「ねじまき鳥クロニクル」は、村上春樹さんの8作目の長編小説で、村上作品の中期に当たる作品です。
妻のクミコが失踪したことをきっかけに、主人公の岡田トオルは、本田さんや、加納クレタ・マルタという謎の姉妹、そして間宮中尉が語る悲惨な戦争の体験などを通じ、クミコをさらったモノの背後の力に迫っていきます。
本作は、現実の世界と深層心理・無意識の世界を結び合わせて、冒険を展開する唯一無二の物語で、独創的な世界観とその背後に流れる力強いメッセージは、「面白い」なんて言葉でくくるのが失礼になるのではと思うほど圧巻の作品です。
そんな本作を自分なりに考察していきます。
あまりに力を入れ過ぎた結果、かなりの長文になってしまったので、目次の項目を少しずつ見ていく、もしくは全部見ないで気になるところだけを読むのでもいいかも知れません。(コンパクトにまとめきれず申し訳ない)
以下、物語のネタバレを含みますので、ネタバレが嫌な人はここでストップして下さい。
本作の読み方
本作は、とても深い人間の精神や無意識の話を、トオルが妻を救うという「お姫様救出劇」という題材をベースに、歴史や戦争の悲惨さなども加味して練り上げている、新しいタイプの人間精神の集大成のような小説です。
なので最高に面白いのですが、村上作品の特徴である「簡単な文章でありながら内容が難解」という声が多く聞かれているのも事実です。
なのでそんな本作の内容や以下の解説を読み解きやすくするために、どういう精神で本作に臨めばいいかを簡単に語りたいと思います。
第一に集合的無意識という概念を知っておいた方がいいと思います。
これはどんな意味かと言うと、かつてユングという西洋の心理学者が
「人間の意識の奥には全ての人が繋がっている無意識の領域がある」
と提唱したのですが、その全ての人間存在が繋がっている無意識の領域のことを指す言葉を集合的無意識と言うのです。
簡単に言うと全ての人間は精神の深い所で繋がっていて、その人間全体の無意識が戦争を起こしたり、また社会の流行を作ったりしてるんじゃないかという思想です。
本作の井戸などは後の項目で語りますが、集合的無意識との関連がとても強い言葉でもあります。
次に象徴についても知っておいた方がいいかもしれません。
象徴とは、その言葉から連想される、もしくは言葉の奥にある物や意味を表す表現方法です。
象徴についてはメタファー、隠喩、など言語的には細かく枝分かれしていますが、今回は学問ではなく小説の考察なので、あまり形式的に分けずに象徴として一括りにしておきます。
例えば本作では、井戸が「深く潜る」という意味から「無意識」や「深層心理」を表しているというのが象徴の例です。
また動物の「蛇」などは、脱皮を繰り返すことから「生命力やエネルギー」の象徴としても見られます。
村上作品では、象徴として言葉の奥に隠れている意味を考えていくと、より楽しめるようになっています。
そして特に中期以降の村上作品は、象徴やメタファーを簡単に読み解けるように、非常に分かりやすく作ってくれています。
そしてもう一つ重要なのが、事実にこだわらないという姿勢です。
本作においては「水」という言葉が重要な意味を持っていますが、川を流れる水は上流にある森林の水も、下流にある住宅地にある水も、違う場所にありながら、同じ水でもあるわけです。
例えば本作のクミコとクレタは同じ存在なのか?もしくはクミコの精神的存在なのか?という問いに対し事実を断定したくなるのが人間の性ですが、ここでは事実がどうであるかが重要ではなく、この二人が何を表して、そしてどういう共通意識を持っているかということの方が重要なのです。
要はそこから何を読み取るかが重要ということです。
また本作は真実に言及せずに、あえて想像の余地を残している点もかなりあります。
これは、どちらの可能性も取れるという豊かさを楽しめるということでもあり、両方を漂うことは、物語の奥行を深くし、より深く物語の世界に入れるのではないかと思います。
要は事実にこだわりすぎずに頭をやわらかくして見た方が楽しめるよ!ということです。
以上が、私が考える本作の楽しみ方です。
それでは以下から考察を開始します。
岡田トオル
本作の主人公は、今年30歳になる男、岡田トオルです。
勤めていた法律事務所を辞めて、人生の次の展開を考えている時に、まず飼っていた猫が失踪し、そして妻のクミコが失踪しました。
相手の事を考えて寄り添う力、物事を多角的な視点から見る力、そして自分と深く向き合う力を持っており、全身全霊でクミコを暗闇から取り戻そうとする姿勢に読むこちらも自然と力が入ります。
結婚当初、クミコとの生活は上手くいっているように見えました。
しかしクミコが心の奥に抱えていたモノは生易しいものではありません。
もし普通の家庭で育った女性と結婚した場合、トオルはいい夫だったかもしれません。
しかしことクミコとの生活の場合は、より繊細な想像力が求められ、そしてトオルは多くの事を見逃しています。
まず細かい生活上の好みや嗜好に無頓着であり、些細な好みや変化に気付けなかったということがあります。
「嫌いなトイレットペーパーの柄」や、「牛肉とピーマンを一緒に炒めることが嫌い」などなど、細かいところの観察や洞察がなかなか足りませんでした。(自分が出来るかと言えば難しい話ではあります笑)
そしてある場合において、こういう些細なことが全体を左右することがあります。
もし、もっと目をこらして、色んな気配や感覚を使ってクミコと向き合っていた場合、早い段階でクミコの抱えている闇に気付けていたかもしれません。(ifを言うのは簡単で、そもそも大変な話ではあります。)
そして序盤に置けるトオルの失態は、10分間の電話にじっくり対応しなかったことです。
あの電話をかけてきた女は、言うなれば「クミコの闇の性欲の意識」(詳しくは後述)だったわけで、もしあそこで10分間しっかりクミコの話を聞いていれば、失踪が防げていた可能性もあると個人的に考えています。
そしてトオルは次の5時半の電話のベルが12回も鳴った時も、さっきの嫌がらせの電話だと判断し電話に出ませんでした。
そして二人の「結婚の絆」を象徴する猫に関しても、探してはいるもののそれほど真剣ではありません。
実際の恋愛でも、自分のことは放り出して、例え10分間でも相手の話を聞けたかどうかが恋愛の行方を左右することがあります。
トオルは、物語序盤でクミコの重要なシグナルを見逃したことになります。
しかしここからのトオルが物語の見物です。
深い井戸の中に身を置き自分やクミコの事と向き合い、街の流れの奥にあるものを観察したり、マルタや本田やナツメグなど様々な人の思いと力を借りながら、あらゆることを考えることでクミコの闇に迫っていくのです。
物語中に、本田さんに「法律という地上界の事象ではなく、その上か下に属する」と言われるトオルですが、この物語は法律や社会という形式を旅するのではなく、その上にある理性や理想や精神、そしてその下に潜っている欲望や深層心理をトオルが旅する冒険記でもあるのです。
トオルが法律という地上の形式の仕事を辞めて、考える時間が出来た時から、この物語が始まると言ってもいいと思います。
路地と土地と家
トオルとクミコが住む家の近くの路地。
ここは高度経済成長期に家が新しく立ち並ぶようになってからは、入り口と出口が塞がれてしまっていて、今では家と家との緩衝地帯の役割くらいしかありません。
私は、この路地が表すのは高度経済成長により、資本やお金の方が大事になり、家同士や他人との絆を失ない、そして同時に心の健やかな風通しすら失った日本人の精神のメタファーだと思います。
水の流れも滞ったら水が腐りますが、路地も出口が無ければ空気は淀み濁っていきます。
そしてその路地から少し歩いたところにあるのが本作の重要な舞台となる空き家です。
この屋敷の庭には、翼を広げた鳥の石像、そして水が出ない井戸があります。
井戸については後述の項目で詳しく語りますが、井戸は深層心理や無意識の象徴なので、水が枯れているという様子は、日本人の精神が瑞々しい弾力性を失って枯れてしまっている、その様子を表現しているのだと思います。
そして翼を広げた鳥の石像は、トオルに「飛べない鳥」と表現されます。
飛べない鳥・・・
飛鳥・・・
日本の歴史は古いですが、確かな記録が出てきて名実共に日本史が始まるのは「飛鳥時代」です。
「空き家になって死んでいる屋敷に、ぽつんと取り残されたように立つ、かつての日本の歴史や精神、それは現代においては翼が機能せずに飛べなくなっている・・・」
この像から私はそんな悲哀を感じます。
そして作中でも重要なキーとなる空き家。
ここは元々、北支で活躍したエリート軍人が住んでいたお屋敷でした。
この軍人は現地で、捕虜を500人近くまとめて処刑したりと相当ひどいことをしたらしく、いつ軍事裁判にかけられるのかと怯えており、そして米軍のジープが家の前に止まった時に恐怖からピストルで自分の頭を撃ち抜いたのでした。
そして奥さんは夫のあとを追って首を吊って死んだのですが、実はこのジープは、ただ道に迷った米兵であり、早い話勘違いが生んだ悲劇でした。
そして次にこの家に住んだのは女優さんでしたが、事故で歩けなくなり視力も落ちたところに、信用していた女中に逃げられ、風呂桶に顔をつけて自殺し、さらに家の悲劇が上塗りされます。
そしてその後、土地を購入した宮脇一家も、厄払いをしたにもかかわらずに、この家に住み始めてから事業が暗転し、最終的に一家心中という悲劇に至ります。
この土地と家は悲劇に見舞われる呪いにかかっているとしか思えません。
私はこの家と土地がかかっている呪いは、腐った日本精神それ自身の呪いとその被害者たちの血の呪いだと思います。
明治維新で西洋の効能だけをインプットし、精神や哲学を疎かにした結果、政治は腐敗し軍部は暴走、挙句の果てに国自体も敗戦します。
最初のエリート軍人と妻の自殺は、明治から連なる戦前日本の失敗の象徴で、北支で殺された人の呪いの力も自殺に影響を与えているのだと思います。
そして戦争での罪も反省しないままに、戦後はアメリカが与えた、映画などの娯楽にうつつを抜かします。
これが女優の死にリンクしているのだと個人的に感じました。
そして高度経済成長以降、サラリーマンと専業主婦のいわゆる「家庭の幸せ幻想」が宗教のように流布した日本ですが、それもまたお金と安定という非常に物質的な物に依拠した幸せであり、競争に負け、お金を失えばもろくも崩れ去る、精神を伴わない形式的な幻想なのです。(これが宮脇家を表す)
この屋敷の死の例は、まさに日本精神の荒廃の歴史とリンクしており、その呪いはこの土地に深く根付いています。
ねじまき鳥クロニクルは、闇の側に足を出しかけたクミコを、トオルが全力で救う話である一方、このお屋敷や土地、すなわち呪いを抱えた日本精神を、トオルが考え、そして戦うことにより呪いから解き放つという物語でもあるのです。
クミコの抱えるモノ
本作のヒロインであるクミコ。
トオルがクミコを闇の世界から取り戻すことが本作の一番重要な目的です。
3人兄妹の末っ子であるクミコは、複雑な家庭環境で育ちました。
クミコの母と祖母の間には長年の確執があり、その暫定協定における人質の様な形で、一番下のクミコが祖母の下に送られることになりました。
この時点で、クミコが両親に「自分は選ばれなかった」「捨てられた」というような感情を抱くことを想定出来ない時点で両親の愚劣さがうかがえます。
そんなわけでクミコは、3歳から6歳までの間、新潟の祖母の手で育ち、そこでは可愛がられたものの、クミコが東京に戻る時に、祖母は精神のバランスを崩し、その様子に衝撃を受けたクミコは、心を外界から一時的に閉じててしまいました。
そして当たり前のことですが、東京の実家に戻ったところでクミコは誰も信用することが出来ません。
その中でも姉だけがクミコの面倒を見てくれて、心を開こうと努めてくれましたが、その姉も小学校6年生で死んでしまいます。
家族の要の姉の死が、両親もショックだったのは分かります。
しかし「姉の代わりに自分が死んだ方が良かった」と思っているクミコに対し、両親も兄も何の言葉もかけずに、それどころかクミコに死んだ姉の話をことあるごとにして、姉が習っていたピアノを習わすという始末。
綿谷の家については、権威主義・競争主義・官僚主義的考えを信奉している家なので、そもそも問題点があり、そちらの弊害は昇に影響を与えますが、それ以前に両親の想像力の欠如が決定的に彼女を傷つけています。
次に兄の昇についてです。
この段階で昇が姉に、意識の上での性的凌辱(後の項目で詳しく説明)をしたかどうかは分かりませんが、その異常さにクミコは無意識に気付いていたのだと思います。
また詳しくは昇の項目で書きますが、姉の存在は昇にとって必要不可欠であったため、その役割の継承者として、色んな部分でクミコの意識に欲望の種を植え付けていたのでしょう。
ただしクミコと昇が実の兄妹というのは動かし難い事実です。
綿谷家の遺伝の力を悪用し、邪悪な思想を抱えているとはいえ、昇もまた歪んだ教育の犠牲者という側面もあります。
綿谷家という強大でありながら、荒廃している悲しい一族。
その寂莫としたぬるま湯のような哀しい心象風景を、この兄妹は共有していたのでしょう。
そして、その寂莫さと同時に、人をすりつぶす権力の太古から備わる本能の魅力、そして歪んだ本能により歪められた性欲の香ばしい甘美な魅力も、進んで手に染めた昇とは違いながらも、クミコの中にも存在していたのだと思います。
しかしそんなクミコに転機をもたらしたのが岡田との結婚でした。
話を聞いてくれて、体調が悪くなるまでクラゲを一緒に見てくれた岡田との結婚で、クミコは「日の当たる道に出れるのではないか」と思ったのでしょう。
そして結婚するときに二人で飼った猫は、二人の結婚の象徴でもあり、クミコにとっては光の当たる場所の象徴でもありました。
