「草枕」は明治から大正にかけて作品を発表した、文豪の夏目漱石さんの中編小説です。
熊本の那古井温泉を舞台に、主人公がぶらぶら旅をしながら、現地の人と交流したり、絵や俳句の構想を練ったりするエッセイ的な要素がある小説で、美しい文章や鋭い芸術論、文明論がふんだんに含まれた珠玉の作品です。
そんな本作を自分なりに考察しました。
物語の重要部分に触れるので、ネタバレが嫌な人はここでストップしてね。
圧倒的な文章の美しさ
「草枕」といえばやはり冒頭の文章が、有名です。
「知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」
この小説では、全編にわたりこのような美しい文章が展開されます。
上の文章は、社会について表現したものですが、本書のあらゆる場面で、風景であったり、芸術についてを、様々な語彙を用いて美しく表現されるので、文を追うだけで脳みそが覚醒していくような感覚を味わえます。
あらすじだけでいうならば、那古井に来た主人公が、宿を中心にぶらぶらして、現地の人から、昔話で身投げした女の話や、現在、那古井にいる女のうわさ話を聞いたり、温泉に入ったり、茶をふるまわれたり、月を見たりしながら、絵や俳句の構想を練ったり、芸術について考えたりするというだけで特に劇的な事件が起こるわけではありません。
しかし、この小説はあらすじではなく、その瞬間の描写や、主人公の考え(自分はイコール漱石自身の考えだと思ってます)に触れることを主眼としている作品だと考えています。
なので、これを読み終えるころには、作者である漱石自体の考えや思い、人間性みたいなものがかなり見えてきます。
ですのでこれ以降は、本作の主人公の考えを漱石自身の考えと定義して話を進めます。
芸術論
この作品内で、主人公はことあるごとに芸術家とは、芸術とはについて思いを馳せます。
- 詩人は普通の人よりも、神経が鋭敏である。
- 西洋は作品において人が根本になるが、東洋にはそこから解脱したものがある。
- 世に存在しない失恋を作り煩悶し愉快をむさぼる人は愚かと言われるが、実在せぬ景色を書いて喜ぶ芸術家はそれと同じで、芸術家は常人よりも愚である。
- 四角い世界から、常識という一角を磨滅して三角のうちに住むのが芸術家。
などなど、鋭くて独特な見識のオンパレードですが、ここに共通しているのは、芸術とは、常識とか普通の生活に対するものとは、別のところにあるという強い感情と意志だと思います。
私自身は、西洋的な人間から発するパワーをまとった素晴らしい芸術や、日常生活の中から滲み出る芸術もあると思いますが、漱石が目指す芸術は、地面に根付いたものというよりは、神経を研ぎ澄まして、空中や想像を漂う美を捉えるような物であるのではないかということが、言葉の節々から見てとれます。
文明論と現実
主人公は文明や現代社会についても鋭い言葉で表現します。
「都会の芸妓というものは、容姿をいかに良く見せるかということを意識し、それ以外に表情はない、そして絵のサロンにもこのような裸体ばかりが並んでいる・・・」
なんだか現代にも通じるような論評です。
現代の日本のアニメの中には本当に面白いものもあるし、文学的な作品もかなり多いのですが、一方で同じような女の子を沢山配置し、ただ選ぶだけみたいな資本主義的、商品的な作品があるというのも事実です(一概的に悪いわけではなく、面白い発想の作品もあります)
「自然は人により態度を変えない、岩崎や三菱のような財閥でも眼中におかないものはいくらでもある」
という表現も、現代の日本が世襲の議員や、地元に根を張る企業が跋扈してる現状を鑑みて、とても他人事とは思えません。
さらに、主人公とお寺の和尚との会話がいまいちかみ合わないシーンも面白いです
社会に根を張り立派に生きることを主眼に会話する和尚と、その社会に疑義を感じており、宙にある美に主眼を置いている主人公の、微妙にずれてる会話から、漱石の思いと世間との乖離感を読み取ってしまいます。
また汽車に対して
「何百という人間を同じ箱に詰めて運搬する、個性を軽蔑する現代文明の代表」
という表現や、現代の平和に対し
「現代の平和は、動物園の虎が見物人を睨みながらも、檻の中で寝転んでるみたいな平和である」
という風に表現するのも、漱石とは違う時代を生きている私ですが、不思議な程すっと納得出来ます。
