかし積み重なった違和感が私を襲う
尼将軍になった政子が実衣に放免を伝えるシーン。
光さす部屋といい、絵もとても奇麗なのですが、やはり直接尼将軍と言ったりとかの違和感が溜まっていて、私は乗れませんでした。
あと、政子が尼将軍になったから何の処罰もせずに放免になったと言うのは、いい話に聞こえますが、実は独裁的だし陰謀で処罰された御家人たちからすると浮かばれないでしょう。
このシーンや本話について、おそらく人によって相当意見が分かれるとは思いますが、政子を聖人化しようとしたり、分かりやすくしようとするのが先行し過ぎていて個人的には気持ちが乗っかりませんでした。
今までの政子で充分、澄んだような魅力があり、そして承久の乱においては政子の見せ場のオンパレードなのだから、ここまで演出しなくても良かったのではと思います。
権力者としての義時像
私のイメージする義時は、静かなる権力者だったりします。
義時は自画像が一枚も残っていません、それと史科などの情報を見て考えると義時は、本当の意味での権力の性質を知っていたのではと思うのです。
日本では、天智天皇でも聖徳太子でも、小沢一郎にしても←いきなり現代
権威としてのナンバーワンを置き、その下で実質的な権力をふるうというやり方が一番、自分の思い通りに政治を出来たりします。
日本では目立つことより、影に潜む者の方が力を振るいやすいのです。
そして史実の義時は、おそらくそのことを分かっていたのだと思うのです。
そしてこんなイメージがあるからこそ、個人的に本話の義時は違和感がありました。
尼将軍体制にしても、本当なら義時が自ら言い出すのではないかと思うほど、自分の中の義時は政治のエキスパートです。
しかし、本話の義時は驕りや自信をそのまま言う。
そしてそういう人は実はそんなに怖い人ではありません。
本当に怖い人は、静かに目だたずに根回しをして、大事な時に牙をむくのです。
なのでどうしても本話の義時は軽く見えてしまうのですが、これを耄碌しているように演出しているのか、それとも驕ったものは必ず地面に叩きつけられるという狙いで、あえて分かりやすい独裁者みたいに演出している可能性もあります。
あと二話で義時がどういう人間で、人生だったのかという答えが出るわけで、それを楽しみに待ちたいと思います。
最後に
そんなわけで本話は面白いけども、人によってかなり評価が割れるのではと思った回でした。
しかしここで最後の懸念材料を言わなくてはいけません。
これ尺足りないのでは・・・・・
あと二話で、承久の乱と義時の心の昇華まで描けるのかしら・・・
うーん不安である・・・・・
まあ私が不安になったところでどうしようもないわけで、とにかく我々は最後まで鎌倉殿を楽しみましょう。
引き続き来週も雑感を上げていきます。