しかし岡田は、想像力がある優しい人間ですが、戦後に生まれた普通の青年の一人であることには変わりません。
この段階で岡田に、深い所でクミコを見つめて癒すことは無理な相談でした。
岡田も、世間にある価値観や物差しの中でクミコを見つめ、世間の価値観の中で結婚生活を組み立てていました。
クミコが出ていったことで、ようやく世間の価値観ではなく、本当の自分やクミコと向き合うことを開始するわけですが、結婚時のトオルにそれを求めるのは酷であり、世間でいう良い旦那さんではありましたが、クミコを救える存在ではありませんでした。
そして現状維持のまま推移していた結婚は、クミコの妊娠により展開を見せます。
トオルがクミコと最初の性行為の時に感じた、奇妙な覚めた乖離の感覚や、そのときのクミコがものすごく離れた場所にいてかりそめの肉体を抱いているような感覚。
これはクミコの性欲がセーブされていて、闇の性欲が精神の奥に隠されていたからですが(詳しくは後述)
結婚により、クミコの根本の哀しみや性欲の歪みは癒されることはなく、そしてその状態で妊娠してしまったことに悲劇がありました。
生活の余裕がなくなるし、やりたいことも出来なくなり、可能性が狭められると言い、産むのに乗り気になれないクミコ。
結局、1か月くらい私に考えさせてと引き取ったものの、トオルが北海道に出張に行っているときに、クミコは一人で病院に行き、子供を堕ろしてしまいました。
物語後半で、綿谷家の中には代々、遺伝的に特殊な能力を持つ人間がいるという描写があります。
そして綿谷昇はその人が抱えた邪悪なモノを引きずり出す力があったわけですが、この時のクミコは
「自分が隠している闇の性欲を清算出来ないまま子が生まれたら、それが子供に引き継がれるのではないか?」
「それとは関係ないとしても何かとんでもないことが起きるのではないか」
という罪悪感と恐怖が入り混じった感情に支配されたのではないかと思います。(それ以外にも色々な感情が渦巻いていたと思います。)
歴史にifはありませんが、トオルとの結婚生活を信じ子供を産んでいれば、子育てを通じ光の場所へゆっくり歩み出せていたかもしれません。
しかし、ここで堕ろしてしまったことが、クミコを光の場所から遠ざけて、昇サイドに有利になる一つの要因となってしまいました。
そして時を見図り、昇はクミコの闇の性欲を引き出し、数々の男性と寝るように仕向け、そして強引にトオルからクミコを奪ったのです。
クミコが失踪する前に、10分間だけ時間をくれと電話をかけてきた女、あれはクミコの闇の性欲のSOSだったのですが、トオルは気付けませんでした。
まだ電話がかかってくるだけ、その時は良かったのです。
しかし失踪してしばらくすると、クミコの闇の性欲は208号室という昇との、共通の闇の祭壇に閉じ込められ、そして時間が経つにつれてクミコの精神全体も208号室に引っ張られ、電話という対話の象徴も力と気力を無くし、208号室の電話は死んでしまいました。
トオルがクミコとシナモンのパソコンを使って、キーボード上で語る時に
「駄目になったのはもっと長い時間のこと」
と言いますが、これはトオルと出会ってから、結婚生活を経て失踪するまでの、光へ進もうと思った全ての時間が駄目になったと言っているのです。
物語終盤の手紙で、昇が闇の力を引きずり出したことにより、性欲の爆発が起こり、不特定多数の人と寝たとクミコが書いています。
昇の力が諸悪の根源とはいえ、一つの側面として自分の肉体が選んだ不貞行為でもあります。
そのことでクミコが自分の罪の意識から、光へ踏み出す資格や思い出を、全て放り出そうと思ってしまうのも納得出来ます。(それこそが昇の狙いで、すなわち自分自身を閉じ込め見張らせること。)
昇の精神体をトオルが倒した後に出てくる、ぐしゃぐしゃしたものを、クミコが見ないで!と言ったのは、血や暴力や性欲が絡まり合った物(詳しくは後述)が自分の中にもあり、それをトオルに見られたくないと思ったのでしょう。(それは誰の中にもある。)
普通、ここまで来てしまったクミコを救うことはほとんど不可能に近いわけですが、もはや闇に飲み込まれ、完全に失われつつあるクミコを、トオルは徹底的に考え・向き合うことで闇側に陥るのを防いだわけで、これだけでも涙が出てきます。
後日談が無いので分かりませんが、クミコは出所してしっかりトオルの家に帰ってきたのだと私は考えています。
加納クレタ
突如としてトオルの前に現れる加納マルタとクレタの姉妹。
そして妹のクレタの方は、意識上で、さらに実際に岡田と肉体的に交わったりと物語でかなり重要な役割を演じます。
「大昔の雑誌のグラビアからそのまま出てきたみたい」とメイから評される彼女、そして家族構成や外見的特徴等、色々な部分でクミコとの共通点が見られます。
加納クレタは、マルタと兄との三兄弟の末っ子として生まれます。
父が病院を経営しており、真面目な両親のごく普通の家庭で、3兄妹の末っ子として生まれた彼女。
彼女は生まれながらにある悩みを抱えていました。
それは、人一倍痛みに敏感なことでした。
これは比喩ではなく、具体的な肉体的痛みのことで、普通の人よりも苦しみの中で生きることを余儀なくされていたわけです。
本作では「水」について肉体の組織と精神の組織を作る重要なモノとして描かれています。
水は流れていき、は揺れ動きます。
つまり肉体と精神の間をも水の流れは行ったり来たりしており、肉体と精神は密接しているともいえます。
私はクレタは生まれながらにして、水の流れを止める何かを、肉体や精神に抱えており水の流れがスムーズでなかったため、人一倍痛みに敏感だったのではないか、そう考えています。
人間の体は血液など様々な水分が流れており、その流れが滞ることが彼女に痛みを深く感じさせたのではないでしょうか。(出口と入り口が無い路地とも共通点が見えます。)
姉に相談し、とりあえず20歳まで生きることにしたものの、誕生日を迎えても事態は一向に改善しないため、クレタは兄の車を借りて石の壁に突っ込みました。
幸いにして一命は取りとめたものの、今度は痛みを全く感じない体になってしまいました。
これは突然の外的な衝撃により、今度は肉体が水の流れ自体を止めてしまったのだと思います。
この痛みが無い状態をクレタは、今までは不公平でも世界ではあったが、今は世界ですらなく、私ですらないと表現しており、より深刻な状態だったことが伺えます。
そしてこの痛みが無い状態で借金を返すため娼婦になったクレタの前に現れたのが綿谷昇でした。
そして綿谷昇が行った邪悪な性欲の儀式(詳しくは後述します)により、欲望を取り出すと同時に、止まっていた水の流れを引きずり出すことが出来たのだと思います。
この綿谷昇の行為は、非常に下劣な行為ですが、世の中というのは不公平で不条理なもので、汚い行為から良い結果が生まれることもまれにあるわけです。
ただしクレタは上手くいきましたが、クミコの姉は命を落としていますし、クレタ自身にも忌まわしい行為の汚れの記憶は残ります。
綿谷昇の行為は邪悪で下劣な物であり、許されていい物では決してないのです。
綿谷昇の行為と、その後のマルタの仕事を手伝うというある種のリハビリを通して、クレタは回復していき、そしてクミコが居なくなったトオルの前にクレタは現れるわけです。
そして意識の中でトオルと交わり、そして肉体的にも交わることになるわけですが、これには一体どういう意味があるのでしょうか?
そしてことあるごとに肉体の特徴などクミコと似ている点が描かれることにはどういう意味があるのか?
私はクレタとクミコは、コインの表と裏みたいなもので、非常に似た精神を共有しリンクした存在だと考えています。
最初の項目で、本作は事実がどうであるか?よりもそこから何を読み解けるかの方が大事という話をしましたが、まさにこれこそその例で、クレタとクミコが同一人物であるかはどうでもよく、どういうことを表しているかということが大事ということです。
クミコの失踪と同時に現れたクレタは、クミコの精神と似た部分を共有しており、色んなヒントをトオルに与えてくれました。
クレタと意識の中で交わり、そこで性欲や生命の根源である、温かい泥の感覚(後述)をトオルが実感できたことが、クミコの抱えている性欲の問題に迫ることのヒントにもなり、また208号室に入る感覚を会得するヒントにもなりました。
言うなれば意識での性交は、トオルを助けるための側面が大きいものでした。
肉体としての性交は、昇にされたことや、娼婦をしていたこと等からクレタに存在していた汚れを落とす行為で、これはクレタを助ける側面が大きいものでした。
加納マルタが妹の為に、トオルと会わせたという側面もありますが、口では否定するものの、マルタは内心では妹を汚した昇を憎んでいるので、クレタを通じてトオルにヒントを与える狙いもあったのだろうと思います。
トオルに対して、「この場所でクミコを取り戻すために戦う場合、とてもひどいことになるから、私と一緒にクレタ島に行かないか」というのも、クレタ自身の感情ももちろんありつつ、コインの裏ではクミコのトオルに幸せになって欲しいという精神も作用していたのだと思います。
大昔の雑誌のグラビアからそのまま出てきたみたいなルックスというのも、どこか岡田の脳内彼女みたいに表現されていて、物語の輪郭をふわふわさせて、想像する奥行を深くしてくれています。
笠原メイ
首つり屋敷の向かいに見える家に住む少女、笠原メイ。
物語でとても重要な役割を担う彼女。
私はクミコと並び、もう一人のヒロインだと思っています。
死のかたまりをメスで切り開きたいと表現したり、ペシミスティック(悲観的)じゃない大人は馬鹿だと表現する彼女は、とても感受性が強く繊細で、狂った世の中のシステムを何も考えずに受け入れている多数の人とは違う価値観で生きている人間です。
幼い時から、彼女は自分を動かす熱源を持て余し、それがどうにもできなくなるという悩み、すなわち人間の歪んだ根本の問題を深く見つめていましたが、その力から生じた遊び心と不幸が重なり、恋人をバイク事故で死なせてしまったという過去を抱えています。
その罪悪感と、自分の中にある、どうにもならないぐじゃぐじゃ(詳しくは後述)をどうにかしたいという気持ちの中で、彼女は暮らしています。
そのぐじゃぐじゃについて伝えたいと努力した彼女ですが、世間の大人は自分の理解出来ることに無理やり当てはめるか、利害があることしか興味が無く、本当の意味で話を聞いてはいませんでした。
言い換えれば、人間の根本を洞察したり、考えたりするような話の出来る・聞ける大人が居ないということです。
世の中に尊敬出来る大人が居ないという現代の問題がここで表現されているようにも思います。
また彼女の抱えてる物として2種類の退屈というものがあります。
一つ目は、人間社会のシステムを何も考えず信奉し、努力すれば報われるという価値観を持った両親を見る時の退屈で、変化しない社会とその構成員への哀しみが含まれています。
もう一つは、自身の精神が持て余す退屈のことで、自分の中にある欲望という意味では、ぐじゃぐじゃしたものと似ていますが、知りたいとか何かをしたいという好奇心を司るのも欲望です。
面白い何かを求める好奇心が人一倍強い彼女、だからこそ満たされず退屈を感じてしまう。
しかしこの退屈は悪いことでは無いと思います。
色んな場面で言葉の節々から伺える深い洞察力も、こういう色んな事をキャッチしたいという張り巡らされた好奇心が成せる業なのだと思います。
そんな彼女が興味を持っているのがかつらです。
トオルと出会った時には、かつらメーカーでアルバイトをしていましたし、メイは後に東京を離れてからも、かつらを作る工場で働きます。
メイの
「私の作ったかつらが誰かの頭にかぶられていると、何だかステキ」
「自分という人間が何かにきっちりと結びついている」
と言うセリフからは、人の脳と精神が深層で結びついていることを連想させます。
一方で、世間体からかつらは、「一回被ると使い続けなくてはならない」ということも言っています。
これは資本主義の一面である、人々を中毒にして物を買わせ続ける側面。
そして頭に被る=知識で理論武装することと考えると、現代社会で生きていくためには自分の正しさを補強するために、理論武装し続けなければいけないといった、負の側面を表現しているとも取れます。
物語中盤において、メイは井戸から梯子を外し、岡田を閉じ込めます。
これは自分が感じているぐじゃぐじゃしたものを感じて欲しいという思いや、死という共感を感じたいという様な側面があり(後述する仮縫いと似ている側面もある)、その中には相手を支配したり物として考えたいという権力者が陥る危険な欲望も入っています。
しかし一方で、トオルをある種の逃げ道を絶ち、暗闇に放り込むことで、徹底的に真剣に感じ・考えろというメイのメッセージでもあったと思うのです。
ここまでの文章で、メイが繊細でまともな精神を持っており、問題を正面から向き合い、もがき苦しんでいることが分かってもらえたと思いますが、そんな彼女の前に現れた唯一話が出来る大人が岡田トオルだったわけです。
トオルが
「僕以外の彼女に何かを与える資格を持った誰かが、彼女をしっかりと抱きしめてあげるべきなのだ」
というのはその通りだと思いますが、その前段階としてトオルは彼女としっかり向き合い話し合うことで、とても大事なものを与えることが出来たのだと思います。
そして逆にメイは、物語の終盤でトオルを救います。
私は本作におけるメイの役割はトオルを救う存在という点でかなり重要なものだと思っています。
クミコが救い出されるヒロインだとしたら、メイは主人公を救うヒロインです。
本田さん
トオルが綿谷家の紹介で会うことになる<神がかり>という霊能力を持つ元軍人の老人が、本田さんです。
本田さんはとても感じの良い人柄で、トオルもクミコもすぐに好きになりました。