現代文明は、工場の部品のように働く代償に、賃金を手に入れ、そのシステムの中で安全に貨幣を使い消費活動に勤しむというルールの元で展開しており、だからこそ生きづらさが社会問題になっています。
漱石は、現代文明を射抜く鋭い視点で、社会の本質を表現しているからこそ、時代を超えて人々の心を打つ文章を展開出来るのだと思います。
そして問題点を指摘すると同時に、社会に対する退廃的な感覚や軽蔑の感情を持っているのが、文章から滲み出ているところも、本作の特色だと感じました。
そして次の項では、そんな彼が何を求め、目指すのかについて個人的見解を述べます。
「美」について
この小説の序盤から出てくる言葉に「非人情」という言葉があります。
主人公にとってこの旅は、日常の人間的な雑事から離れたものではなくてはならなかったわけで、さらに言うなら、彼が目指すべき芸術も、そういう地面の臭いがするものではないということでしょう。
また主人公がこの旅について、「根が詩的にできた旅」とも言っており、ここにも美しさをすくいとることを主眼に置いていることが分かります。
また、那古井で出会う、那美さんという女性に対して
「常に芝居をしているような女であり、もし義理とか人情という観点で見たら刺激が強すぎて、すぐいやになる。画として見るから美しい」
という表現も、言葉だけ見ると、かなりな内容です。
しかし主人公が次に釈明(笑)しているように、芸術や美に立脚して見た時に、そこに道徳を混ぜるのは違うのではないかというのも、考えとしては一理あります。
また自分の絵の女の表情について悩んで「人間を離れないで人間以上の永久という感じを出すのは容易なことではない」という言葉も、まだ見ぬ到達できるかどうかさえ分からない美への憧憬を感じさせます。
自分が描く、絵画の女の理想の表情が「憐れ」という情緒が近いと気付くときも、「憐れは神の知らぬ情で、しかし神にもっとも近き人間の情である」と言っており、彼が目指すべき地平は、遥か高見にあるということがここからも推察できます。
そして決定的なのは、最後のシーンです。
このシーンは駅から、那美が元亭主を満州に送り出すシーンで、普通なら戦争や社会の悲しみだけにスポットを当てるところです。
しかし主人公は、那美さんが浮かべる「憐れ」の表情に「それだ!それが出れば画になりますよ」と小声で言い、自分の胸中の絵画の画面が成就する、というところで物語は終わります。
ここまで徹底的な終わり方を読んだとき、私は脳内で本作に喝采を送っていました。
つまりこの作品は、社会や人情とかそういうことに対し反旗を翻し、無責任だろうが何だろうが、傍観者であり続け、美の材料を集め、美を目指し続けることの素晴らしさを宣言したロックンロールな作品なのです。
美しい文で、あらすじがなく風景を楽しめるように読める作品である一方、裏にはその当時の漱石の美にかける情熱や、それに対する自意識がふんだんに隠れていて、ある意味でとても熱い作品なのが本作なのだと思います。
本作から見える自意識
この作品の中で、主人公が
「自分は芸術のたしなみなきものよりは美しい所作ができる。美しい所作は人情世界において正、や義、直であり、これを示すものは天下の公民の模範である。」
というようなもはや宣言に近いようなことを言っています。
この小説は、美しい風景と文章をシャープに楽しむという側面がある一方で、よく読むと漱石の自信とか考え、熱い思いが全く隠れずに、にじみ出ています。
人間のきたなさをありのままに書く、自然主義文学という風潮に対するアンチテーゼとして、美をぶつけるぜ!!という意識が、こちらにあますことなく伝わってくるのです。
自分も美や「ここではないどこか」を常に考え、思考が異次元をさまよっている人間なので、この作品は「よくぞ言った!」と思う一方で、言い切り方や表現方法から、実際の漱石さんは魅力的だけど、面倒くさい人だったんだろうなあというのが見えてきて面白いです(笑)
漱石さんの芸術や美に対する、思いや、それに携わる者としての自負や自意識に触れることが出来る本作は、人生において読んで損はない名作だと思います。
読めば、いくつかは自分の精神を揺さぶる言葉が見つかることは間違いありません。
漱石さんの他の作品もどこかのタイミングで考察したいと思います。