後述するマルタが、西洋の精神に象徴される力を持っているとするなら、トオルにノモンハンの戦争の話を語ってくれる本田さんは、日本やアジア、すなわち東洋の精神に象徴される力を持っているのだと個人的に思いました。
本田さんは、未来を見る力により、「トオルがクミコを救うこと」を予見したからこそ結婚の後押しをしてくれたのであり、また間宮中尉が勝てなかった邪悪な欲望の力(後述)について、「間宮の経験を岡田に伝えること」が、邪悪な欲望を倒す助けになることを知って、間宮とトオルを引き合わせたのだと思います。
その意味で本作は、本田さんや間宮中尉といった前の世代の思いを、次の世代のトオルが遂げる話でもあります。
その他にも色々と重要なアドバイスをトオルにくれます。
加納マルタ
クミコが猫のことを昇に相談したことから、トオルは綿谷家の懇意にしている霊能者に会うことになります。
それが加納マルタです。
本田さんが東洋の精神を象徴するとするなら、マルタは西洋的なスピリチュアルな精神を象徴しています。
クレタの5歳年上の彼女は生まれながらに特殊な力があり、そしてそれは成長するにつれてどんどん強くなりました。
その力に悩んでいた彼女は高校を出ると自力で外国に行きます。
水というものに深い関心を持っていた彼女は、まずカウアイ島に渡り、そしてヒッピー・コミューンの一員として生活しました。
次にカナダ、そしてアメリカ北部、そしてヨーロッパ大陸に渡り、各地で水を飲みながら旅行をします。
そしてその後、マルタ島で修行し日本に帰国したわけです。
マルタはトオルに「昇か僕のどちら側の人間なのか」と聞かれた時は、「どちらでもなく表も裏もない」という表現をしています。
この発言からは、西洋思想の平等の思想が反映されている、そんなことを思います。
しかし、形式上はどうであれ、実際のところはマルタは、クレタを汚した昇を許してはいませんでした。
なので中立を装いながらもクレタを昇に接触させ、クレタの汚れを救済すると共に、岡田に闇の力に接触するヒントを与え、夢の領域(後述)から昇を追い詰めようとしたのだと思います。
途中でトオルが井戸の闇を通り抜け、闇の場所と光の場所、両方にアクセス出来る印のアザ(後述)を獲得し、光と闇の中間的存在となると、西洋的な光の思想を体現するマルタとは所属する場所が違うため会えなくなりましたが、トオルは光と闇の両方を見つめ昇の場所に迫り、そしてマルタも同時に違う方法で昇を追い詰めます。
物語終盤で、岡田の夢の中で現れるマルタの姿が、彼女が昇に何をしたかを表しています。
寺院のような場所で、裏側に黒い血がこびりついた人間の頭皮を上から沢山垂らしながら、黒い犬に牛河の顔が付いている物を飼いつつ、全裸の上にトレンチコートを着てお茶を飲むマルタ
そして彼女にはトオルが飼っていた特徴的な猫のしっぽが付いています。
現実世界において牛河が昇の元を離れた描写がありましたが、次の雇い主はマルタか、マルタが紹介した誰かでしょう。
寺院を日本精神、人間の頭皮は権力者たちの脳味噌の象徴だと考えると、岡田の夢でのマルタは次のようになります。
日本の権力者たちの苛まれている悪夢や罪悪感を治療と称しながら悪化させ、心の中に悪夢を見せ、黒い血を浴びせる、その手先として牛河という汚れた仕事人を使う
そしてその最初の標的が昇だったのだと思います。
マルタの精神攻撃、そして岡田という不安要素が近寄ってくる恐怖により、悪夢にうなされるようになった昇。
昇はトオルとクミコから奪った「結婚の象徴としての猫」を夢や無意識の領域に閉じ込めていました。
しかしマルタとトオルの攻撃により、昇は悪夢にうなされ無意識の支配力が低下し、その領域から猫が解放されたためトオルの下に戻ってきたのだと思います。
その後、元々クミコが付けた猫の名前である「ワタヤノボル」を、昇という要素を排除しなくてはならないのではと感じ「サワラ」に変えるわけですが、これは猫にとってもクミコとの結婚という象徴の存在としても必要なことでした。
そしてマルタに猫のしっぽが付いていて、「こっちが本当のしっぽだ」と言ったのは、元々猫が持っていた綿谷昇の邪悪なしっぽをマルタが掴んでおり、昇を追い詰めていることの証左だと思います。
物語前半でのマルタは、西洋の思想を上流階級を助けることに使っていたわけですが、想像するにこれはナツメグの仮縫いのような行為だったのかもしれません。(仮縫いについては後述)
しかしクレタが昇にされたこと、そして政財界の様々な腐敗を目にし、方針を切り替え、思想を使い腐った人間たちに悪夢を浴びせ切りつけて、血を流す方向にシフトしたのではないかと個人的に思います。
マルタ島の歴史上のトピックスとしてマルタ騎士団がありますが、血を流すことにしたマルタの覚悟と歴史の事実が重なる気がするのは私だけでしょうか。
純粋な思想が腐った現実に対峙し、血を流すことを決意したマルタ。
その背後にある哀しみを想像すると、非常に寂莫としたものがあります。
間宮中尉
本田さんから紹介されて会うことになる元軍人の間宮中尉。
本作では、トオルが活動する現代に加え、間宮からの手紙をトオルが読むという形で、第二次大戦前後の満州やシベリアでのことが描かれます。
言い換えると満州、シベリア編の主役が間宮中尉だとも言えます。
満州での作戦の失敗により、ロシアの将校・ボリスとモンゴル兵に捕まった彼は、目の間で仲間を生きたまま全身の皮を剝がれていく様子を目の当たりにします。
その後、間宮は井戸の中に放り込まれるわけですが、その暗闇の中で見た、溢れるほどの太陽の光の恩寵の圧倒的な光景に、全てを焼かれてしまいます。
目の前で仲間の皮を剥がれ、精神にあまりに強烈なショックを叩きつけられた時に、井戸の底の漆黒の暗闇を体験し、ここの落差もかなりのものです。
そしてさらに突如現れた光の氾濫の落差の衝撃に精神が耐えられなかったのだと思います。
間宮中尉がその光の中にみたものを
「自分の意識の中核に下りて、そこでみた光の中の日蝕の影のような黒く浮かびあがろうとする何か」
という様な感じで言っています。
私が思うにそれは恩寵であって恩寵でないものなのでしょう。
それは戦争の体験や、仲間の皮を剥がれることを目にした間宮の中にある精神の結晶なのだと思います。
精神の結晶は、おそらく全ての人間が普遍的に持っていて共有している精神の奥に眠る結晶であり、その人の精神が健やかである時にみれば恩寵でしょう。
しかし見られるものは、また見るものの状態が影響するものです。
疲弊と絶望の最中にいる間宮が、太陽の光において精神の結晶を照らし出されたとして、それは黒い影の形でしかありえず、本当の恩寵の精神としての結晶は見えるはずもありません。
それ自体が恩寵とすら思える光の洪水、そしてその光が見せる黒い影。
このあまりに強烈な光景と、その性質の落差、そして混乱と失望が、間宮の生命の力を根こそぎ奪ってしまったのです。
ずっと暗闇に居た時にいきなり太陽を見たら目がダメージを受けるように、間宮はその落差により失われてしまったのです。
以降、彼は「失われた人」として生きていくことになるのですが、シベリアの炭坑に行ってからもさらに過酷な体験をすることになります。
それがかつて仲間を殺した皮剥ぎボリスとの再会と、その王国への協力でした。
囚人であったはずのボリスは、あっという間にそこを自分の王国に変え、間宮はボリスを殺すために忠実な秘書のフリをするわけですが、チャンスが訪れ殺せる機会を得ても、なぜか弾丸がボリスに当たりません。
これは力の項目でくわしく語りますが、失われた人である間宮に、邪悪でありながらも禍々しい力で溢れているボリスは倒せませんでした。
血なまぐさい強い力を倒すには、こちらにも強い意志に基づく力が必要なのです。
そして二度目の絶望を抱えたまま、間宮は日本に帰ることになり、そして本田の紹介でトオルに会うのです。
間宮は本作において戦争や前の世代の象徴です。
色んな不条理に見舞われ、間宮の人生は失われてしまいました。
しかし、その経験や体験をトオルに語ることで、間宮の人生の課題であった恩寵の問題や、倒すべき血で汚れた力の問題を、トオルが決着をつけることに力を貸します。
間宮の手紙をトオルが読まなかったら本作は、邪悪な力を倒すことが出来ずに、もっと悲惨な終わり方をしていた可能性もあります。(日本がボリスの支配する炭坑みたいになっていた可能性もありうる)
その意味で、間宮中尉の経験がリレーとして次の世代であるトオルに繋がれたからこその本作の結末であり、その意味で間宮中尉の人生には重大な意味があったと言えます。
その意味でトオルと並び、間宮中尉は本作の主人公とも言える。
そんなことを思います。
井戸、水、クラゲ
本作の背後で物語を支えているキーワード、それが井戸と水です。
井戸は、深層心理の象徴でもあり、そして集合的無意識の象徴です。
集合的無意識とは、ユングという西洋の心理学者が発見した、人間の無意識の奥に存在する、全ての人間存在が繋がっている無意識の共通の領域のことです。
つまりユングは全ての人間は、深層の無意識において繋がっていると考えたのです。
そして本作でクミコが居なくなったトオルが、井戸の底の暗闇で色々なことを考えるのは、自分の心の奥に下りていくことと、同時に社会に流れる無意識の潮流を感じる意味もあります。
本作の敵は、綿谷昇ですが、本当の敵はその背後にある人間社会全体の無意識の中に存在する歪みの力です、その力に迫るためにトオルは井戸に入り考えるのです。
水について言えば、マルタが言うように私も、水の組成が人間の肉体・精神等、人間の存在を大きく支配していると思います。
人間の体の大部分は水分であり、血液の循環が体を支えています。
本作では肉体組織の水という意味に加え、水は精神の動きや思考の流れという象徴でもあります。
井戸から水が出ている状態というのは、深層心理や集合的無意識が正しく流れている状態、もしくは人間がすこやかに色々な事を考えて精神が活発に動いているという風に見ることが出来て、井戸に水がたまっている状態というのは、人間社会の精神に瑞々しい余裕がある状態とも言えます。
しかし本作の井戸に水が出ていたのは戦前までで、以降は枯れてしまっています。
言い換えると、日本人の集合的無意識の健全さは、戦後枯れはててしまったとも言えます。
間宮中尉が恩寵の光を見た時の井戸も水が枯れていました。
もし間宮中尉の井戸に水があったならば、間宮中尉は失われなかった可能性もあるのではないかと思うのです。
水は強烈な光を吸収しやわらげてくれますし、体を包み込んでくれます。
そして象徴としては前述した精神に余裕がある状態という意味もあります。
しかし井戸は枯れていたため、強烈な光をそのまま浴びて間宮中尉は失われてしまいました。
そしてクミコとトオルが結婚前に一緒に見たクラゲも、集合的無意識の中を漂う沢山の人間精神たちの象徴だと思います。
クミコがクラゲを好きだったのは、その優雅に漂うような人間精神を眺めることが、綿谷家で感じている暗い感覚を癒し、安心感を覚えたからではないでしょうか。
一方で当時のトオルがクラゲを苦手だったのは、普通に育っていた彼にとって、社会全体を不確定に漂う精神の象徴を見ることに、何かしら不安を覚えたからではないかと思うのです。
人間は理解出来ないものを恐れるものです。(物事を深く考えたり、遠くから見るという思考法を覚えた後半は、トオルはクラゲを苦手じゃなくなっていると思う)
本作は、トオルが色んな人の力を借りて、色んなことを考えることにより井戸の水を復活させる物語、言い換えると日本人のすこやかな集合的無意識を復活させる物語とも言えると思います。
叔父のアドバイス
トオルの母親の弟で、現在の家を紹介してくれた叔父。
40代半ばにして、銀座のバーや賃貸マンションの収入、投資による堅実な配当があり、特にあくせく働く必要がない恵まれた環境にいる彼ですが、ただ一人の甥のトオルに昔からいろいろ目をかけて、助けてくれていました。
叔父は、トオルにクミコを取り戻すための戦い方やヒントをくれます。
彼がバーや事業をその地域で立ち上げるために重視するのは数字やデータではありません。
彼はどこかで事業を始めようとする場合、その地域に行ってひたすら何日も何日も人を眺めるのです。
そして三千、四千と見ていくうちに、あるとき霧が晴れたように、その場所がどういう場所か、いったい何を求めているか分かるのだと言います。
叔父はそれを「自分の目でものを見る訓練」と言い、そしてたっぷり何かに時間をかけることは、「いちばん洗練されたかたちでの復讐」だとも言います。
「自分の目でものを見る」は分かるとしても、「復讐」とは一体何に対する復讐なのでしょうか。
私は、効率化された資本主義社会に対する復讐だと思います。
相次ぐ消費と生産で、そのために人々は効率化を余儀なくされ、まるで機械の部品のように生きることを余儀なくされた現代社会では、じっくり物事を見たり、じっくり物事を考える人は、奇人変人扱いされます。
しかし叔父は、じっくり物を見て、大事な人間性や精神を知覚して、それを見事にブーメランのように資本主義ビジネスに結び付けています。
これぞ、クソ社会に対する華麗なカウンターでしょう。
そしてじっくり何千もの人を見るということは、個人の顔を見ていくところから、徐々に人々の奥にあるものを眺める行為に推移していくと思うので、叔父のアドバイスは個別の具象を丁寧に見る行為であると同時に、遠くから全体を見る行為にも繋がります。
またじっくり眺めることは、じっくり考えることでもあるわけで、これらの戦い方によりトオルはクミコの本当の心や、昇の奥にある闇の力に迫っていくのです。
あざ
井戸の底で208号室に行き、そしてその壁を抜けて井戸に戻ってから、岡田の右の頬にはあざが現れます。
このあざは何を意味するのでしょうか?
私はこのあざは、地上世界と集合的無意識世界の中間者としての証という側面と、見たくないものを忘れせない烙印の二つの意味があると思います。
本作であざがあるのはトオルだけでなくて、ナツメグの父の獣医さんにもあざがありました。
ナツメグに出会い、トオルはあざを使い、仮縫いというスピリチュアルな治療行為の手伝いをするようになります。
心理学や占い、もしくはナツメグの仮縫いのような精神の治療の行為は、人間の無意識に向き合うことが要求されます。
そして失われたクミコを取り戻すのもまた、クミコの奥の闇に向き合うことが要求されます。
言わばトオルは、今まで通りの地上と光だけで生きる人間から、闇へもアクセス出来る中間者としての資格を得たのだろうと思うのです。
そして顔の無い男に「そこから先に進むと、もうあとにはもう戻れない」と言われたとおり、このあざは闇の世界やクミコの心の奥へのアクセス権であると同時に、そこで見た物を簡単には忘れることが出来ないという烙印でもあります。
あざは鏡を見れば意識せずとも目に付き、その存在をあらゆる場面で思い出すことになります。
これは
「クミコが不貞行為をしたことは、ふとした日常のあらゆる場面でこれからも思い出すぞ」
という苦痛の象徴でもありますし
「その欲望の奥にあるもっとショックな何かは、さらに輪をかけてお前の心に刻まれるぞ」
という意味もあります。
もしトオルが深く自分の気持ちに向き合わず一般論で型にはめてクミコを「許す」としたところで、あらゆるところでその不貞の光景や、ショックな何かは頭をよぎるということです。
つまり一度、闇に向き合ったのであれば、何かしらの根本的な解決がなされないかぎり、心に平穏はもたらされないということでしょう。
メイが「あざのないトオルの方が好きだ」と言ったのは、日常生活において
「闇にたまに思いを馳せることが必要な時はあれど、闇を考えすぎる必要はないのではないか」
というメイの感覚が言わせた言葉だと思います。
また太陽と月が混ざり合う「日蝕」という現象が本作で何回も語られますが、光と闇が混ざり合うという意味でのあざと、日蝕はイメージ的にかなり近いです。
ナツメグの父の獣医のあざがいつからあるのかは分かりません。
しかし戦争での様々な悲惨な行為や、満州で自分が大好きな動物たちが虐殺されるという衝撃的な光景を彼は見ていたのだと思い、その経験が深層心理の闇の奥へ彼を誘い、あざが刻まれたのではないかとも思います。
ここまで闇について書いてきましたが、染まり過ぎて飲み込まれるのは駄目な一方で、自分自身と向き合う時に、闇を見つめる力が無ければ、より深く考え本質に辿りつくことなど出来ないのではとも思います。
またあざが現れて以来、加納マルタに会えなくなるのは、マルタが象徴する西洋の精神が光を基調に組み立てられているからで、だからこそ闇の要素を得たトオルと会えなくなったのではないかと考えています。
本作で最後にトオルのあざが消えるのは、クミコの抱えている闇の欲望や、不貞行為、そしてクミコの素晴らしい所等、クミコの全てをしっかりと考えて受け入れた結果だと思います。
これは本当に素敵で素晴らしいことだと思いますが、人には人それぞれのあざの消し方があり、パートナーの不貞を許せるかどうかは、しっかり自分の心と向き合って、自分が壊れない結果を選択することが大事だと思いました。
またこれは「こういう見方も出来るなあ」位な軽い気持ちで読んで欲しいのですが、獣医とは、「生物の根源の力」を顕現している動物の病気を、「人間の知性や科学」により治す職業です。
要は
「動物と人間」
「根源の力と西洋理性」
の中間者としての存在という捉え方も出来ます。
また獣医のあざを次の世代のトオルが受け継いだという風に捉えることも出来、そうすると本作は獣医の世代では消せなかった刻印を、バトンを受け継いだトオルが消す話とも取ることが出来ます。
ナツメグ
新宿で人を眺めていたトオル。
その右頬に獣医だった父と同じあざを発見し、トオルに声をかけたのがナツメグでした。
獣医の父と、実家が台湾関係の貿易の会社をしている母の下に生まれ、戦争が激しくなった時に満州から日本に戻ってきた彼女。
ファッションが好きで、高級婦人服の会社に就職し、そして27歳の時に、傲慢で身勝手だけれど、デザインの特異な才能を持つ夫と出会い、翌年結婚、さらに翌年息子のシナモンが生まれます。
その後二人は独立し、軌道に乗るまでは時間がかかったものの、軌道に乗ってからは驚くような成功を手にします。
しかし会社が大きくなると、外に出る「顔」の役割が必要になります。
そして夫がそれを引き受けるようになるのですが、ぶっきらぼうな夫も徐々にその役割に慣れていき、そしていつの間にか役割を楽しむようになり、時代の文化的ヒーローのように祭り上げられるまでになりました。
その反面、会社が大きくなるに従い、ナツメグと夫の関係は疎遠なものになっていきます。
仕事場以外で会話も無くなり、夫には付き合ってる女性が何人もいるのも知りながら、黙認状態で流れていく日々。
そんなある日衝撃的な事件が起こります。
夫が首を切断され、心臓を始めあらゆる臓器を抜き取られ殺されたのです。
それを機に洋服のデザインの情熱を完全に失った彼女は、その翌年に会社を売却し、そしてそのタイミングで母も死亡します。
そこから1年余り家でじっとこもっていたあとに、突如自分が「仮縫い」という特殊な精神的能力が自分に備わっていることを知るわけです。
本作の彼女の役割はとても重要です。
そしてその役割の根本は、彼女が子供の頃に体験した戦争体験に端を発します。
戦争が激化したため満州で獣医をしていた父の元から日本に帰ることになったナツメグと母。
しかしその船が、ロシアの潜水艦に撃沈される寸前まで追い詰められるという衝撃的な体験です。
あまりににもショッキングな光景に意識が急激に薄れるナツメグ、そして今度は意識の彼岸で、獣医である父が動物園で日本兵の動物の虐殺に立ち会っている光景が見えます。
潜水艦の体験は実際にナツメグが体験したものですが、動物園については実際に彼女が体験したことではありません。
この虐殺が事実であったのか幻想であったのかは当のナツメグにも分かってません。
私個人が思うに、動物園の光景は死との距離がとても近い体験により意識が深い集合的無意識に到達し、それが父のチャンネルに繋がって見せたのがこの映像だと思います。
この潜水艦のこと、動物園の虐殺の光景を、一人で抱えていたナツメグは、自分の息子のシナモンにこの光景を語ります。
そして二人で細部を広げていき、まるで神話体系のように組み上げていきました。
そしてこのことがナツメグの家族たちに多大な影響を及ぼします。
ナツメグには仮縫いという能力の発露の準備、シナモンにとっては舌を奪われる結果を生み、夫は悲惨な死を迎えることになるのです。
果たしてこの潜水艦の事件と、動物園の虐殺に端を発する神話を編んだことには、どのような意味があったのでしょうか?
ナツメグにとって、この物語を編んでいくことは、戦争の悲惨さや悲しみをあぶり出すのと同時に、懐かしい父と動物園の記憶を漂うことを意味しました。
そこにある歪みを見ながらも、思い出の美しさをも漂うこと、これが仮縫いの能力に繋がっていきます。
一方、息子のシナモンにとってはもっとダイレクトに人間が抱える歪みや悲しみが作用します。
祖父の無念と、母の悲しみ、そして戦争に関わる人間たちや、殺された動物たちの恨みや無念。
その衝撃がシナモンの舌を奪い去りました。(詳しくは後述)
そしてナツメグの夫にとっては、そこでの虚しい支配者や軍人の理屈が、物語を出て彼の精神に影響を与え、そしてその報いを受け、彼は無残な殺され方で死を迎えます。
過去の悲しみや、それを生んだ邪悪な力について考え・思いを馳せることは必要なことです。
しかし、あまりそちらに引っ張られすぎても、邪悪に飲み込まれ悲惨な結末に至ることになるわけです。
結果として闇に飲まれたのは夫だけでしたが、難しいのは果たしてナツメグとシナモンに、この神話は良い影響を及ぼしたのかということです。
シナモンが「ねじまき鳥クロニクル」というプログラムを作るのは、間違いなくこの神話体系が影響してます、しかし舌を奪われたことも事実です。
仮縫いの能力についても、目覚めた方が良かったのか、そうじゃない方が良かったのかは、難しいところです。
おそらく良い面や悪い面がこんがらがってるのが人生であり、そんなに綺麗にはいかないものなのでしょう。
とにもかくにもナツメグがシナモンと作り上げた神話体系が、トオルがクミコを助けるための考える一つのヒントになっていることは事実です。
さて次にナツメグが行う「仮縫い」について考えていきます。
服飾デザイナーの時のコネから、ナツメグは大企業や裕福な中年女性との交流があり、あるとき倒れ込んでしまった一人の夫人のこめかみの右側を手でさすったところ、そこに何かの存在を感じました。
そこで何をすればいいかわからず、ナツメグはとっさに目を閉じ、新京の休園で誰もいない動物園のことを考えます。
それは動物園の主任獣医の娘だけが入れる空間で、ナツメグの人生の一番幸福な時間でした。
そしてしばらく時間が経つと夫人は起き上がり、激しい頭痛は去っていました。
これがナツメグが初めて行った「仮縫い」という精神の治療でした。
まず裕福な中年女性のこめかみにあった何かですが、これは精神が抱える歪みのしこりだと思います。
資本主義の上流社会で生きている人々は、一見幸せに見えますが、世間体と評価、比べたり比べられたり等で、強力なストレスや歪みが溜まっていき、そしてその歪みは性欲や他の欲望として爆発したり、挙句の果てに自分の人間性を食らいつくします。
そして仮縫いとは、そんな荒んだ歪みのしこりを、ナツメグの誰も居ない動物園という「純粋な思い出」を通過させ記憶で癒す行為なのだと思います。
しかしこの仮縫いは、「その存在」の活動を緩めるだけで完治させることは出来ずに、徐々に悪くなっていくことを止めることは出来ません。
なぜならこれは根本的な問題の解決ではなく、過去の記憶を振り返ることによる一時的な治療に過ぎないからです。
「競争社会に則って、叩き潰し勝ち抜いて贅沢しても、そもそも人を蹴落とした罪悪感はあるし、いつとって代わられるか分からない、代わられないにしてもそこには心の交流が途絶えた場所だから、幸せになる方法も分からない。」
そういう哀しみの中で人生を無為に過ごしている人が沢山いるのだと思います。
結局は、自身の歪みを正すのは自身で考えることでしか出来ないわけですが、そもそも歪みや自分の状態に気付いてない人が大勢いるのです。
特にナツメグの世代は青春時代が高度経済成長で、考えることよりもお金や物質の価値に重きを置いた時代でした。
ナツメグの同世代の中年女性は、自分で問題を解決出来る方法も能力も教えられていないのでしょう。(もちろん人によります。)
そんな彼女たちの仮縫い治療を、最後にナツメグがまとめて引き受けるのは、考えることがダサいとされた、戦後の被害者世代の代表者としての責任感とも取れます。
ここでトオルの仮縫いについても考えてみたいと思います。
これは思い出の記憶で癒すよりも、もっと深いところ。
すなわち集合的無意識との繋がりにより癒す行為だと思います。
あざを舐められているトオルが、繰り返し言及する「自分は空き家だ」という言葉ですが、これはあざを入り口として自分自身は集合的無意識へ繋げるトンネルみたいな感覚でいるための言葉だと思います。
あざの項目で説明しましたが、あざには深層心理や無意識の世界へのアクセス証の象徴でもあると言いました。
裕福な夫人たちは、あざを舐めることにより記憶よりも、もっと純粋な人間無意識と繋がることにより一時的にですが癒されるのだと思います。
加納マルタが西洋のスピリチュアル、本田さんがアジア・東洋のスピリチュアルの象徴であると、既に書いてきましたが、ナツメグは深層心理や無意識を象徴する、現代のスピリチュアルの役割を担っていると思います。
ここにきてトオルを支えるスピリチュアルメンバーの全員が出揃いました。
シナモン
ナツメグのオフィスに行った時に、応対してくれた自然な微笑みを浮かべる好青年・シナモン。
ナツメグの一人息子である彼は、この物語の重要人物です。
潜水艦の話や、動物園の虐殺の話をナツメグから何百回と聞かされて、二人で神話体系の様に組み立てたわけですが、その神話体系から出てきたものが彼の舌を奪い、彼は言葉を発さなくなりました。
重要なのは、本作の作中で、シナモンが奪われたのは「言葉」ではないと表現されていることです。
それでは一体何を奪われたのでしょうか?
本作では、2回ほど「真夜中の出来事」という章があります。
1回目は屋敷から少年が、ギイイイッとねじを巻くような鳴き声を聞き、好奇心から庭を見た所、庭の松の木に二人の男がいて、背の低い男は木を登り消えてしまい、背の高い男は、木のふもとに何かを埋めている光景でした。
そして2回目は、夢の中でシナモン自身がシャベルでそのふもとを掘り、そこに人間の心臓が埋まっていることを発見し、恐怖を感じながらもそれを埋めて、部屋のベッドで寝ようとするも、そこには既に寝ている自分がおり、あわてて寝ている自分の横で眠りに落ちる所が描かれます。
そして夢から目覚めた時に、シナモンは喋れなくなっていたのです。
それではまず「真夜中の出来事」について一つずつ見ていきます。
まずこの二人の男についてですが、私は背の低い方が父、そして背の高い男は、祖父の獣医を象徴するものだと考えています。
低い方に関しては、「父と似ている気がする」というシナモン自身の言及があります。
そして背の高い方に関して言えば、ナツメグの意識が見せた動物園虐殺の時に、獣医が背の高い男だという容姿についての言及がありました。(この後語る文脈からも祖父であることが妥当だと思います。)
次に庭の木ですが、「松の木」であることが本文で書かれています。
「松竹梅」や「虹の松原」など、日本の風土に定着している松。
またお城や寺などの風景にも欠かせない日本を代表する植物だと思います。
私は真夜中の出来事の松の木は、日本人の精神の象徴だと思います。
松の木は、横にどんどん枝が分かれていくタイプの育ち方をします。
シナモンとナツメグが、潜水艦と動物園の話を神話体系のように広げていったのともリンクします。
潜水艦と動物園の話は、日本での出来事ではないですが、それを体験したナツメグは日本人であり、そしてこの二つの悲劇は、日本の歴史の延長上にある悲劇です。
すなわちこの松の木は、シナモンやナツメグも属している日本という精神の象徴だと思うのです。
さて次に木の根元に心臓を埋める行為についてです。
心臓については、動物の虐殺や、中国人の脱走した士官学校の生徒の虐殺、またホテルで殺されたシナモンの父の抜き取られた心臓など、いろんなことが象徴として乗っかっていると思います。
しかし心臓という物自体について考えてみた時に、心臓は生命を生みだす根源のポンプという役割で、とても強いエネルギーと鼓動を連想させます。
私はこのシーンの心臓は人間の欲望を支える根源の力の象徴だと思います。
これには殺人や虐殺という暗い事象だけでなく、良い部分、必要な部分も含まれます。
なぜならあらゆる欲望が人間の根源の力の一つだからです。
それでは上記の点を踏まえた上で「真夜中の出来事」について見ていきます。
まず木に登って消えた男ですが、本文においてシナモンは「木は登るより下りる方が難しい」と言っています。
「現実社会で資本主義社会を駆け上ることに成功した。しかし登ってみてもそこの高い景色は荒んでいて全然美しくなく、幸せを実感できない。」
よくお金持ちになった人が上記のような状態に陥るといいますが、この「木に登って消える」というのもこの状態の精神と同種だと思います。
つまり、木を登って消える男は上を目指す日本人が行きつく先を指し示した象徴だと思います。
この男は、もしかしたら木の上で夜の闇に飲まれ絶命しているかもしれませんし、木の裏から下に落ちて死んでいるかもしれません。
現実で、実際にシナモンの父はホテルにおいて心臓やあらゆる臓器を抜かれ殺されるわけですが、元々は権力への階梯を上るのに向いていなかったのに(木登りが向いていなかった)、力に飲み込まれた結果、その力が彼を殺したのでしょう。
人間や物事の「横の広がり・繋がり」を意識して神話のように物語を広げたナツメグとシナモンに比べて、シナモンの父が悲劇的な最後を遂げるのは、彼が権力の階梯を上るのは向いてなかったとはいえ、意識としては「上」という感覚がとても強かったことが原因なのかなとも思います。
次に心臓を埋めた背の高い男についてです。
彼を祖父の象徴だという前提で話を進めます。
祖父は動物の虐殺を目の当たりにしたりなど満州で哀しい経験を沢山しました。
一方でそれは自分たちの世代が作り上げてきた愚かな行動が、戦争として現われたものでもあり、世代の責任も感じているのです。
ゆえに戦争を生み出した欲望の根源の力を、後の世代に見えないように埋めようと考えたのだと思います。
最初に木を登った男をじっと見ていたのは、「次の世代の男が木を登ってどうなるか」すなわち「次の世代の戦い方」というのを凝視し、見守っていたのだと思います。
しかし、もう男が帰ってくることはない、すなわち「間違った精神で、間違った木の上を目指しても無意味だ」と次世代の行動を見て理解し、心臓を埋めることにしたようにも見えます。
しかし、いくら土に埋めたところでそれは本来人間が抱えているもので、隠せば隠すほど簡単に地面から出てくることは道理です。(それを掘り起こし大々的に利用するのが昇みたいな人物)
つまりこの行為は、根本的な解決にはなっていないわけです。
すなわち
「前の世代は問題を解決出来ないまま、次の世代にバトンを渡すことになってしまった」
そういう側面もあるわけです。
ここまでが一回目の真夜中の出来事です。
私は一回目については、実際にシナモンがナツメグとの神話体系を編む中で、無意識に溜まっていたイメージが具現化したものだと考えています。
実際の庭に、二人の男が居たかどうかは分かりませんが、シナモンの意識がこの光景をシナモンの脳に見せたものなのだと思います。
そして二回目の真夜中の出来事。
こちらについては、夢として、さらに深い無意識の中で見た光景でしょう。
シナモンはここで祖父が埋めた欲望の根源の力を、もろに見てしまいます。
そしてこれがシナモンにとっての決定的な瞬間でした。
この瞬間から、シナモンは宿命として自分が見た心臓についてを考えることが植え付けられます。
すなわち根源の欲望とは何か、そしてそれを生み出す人間というのはなにかということを考え続けることを余儀なくされたわけです。
それは祖父と母に起きた理不尽なことについてを考えることであり、そしてそこに連なる自分の事を考える行為でした。
さらにいうなら、自分たちが属する日本の根本や人間の根本についてを考える行為でもあります。
さて、それでは最初の問題に立ち返ります。
果たしてシナモンが奪われたものは、何なのかということですが、これは喋ることです。
そのままじゃんと思うと思いますが、順を追って説明します。
まずシナモンは喋れなくなりましたが読書も出来ますし、言葉は普通以上に扱えます。
つまりシナモンは単純に口で喋ることが出来なくなっただけなのです。
シナモンは、喋れなくなったあとも、自分とは、根源の力とは、理不尽とは何かを考え続けており、それを自分のコンピューターの中に「ねじまき鳥クロニクル」という物語プログラムとして練り上げています。
何か人生を変える出来事やテーマに遭遇し、それを考え文章に綴る。
これは何かに似ているとは思いませんでしょうか?
そうですこれは作家や小説家と似ているのです。
シナモンは夢で心臓を見てから、喋るのではなく、深く考え文章を綴ることで人間物語及び人間の根本を探ることを余儀なくされたのだと思います。
そしてそれを命じたのは、シナモン自身の精神でもあり、そして木の上にいるねじまき鳥かも知れません。
松の木という日本精神の上にいて、ねじを巻くような音で鳴くねじまき鳥。
ねじまき鳥は、日本精神の無意識に潜む、このままでは駄目だという心、すなわちどこかで社会のズレや邪悪を修正しなくてはならないという精神の象徴だと私は考えています。
シナモンは真夜中の出来事の中で、何回もねじまき鳥が鳴く音を聞いています。
すなわち、ここでシナモンが鳴く声を聞いたことが「ねじまき鳥クロニクル」という物語のスタートな可能性もあります。
その後にトオルという実際にねじを巻く人が現れ、そしてその時、シナモンのパソコンの物語が彼を助けることになるわけです。
これを村上さん及び現代として言い換えると、村上さんが書いた「ねじまき鳥クロニクル」という物語が、現代を生きる読者を助けるという構図になります。
私は、シナモンとは作家、そして村上さん自身が一番乗っかっているキャラクターだと思います。
ナツメグが「シナモンは一体誰が救っているんだろう」と言うシーンがありますが、これは物語を書くことで救われているという面と、そしてトオルと出会ってからは自分の「ねじまき鳥クロニクル」という文章を読んで、何らかのヒントを得て行動するトオルを応援することによって救われているという面があると思います。
言い換えると自分の伝えたい思いを書いた本を、読者が読んで、その人の人生が少しでも良くなることにより救われるという作家の心情と同一のものだと思います。
トオルと並んで、本作の主役の一人ではないか?
シナモンはそれくらい重要なキャラクターではないかと私は考えています。
綿谷昇
クミコを取り戻したいトオルに立ち塞がる、本作における最大の敵ともいえる人間が綿谷昇です。
イェールの大学院に留学後、東大の大学院に戻り、そこで学者をしている彼は、34歳の時に書いた本がメディアに取り上げられ、名を知られるようになりました。
結婚するクミコの実の兄であるため、トオルは彼と会うことになるわけです。
短い言葉で短い時間で有効に叩きのめす力があるが、信念に裏付けされた世界観を持たず、重要なのはいかに大衆の感情を喚起するか
そんな彼の文章を読むこと、テレビで姿を見るのも嫌だと思うトオル。
そう思うのも当たり前で、彼は内心で自分以外の全ての人を軽蔑して見下しており、利用すべき道具程度にしか思っていません。
そしてタチが悪いのが、物事を理解する思考力を持っており、そして人間を動かす欲望の力を構造も含め理解して、そして何よりそれを認めており、そしてそれを積極的に利用しようとしているところです。
根源に根差す競争原理や欲望は誰しもが必ず持っているものなので、それを鮮やかに利用する昇は、トオルですら無視出来ないというほど、ある種の魅力を備えてもいます。
普通の環境で育った人は、社会の中でぼんやりと、なんとなく生きているものですが、昇は幼いころからエリート官僚の父に、戦後の日本が抱える虚無な権威主義を徹底的に叩き込まれました。
以下、どういう教育かをあげていきます。
- 日本は構造的に民主主義だが、同時に熾烈な弱肉強食の階級社会だ
- エリートにならなければこの国で生きている意味はほとんどない
- だから人は一段でも上の梯子に上ろうとし、それは健全なこと
- クラスで昇が誰かの背後に甘んじることを決して許さなかった
- 優秀な成績を取れば、望むものを何でも買ってあげた
- しかし青春時代にガールフレンドを作る暇もなく、友達と羽目を外して遊ぶ余裕もなかった
- 母親は、自分の範囲しか物事を見る力がなく見栄っ張りだった
- そんな母が要求したのは最も有名な高校に行き、最も有名な大学にいくことだった
個人的にここに戦後の日本の教育や大人の精神の歪みの本質があると思ったので、箇条書きであげてみました。
正直、こんな両親の下で生まれ育ったら誰だって心は歪むでしょう。
もし昇が深い観察力や洞察力に欠けた愚鈍な2世議員みたいなパーソナリティーだったら良かったのですが、おそらく昇は幼い頃は、観察力や洞察力がある、弾力性に富んだ柔らかい精神を持った子供だったのではないかと思うのです。
しかし、それは親の教育により見事に叩き割られ、彼の持つ理解力や知恵は人間を支配したり、動かしたりするための方向に向けられてしまいました。
本作の記述を見ていて、どうみてもエリート官僚の父は、権威主義を振りかざす典型的な頭の悪い力の信奉者です。
昇が両親の希望ではなく、大学に残り学者になったことからも、昇はかなり早い段階で早々に両親を軽蔑し、馬鹿にしていた可能性すらあると思います。
本作の諸悪の根源みたいな存在の昇ですが、彼を歪ましたのは両親の教育、いわゆる毒親問題です。
そしてその根っこは、さらに前の世代から続く連綿とした呪いであり、それが彼を邪悪な存在にしてしまったのです。
そして綿谷家に伝わる特異な遺伝の傾向も悪い方向に作用します。
この遺伝の傾向が何かというのはくわしく本編では語られませんが、私は、人の求めているものが分かる、気持ちが分かるという程度の軽い精神的能力なのではないかと思います。
さらにもう一つ言うなら、普通の家に比べて欲望の力も強いという特徴もあると思います。
権威欲の父や、政治家の地盤を昇に渡した伯父も、とても欲望が強くエネルギッシュに見えます。
昇もまたかなり歪んだ権力欲を抱えています。
そして欲望が強い人間は、同時に性欲も強いです。
クミコも隠された強い性欲を秘めていたのだと思います。(性欲が強いことが悪いことではない)
昇に話を戻すと、その精神の傾向は最悪の方向で彼に力を貸しました。
人の奥にある闇の欲望の根源を理解し、コントロールし、それを引きずり出すことすら出来るようになったのです。(根源の闇の力については後述します)
そしてこの力の個別の被害者が、クミコの姉でした。
昇は、肉体的な男性機能は不能であるので、直接的な肉体的な凌辱はしなかったのだと思いますが、クレタにしたような歪んだ性欲を引きずり出すような行為には及んだのだと思います。
そしてその時に、全ての欲望やエネルギーの流れが止まっていたクレタは、奇跡的にその行為で復活しましたが、自身の歪んだ欲望の発露と汚れた記憶にさらされた姉は自ら命を絶ってしまいました。
そして昇はじっと姉の代わりとするクミコの時を待ち(クミコの闇の力が覚醒しやすくするように細かい細工をしていた可能性もあるように思います)
そしてクミコの妊娠で彼女の精神がぐらついた時を狙い、攻撃をしかけ、そしてその攻撃の種を強引に花開かせ、クミコを連れさったのでした。
しかし、ここで重要なのはなぜ昇がクミコを連れ去る必要があったのかということです。
昇の地位なら寄ってくる女性はいくらでもいるだろうし、高級コールガールを呼ぶことは可能でしょう。(実際クレタはコールガールとして呼ばれた)
恐らくここにこそ昇の弱点があります。
昇がクミコの姉にしていた精神的な性的凌辱は、昇にとっては生きていく上でとても大事なことだったのだと思うのです。
自分以外の誰も信用しておらず見下している昇の世界は、個人的なイメージですが、渇いた殺伐とした側面と、ヌメヌメした欲望が支配する暗い世界です。
そして昇はこの根源の欲望の体現世界を理解し、そこで生きていくことを積極的に肯定しているのは事実です。
しかしそれでも無意識のどこかで、昔持っていた柔らかい心や良心が現状に抵抗しているのだと思うのです。
そしてその良心と昔の思い出や欲望がこんがらがって結びつき、忘れられなかったのが姉との歪んだ性的交流だと思います。
おそらく彼にとって姉との自宅での交流は、祭壇で行う儀式みたいなものだったのです。
その記憶を彼はずっと追い求めており、そして自身が政治家になるという重要な局面で、無性にその過去の癒しを必要としたのだと思います。
だからこそ、その継承者として強引な力でクミコをさらったのです。
しかしここにこそ昇の弱点も見えてきます。
クミコを強引にさらわざるを得ないところに、昇の精神の奥には、無意識であれ何であれ、自分がやっていることに対するうしろめたさやストレスみたいなものが見え隠れします。
そこに現れたのがクミコの夫のトオルです。
そしてこのトオルが昇の弱点を突き、徐々に昇を追い詰めていくわけです。
物事を深く考え始めたトオルは、当てずっぽうながらも「あなたの仮面の下を僕は晒すことが出来る」と言い、これは昇に脅威的な感情をもたらしたことが伺えます。
また本作の中盤で、深層心理内で昇がトオルに向けて演説するシーンがあります。
「物事を支配する基本的なルールである、それが何を求めているかを理解することが大事なのに、愚か者は深い森の奥や、深い井戸の底で途方に暮れている、そんな彼らの頭の中にあるのは、ただのがたくたか石ころのようなものだ」
以上が演説の要約です。
しかしこの演説の内容は逆に言えば、いかに昇が深層心理や集合的無意識の象徴である森や井戸、そしてそこに属するトオルを恐れているかという裏返しでもあります。
心理学や民俗学、または広い意味で文学的なものは、効率的でもないし、すぐに欲望を癒す特効薬みたいな要素もありません。
むしろ無駄であったり、ダメな部分、変な部分に人間心理の豊かさややわらかさを見ることが文学というものだと思います。
幼い頃はそれを持っていた昇、しかし欲望の支配者として覚悟を決め、犠牲者も出してきた昇にとっては欲望や原理、そして効率的なもの以外を認めてしまうと、自分という人間が崩れ去ってしまう危険があります。
だからこそ、こういうやわらかい精神や、そして深く人間的無意識に潜り自分を追い詰めてくるトオルを恐れるのです。
トオルが指摘するように、昇は真夜中に悪夢にうなされ何度もパジャマを代えているのだと思います。
昇はクミコを208号室に匿っているホテル(深層心理・無意識の世界です。詳しくは後述)では、ボーイの格好をしています、それを顔の無い男からは「ボーイの振りをした何か」と表現されます。
これは人間の無意識や欲望に仕える振りをしているだけで、実際は人々を利用し支配しようとしているということを端的に表現しており、表面からは、市民の為を考えている政治家に見えるという昇の汚い現世での生き方も反映されています。
本作では様々な人の協力で昇とその奥の力を打ち倒すことが出来ました。
しかし皮剥ぎボリスが言っていた「自分は想像せずに、人々に想像させること」という手法を昇は巧みに演説やメディアでも使用しています。
昇の言葉は、問題点や制度の不備や現状を語るものの、解決策や提案はありません。
難しい言葉で不備や欠陥を語ることで、人々の不満の想像を刺激して煽り、現状の分析をしている自分の価値を高め、すり込んでいく
本当は、現状や未来をどうしようかという理想こそ大事なのですが、今の言論もそうですが分析を高い所において、理想は笑われる傾向にあり、それは時代が進むにつれてどんどん加速しています。
さらにトオルのように物事を考えている人から見れば、昇が言葉の裏に極端で破滅的な思考や結論を隠していることを見抜けますが、大抵の人はその鋭い言葉に騙されてしまいます。
冗談ではなく、もし昇が政界の中央に躍り出て、メディアを使い、社会の人々の闇の欲望や力を引きずり出していた場合、日本が皮剥ぎボリスのシベリアや、スターリンのロシアみたいな悲惨な状態になることもありえたのだと思います。
皮剥ぎボリス
間宮中尉が満州やシベリアで相対する、ロシアの将校・ボリス。
過去において間宮中尉の前に立ちふさがる彼は、言うなれば綿谷昇の弱い部分を克服した、完成された邪悪な存在です。
モンゴルで現地人の皮を剥ぐだけでは飽き足らずに、ロシア国内でも反政府組織の人々を喜々として拷問・粛清すする彼。
しかし、あまりに調子に乗りすぎ、誤って共産党幹部の息子の皮を剥いで殺してしまい、さすがの上官もかばいきれなかったため、ボリスはシベリアに送られることになりました。
ただしボリスのシベリア送りは罪のほとぼりを覚ますためと、反省の禊期間という意味合いが強く、組織と上官は1年くらいでボリスを呼び戻す気でいました。
しかしボリスはそんな時間を待たずに行動を開始します。
モンゴルで間宮の仲間の皮を剥いだことを、まるで何でもないように間宮に話しかけ、日本人グループの待遇改善を条件に、日本グループの要人を紹介してもらい、それを機にシベリアの刑務所の全権を手に入れる策動を開始するのです。
そしてボリスは見事に全権を手中に入れます。
しかし日本人グループの待遇が改善したのは束の間で、案の定、ボリスが全権を手にしてから徐々に待遇が悪化していき、そしてそれが以前よりもひどくなるのは時間の問題でした。
間宮はボリスを殺すために、秘書の役割を引き受け、忠実な部下のふりをしていたわけですが、ボリスには全て見破られており、ピストルを渡されて撃てと言われるものの、なぜかボリスには弾が当たらないのでした。
ボリスのセリフにとても印象的なセリフがあります。
要約すると
- ロシアでは理解できる範囲が狭い奴の方が大きな権力を握れる
- それは狭ければ狭いほどいい
- 大事なのは、自分では何かを想像しないこと
- 私の仕事はほかの人々に想像させること
- 自分が想像するのは命取りだ
ここにこそボリスの信奉する権力というものの本質的な要素があります。
まず世の中の理論や言論は、世界の事を誠実に理解しようと思えば思うほど多角的になり、そして内容も複雑になっていきます。
しかし権力組織や支配組織というのは、多角的なもの複雑な物では人をまとめれません。
簡潔で誰でも分かる自明なことしか、多くの人々をまとめるには力を持たないのです。
政治家のワンセンテンスのキャッチコピーもこの点が意識されていると思います。
さらに色んな事を想像する弾力的な精神は、権力者にとって邪魔にしかなりません。
そんなことをしたら相手の気持ちに寄り添ってしまい、叩き潰すタイミングで情けをかけてしまったりして、いずれはその結果として自分が叩き潰されることになるからです。
必要なのは、分かりやすく人々が気持ちいい、もしくは信じやすいものを、言葉を駆使して想像させ信じさせる能力です。
自分は冷静に状況を眺め、民には自分が与えた枠の中で想像させ一喜一憂させておく。
これこそが権力の原理で、これを最大限利用して、権力を維持し自分の快楽の実現を図っているのがボリスなのです。
昇に関してはまだ戦後の生まれということもあり、甘い所がありましたが、悲惨で過酷な戦争は、ボリスの様などんでもない化け物を生むのだと思うと、戦争の恐ろしさを改めて嚙みしめます。
バーの男、バットについて
クミコが子供を堕ろすタイミングでトオルが出会う札幌の地下のバーの男。
そして二回目に新宿で男と会い、そこで手にするバット。
これは何を表しているのでしょうか?
まず札幌で見た自分の手を焼く手品ですが、これはトオルの中の無意識がクミコの抱えてる何かを感知し、そしてそれを機に憎しみや怒りの炎が灯った象徴だと思います。
手品の時に男が、「痛みの共感」やら何やら言っていますが、その後のトオルが、「どうしてこんな馬鹿な無意味なことをやらなくちゃいけないんだ」と言っている様に、この痛みの共感やら何やらはただの詭弁でしかないと思います。
つまり、ここでは理屈や道理が無いのにいきなり被害を被るという、世の中の理不尽さへの憎しみと怒りが点火したことが端的に表現されていると思うのです。
クミコが抱えてる物に無意識のどこかで気づいたため、トオルは憎しみのスイッチを入れられてしまったのです。
そして新宿でこの男と再会するトオル。
その時のトオルは、人々を眺め、その奥にある物を見るという叔父のアドバイスを実践中でした。
そしてその目的はクミコを取り戻すことで、そしてそれはパートナーであった自分の心と向き合うことでもありました。
そこで出てきたバーの男
そこでその男をバットで殴ること
その後の夢で、自らナイフで自分の皮を剥いでいき真っ赤な肉の塊だけになり、その状態でも暗黒のような口を開けて笑っているバーの男
これらは全て自分と向き合ったトオルの中にある怒りと憎しみの力の象徴です。
ようやくここでトオルは自分の中に、クミコを連れ去ったものや、おそらくクミコに対しても含まれる憎しみと怒りを認識出来たのだと思います。
このシーンの後で、トオルはクレタ島に行かずにクミコを取り戻すことに邁進することを決意するわけです。
それはトオルの言葉から考えるに、自分の憎しみや怒りは自分が本当に納得しない限り、社会の理屈や形式的に納得しても消えることは無いし、その妥協の決断をしたらいずれ憎しみや怒りが自分に跳ね返ってくることを、血の塊になっても笑い続けるバーの男を見てトオルは実感したからだと思います。
この物語は、昇やその奥の力を倒す物語でもありますが、それよりも重要なのは、クミコの全てを受け入れ許すことでした。
トオルは怒りや憎しみをここで正しく認識したからこそ、さらに深い部分で考えることが出来て、最終的にクミコを受け入れることが出来たのだと思います。
さてバーの男はいいとして次はバットについてです。
バットは当初は力や暴力の象徴という見た目のままのものだったと思います。
トオルは、バーの男をバットで殴っている時に、止まらなくなっている自分を認識しました。
そしてこの現実での暴力は、真っ赤な肉の塊だけになり、その状態でも暗黒のような口を開けて笑っているバーの男として深層心理での悪夢の形式で現れます。
ここにおいてトオルは実際の暴力では物事は悪い方向にしか動かないということを認識したのだと思います。
よってここから岡田はクミコを理解すること、そしてその背後で蠢くものを精神に則って倒すことにシフトしたのだと思います。
暴力は何も生み出しませんが、しかし現実において理不尽なことを諦めて放置していくこともまた世の中が悪い方向に進む原因の一つです。
世の中の理不尽を正していくには、人々が考えてその力に抗い行動することが必要です。
人間の集合的無意識に潜む悪(くわしくは後述)を倒すには、個人が考えて、欲望に抗い、それを実際に日常レベルで様々な行動として実践していくことでしかありえません。
そして無意識でなく現実社会においても、諦めて何もしなければ世の中は悪くなっていきます。
そういう意味で、考えて行動することの現代の例は、しっかり考えて選挙に行くことや、身近な人々の暮らしの為に何かの運動やアクションを起こすことが当てはまると思います。
つまりこの段階からバットは、暴力の象徴から考えて抗う力の象徴に変化したと私は考えます。
日本兵が中国人の脱走した士官学校の生徒をバットで殴り殺すのは、硬直した政府と行政が暴走した最も愚かな暴力の例なら、岡田が深層無意識の208号室で綿谷昇を憎しみではなく、やるべきこととしてバットで殴り倒すのは、そういう支配者や汚れた政府を考えることで叩き潰すことだと言えると思います。(選挙で国民の力を示すことはこれに連なる行為だと思う)
ここで加納クレタがトオルにくれたアドバイスを見てみます。
「ここは血なまぐさく暴力的な世界で、強くならなくては生き残れない。しかし同時にどんな小さい音をも聞き逃さないように耳を澄ませることも大事」
「良いニュースというのは、多くの場合小さな声で語られる」
これらの言葉は、現状の世界は権力機関やボリスの様な、血なまぐさいものが強いことを現しています。
そして彼らがそれがどういう性質のものであれとても強いエネルギーを抱えているのは事実です。
つまりそういう血なまぐさい強いエネルギーを倒すには、それ以上の強い思いや力が必要だということです。
それが心にバットを持つことで、抗う精神が一番大切です。(諦めることが一番ダメ)
一方でクレタは、小さな音を聞き逃さないような精神も重要だと言っています。
権力というのは大きな流れしか見ないので、小さなほころびを見逃しがちですが、そこにこそ時代精神の変化の導火線があり、その小さなほころびから支配体制が滅亡に追い込まれることが歴史上何度もありました。
つまり色んな事を観察し考え、抗う強い精神力を持つことが、闇の欲望や権力者と対峙するために必要だと言っているのです。
一方でバットは物理的な暴力についての側面も残しています。
この世の中は理不尽で、いつ凶悪な事件に巻き込まれるか、また戦争が起こるかは分かりません。
その時に物理的に抗わないと自分の命は理不尽に奪われてしまうと言う場面があるのも事実です。
そういう意味で、バットには本来の暴力としての力という側面も残しているとも思います。
ただしそこで自分が助かるために相手を撃ち殺したとして、それをその後抱えていくことになるのは事実です。
だからこそ戦争というのは人間を歪ますし、無い方がいいのです。
最後に間宮中尉がボリスに勝てなかった原因ですが、精神での戦いであれ、暴力であれ、実際にはより強い思い・エネルギーを持っている方が勝ちます。
間宮中尉の弾丸がボリスに当たらないのは、間宮中尉が井戸の光により失われてしまっていたからで、間宮中尉のエネルギーでは強大なボリスのエネルギーには勝てなかったからです。
しかし間宮中尉の人生が無駄だったわけではなく、その経験談がトオルにヒントを与えたからこそ、間宮が倒せなかったものをトオルが倒すことが出来たのです。
理不尽で不公平な世界
本作のテーマに「世界は理不尽で不公平である」というものがあると考えています。
加納クレタが普通の人より痛みを多く感じるように生まれたのも不公平ですし、ナツメグの潜水艦での体験も理不尽で不公平の例です。
そもそもとして、クミコが綿谷家という特殊な家庭に生まれたことも不公平であり(子は親を選べない)、そして戦争に巻き込まれる世代もあれば、巻き込まれない世代もあり、全てのことが不公平や理不尽で構成されていると言っていいと思います。
そして例え良いことであっても訪れるタイミングが悪いとそれが本人に悪い結果をもたらすこともあります。(間宮中尉は自身の精神が最悪の時に、光の恩寵を経験し耐え切れずに失われた)
ねじまき鳥クロニクルという物語は、満州やシベリア、ナツメグ、クレタ、クミコの物語が綴られた理不尽な哀しみの年代記でもあります。
そしてその理不尽をリアルに描くからこそ、シナモンの「物語を編んで考える」と言う行為や、トオルの「深く考えて抗う」という戦い方が一段輝くように見えるという、光と恩寵を指し示した物語が本作なのだと思います。
温かな泥の中、性欲、意識の娼婦、邪悪な儀式
本作の大きなテーマの一つが性欲です。
そしてトオルが意識の上でクレタと交わったときに、「温かな泥の中」という表現が出てきます。
この「温かな泥の中」というのは生命の始まりとしての性欲を連想させます。
原初の時、人間も水や泥の中で微生物として生まれました。
そして土と水とが混ざり合う泥のイメージは、相手と肉体の輪郭があいまいな感覚も抱かせます。
緩やかに漂うな性欲のエネルギーこれが「温かな泥の中」という言葉に意味として含まれていると思うのです。
人間には様々な欲望がありますが、性欲は生物として最も大事な根本の力です。
だからこそクミコは不倫相手との、性欲を完全に目覚めさせた性行為について、圧倒的な電流の交換と言い、それは私の身に起こったいちばん素晴らしいことの一つだと言ったのです。
しかしその性欲も、人間の歴史で歪みを内包し、そして生まれ育った環境で歪むものです。
その歪みが色んな人の人生に影響を与えているのを描くことも、本作の重要なテーマの一つだと思います。
次に加納クレタが使う意識の娼婦という言葉を考えたいと思います。
肉体の娼婦は分かるとしても、意識の娼婦とはなんなのでしょうか。
それは彼女がこの後に言った、私は「通過されるもの」という言葉にヒントがありそうです。
トオルが初めて仮縫いをしたときに自分を「空き家のような存在」と表現しました、これは非常に「通過されるもの」と似た意味を連想しすし、この後トオルは仮縫いをコールガールの仕事に似ていると言います。
考えてみると、お金を渡して肉体的快楽を得るのと、お金を渡して精神的なやすらぎを得ることの構造は似ています。
私が考えるにクレタは、マルタの指示に従って「仮縫い」のような意識の上でのスピリチュアル的な行為をしていたのではないでしょうか?
クレタはトオルと意識の娼婦として交わり、そして途中で違う女性(電話の女)と変わったことで何かを示唆したかったと言っており、要はトオルにクミコの抱えるもののヒントを与えてくれたということです。
クレタは意識の娼婦の目的を「より多くを、より深く知るため」とも言っています。
つまりクレタは上流階級の人の悩みの深い所でのヒントを与えるためと、自身が人間を深く知るリハビリの為に、意識の娼婦という、意識を通過させる仮縫いのような治療を行っていたのだと思うのです。
これが意識の娼婦の意味だと思います。
次に昇がクレタに行った邪悪な性欲の儀式についてです。
生命を生みだす根源の力である性欲ですが、この力には生命の良い遺伝子を残したい、そのために良い相手が欲しいというような競争本能もセットされています。
そして人間が紡いできた歴史の中で、血が流され、人が奴隷のように扱われたこともあり、性欲の中に相手を物の様に支配し扱いたいというような欲望も紛れ込むようになりました。
そして昇の行為は、本人の中に眠っている支配したい、人を物として扱いたいという邪悪な性欲を引きずり出すという行為なのだと思います。
普通は、理性や愛情とバランスを取って、その支配欲と上手く付き合っていくことが大事なのですが、性欲というのは育ちや環境の影響をもろに受け、そして歪みます。
相手の欲望を引きずり出すことでしか喜びを感じられない性的不能者の昇がいい例ですが、世の中には性欲をこじらせた人が他にも沢山います。
また昇ほどではないにしても多少の歪みは誰彼問わず持っているものです。
クレタは、たまたま自分の生命のエネルギーの流れが、全て止まっている状態だったからこそ、肉体の感覚を取り戻すことが出来ましたが、姉はその邪悪な欲望に耐え切れずに自殺し、クミコは性欲を引き出され、多くの男と交わり、そしてその罪悪感という檻に自らを閉じ込めて、トオルの下を去ることになりました。(昇がそう仕組んだ)
本当は生命の恩寵であるはずの性欲。
しかし、それが邪悪な感情や意識に結びつくと、それは歪んでいきます。
ねじまき鳥クロニクルは、自分が汚れてしまったと思っているクミコをトオルが全力で受け入れる話でもあります。
それはクミコの抱える性欲を受けいれる話でもあるのです。
208号室とは
クミコが匿われてるホテル。
そしてその部屋である208号室。
一体この施設は何なのでしょうか。
まずホテルについて考えを述べます。
このホテルは人間の集合的無意識と歴史が作り上げた、人間の無意識が繋がっている共通スペースだと思います。
井戸の項目で、井戸を集合的無意識の象徴と言いましたが、さらに厳密にいうなら井戸は、人間が水を通して繋がっている、原初の時からある無意識の繋がりの象徴だと思います。
一方でこのホテルは、人類が歴史上作り上げてきた、制度やシステム、権威や美意識などが反映している、その時代の無意識の共通スペースなのだと思います。(なので時代によっては、ホテルの形を取らないと思う)
だからこそ人工的であり、また効率的で形式的な現代の精神が、効率的に作られて同じような作りの部屋が並ぶホテルとして現れたのかもしれません。(ホテルが嫌いなわけではありません笑)
井戸からトオルがこのホテルに入る時に、人工的なブウウンという音を耳にするのは、純粋な無意識の世界から、人が歴史や制度によって作り上げた無意識の世界に入ったことを表すのだと思います。
さてそれでは208号室とは何なのでしょうか?
私は、これは昇とクミコが作り上げた闇の性欲の祭壇だと思います。
クミコの意志は「昇の側」に行きたいと積極的に思ってはおらず、昇の策略にはめられた面も強いと思いますが、とはいえ兄妹として同じ家で育ち、共通した何かを持っているのは事実です。
どのくらいが昇の趣味で、どのくらいクミコの性欲のイメージが反映しているかは分かりませんが、アイスペールやグラス、カティサークの瓶など、そこには艶艶しい独特なイメージがあります。
そこにおいて当初クミコは「自分の罪悪感から諦めて閉じこもる自分」と、「何かしらのメッセージをトオルに発したい自分(電話の女)」に分裂していました。
しかし後に、罪悪感の方が勝ち、外との交流の象徴としての電話は死んでしまいました。
一方の昇にとってはこの祭壇こそが、唯一の癒しの空間でした。(詳しくは綿谷昇の項目に書いてます)
ねじまき鳥クロニクルは、この祭壇からトオルがクミコを解放する物語でもあります。
顔の無い男
ホテルに入り208号室に突入しようとするトオルに色んな手助けをしてくれる男。
この男は一体何者なのでしょうか?
前項でホテルは、人類が歴史上作り上げてきた、制度やシステム、権威や美意識などが反映している、その時代の無意識の共通スペースなのではと言いました。
そこから考えるにこの男は、無意識の世界の良心を象徴する存在だと思います。
あまりに形式的な画一的な建造物であるホテル、そこには日本が抱える硬直した官僚組織や思考方法も表れています。
そのホテルにいて「このままじゃ日本人の無意識は駄目だ」と思いながらも見守ることしか出来ない良心。
それが具現化したのが顔の無い男なのではと思います。
そしてこの男には様々な人や要素が影響を与えているとも思います
特に戦争世代で日本をこんな戦後社会にしてしまった間宮中尉や、本田さん、そしてシナモンの祖父の獣医さんの精神がこの男にかなり反映されていると思うのです。
「自分が解決出来なかったけども、人類社会の問題点には心を痛め続けており、後悔を抱えた精神としてホテルを漂い続けている」
そんなことを感じます。
だからこそ、その闇の力を打ち倒そうとするトオルに力を貸してくれたのだと思います。
想像力の欠如が生む硬直したもの
ボリスが言っている権力者の心得。
「自分は想像せず、想像させること。」
これは一般国民に気持ちのいい理想や結論を説き、深い思考を奪うことであり、本当の意味の想像力ではありません。
そして力の項目でも言いましたが、人間が抱える闇の欲望に対抗するには、深く考えることと、不純な権力に抗うエネルギー、そしてそれを小さくても行動に移すことが必要です。
しかしそれを怠った場合、改善の精神は無気力に取って代わられ、社会はどんどん硬直した前例主義に流れ、理想は失われます。
そして硬直したシステムを、自分の欲望の実現に利用する者が跋扈することになるのです。(無気力な市民より、邪悪な力のエネルギーが勝つ)
本作では昇やボリスがその例でしたが、現代社会でも腐敗した政治家や、硬直した官僚組織など、その他にも様々な物がこの例に当てはまります。(昇を歪ましたのもエリート官僚の父の教育でした)
そして本作の無意識の共通スペースたるホテルも、素敵なホテルはもちろん沢山あるものの、一面として、「ありきたりな形式的な美意識」、「全て同じ間取りによる効率的で機械的な物」という要素もあります。
ボリスが言う、「理解の範囲が狭く、想像しない」ということが現代社会を、硬直した形式主義が跋扈した荒んだものにしてしまいます。
そこには建前や形式としての平等や愛はありますが、それは礼儀作法のようなもので、中身を見ると人々はそのシステムの中でのポジション争いで一つでも上に行くため、他人の不幸を願い、相手を隙があれば叩き潰すようになっていきます。
そしてその上の方のポジションを名誉と自分の力だと勘違いし、それを自分の子に叩きこむ教育が、昇の様な欲望を支配する効率主義の化け物を生むことになるのです。
旧世代と新世代の12人
本作では12という数字がかなり重要な意味を持っています。
ホテルにいる30代から50代の男女で、ロビーでテレビを見ている人たちが12人でした。
そしてメイが池で見るアヒルさんたちの親子も12匹でした。
まず12という数字ですが、これには様々な象徴が含まれています
聖書におけるイスラエルの12部族、キリスト教のイエスの使途も12人です。また英米では陪審員の数が12人ですし、時計の針の数字は12までです。
このように様々な人類の社会構成員の総量としての象徴が、この12という数字には含まれていると思います。
それではそれを踏まえてホテルの12人について見てみます。
トオルは彼らを「テレビの言うことをそのまま信じている」と表現し、顔の無い男は「彼らはあなたが考えているよりもずっと危険な存在だ」と言っています。
これを踏まえた上で自分の考えを述べます。
この12人は、自分の頭で考えず、システムやメディアを絶対的なものとして信奉し、そしてそれに操られてることにすら気付かずに煽動されている旧世代の人々のことを現しているのだと思います。
これは広く捉えると世間体にやたら縛られている人々や、世間体に反している人を必要以上に監視している人も含まれます。
例えば他人の不倫や浮気について現代社会は必要以上に干渉しますが、普通に考えれば、一つ一つの事例に当人たちしか分からない個別の事情があり、他人には本当のことは分からないはずです。
もしクミコの行為が現代のテレビで不倫として報道された場合、世間はクミコ個人の心を踏みにじり、クミコ叩きに奔走するのが目に見えるようです。(クミコは罪の意識と世間の目の二つにより208号室に閉じこもった)
現代においてはSNSが発達し、情報メディアがテレビ一本では無くなりましたが、それでも自分の頭で考えず、誰が流したか分からないような不確かな情報に踊らされて、無責任によってたかって個人を叩くというようなことが後を絶ちません。
そしてこういうような自分の頭で考えない、流される人ほど、昇やボリス、権力者にとっては利用しやすい自らの力の源泉なのです。
メディアの言うことを信じるだけなのですから、そのメディアを上手く利用すれば、簡単に支配出来てしまいます。
邪悪な欲望の為にシステムを利用する昇やボリスが悪いのはもちろんですが、それに流される人々も同じように危険であり、その邪悪に手を貸しているのです。
特に同調圧力が強い日本では、進んで支配者に手を貸し、同じ市民を監視したり糾弾したりする人々が多く存在し、その現状はもしかしたら世界で一番悲惨かもしれません。
しかし本作には希望もあります。
それがメイが見ていた12匹のアヒルさんたちです。
バタバタと宙を飛んできて氷に着地するときにコケたりするアヒルさんたち、メイはこのアヒルさんたちを、楽しそうに見ています。
そしてメイはアヒルを「アヒルのヒトたち」と擬人化して呼んでいます。
この章が、メイがトオルを救うという光溢れるシーンというのも合わさって、このアヒルさんたちも個人的にとても輝いて見えました。
アヒル同士で仲良く行動して、光の中や氷の上を優雅に、時にコミカルに動くアヒルさんたち。
これを人間に言い換えるなら、少しアホな行動も受け入れる寛容さ、お互いの幸せを願い助け合う精神、そして自然の中で生きる生物であるということを大事にして生きること、の3つを知っている人間と言ったところでしょうか。
これこそが新しい世代の希望であり、そしてこのアヒルさんたちが新世代の12人の象徴だと思います。
そしてこのアヒルさんたちを優しく眺めるメイたちの世代こそ、アヒルが象徴する新世代であり、想像力の無い荒んだ社会を変えていける可能性を担っていると思います。
宿命的に血にまみれているモノ
昇やボリスという人間を裏から動かしているモノ。
それが本作における本当のラスボスです。
トオルが
「それは暴力と血に宿命的にまみれている」
「それは歴史の奥にあるいちばん深い暗闇にまでまっすぐ結びついている」
と言いますが、それは一体どんなものなのでしょうか。
人間を動かす根本の力。
これは人類が誕生した時は、純粋なものだったのだと思います。
何かを食べ、エネルギーに変える力、そのために他生物を倒す力、子孫を残すための性欲。
これらの力が組み合わさって人間は生きることができます。
とはいえ人間が食べたり、倒したり、子孫を残したりするのは相当にエネルギーを使うもので、これだけでは人類が面倒から食事や子作りを怠り、絶滅してしまう可能性があります。
そこで出てくるのが欲望です。
食欲があるから何かを食べたいと思い、性欲があるから誰かと肉体関係を持ちたいと思うのです。
つまり人間の根本には根源としての欲望があり、そしてそれは自然なことです。
しかし、人類が歴史を営んでいくにつれて、様々なことが発生します。
部族同士がより高い生活水準を求め殺しあい、戦争が起こったり、宗教の違いから人々が殺し合ったり、無意味で悪趣味な拷問が行われたり、沢山の捕虜の目を潰したり、戦争の略奪行為として沢山の女性を犯したりなど、人類の歴史は血の歴史とも言えます。
そしてそのたびに、我々の遺伝子には邪悪な欲望のオリみたいなものが受け継がれて蓄積していったのだと思います。
自分は過去の悲惨な歴史とは無関係だと言う人がいるとは思いますが、今の自分は先祖が積み重ねてきた歴史の上にいるわけですから、良い部分も受け継いでる一方、悪い要素も自分の遺伝子や無意識の奥に必ず含まれているのです。
毒親問題もこれに連なる問題で、本作では昇が親の権威主義の教育で歪みを発露しましたが、普通に育った人も、自分の中に凶暴な欲望の要素があるのだと考えることがとても大事だと思います。
そのような人類の歴史が積み上げてきた、血に染まっている集合的無意識に潜み、含まれる邪悪な力こそが本作のラスボスの正体なのです。
これが208号室で昇をバットで叩き潰したときに出てきた物の正体です。
そしてメイが、自分の中のどうしようも出来ない何かを「白いぐじゃぐじゃとした脂肪のかたまり」と表現していましたが、これも同じ種類の物で、そしてそれは誰の中にもあるものです。
なぜならそれは皆が繋がっている集合的無意識に含まれているものだからです。
その欲望を利用している人が跋扈し、そして何も考えず情報を信用し、形式と化した道徳の裏で競争社会を無意識に受け入れている人々が多い社会では、メイの言うように「トオルの側に全く勝ち目が無い」ように見えます。
しかしトオルは自分やクミコの精神に向き合い考えることで、昇の奥に潜む闇の力を倒すことに成功したのです。
これを書いているだけで何だか涙が出てきそうです。
本作が言いたいのは、人間が「集合的無意識に潜み、含まれる邪悪な力」を倒したいのであれば、しっかりと自分の頭で考えて、小さくてもいいから行動しろ!ということです。
というより、しっかり自分の頭で考えることが、すなわち行動と同義かも知れません。
そういう人間が増えれば、社会はやわらかい弾力性を取り戻し、その都度、悪い所を修正していける。
そんなことを思います。
救うこと救われること
トオルは、クミコやメイから
「あなたは疲れていても誰にもあたらない」
「知らず知らずのうちに、いろんなものを引き受けてしまう」
などと表現されます。
またナツメグがシナモンのことを考えて
「シナモンは一体誰が救っているんだろう」
と言うシーンがあります。
本作の重要なテーマとして、「救うことと救われること」というテーマがあります。
最後、208号室で昇を倒し、井戸に水を復活させたトオルですが、クミコを救うことに、自分を空っぽにして全力を使い果たし、水の中で体は動かなくなってしまいます。
トオルは失われそうなクミコを救うために、力を使い果たし、今まさに自分が失われようとしているのでした。
しかし、本作にはもう一人のヒロインのメイがいます。
トオルの呼び声に何となく気付いたメイは、夜中に目を覚まし、月の光の中で大量に涙を流し、トオルの井戸の水を排出したのです。(本当に素敵なシーンだと思う)
トオルは失われそうだった状態を、メイに救われたのです。
そしてメイがトオルを救ったのも、トオルがメイの話をしっかりと聞き、ちゃんと話してくれた唯一の大人であり、メイもトオルに救われていたからです。
人間には一人で出来る限界のことがあり、お互いに救い合うことが大切です。
一方的に全力を尽くして相手を救えたとしても、その代償として自分が失われることは避ける必要があるし、誰かに救いを求めていいのだと思います。
自己責任論ではなく、助け合うことが大事です。
シナモンの項目で、シナモンは「書くこと」で救われているという面と、「自分のプログラムを読み行動するトオルを応援すること」によって救われているという面があると書きましたが、シナモンの思考方法は非常に作家的でかなり村上さんが乗っかっていると思います。
村上さんはこの「ねじまき鳥クロニクル」を書くことで読者に思いを伝えたいと思い、そして読者が本作を読んでメッセージを受け取ることによって、読者と共に村上さんも救われているのだと思います。
人間の瑞々しい優しさに、恩寵の光を交えた表現に満ちた本作は、本当に素晴らしい作品だと思います。
ねじまき鳥クロニクルとは
さてここにきてようやく最後の項目です。
本作のタイトル「ねじまき鳥クロニクル」とは一体何なんでしょうか。
「ねじまき」と「鳥」、そして「クロニクル(年代記)」・・・・・
まずは本作のサブタイトルから考えていきます。
サブタイトルは第一部が「泥棒かささぎ編」、第二部が「予言する鳥編」、第三部が「鳥刺し男編」です。
「泥棒かささぎ」に関しては、西洋のかささぎの鳥に対するイメージそのままで、昇がクミコをトオルから奪ったことからも、泥棒かささぎは昇を指していると思います。(208号室に出入りするボーイの振りした昇も、口笛で泥棒かささぎを吹いています)
「予言する鳥」というのは、本田さんや加納マルタ・クレタなどトオルを助けてくれるスピリチュアルチームを指しているのではないかと思います。
そして「鳥刺し男」は、モーツァルトの「魔笛」の鳥刺しパパゲーノをトオルに重ねており、刺される鳥は泥棒かささぎこと昇を象徴しているのだと思います。
それではそもそも何で鳥なのでしょうか?
路地の項目でも書きましたが、日本の歴史が名実ともにしっかり始まるのが飛鳥時代です。
その意味で日本精神の象徴として鳥を選んだのではないかそう思います。
日本最初の憲法は聖徳太子の17条憲法ですが、シナモンがコンピューターに入れていた「ねじまき鳥クロニクル」の物語が17編なのも、見方によってはそれを指しているとも取れます。
「真夜中の出来事」で城や寺など、日本の景勝地に欠かせない松の木の上に乗っていることも、そういう関連性があるのかなとも思います。
それでは、ねじを巻くとは一体何なんでしょうか?
これは、人間のやわらかい精神や弾力性が緩み切ってしまい、硬直した前例主義のシステムの中で、邪悪なモノが跋扈する社会になってしまった時に、そのやわらかい精神と弾力性を取り戻す行動を「ねじを巻く」と表現しているのだと思います。(井戸に水を取り戻すということも同義)
シナモンのコンピューターに入っている物語群は、一部しか本編では明かされてませんが、中国人の脱走した士官学校生の虐殺であったりと、人類の業から発生した哀しみの物語たちだと思います。
その物語のはじめを第二次大戦にしているのか、もっと前の時代の物語を集めているのかはシナモンにしかわかりませんが、そこには人類のねじが緩んだり、何かが決定的にずれてしまった事件が記されているのだと思います。
ねじまき鳥が鳴くギイイイッという鳴き声は、私はねじを巻いているわけではなくて、ねじを巻かなくては行けない時だ!という鳴き声だと考えています。
ねじまき鳥は、人類の精神の緩みやずれは教えてくれるにしても、実際にねじを巻くのは人間の仕事なのだと思うのです。
その意味で間宮中尉は、シベリアでボリスを倒してねじを巻こうとしたけども巻けなかった先代であり、その経験を次の世代のトオルに伝える役目。
シナモンは、物語というプログラムを編むことで、「考える」「物語を作る」という行為でねじを巻くのを助ける役目。
そしてトオルは、妻の失踪を機に自分を見つめ、さらに「人間の歴史に連なる自分」として、モンゴルやシベリアでのことを繋げて考え、実際に「集合的無意識に潜み、含まれる邪悪な力」を倒しねじを巻く役目。
個人的にはこの3人が人間としてねじを巻く、「ねじまき鳥」の役割を担った人なのかなと思うのです。
もちろん加納マルタ・クレタ、ナツメグ、シナモン全ての人の助けがあったからこそ、邪悪な力を倒せたのは言うまでもありません。
つまり「ねじまき鳥クロニクル」とは、人間の精神がずれていった哀しみの年代記と言う意味。(劇中のシナモンのクロニクルはこちらの意味が強い)
そして、先代からの失敗や経験を活かし、トオルがねじを巻くことに成功するまでを記録した年代記という二つの意味があると思います。
ただし、邪悪の力を倒したと言いましたが、それはトオルの周りにある力を倒したにすぎず、社会には依然その力はありますし、そもそも人間に含まれているものなので無くなるものではありません。
そして本作でもクミコは最終的に手を汚さなくてはならなかったという課題も残りました。
社会のねじは考えなければ再び緩み続けます。
このねじを巻き続けるのは、メイたちの新しい世代が引っ張っていってくれる気がしていますが(年配の人にもやわらかい精神の人もいるし、若者の中にも老害はいる)、それに頼るのではなく、全ての人間が自分の頭で考えていくことだ大事だと思います。
そして誰かを救い、そして自分も救われることを積み重ねて行けたら、社会のねじは緩むことはないのではないか、そんなことを思いました。
最後に
こんなにすごい物語は無い。
海辺のカフカを読んだ時もそう思いましたが、ねじまき鳥クロニクルを読んだときの感動も、それに勝るとも劣らないものでした。
海辺のカフカが、この世界を自分とどう折り合いをつけて生きるべきかという、これからの少年に対する物語とすれば、ねじまき鳥は今までの歴史の上に立つ我々が立ち向かうものと、それに対する戦い方を教える物語だったと思います。
この二作とも現実の世界と深層心理・無意識の世界を結び合わせて、冒険を展開する唯一無二の物語で、この二作は個人的にどの時代の日本文学も達していない最高到達点かもなあ、とすら思うのです。
本作からもらった、自分の頭で考えること、そして誰かと救い合うこと、この二つが現代の殺伐とした時代にこそ本当に求められていると思います。
何回読んでも新しい発見と、変わらぬ恩寵をくれる本作に感謝して本考察を終えます。
↓最新作「街とその不確かな壁」も考察してるので良かったら見て下さい♪